私の親戚に警察官の男がいるが、彼がまだ若い巡査だった時、下着泥棒を逮捕し、その犯人の部屋から、盗んだ大量の女性用下着を押収したことがあった。後で警官の彼が私に、「気持ちは分からんでもないが」と半分冗談で言ったが、つまり、半分は本音であろう。
この警官の男は、子供の頃から親との縁が薄くて苦しいことが多かったが、前向きに努力し、勉強はイマイチだったが、スポーツに励んで、レスリングの名門と言われる大学でレスリング部の主将を務めた。人間的にも実に立派な男と思う。そんな彼が、犯罪者を身近で見た上で、「俺は犯罪者と同じ」と思ったのである。
私などは、テレビで犯罪者を見るたびに、いつも、「あれは私だ」と思うのである。
僧ではないが、ある熱心な念仏の行者は、監獄囚を見るといつも拝んでいたという。私はその気持ちが分かるように思うのだ。
彼は言った。「あの囚人は、私の代わりに悪いことをしたのだ。おかげで、私はそんなことをせずに済んでいる。かたじけないことだ」と。
我々にできることといえば、犯罪者と自分の心の穢れが祓われることを神仏に頼み、また、被害者や家族に神仏が恵みを与えて下さることを頼んで念仏をするだけである。

少し前に、NHKのEテレで、ある昔の時代劇が放送されていたが、敬愛する丹波哲郎さんの主演だったので、録画して熱心に見た。
丹波さん演じる天下一の剣の達人は、織田信長の御前での勝負を繰り返し、連戦連勝で、「天下一」の名誉を受けていたが、心はいつもプレッシャーに苦しんでいた。
だが、愛刀である名刀を抜くと、その刀が、「あなたは日本一です」と囁きかけてきて、名人は心を奮い起こし、次の試合に挑んだ。
そんなある日、この名人と門下の者が湯治場に行くと、そこで、名人は、自分の偽物に会う。
偽物は、名人の名を語って、高い金を取って面談したり、一筆書いたものを売っていた。それだけでなく、美しい姫様まで誘惑して弄ぶなどやりたい放題であった。
名人の門弟達が、「こらしめてやりましょう!」といきり立つが、名人は、「捨ておけ」と言う。門弟達は納得しないが、名人は手出しを許さない。
名人はこう考えていたのだ。
「俺だってあいつのようなことをしたいのだ。しかし、それができない俺のために、あいつが代わりにやってくれているのだ。いわば、あいつは俺の分身のようなものだ」
名人は、天下に賞賛される自分も、所詮、あの下種野郎と等しいことが心の奥では分かっていたのだろう。
今の時代にはない、素晴らしい時代劇であると思う。
名人は、ある時、若き日の宮本武蔵と私闘で戦って破れ、愛刀を川に投げ捨てる。彼は、自我の化身であった刀を遂に捨てて、自分を解放したのではないかと思う。

初めに述べたように、犯罪者を見たら、彼は自分と同じなのだと、ただ思うだけでなく、それが事実であると分かるようでありたいものである。
自分は、そんな下等な人間とは全く違うのだという了見違いが、世界の悲惨の原因である。
裁判人裁判制度で裁判員になり、死刑の判断を出すような時に、誰もが恐怖し、そして、理解するのである。自分だって、星の巡り合わせがそうであったら、同じことをやったかもしれない、いや、必ずやったのだということを。そして、仮に死刑の判断をしたとしても、敬虔な気持ちになり、犯罪者と共に自分を憐れむのだ。
また、犯罪者ではなくても、世の中にいくらでもいる、自分さえ良ければ良いという自己中心的な人間、自己の快楽のためなら誰がどれほど苦しんでも平気な人間、欲望を抑えることができず、我慢も慎みもできない下らない劣悪な人間・・・それらは全て自分なのだ。
今は運良く本性を隠すことができているかもしれないが、一皮剥けば、自分も全く同じなのだ。
しかし、私は、犯罪者やその家族、それに被害者、そして、世の中で、運が悪いだけで、私より蔑み疎まれる者達のために何かしてやれる訳ではない。私にはそんな力は全くない。ただ、念仏を唱えさせていただくことだけができるだけである。

親鸞は、自分の親の追善供養のために念仏をしたことは一度もないと言ったそうだ。
これは、自分が念仏を唱えた功徳を、親のために振り向けて親を極楽浄土に行かせてやるようなことはできないのだという意味だ。
それでは、自分の力で何かできることになってしまうが、そんな力は、親鸞聖人といえども無いのだ。
だから、自分のことも誰のことも、念仏をして、仏様に任せてしまうことだ。
任せる相手は阿弥陀如来であるが、観世音菩薩、勢至菩薩、あるいは、弥勒菩薩でも良いのである。
あるいは、イエスや釈迦でも良いし、自分の信じる神で良いのである。
自分には、何の力もないが、自分より高い存在があることを認めること。それを尊崇して、任せてしまうことができれば良いのだと思う。
「それでは、自分は何もしなくて良いのか?」と言われるなら、それは神仏次第である。何かさせていただくことになるとしても、それは、自分がするのではなく、させていただくのである。









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