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ズレと違和感――『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 三宅 香帆

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うえしん
   なぜ働いていると本が読めなくなるのか 集英社新書 三宅 香帆

   なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅 香帆



 売れていると聞いてタイトルをはじめて見たとき、こんな疑問を問う必要があることなのかと思った。そんなの会社中心社会であり、会社が人の人生をすべて奪いとってもいいという社会のせいに決まっているじゃんと、この仕組みにずっと腹を立ててきた私は思った。

 たぶん読むことはなかったかもしれないが、もうブックオフで100円で手に入ったので読むことにした。いまでは公称20万部売れているそうだ。

 この疑問ならもっと会社中心社会のできあがっている思想や制度を問うことに向かいそうなのだが、この本は読書史や自己啓発史の発掘にむかう。なんでもむかしはいまよりもっと長時間労働だったし、休日も日曜しかなかったのだ。それなのに文学全集が売れたり、教養をこぞって得ようと躍起になっていた時代があったのはなぜかと問うのである。だから読書史をたどる。

 私は教養が衰退した70年代に子どもだったので、TVのお笑いが優等生をバカにするコメディをよく見た。ガリ勉より、TVでもっと楽しめよというわけだ。教養より、TVやアイドルやアニメで楽しめという時代を経験した。だから著者が発掘しようとしている読書史をわざわざひもとく必要があるのかとしか思えないのである。

 90年代の読書史を著者はさくらももこと『脳内革命』だけで話をすすめようとするのだが、90年代をリアルに生きたものとしてはあの時代はそんなそっけいないもので終わらせていいのかという疑問が立った。90年代はバブルが崩壊して、その後30年も転がり落ちるデフレがはじまったころだし、心理主義や無差別殺傷事件、オウムといったそれまでの調子のいい時代がいっきょに終わった転換期である。

 著者は94年生まれだし、たくさんの参考文献を読んで埋めようとした観点は、私がリアルに生きてきた解釈とはずいぶん違うなと思うことが多かった。もちろん私の解釈も浅はかなものであって、その時代を生きていたからといって、正確に捉えられているというわけではない。ちょっと私の解釈や理解とはだいぶズレを感じたり、疑問を感じることが多かった。

 著者は00年代を教養ではなく、労働によって自己実現を図らなければならなくなった時代だという。新自由主義の教育が行き渡った結果だというのだが、たしかにそのせいで苦しんだなという気づきを得た。自分のアイデンティティや実存が賭けられる問題であったが、それは新自由主義の教育にもたらされたからというより、TVやラジオの芸能人やアーティストによって刷り込まれた価値観という面が大きいのではないかと思う。私たちは自分の名前が認められる仕事をしたかったのだ。

 タイトルの答えは、新自由主義の競争の元で自分の能力をあげることに精いっぱいで、他者や社会のような自分の能力向上に関係ないものはノイズでしかないから、本が読めなくなったのだという。自己啓発と教養文学の対比だろうか。自己啓発があたかも本でないかのような線引きを感じるのだが、本というのは文学・教養・学問をさすのだろう。それを情報と知識に分けるのである。つまり金にならなくて、役に立たない教養本・文学本だけが価値あるというむかしの階級序列が顔を出しているように思うのだが。

 この本は自己啓発ばかり読むな、文学や教養本を読めということだろうか。他者や社会は自分の能力向上においてはノイズや邪魔者でしかない。だが人生は自分ひとりのためだけには生きてゆけない。他者や社会をとりこんで生きてゆくのが人生である。だから文学や教養本を読んで、仕事に全身全霊で生きるのではなく、半身で生きろという。

 労働にすべての活力を奪われるのは自分の姿勢のせいなのか、それともこの日本の社会制度のせいだろうか。私は会社中心社会にずっと憤りを感じてきたので、問うまでもない質問に思える。この制度なり、価値観なり、あるいは思想だろうか、それを解体しないと余暇をゆとりをもって過ごせないと思う。

 でもこの三十年、それがゆるんだり、解体することもなかった。私もこの問いを放りだして、自分の平安の技術を磨くほうにシフトした。つまり自己啓発的路線である。けれど学術本にそれを探した。だから私には知識と情報の分け方がどうも当てはまらない気がするのである。自己啓発として、学術書は読めるのである。応用だけをかすめるのではなく、原理をつかもうとしたら、学術書が必要になる。それだけの違いである。コスパを求める人は応用だけを早急に求めて、原理をつかめないから、いつまでも応用しか使えないのである。

 この本が売れたのは、本を読まないと勉強していないという罪悪感を刺激される人がまだいるからではないかと私は思う。教養が求められた時代には、教養の欠如は劣等感であった。だがいまはほかのメディアや娯楽があるために、劣等を感じる必要はない。それに開き直れる時代だと思っていたのだが、まだ教養欠如の罪悪感は傷が癒えていないのだろうか。

 教養本というのは、自分の好奇心や疑問があってはじめて吸い付くように読みたくなるものであって、教養の欠如から脅したっていずれ読まれなくなる。正しくは好奇心の開発方法こそが求められるものである。疑問に思うことをいつまでももちつづけて、それを本に探すようになれば読めるようになるものである。疑問の持続こそがカギであると思う。

 学問というのは学校の選別装置によって、受験にうかるための道具になった。それはコスパだけを追究して、知識を記号にすることである。知識そのものを求めているわけではない。それで学問や教養の時代は終わった。教養の効果があったのはTVが人気になるまでだった。あとはコスパだけが残った。私はこういう風に考えているのだが、だから著者の考えには違和感がある。



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Posted byうえしん

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