Kendall L.Walton Are Representations Symbols?
美学論文アンソロ(ラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』 - logical cypher scape2)から
1974年に書かれた論文
表象のコアは指示ではない、ということを主張している。
なお、「表象のコアは指示である」はグッドマンが『芸術の言語』で主張している。
この論文の解説は以下の記事も参照
ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
表象は指示的な記号のフレームワークで説明されることが多い(というかグッドマン)が、そうじゃない表象もある、という話
特に、言語と画像を対比させている。
画像は全てフィクションである、というMimesis as Make-Believeでも展開されている主張がなされている。
1
イントロダクション
2
実在物を描写しているとか表象しているとかを、ウォルトンはこの論文で「描写qしているdepict_q*1」、「表象qしているrepresent_q*2」と表記する
そのうえで、それはマッチングによって行われているのではない、と論じている
マッチングとは、表象の内容と対象の性質などが一致していること
例えば、モーツァルトの絵は、髪がくるくるしていて赤い服を着た男性の絵であり、モーツァルトを表象qしている。で、実際に、あの絵の通りに、髪がくるくるしていて赤い服を着た男性がいたとすると、その男性とこの絵はマッチングしていることになる。でも、そのことはその絵がモーツァルトを表象していることにとって必要でも十分でもない。
何を表象しているかは、作者の意図、因果関係、タイトルや慣習的なしるし、内容などによって決まる
3
実在している何かについての表象は、それを指示している、というグッドマンの主張に対しての反論
ただ、言語と画像についてウォルトンは扱いが異なる
言語については、何も指示していない、あるいは架空の対象を指示しているような表現についてとりあげつつも、それらも確かに、指示的なスキームで理解できるものだとしている。
一方で、画像についてはそうではない。
ここで、ロペスがウォルトピアと呼んだ思考実験が出てくる。
画像を指示的に使わない社会(ウォルトピア)の思考可能性があるんだから、画像表象にとって指示は本質じゃない、という。
バイソン画像を、実在のバイソンを指示するためには使わないし、そういう慣習が一切なくて、その社会に暮らしている人は、そのような使い方を意図したことがない、と。
言語のフィクションへの使用は、ノンフィクション的な使用に寄生的だけど、画像は違う、と言語と画像を区別している
4
架空の対象への指示の話をもう少ししてる。
可能的対象への指示として分析できないか、という話に反論している
どの可能世界のどの対象かどうやって選びだすのか問題とか
エッシャーの絵はそもそも不可能存在なのでは、とか
5
虚構世界を仮定するという方法
虚構的対象への指示はマッチングによって行われていて、誤表象は不可能になるのでは、という指摘が面白かった
あとの方見ていくと、フィクションというのは、誤表象も正しい表象もなくて、対象を作るのだ、みたいなことも言ってる
6
述語と比較
そのうえで、表象は命題を表現するためのものではなく、メイクビリーブの小道具だ、という話が出てくる
プレイヤーが輪にボールを入れるという行為は、彼がゴールした、ということを真にする、が、行為は述語ではない、というアナロジー
7
まとめ