チャーマーズが、VRについてのデジタリズム実在論を主張している論文
Chalmers, David J. "The virtual and the real." Disputatio 9.46 (2017): 309-352.
ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、存在論、価値 - Lichtungにおいて紹介されており、以下のURLから読むことができる。
https://www.degruyter.com/view/j/disp.2017.9.issue-46/disp-2017-0009/disp-2017-0009.xml
上述のナンバユウキさんのブログ記事では、当論文の中のVRの定義について整理しているが、フィクショナリズムを退け、デジタリズムを主張しているところがちょっと気になったので、ちょっと眺めてみた。
1 Definitions
2 Virtual fictionalism
3 Virtual objects
4 Virtual properties and virtual events
5 Is perception of virtual reality illusory?
6 Digital worlds and fictional worlds
7 The value of virtual worlds
8 Other realities
9 Philosophical underpinnings
10 Conclusion
ナンバさんは、第1節と第8節を主に取り上げて紹介していた感じ
こちらの記事では、第2〜第6節から、気になったポイントだけでつまみ食い的に紹介する。
VR実在論
(1)ヴァーチャルな対象は実在する。
(2)ヴァーチャルリアリティでの出来事は本当に起こっている。
(3)ヴァーチャルリアリティについての経験は錯覚ではない。
(4)ヴァーチャルな経験は、ヴァーチャルではない経験と同じくらいの価値を持つ。
さらに、チャーマーズは、この実在論をデジタリズムとして展開する。すなわち
(1)ヴァーチャルな対象は実在し、デジタルな対象である。。
(2)ヴァーチャルリアリティでの出来事はおおむねデジタルな出来事であり、本当に起こっている。
(3)ヴァーチャルリアリティについての経験は、デジタルな世界の錯覚ではない知覚を含む。
(4)デジタル世界でのヴァーチャルな経験は、非デジタル世界でのヴァーチャルではない経験と同じくらいの価値を持つ。
ヴァーチャル・フィクショナリズム
チャーマーズにとって、対抗説なのが、反実在論であるフィクショナリズムである。多くの哲学者がこの立場をとっているという。
(1)ヴァーチャルな対象は虚構的な対象である。
(2)ヴァーチャルリアリティでの出来事は虚構世界でのみ起こっている。
(3)ヴァーチャルリアリティについての経験は、虚構世界の錯覚を現実において含む。
(4)ヴァーチャルな経験は、フィクションの経験がもつ価値に限られている。
こうした主張をしている哲学者というのは、ユールなどゲーム研究者などで、VRといってもVRゲームについての議論として行っている。
チャーマーズは、VRには確かにゲームもあるけれど、ゲームじゃないVRもあり、VRゲームはフィクションとしても説明できるけど、ゲームじゃないVRはフィクションじゃないよね、ということで、フィクショナリズムではなくデジタリズムを主張している。
ヴァーチャルな対象
ヴァーチャルな対象は、デジタルな対象である、と。
デジタルな対象って何かというと、コンピュータの中にあるデータ構造だ、と。
つまり、ヴァーチャルな対象=データ構造。
チャーマーズは、因果に訴えた論証を行っている。
(1)ヴァーチャルな対象は、(他のヴァーチャルな対象や、ユーザーなどに対して)因果的な力を持つ。
(2)デジタルな対象は、(他のヴァーチャルな対象や、ユーザーなどに対して)因果的な力を持つ(そして他のものは持たない)。
(3)故に、ヴァーチャルな対象はデジタルな対象である。
という感じである(知覚への因果による論証もある)。
フィクショナリズムでは、ヴァーチャルな対象が因果的な力を持っているとは考えない。ヴァーチャルな対象は虚構的な対象であり、虚構的な対象は虚構世界の中でのみ因果的な力を持つ(もしくは、因果的な力を持つのは虚構的である)。鑑賞者に対して因果を持つのは、虚構的な対象ではなく、虚構的な対象の表象の方。
そうはいっても、ヴァーチャルな対象はデジタルな対象のようには見えないけど、という点について、恒星はガスのかたまりだし、水はH2O分子だけど、そういうふうには見えないのと同じだよ、みたいなことを言っている。
ヴァーチャルな性質・出来事
VRリンゴは赤いけど、データ構造は赤くない。つまり、ヴァーチャルな対象は赤さという性質を持つけど、デジタルな対象は赤さという性質を持っていない!
という議論に対して、チャーマーズは「そもそも赤さって何だ?」と言い始める。
赤さとは赤さを引き起こすものである、という形で、性質を説明する。
On an orthodox view, the property of redness is picked out in virtue of a certain sort of effect:
On one version of this view, redness is just the power to cause red experiences in normal circumstances
(...)
Views of this sort are sometimes called functionalism about color,
(p.321)
性質とは、その効果ないし因果的な力によって説明されるものだ、という考えが紹介されるんだけど
この考えって一体何だ、と思ってググってみたところ、シューメーカーを筆頭とする「性質の因果説」という立場のようだ。
因果の力能説と関わっている。「対象に力能を付与するもの」が性質である
実在の条件としての因果性
(関係ないけど、時間そのものは因果的力能を持たないので実在しない、みたいな主張も可能なのかもしれない/時間が実在するか否かは、実在概念をどのように捉えるかによる)
参考:秋葉剛史「フッサールの性質構成論と性質の因果説」(pdf)
チャーマーズはここでは、因果説も含むさらに広い立場として機能主義という言葉を使っているっぽいが。
さらに、色だけではなく、空間についても同様に機能主義で説明している。
上述引用で、「redness is just the power to cause red experiences in normal circumstances」とあるけれど、
ヴァーチャルな対象については、単なる「赤さ」ではなくて「ヴァーチャルな赤さ」が、normal circumstancesではなくて「通常のVR状況において」ということになる。
通常のVR状況というのは、適切にヘッドセットなどを装着した状態とか、そういうこと。
通常なVR状況において赤い経験を引き起こす力をもつものが、ヴァーチャル赤さである。
で、デジタルな対象は、「通常なVR状況において赤い経験を引き起こす力」を持っていて、「ヴァーチャル赤さ」という性質を有しているのだ、と。
シミュレーションとVRの違いみたいな話もしているのだけれど、ここらへんはちゃんと読めてなくて、よく分かっていない
シミュレーションは、抽象的な因果構造
VRは、抽象的な因果構造に加えて心理的状態を持つ? みたいなことが書いてあったような気がするが、よくわからん。
で、ヴァーチャルXがXである時がある、という話をしている。
例えば、ヴァーチャル図書館やヴァーチャル計算機は本当に図書館や計算機である、と。
一方、ヴァーチャルキッチンは、本当のキッチンではない(ただし、デジタルな対象として実在はしている)。
この違いは、因果的/心理的状態が、ヴァーチャルか非ヴァーチャルかで同じか違うか、に依る、みたいなことが書いてあると思うのだけど、ちゃんと読めてない。
VRの知覚
VRについての錯覚説
(1)我々は、ヴァーチャルな対象が、それに対応する非ヴァーチャルな対象が持っている色や形を持っているものとして知覚する。
(2)ヴァーチャルな対象は、それに対応する非ヴァーチャルな対象が持っている色や形を持っていない。
(3)もし、ある対象が持っていない性質をその対象が持っているように知覚しているのなら、その知覚は錯覚である。
(4)ゆえに、ヴァーチャルな対象についての知覚は錯覚である。
チャーマーズは、このアーギュメント自体は妥当性自体は認めているのだけど、でも、錯覚説は間違いなんだと主張している。
鏡の知覚は錯覚って言わないんだからVRだって錯覚じゃない、みたいな話をしている。
鏡の例をたくさん挙げているのだけど、その中の一つに、鏡がお店の中にあって、店内が広く見えるという例がある。
鏡があると知らない状態であれば、広く見えることは錯覚だけど、鏡があると知っている状態ならば、広く見えることは錯覚じゃない、みたいな話をしていた気がする。
「鏡がある」という知識と、鏡がどういうものか日常的に使っていて理解している「親しみ」があると、鏡によって引き越される知覚は、錯覚ではなくなるのだ、と。
で、VRも、VRであるという知識を持って見ていれば、錯覚ではないのではないか、と。
この章では、VR初心者をナイーブなユーザー、VR玄人みたいな人をソフィストケイトされたユーザーと呼び分けて、ナイーブなユーザーとソフィストケイトされたユーザーでは、VRについての知覚が違うのだという議論をしている
「見る」という語が判断と知覚に関わっているので〜云々
で、認知的侵入という言葉も出てきている。
鏡だけでなくヴィデオ映像も同様、ここまできたら、VRケースも鏡ケースとパラレルだ! と話が展開していく。
ヴァーチャルなテーブルをさして、「これはテーブルです」という言明、ナイーブなユーザーでは(錯覚だから)偽になるし、ソフィストケートされたユーザーでは(ヴァーチャルなテーブルであるという意味なので)真になる、とか。
(この話、「水槽の中の脳」の議論と整合するのかどうか気になった)
VR世界と虚構世界
VRには、specificなフィクションとgenericなフィクションとがある?
VRにとって、デジタル世界はいつもだけど、虚構世界はoptional
フライトシミュレータは、デジタル空間でかつフィクショナルに物理的空間だけど、PONは、デジタル空間だけ(フィクショナルに物理的空間として解釈されるものがない)
感想
デジタリズム実在論は、確かにVRをよく説明できている説なのではないか、とは思うのだが、フィクショナリズムを積極的に退けるまでには至っていないような気もする。
確かに、「指輪物語VRはフィクションだけど、セカンド・ライフはフィクションではないでしょ」と言われると、その通りだなと思ってしまうが
フィクショナリズムって、この論文で定式化されたものとは少し違う形で維持できるのでは、という気もした。
例えば、「シチリアは、長靴のつま先の向こうにある。」という文章。長靴というのは、イタリア半島を示すメタファーであり、「イタリアは長靴である」というフィクションを前提にした文である。でも、この文は、「本当にイタリアが長靴になってしまっている」ような虚構世界についての文ではなくて、現実世界についての文である。
道徳的性質の虚構主義(フィクショナリズム)とか心的状態の虚構主義(フィクショナリズム)とかは、道徳的性質や心的状態は実在しないのだけど、それらがある、というフィクションを用いることで、現実の出来事について語ることができるという立場、のはず。
セカンドライフのようなVR上で起きている出来事は、確かに何らかの意味で現実世界で起きている出来事であって、虚構世界での出来事ではない。
でも、ヴァーチャルな対象や出来事が実在しているとまで言わずとも、実在する対象や出来事を、VRで表象されているようなフィクションとして解釈している、とすればよいのでは。
VRで表象されているヴァーチャルな対象は虚構的な対象であり、実在しない、と。
で、この論文で定式化されているフィクショナリズムの(2)を少し変える。
ヴァーチャルな出来事は、現実世界で起きているデジタルな出来事を、ごっこ遊びによって変換したものである、と。
「切り株が草陰に隠れている」という現実世界の出来事が、「クマが草陰に隠れている」という虚構の出来事になるように、「コンピュータ上でデータがやりとりされた」という現実世界の出来事が、「セカンド・ライフで衣服を購入した」という虚構の出来事になる、という感じ。
デジタリズムでは、セカンド・ライフ上の衣服はデジタル対象として実在している、ということになるけど
フィクショナリズムでは、セカンド・ライフ上の衣服は実在しないが、その衣服を表すためのデータ構造は実在している、ということになる。
これは、ドラえもんは実在しないが、ドラえもんを表すための紙とインクは実在している、みたいなこととパラレルではないかと思う。
デジタリズムが、ヴァーチャルな対象をデジタルな対象と同一視するのに対して、
フィクショナリズムは、デジタルな対象を小道具としてヴァーチャルな対象についてのごっこ遊びをしている。
VR状況において、ヴァーチャルな赤さを持つ、というのと、
VRというごっこ遊びにおいて、フィクショナルな赤さを持つ、というの
限りなく似ている気がするのだが……。
ごっこ遊びでは、「赤い」ということにしているだけで、赤い知覚を引き起こしているわけではない(白黒の作品でも、フィクショナルに色はある)のに対して、実在論であれば、知覚について説明できる、という利点はあるかもしれないのだが
白黒作品は色についての知覚を引き起こさないが、カラー作品は色についての知覚を引き起こす。だから、カラーのフィクション作品では、色が実在しているなどといって、カラー作品について(白黒作品とは)別個に実在論をわざわざ作ったりしないわけで
VRは確かに、様々な知覚をもたらすけれど、だからといってフィクションではない、ということにはならないのではないか、と。
デジタリズムでも説明は可能だが、フィクショナリズムでも説明がつく。デジタリズムの方が、より細かい部分についても説明することができて、よりよい理論のように思えるのだが、フィクショナリズムを拒む決定打はない、ように思えた。
まあ、価値についての議論未読なので、そっちの方に何かあるかもしれないのだけれども。
この論文については、性質の因果説や知覚の認知的侵入などの論点が関わっていて、読んでいて楽しかったり勉強になったりはした。