第二次世界大戦が太平洋で勃発したとき、アメリカ政府は日系人たちを一斉検挙して強制収容所送りにした。日系二世と呼ばれる第二世代は、スパイの疑いをかけられ、米軍に入ることも禁止された。それが変わったのは1943年。
戦争は人種抗争だという日本の宣伝活動に対抗して、ルーズベルト大統領は米軍の中にオール日系二世の部隊を作り、忠誠心を試した。収容所で家族が惨めな生活をさせられているにもかかわらず、自分の忠誠心を示そうと大勢の日系二世たちが志願した。こうした部隊でもっとも有名なのは、ヨーロッパ戦線に送られ、殊勲をあげた第100歩兵部隊や第442連隊戦闘団だ。
以下は海外まとめサイトにまとめられていた日系人兵士に関する記述である。例により海外からの情報の為、誤っている部分や日本で知られている事実とは違う部分もあるかもしれない。その場合はコメント欄にて訂正していただけるとうれしい。
10. シズヤ・ハヤシ(林静也)の度肝を抜く猛攻
ニックネームはシーザー。その理由は、軍曹が彼の名前をきちんと発音できなかったからだという。シズヤ・ハヤシは、1943年11月29日、イタリア、チェラスオーロ近郊の山岳地帯を哨戒中だった。そのとき、高台から偽装したドイツ軍の88ミリ砲で攻撃され、米軍は大きな被害を受けた。
ハヤシは、手榴弾やライフル、機関銃の砲火を浴びながらも、ひとりで敵陣に突撃し、ブローニング自動小銃を腰につけたまま発砲して敵を一掃。敵兵7名を処分し、残りの2名を逃走に追いやった。
ハヤシの小隊が彼に追いつき、さらに200メートルで進むと、再び敵の反撃にあったが、ここでも9名を処分、4名を捕虜として確保した。狙撃手の弾が首をかすめはしたが、無謀な突撃にも関わらず、ハヤシは奇跡的に無傷だった。自分でもそのクレイジーぶりがわかっていたようだ。その並外れた英雄的功績により、ハヤシは殊勲十字章を授与されたが、のちに名誉勲章に格上げされた。
9. ミキオ・ハセモトとアラン・オーハタ:ふたりだけの部隊
チェラスオーロでのもうひとつの武勇伝。日系二世部隊は、ドイツ軍の攻撃が激しいモンテ・パンターロへ向かっていた。激しい砲火の中、少しづつ接近していた小隊の中に、アラン・オーハタ軍曹とハセモト一等兵がいた。約40名のドイツ人兵士に攻撃されたとき、ハセモトは小隊の左脇を守っていた。
武器や人数で圧倒的に負けていたにもかかわらず、オーハタは果敢にも発砲しながら15メートル進み、ハセモトも4つの弾倉が空になるまで撃ちまくったが、自分の銃が壊れてしまった。10メートル戻って別の銃を拾い、また銃が動かなくなるまで撃ち続けた。
このときまでに、オーハタとハセモトで敵兵を半数まで減らしたが、銃弾が切れてしまい、またしても別のM1を発見して、ついに残り3人までになった敵兵を、1名を始末、1名を負傷させ、1名を捕虜とした。これで終わりではなく、第二、第三の反撃をくらったが、オーハタとハセモトは互いに協力し合い、翌日にハセモトがついに銃弾に倒れるまで持ちこたえた。ふたりが倒した敵兵はトータルで51名になり、3人を捕虜にした。
オーハタは戦争を生き延びたが、自分を体験を家族に話すことはなかった。オーハタが殊勲十字章を授与されていたこともまわりは誰も知らず、彼が戦争に行っていたことすら知らなかった。オーハタは1977年、結腸ガンで亡くなった。
8. モンテ・カッシーノの苦悩
ヌルシアのセント・ベネディクトが529年にひらいた修道院は、モンテ・カッシーノの頂上標高約520メートルの高みに、まるで番人のように建っている。破壊と再建を繰り返し、1944年にはローマに進軍してくる米軍を阻止するためのドイツ軍の要塞となった。
ベネディクト会の至宝でありながら、たびたび攻撃を受け、イタリアの軍事行動でももっとも熾烈な戦いが繰り広げられた場所だ。
ふたつの米軍部隊が川を越えようとして全滅し、日系の第100歩兵部隊が不可能とも思われる任務を負わされた。部隊は暗闇にまぎれて、膝まで泥でつかる川岸を地雷を避けて進んだが、対岸からドイツ軍が砲火をあびせてきて、2メートルの石の堤防のところで立ち往生した。
翌朝、187人の歩兵が進もうとしたが狙撃され、14人だけがなんとか堤防に戻ってきた。後日、再度山頂へと続く道を確保しようとしたが、援護がほとんどなく、撤退を余儀なくされた。
修道院を完全に破壊する以外手段がなく、2月15日にピウス12世からも許可が出たが、ドイツ軍がなかなか根を上げないため、再び日系人部隊が駆り出された。彼らは勇敢に戦ったが、3週間の戦闘でかなりの損害が出て、40人の小隊の生還者がたったの5人になっていた。第100部隊全体で832人いた兵士が512人に減り、援助不足のために、これ以上頂上を目指せなくなった。日系二世のこうした犠牲を称え、第100歩兵部隊はパープル・ハート部隊と呼ばれる。
モンテ・カッシーノは、勇敢な二世たちにとって痛ましい戦闘だったが、作戦はほぼ成功し、1944年5月17日、連合軍側の手に落ちた。
7. カズオ・マスダの最後の偵察
1941年12月7日、パール・ハーバーの奇襲があった日、カリフォルニア州オレンジ郡で農夫をやっていたゲンスケ・マスダは、保安官にいきなり拘置所にぶちこまれた。10日後、FBIによる尋問の末、家族共々モンタナ州ミズーラに強制移送された。
マスダは米国に敵対するような行為をしたことはない。アメリカを自分の国だと思い、子どもたちもアメリカ人として育ててきた。4人の息子は軍に入隊し、そのうちのひとりカズオは第442連隊の一員としてイタリアへ行った。
カズオは、家族を解放するよう嘆願書を出したが、聞き入れられることはなかった。それでも、カズオは忠誠心を忘れずに戦闘に参加し、7月6日、パスティナ近郊で442連隊の偵察係に配置された。ドイツ軍の猛攻の中、マスダは離れたところに残されていた弾薬を見つけ、這いつくばってそれを回収して戻り、12時間に渡ってひとりで撃ちまくって、敵を撃退した。
8月27日、マスダとふたりの兵士がアルノ川岸の地雷原の夜間偵察に出たが、気づいたときにはすでにドイツ兵に囲まれていた。マスダはふたりの仲間を逃がして、ひとりで敵を食い止めて死んだ。マスダの犠牲のおかげで、アルノ川を渡るのに役立つ貴重な情報が無事連合軍側にもたらされることになったのだ。
マスダの家族は1945年7月に解放された。オレンジ郡に戻った家族は嫌がらせを受けたが、力になってくれる人たちもいて、マスダ家は日系人に対する差別と闘った。カズオには殊勲十字章が与えられた。ロナルド・レーガンはこうスピーチした。
「砂浜に染み込んだ血の色は皆同じ。アメリカはたったひとつの民族だけで成り立っている国ではなく、ひとつの方法、つまりひとつの理想で成る国家、世界でも稀有な国なのだ。さまざまな言語背景を抱えているが、だからこそ、世界の中でも屈指の強さを誇る国だ。これがアメリカのやり方だ。そのアメリカ国民の一員としてのマスダ夫妻、ほかのアメリカ国民にも言いたい。あなたの息子カズオの行いに対して感謝の気持ちを」
6. 死にもの狂いの歩兵部隊
1944年10月、連合軍はドイツの西の国境に迫っていた。北フランスのヴォージュ山地の深い森と複雑な地形の中で、霧や雨の中、木々や尾根を進まねばならず、戦闘は熾烈を極めた。第141テキサス連隊第一部隊は、ドイツ軍に囲まれて孤立し、食料も装備も底をつきかけていた。
141連隊を救うため、後方にいた442連隊が選抜された。これを阻止すべく、ヒトラー自身が自ら命令を下して全力で反撃したため、全米史上もっとも熾烈な接近戦になった。
日系二世兵士たちは、味方の誤射などの危険に常にさらされ、数でも負けていた。一進一退の緊迫した戦況の中、発砲によって自分たちの位置を敵側に知らせてしまう危険性もあった。
4日間の絶え間ない激戦ののち、日系部隊は二手から141連隊に近づいていた。歩兵のバーニー・ハジロは、バンザイ!と叫びながら銃剣で突撃したが、ここは日系人の多大な犠牲を出したことでのちに自殺の丘として知られるようになった。
ハジロは銃弾の雨の中を100メートル駆け抜け、地雷原を越えて、ひとりでドイツ側狙撃兵の隠れ場所を二カ所殲滅した。上等兵のイチゲ・カシワギは、なりふり構わず、大声で叫びながら動くものに向かって撃ちまくったと語る。歩兵のジョージ・サカトは、すぐそばで親友が死ぬのを見て逆上し、無謀にもドイツ軍の中に突っ込んでいき、12名を殺し、2人を負傷させ、4人を捕虜にした。
ドイツ人たちは、日系人のバンザイ攻撃に恐れをなして、ついに丘を明け渡した。10月30日、ついに日系人部隊は141連隊のいる場所にたどり着いた。211人のテキサス部隊を救うために、442連隊は100名以上が死亡、1000人が負傷した。
5. ボブ・クボ:洞窟清掃人
太平洋のサイパンで、日系人のホウイチ・ボブ・クボは、もっとも危険な任務である洞窟の清掃人として任務についていた。島の溶岩洞窟の奥深くに入り込んで、隠れている日本人市民を探し出すのだ。
当時、日本人市民たちは、アメリカ兵に捕まると拷問、暴行されると思っていた。怯えた日本人たちは米兵の手に落ちるよりは自殺するほうがましだと考えた。彼らが身を投げた崖の下に女性や赤ん坊を含む死体の山が累々としているのを見て米兵はショックを受けた。洞窟の中に逃げ隠れた者も多く、その中に自暴自棄になった日本兵がまぎれこむこともあった。
クボは日本語が話せるため、洞窟の中に隠れている日本人に米兵についての噂は間違っていると直接話しにいくのが任務だった。パールハーバー以降、アメリカに住んでいるすべての日本人が処刑されたという噂も広がっていたため、クボが現われて説得することで初めて日本人たちは噂が嘘だとわかったのだ。
1944年7月のある日、クボは122名の女性や子どもが8人の日本兵の人質になっている洞窟に、ピストル一丁だけを持って入った。米兵が来たら自決するつもりでいた日本兵は、日本人の顔をした丸腰のクボの姿を見て武器をおろし、怖がることはなにもないというクボの説明に耳を傾けた。クボは、洞窟の中の日本人たちと信頼関係を結んだ。
なぜ敵国アメリカに仕えているのかと日本兵に訊かれて、クボは戦場で父と出くわした息子の話を引き合いに出した。なぜ、自分に刃を向けるのかと父に訊かれて、息子はこう答えた。息子ならば、帝(アメリカ)に仕えられない。帝に仕えているのだから、息子ではありえないからだと。
両親とも日本人なのに、クボは生まれた国であるアメリカに忠誠を誓っていた。2時間後、クボは市民と兵士たちを無事生きて洞窟から連れ出した。その後も悲惨な沖縄戦で、クボは死ぬ必要のない命を救い続け、のちに殊勲十字章を授与された。
4. リチャード・サカキダの脱獄計画
1943年10月、ビリビッド牢獄から500人のフィリピン人ゲリラが脱獄し、第二次大戦で最大の脱獄事件のひとつとなった。陰でこれを画策したのは、日系二世のリチャード・サカキダだ。
マウイの血を引くサカキダは、1941年にアメリカの諜報機関に引き抜かれた。日本語や日本文化がわかるため、マニラの日本人社会に入り込んで、軍の工作活動に使えそうなものを見つける任務が与えられた。やはり二世のアーサー・コモリと組んで、サカキダはフィリピンでの日本軍の構想計画の機密情報を集めることができた。
パールハーバー後、ふたりがアメリカ人であることを知らないフィリピン人によって、サカキダとコモリは投獄されたがすぐに釈放され、米=フィリピン軍と日本軍の激戦地バターンに行くことになった。ここで、捕虜になった日本人を取り調べ、没収書類を翻訳し、日本軍の暗号を解読した。しかし、バターンが日本軍の手に落ちたとき、コモリは逃げ、サカキダはそのまま残ったため、日本の憲兵に捕まって拷問を受け、反逆罪で処刑されそうになった。
幸いなことに、日本の第14軍司令部のために通訳兼助手として働くことを条件に、死刑を免れたが、サカキダは脆弱なセキュリティを利用して、日本軍の機密情報を集め、連合軍に流し続けた。
サカキダは投獄されていたフィリピンゲリラのリーダー、エルネスト・タパスの妻と知り合い、タパスと接触して投獄を計画するようになる。そして、将校の制服を着たサカキダと、日本兵の軍服を着た4人のフィリピン人が守衛を騙して、まんまと大勢のゲリラとタパスを自由にした。
タパスはオーストラリアにいたダグラス・マッカーサーと無線で連絡をとり、サカキダが入手した情報を流した。これがオーストラリア大陸への日本の侵攻を食い止めるのに役立った。ところが、米軍が再びフィリピンを取り戻すと、サカキダはだんだん疑われるようになった。潮時だとふんだサカキダは逃げ出し、怪我や病や飢えにも負けずにジャングルを抜けて、米軍の偵察隊によって救出された。
戦後、サカキダは青銅勲章、勲功章、称揚章を授与された。1988年には軍の諜報部隊の栄誉殿堂入りしている。
3. 最後の防衛線 ゴシックライン
連合軍がローマを占領したとき、ドイツ側のケッセルリンク元帥の部隊はイタリア北部の最後の防衛線ゴシックラインへと撤退した。これは、リグリア海から内陸に入り、標高1000メートルのアルティッシモ山の山頂を連ねて続く鉄壁の要塞だった。
5ヶ月かかっても、米軍第五部隊はこのゴシックラインにてこずっていた。そこで、この膠着状態を打破しようと、不可能に近い任務をこなすことで有名な442連隊が駆り出され、ゴシックライン突破が課せられた。
二世たちは、ドイツ兵に気づかれないよう物資や弾薬のずっしり詰まったザックを背負って、夜間に険しい崖を登った。1945年4月5日の夜明け、半数は眠りいついていた無防備なドイツ軍に総攻撃をかけた。戦いは約30分で終わり、初日だけで、ドイツ側は30人が死亡、負傷者も多数、要塞もかなり破壊され、武器も破損した。
これを足掛かりに、連合軍が残りの山頂要塞も落とし、4月7日に難攻不落のゴシックライン制圧が完了した。
2. サダオ・ムネモリの犠牲
子どもの頃、サダオ・ムネノリは姉のヤエコと喧嘩して役立たずとからかわれ、怒って「今に見ていろ。大人になったら、船に僕の名前がつくぞ。おまえなんか乗せてやるもんか」と言い返した。ヤエコとサダオはロサンゼルスで生まれ、5人兄弟の中で育った。父の亀太郎は広島からカリフォルニアに渡ったが、1938年に亡くなった。パールハーバーの勃発後、家族は強制収容所に送られた。サダオはその一ヶ月前に軍に志願していた。
1944年5月、サダオは第100歩兵部隊に配属され、イタリアのアンツィオに到着して、ゴシックラインの攻略に参加した。塹壕に投げ込まれた敵の手榴弾に覆いかぶさって自らを盾にして戦死し、中にいたほか2人の仲間の命を救った。
サダオ・ムネノリ上等兵は、名誉勲章をもらっただけではなかった。1948年、帰還した二世たちの乗った輸送船がサダオ・ムネノリと名づけられた。船がホノルルの港に入ったとき、ヤエコは初めてこれに乗船した。
1. 片腕で戦ったダニエル・イノウエ
太平洋戦争が始まったとき、ダニエル・イノウエには医者になる夢があった。パールハーバーのとき、赤十字の救急職員として働いていたイノウエは、5日間ぶっ続けで怪我の治療にあたった。ずっと自分はアメリカ人だと思ってきた、17歳だったイノウエは軍に志願したが、敵国人として拒否された。
しかし、イノウエの愛国心が萎えることはなかった。オール日系二世の第442連隊や第100歩兵部隊が結成されたとき、イノウエは迷わず志願した。
1945年4月21日、イノウエの部隊はゴシックラインのもっとも厳しい地点である、イタリア、サンテレンゾ近くの尾根を制圧する任務を任された。進軍中、イノウエは腕と腹を撃たれたが、果敢に敵に立ち向かい、片手だけで25人も殺した。
野戦病院に運ばれたイノウエは17回も輸血しなければならず、ずたずたの右腕は切断しなくてはならなかった。しかも、血圧が下がりすぎて死んでしまうことを医者が心配したため、麻酔なしで切断手術が行われた。
こうした勇敢な功績により、イノウエは殊勲十字章を受章し、2000年には名誉勲章に格上げされた。しかし、腕を失ったことで医者になる夢は断念せざるをえず、代わりに政治の世界に入って、ハワイ議会から民主党上院議員になった。2010年には、大統領継承順位第三位である上院議長代行に選出された。
via:listverse・written konohazuku
力を尽くして恩に報いる、義を貫き通す
国民性だと思いたいな
この国際社会において皆のために力を使えるような大人になりたい
※1
敵ながらあっぱれって言うのは
こういうことを言うんだろうなぁ
原文がbattalionだったら大隊と翻訳した方が通りが良いかも。
本文と関係なくなっちゃうけど、モンテ・カッシーノ修道院は実際は独軍の要塞として使用されておらず、連合軍の空爆で瓦礫と化した跡地に陣地として利用されてるね。
シズヤ・ハヤシが凄すぎる。
ブローニング自動小銃を腰につけたまま発砲して敵を一掃ってなによ?
まるでジョン・ランボーみたいな猛者じゃん。
人種とか国とか関係無く、理不尽に対して命かけた人達には尊敬の念抱くね
本当に人として立派だと思う
日系人部隊がある日本人を捕虜にしたそうな
捕虜は同じ日本人だからと親しげに話しかけてきた
あるとき「今アタッシュケースくらいの大きさで街を吹き飛ばせる爆弾を作ってる」
と言ってきたが与太話だと思っていた
ある日、広島に原爆が落とされたことをその捕虜に告げると
「もう日本は終わりだ」と泣き崩れたそうな
※5
関係なくてすみません。
ランボーってスタローン主演の映画だよね?
ランボーがジョンっていう名前だったことに驚いた!!
映画を見たこと無いので知りませんでした。
※5
BAR用いた無双の逸話は連合軍側で度々見受けられる
「ワンマン・アーミー」で有名なチャールズ・ケリーとかね
まぁハヤシも含めてほとんどが後世で誇張された話だろうけど
”忠”という言葉は、日本の武士が続けてきた縦社会の本質だから、民族性に刷り込まれている。戦うべき時代なら、誇り高く任務を全うして死ぬことは本望だ。
日本は負けてしまったが、同じく”忠”を貫いた多くの兵士のおかげで今がある。
いつだって感謝している。
日系兵士の扱いはひどかったらしいな。
短距離の移動の時などは車両に乗せてもらえなかったらしい。
捨て駒扱いだったので、生き残るためにも勇猛にならざるを得なかったのだろうか。
半分以上が100や442連隊の話なのな、家族を人質にどれだけ過酷な任務に放り込んだかが分かる
私は左寄りなので戦争を美化する気になれない
戦争は人材の無駄使いだと改めて思うわ
あまりにも亡くなった人が多すぎる
アメリカで生まれたアメリカ人ってだけの話じゃん。
死者の魂に、平安あれ。
互いが仰ぐ旗の色は異なろうとも。
東条英も「武人として君らの国(米)に忠義を尽くせ」的な手紙を日系人に送ったらしい。
ある意味家族が人質にとられてるような状況だから死のうが生き抜こうが成果をあげなきゃ
ならなかったんだろう
※16
当時の方々の気持ちを思うと胸が苦しくなりますね。
不必要な争いは絶対にしてはいけないと思います。
目から汗が 。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。
国籍に関わらず、やはり侍の戦いぶりは壮絶だね。
山河燃ゆってNHKの大河ドラマがあったな。子供ながらに面白かったの覚えてるわ
ボブ・クボの行動に非常に感動した。
敵国人として扱われて辛い思いをしながら、それでも産まれ育った場所とそこに住む人々を守る為に立ち上がるなんて。
ましてや、その迫害の原因となった本国の日本人達を未だに快く思っていない日系人は多い。
それなのに彼は戦争という狂気が渦巻く環境の真っ只中にありながら敵の兵士に自分自身の考えをはっきりと伝え、多くの死ぬ必要なんてなかった命を救った。
こんな判断が出来る人間がいるとは思わなかった
※19
戦争を美化する必要はないが、国を守る為に命を捧げて戦う姿勢は尊敬すべき。
※19
戦争を疎むあまりに、命の恩人やその行いまで否定するのは本末転倒だと思う。
戦争は外交における手段の一つであるから「このカードは使いたくない」と思うのは間違いではない。
しかし手段というものは「使わざるを得ない状況」に持ち込まれたらやはり使わざるを得ないものであるから、真に戦争を避けたいと願うならば決して目を背けず、理解に勤め、代替手段をこれでもかというぐらい出してやると良い。
戦争よりもコストが安くて良い結果が望めるのであれば、きっと誰もそんなカードを使おうとしなくなるだろうから。
※19
本当に戦争が嫌いなら、犯罪者でもない人間の人生を否定するのはやめたほうがいい。
それをしだしたらもう戦争をやってるみたいなもん。銃で撃ち合うのだけが戦争じゃない。
※19
国のために死んでいった人達が居る、と言う事くらいは正しく認識するべきだと思うけど
今の日本が彼らの犠牲の上に成り立ってるのは紛れもない事実な訳で
※19
彼らの献身と犠牲の背景事情を知ってなお、この記事を『美化』と一蹴するなら、君は戦争というものに対する理解が足りていないと思う。
※19
兵士は誰もが国と家族のために戦った。命を捨てて。
そのどんな兵士の霊を侮辱することは間違いだ。許さない。
※19左巻きと戦争美化は関係ない。
重要なのは事実を認識理解すること、イデオロギーは関係ない。
※19
私は左寄りではない。この記事に戦争美化の側面もあることは完全には否定できない。
そのうえであなたの意見には賛同しない。だが否定もしない。
理屈抜きに戦争それ自体を嫌う人が一定数存在し、それを明言できることは健全な社会だと思うからだ。
むしろ私は※64のような、戦争の多面性を無視したシンプルすぎる意見を否定する。
※19は英霊を侮辱するような意見ではない。この発言すら許さないという了見の狭さがやがて国を亡ぼすのだ。
誰も知らない死んでしまった英雄たちがどこの国にもたくさんいたのだろうなぁ・・・
負傷したら後方の野戦病院に入院、退院すると前線に復帰になるのでそれがいやで脱走して行方不明になる人も多かったのに、日系人部隊では、野戦病院に送られ、傷が完治もしないまま野戦病院を抜け出し前線の仲間の部隊に合流するという、いわゆる「逆脱走」が多かったと聞きます。
日系二世の部隊と言えば、俺らの世代では望月三起也の「最前線」をすぐに思い出す。漫画として優れていたこともあるけど、1963年時点でこの作品を発表していることは凄い。当時、意外なまでに「戦記物」と言うのは様々なメディアで取り上げられていたけど、情報としての正確さはともかくとして(当時は資料がほとんどなかったと聞く)、「二世部隊」の存在とその背景を子供達に知らしめたのは、漫画の力と言うべきだろう。
作品登場から50年以上、戦争が身近になって行く昨今、作品と共に全ての思いが風化せずにいくことを望みたい。
※25
まだBARならありえない話じゃないよ、R・リー・アーメイ(ハートマンの方がわかりやすいか)っていう退役軍曹の爺さんが腰だめでぶっ放してたし、まぁ世の中にゃM1919腰だめで撃った…なんてはなしも存在するくらいだしM1をフルオートに改造(銃の構造を知っていれば難しいものではないらしい)する変態もいたらしいしあの時代の軍人という生き物はどっかオカシイのばっか、まぁ戦時中はそうならねば生き残れないのかもしれないけどね、そういう時代が来ないのを祈るのみだよ、軟弱物の俺からすれば
リチャード・サカキダがなんか腹立つ
日本人だからと見逃してもらったであろう背景が想像つくからだけど
人種に関わらず他者の善意につけこむ行為は不快に感じる
生き残る事がすなわち英雄的な活躍になるような過酷な戦場に居たとしか…
やるせない話だな
カラテキッドという映画を思い出しました。モリタって言う日系二世の人がカラテのセンセイなんだけど、この人が日系二世部隊の兵士だった思い出を語るシーンがありました。
ベトナム独立運動のきっかけをつくり現地人に軍事訓練をしたのも日本人の生き残りだったはず
この前、モンタナのミズーラに行ってきたが、9割白人の地域なのに、ぽつぽつとアジア人がいた。 面白かったのはどのアジア人も日本人顔だったということ。 もしかしたらこの方々の孫にあたる世代の人なのかな?
死に物狂いで戦って「故郷」に帰っても差別に苦しむもう一つの戦いを強いられた人達が多かったってね……。黒人、アメリカ先住民ですら一緒に戦ったのに白人からの差別が続いたのだから「ジャップ」と呼ばれた人達がどれだけひどい目にあったのか……。
それと、アラン・オーハタさんの殊勲十字章も再調査の結果、名誉勲章に格上げされたみたい。(by.Wikipedia)
日系人の名誉を守るために必死だったんだろうな
ハワイの日系米軍人も「私たちに何の情報もなく、いきなり爆撃してきて
突然敵国人になってしまった」と未だに怒りを顔に表してる老人もいた。
この老人だけ英語で喋ってて日本語は使わなかった。
この人にとっては日本は自分を裏切った敵国でありアメリカが母国なんだろうなって思った。
私はこの存在を望月三起也氏の「ワンプカプカ」で知った。
ワイルド7ばかり注目されがちだけど戦争漫画を数多く執筆している人。
リチャード・サカキダ氏の話で映画できそうだな、まだないのかな
勇敢に戦った人達のおかげで今の日本がある。ありがたいです
立場的には敵なんだろうが、国の為に尽くす姿勢は日本的だと思っちゃう。
戦争を美化しないって言葉って、実際戦った人達からすれば命がけの理想を否定する言葉だよねえ。人や国の為に若い命を犠牲にするなんて簡単にできる事じゃない、それが正しかったかどうかなんて当時の人達にしか決められないよ。少なくとも平和になったあとの我々が判断するなんて理不尽だと思うんだけど
ハワイの日系移民の部隊のIQは米軍で一番高かったそうです。貧しい生活でも親たちが 教育を惜しまなかったということです。
アメリカで留学したこともあるし、嫌いな国じゃないことは最初に断っておくけれど
こういう話はいつも日系人部隊の活躍が凄かった!みたいな話しかされなくて、その背景にあった話は紹介されないことにいつもアメリカのイデオロギー的なものを感じてしまう
戦争が始まった時に日系人が所有していた土地を白人が取り上げて戦後も返さなかったこと、日系人部隊が結成された時入隊しなければ収容所内で不当な扱いを受けたこと、戦後も家族に対する必要な保障はされずに1988年まで放置され続けたこと、収容所に入れられたのは西海岸の日系人だけだったから今でも東海岸と西海岸の日系人の関係が冷え込んでいること。
謝罪も金銭的な補償もされてるからもう何も問題はない、日系人はすごいんだ!で話を終わらせることも出来るけど、日系人部隊だけじゃない、その裏にあった日系人社会全体の苦労を汲み取ることも必要だと思う。
第442連隊の第二次大戦中の死傷率は314%(のべ死傷者数9,486人)
第100歩兵大隊はイタリア戦線において、大隊長、副大隊長クラスの戦死傷も相次ぎ
補充を繰り返している。
数字や記録からも、彼らの戦いの壮絶さがうかがえる。
社会的圧力、アメリカ市民としての志、日系人としての矜持
そして社会的地位上昇への望み、その壮絶さを引き出した背景にも注目したい。
戦争には変わりない
シズヤ・ハヤシは野獣先輩だった・・・?
この人達とただ当たり前に死んだ人、どちらも共に悼まれるべきだと思うけど、何か差があるのかとか思っちゃう。みんな英雄譚大好きだね。
こうやって身の証を立てなきゃならない状況になることがひたすら怖い。
コルベットのデザイナーも日系人(ラリー・シノダ氏)で戦中マンザナー収容所にいたんだよなぁ・・・
なんか美化されてるけどさ、これって強制収容所の日系家族に対する実質的な脅迫でもあるわけじゃん。自暴自棄に追い込んだのは政府なのにまるで日系人が勇猛だのと吹聴して自らの犯罪行為を薄めようとしていたようにしか思えない。一応戦後謝罪は済ませたみたいだけど
そうしないと生き残れない過酷な戦場だったんだろ
日系人部隊の損耗率っておそろしいよ
これじゃ捨て駒として使われたとしか思えない
当時、日系人は差別されていたのにアメリカは彼等が戦争で功績を挙げた時、しっかりと賞を与えてリスペクトしてくれるのが凄い
・・・すて駒~!バンザ~イ!・・Go for broke!
ドイツのダッハウ収容所を開放したのは552野戦砲兵大隊の日系部隊。
しか~し、1992年まで公にされなかった。1991年旧ソ崩壊により
収容所関連の資料が公開され始めたので隠せなくなかったのか~?w
ま~ず、収容所の公認死亡人数が約1/6に減ったよね~。大国達の闇~w