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医学の横暴ではないのか――『“生政治”の哲学』 金森 修

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うえしん
“生政治”の哲学
金森 修
ミネルヴァ書房


 図書館を使うようになって、かつて高すぎてあきらめていたハードカバーの本も読めるようになった。ネグリやアガンベンなどの現代思想の動向を横目でながめつつも、手が出せる内容なのか、小手調べのために読む。

 フーコーの規律・訓練型権力には衝撃をうけたクチだが、生哲学の内容についてはあまり知らなかった。この本ではフーコーの講義録をていねいにたどりながらフーコーが問おうとしていたことや、ネグリやアガンベン、アレントの思想などが紹介されている。

 アガンベンの「むき出しの生」というのは、ナチスやアウシュヴィッツで露わになったように、国家にとっての生命の価値をめぐる知のあり方のように思える。この本で思想的にかなり迂遠に語られてる気がするのだが、そう難しいものには思えないのだが。

 ちかごろでは、禁煙運動や障碍者殺傷事件に現われているように、国家にとっての命の価値は、たえずうきあがってくる。それも権力側からの強制ではなく、市井のものからのボトムアップや首を絞めるかたちでわきあがってくるのが不気味である。

 『精神医学とナチズム』(小俣和一郎)という本では、命を守るために火傷を負った足を切断する必要があるように、国家にとっても不要なものは排除しなければならないという思想が、医学からとなえられた。優生学や近接科学などから上がった声である。生政治とはこのようなことをいっているのだろうか。

 近年でも、自分への肺ガン物質の汚染を防ぐために禁煙運動が公の部分にまで力がおよぶようになったが、自分の害や不快感を防ぐことが公共にも求められる。しだいにそれは「国家」や「社会」への損害を防ぐというような太宰メソッドのようにすりかわり、しまいには国家や公共にとっての損害となるものを排除しろという正当化の声にふくれあがってゆく。

 ナチズムで求められたのは、公共の「医学」であって、われわれはナチスの残酷な結果しか見ないのだが、その導入部で正当化されたものは医学的見地ではなかったのかと思う。生政治とは医学の国家化のようなものではないのかと思うのだが、その生哲学ではあまりはっきりいわれない。医学の脅威や不気味さをしっかりと啓蒙すべきだと思うのだが、制限の声をあまり聞かないのはナゾである。

 自分の不快なものを公共の名にすりかえて、その排除の正当化がおこなわれる。それはたえず市井の声から上がってくるものではないのか。そして人の自由や勝手は奪われてゆく。その担い手がふつうの人たちなのである。フーコー的な権力の網の目というものなのか。

 この本でネグリやアガンベンの本を、自分の問題のように考えるにはいたらなかった。本を読むかもまだわからない。なお2010年に出されたこの本は絶版である。



ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー (講談社現代新書)健康帝国ナチス (草思社文庫)


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Posted byうえしん

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