心不全シンドローム。
11月17日、救急外来の時計は午前0時を回っており、こんな深夜に救急車で運び込まれたのは始めての事だった。それでも心不全の兆候が現れ始めて直ぐに連絡を入れた為、点滴を必要とする事もなく内服薬だけで入院も短期間で済んだ。
ところが自宅に戻って一週間ほど経った頃、38℃の発熱。市販の薬は使えないため、栄養ドリンクをお湯割りにして飲み、二日間寝込むと熱は下がったが、また暫くして今度は呼吸困難と息切れが…。
深呼吸をすると胸の奥がキュッと締め付けられるような、心不全の症状とは明らかに違うため、再入院を覚悟したが退院して間もないため、自分の免疫力を信じ自力で治した。16日の循環器外来でその事を話すと、直ぐ外来へ来るようにと主治医に怒られてしまった。
インフルエンザに限らず何らかのウイルスに感染し炎症を起こしていた場合、最も危惧されるのは、心内膜炎やウイルスによる人工弁閉鎖不全。最悪の場合は緊急手術となるからで、主治医が怒るのも当たり前の事だった。
さて、人工弁と言えば、阿部寛が主演する人気ドラマ『下町ロケット・ガウディ計画編』では、国産初の心臓人工弁の開発が至上命題となっており、心臓弁膜症で苦しむ多くの子どもたちの命を救うと言う、医療ドラマとしても見応えのある内容となっており、私も関心を持って観ていた。
かつては私も弁膜症に苦しむ子どもであり、11歳の時から長きに渡り闘病生活を送る事となったが、東京から入院先の藤枝市立志太総合病院へ著名な心臓外科医が招かれ、私も診察を受けた。体力の無い幼少期では手術をしても助かる確率は50%以下と低く、体力が着く年齢を待って手術に踏み切る方が賢明と言う見立てだった。
そして19歳の春、3月に静岡市立病院の心臓センターに入院し、静岡県では最も腕の良い心臓外科医『秋山文弥医師』の下で僧帽弁形成術を受けた。当時の生体弁や人工弁は耐久性に劣っていたため、年齢と弁の損傷を鑑みた上で最も適した術式となったが、それは将来もう一度手術を受ける時期が来る事を予見していた。
そして33歳になった時、蒲田自宅火災のストレスが引き金となり弁膜症が急激に悪化。三井記念病院の循環器センターを受診、担当医から『余命一年』を告げられ弁置換術を受ける事となった。埋め込まれた人工弁は、米国セント・ジュード・メディカル社製のSJM弁と言い、『パイロライトカーボン』と言う素材で出来ており、耐久性と信頼性に最も優れた機械弁で現在でも主流となっている。
この手術により弁膜症は劇的に改善し、蒼白の顔面が紅味を帯び見る見る内に元気を取り戻す事が出来た。内服は一生続けなければならないが、入院のような闘病からは解放されるとその時は思っていた。
術後15年を経過した辺りから異変が生じ始めた。心臓の右心房と右心室の間にある三尖弁の逆流、そして糸球体腎炎の疑い。この二つの病変については治療の必要性なしとの見解であったが、どちらも弁置換術の副産物でもあった。そして2008年6月、不安定狭心症で緊急入院。カテーテル治療により右冠動脈にステントを挿入。この時の検査で『収縮性心膜炎』の疑いありと診断される。
このようにして現在の自分に至る訳であるが、年齢と入院を重ねて行く度に心臓は良くなるどころか悪化の一途を辿るばかりであり、薬の種類は覚えることさえ面倒なほどに増え続けて行く。それでも自分を諦めず、未来の医療に希望を託し生き続けている。こんな傷だらけの私ですが、来年も私とこのブログを宜しくお願い致します。
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