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問題意識が重ならない――『語りえぬものを語る』 野矢 茂樹

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うえしん
 語りえぬものを語る 講談社学術文庫 野矢 茂樹

 語りえぬものを語る 講談社学術文庫 野矢 茂樹



 言語の向こうにはどんな世界が広がっているのか。あるいは言語の外の世界を人は知ることができるのか。

 神秘思想が問うのは、そういうことではない。言語の世界が実在するのかということである。私たちは言葉や思ったことを実在すると思いこみ、対象の事実や正確さを見きわめようとするのだが、一歩しりぞいてみて、この言語世界や思いは実在するのかと問うた。

 言語で描かれる私たちの苦しみや悩みは実在するのか、自分の恐れや不安、悲しみは実在するのかと問うたのである。そのために思考の脱同一化という言葉の世界から距離をおいてながめる瞑想がおこなわれる。私たちは言葉の世界が実在するという強固な思いこみから離れることができないのである。

 私はそういう方面の疑問をもっているので、本書で探究されている言語のこちら岸の問いには、ほとんど興味をもてなかった。この分析哲学、論理学系の頭が足りないこともあるが、ここでの記述が色を落とした荒野の行程に思えた。つまらなかった、ついていけなかったのふたつを足して、苦痛の道のりであった。

 分析哲学系の問いには、私はついていけない。デイヴィドソン、クワイン、カルナップとか英米哲学系の議論は手を出しそこねている。

 サピア=ウォーフや大森荘蔵の思想にはひじょうに興味をひかれる。だけどこの本で展開される野矢茂樹の議論にはほとんどついていけなかった。たまには神秘思想系の探究から外れて、言語や論理に注目した哲学にふれるのも必要と思ったていどだ。

 「何を見ているのか」の章において、私たちは概念の世界を見ているのか、それとも非言語的な知覚を見ているのかという問いがあった。これはひじょうに神秘思想的な問いであって、神秘思想は概念の世界をとりはずして、言語分節のない世界に出会おうとするものである。神秘思想は目的がほぼこれといってもよいのではないだろうか。サルトルなんてそのむき出しの世界に出会い、嘔吐をもよおすのである。野矢茂樹にはそういう目配りはない。

 「語られる過去・語らせる過去」において、大森荘蔵が過去は物語の想起であるといい、野矢茂樹はそれとはべつに過去は独立に存在するといっている。過去は「物自体」のような過去が存在するのだと。私は過去はまったく無になり、人の頭に想起や記憶が残るだけと思っているが、この広大な無の世界が神秘思想の主張に重なってゆくのである。

 神秘思想というのは、言語が立ちあげる世界の無効や無をとなえるのである。知覚した世界さえ時間とともに消滅する。この広大な無にとりかこまれた世界の刹那に現れる言語・知覚世界の滅却を自覚しようとするのが、神秘思想である。言語の堅牢な世界が実在するという思いと、真正面から対立するのである。それゆえに言語世界の検証にわずらうことは、神秘思想のコースからそれることである。

 神秘思想というのは、非言語世界、身体的知覚に出会おうとすることである。そしてそこに無を見出し、この刹那の実在すらも無化してゆこうとする。そのなにもないところに絶望ではなくて、平安を見出してゆこうとする思想である。近代の言語にどこまでも可能性と描写を賭ける時代には、相性がとても悪い思想である。

 したがって野矢茂樹の探索する論理世界は、私の知りたいこととは重ならないのである。ところで野矢茂樹の最新刊『言語哲学がはじまる』はベストセラーとなっているようである。





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Posted byうえしん

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