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共同幻想論の極めつけ――『現実の社会的構成』 ピーター・バーガー+トーマス・ルックマン

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うえしん
   現実の社会的構成―知識社会学論考 ピーター・L バーガー

   現実の社会的構成―知識社会学論考 ピーター・バーガー+トーマス・ルックマン



 ピーター・L.バーガー, トーマス・ルックマン 著 ほか『日常世界の構成 : アイデンティティと社会の弁証法』,新曜社,1977.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12125752 (参照 2024-10-08)


 共同幻想論にこだわってきた者としては、ここまでずばりな本が書かれていたことを知らなかったとは、愚かというほかない。

 岸田秀の「唯幻論」と同じである。社会は幻想によってつくられており、本能は壊れているということである。その学術的な内容が本書であって、私はなぜこの本をこれまで読まなかったのだろう。旧題は『日常生活の構成』であって、あまり内容までも把握できなかったのかもしれない。

 相対主義やポストモダンともいわれるもので、思想界全体でも自社会の相対化は主流的なものである。ただそれを主テーマにしたものはなかなか見つけられず、リオタールや竹田青嗣くらいにしか見い出すことができなかった。ここまでずばりの内容をいっている人がいるとは思わなかった。

 著者自身は「知識社会学」といって、マンハイムやシェーラーの系譜をいうのだが、現在は社会学では、「社会構成主義」や「社会構築主義」とよばれているのではないだろうか。ケネス・ガーゲンが「言葉が現実をつくる」といっているのだが、後継をこの人にしか私は見つけていない。「まるで仏教のような語り――『社会構成主義の理論と実践』 K.J. ガーゲン」

 この本は旧版の状態で、国会図書館デジタルコレクションで読める。

 共同幻想論そのものを語っているのだが、抽象的な語り口は具体的になにをいっているかつかみにくく、その具体例を話してくれてはじめてわかるということが多かった本であった。少しネットの感想など見てみると、ものすごく抽象的な次元でしか捉えられていないように思えた。

 バーガー=ルックマンは、人がつくったものにすぎない現実や制度が、のちの人には客観的現実や超自然的現実に思われるあり方を「物象化」とよんでおり、私たちはこれを剥がすことができずに、たいていは社会の仕組みや掟を超自然的なものでできあがっていると見なしてしまう。

 社会の現実や制度というものは、つくった当初は人々がそれが創作的や人為的なものであることがわかっている。しかしそれは宇宙的な神話が付与されたりして、あとからの人はそれが超自然的な決まり事だと恐れるようになってしまう。人が恣意的・人工的につくったものにすぎないのに、神や宇宙が決めたものとなってしまう。バーガー=ルックマンはこれを剥がすのである。

 同性愛が制度化された軍隊を例に著者はこの異常さをあぶりだす。そこでは異性愛が異常者であり、治療の対象になるのである。反精神医学の立場を感じる部分であった。霊に憑かれることが常識化された社会では、悪魔祓いがおこなわれるだろう。社会の現実というのは、このように転倒し、ゆがんでいるものなのである。

 私はその現実の相対化や剥がし方を、意外にも仏教や神秘思想に見出したのだが、思考というものは社会にプログラミングされた内容をくりかえすものでしかないのだから、瞑想によってその反復をとりはずすのだと思っている。もちろん宗教はまたもや神仏の崇拝や信仰という道筋をたどって、物象化をまぬがれないのであるが。

 社会の創作物や産物でしかない制度や知識が、のちの人々にはそれが世界そのもの、現実そのものと思われて、客観化されてしまう。キリスト教圏内に生まれればキリストを信じ、ヒンドゥー教圏内に生まれればヒンドゥー教の神々が実在すると思うようなものである。私たち日本人も同じように制度化されたものを客観的な現実だと思っていることだろう。

 社会やある集団というのは、そこにおいて習熟や内在化してゆかなければならない制度や慣習というものを必ずもっているものである。それに不適応をおこしたり、反抗したいものであったら、人は逸脱や異常者のレッテルを貼られる闘いを、自分がなににたいして闘っているかもわからずに、社会の成員と齟齬をおこすだろう。もしこのような相対化の視点や知識社会学の知識をもっていたなら、社会の神話との闘いに距離を冷めた目をもてるのではないだろうか。せめてこの視点がもてるのなら。

 あと銘記したい一点として、ことばは分離可能性をもつものであり、類型化や一般化がおこなわれて、言葉として流通するようになるといっているところだ。その文脈、その場所でしかおこっていない事柄が、ことばの一般化によって、だれにでも通じて、わかるものになる。ことばはいま・ここに縛られたたった一回限りの現象を、ことばとしていつでも、どこでもいいあらわせる一般物に抽出されるのである。事象はたった一回のそこでしかおこりえないものである。私たちはことばという「仮想現実のいつわり」を生きることになるのである。

 私の興味は共同幻想論から、それを剥がす神秘思想への興味とうつった。それゆえに共同幻想論の追究は過去のものとなった。社会によってプログラミングされた思考や知識、感情のパターンといったものを剥がす試みが、神秘思想や仏教だと思っている。社会の共同幻想論を暴きたくて知識を漁ってきたのは、この社会への適用だけではなく、自己の思考パターンへの適用も求めていたのである。社会に訓育された思考や感情の呪縛を解きたいのである。私たちはあまりにも社会の奴隷やロボットとしてつくりあげられたことに、抵抗しているのである。


 唯幻論大全 岸田秀 ebook

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 社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる K J ガーゲン

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