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左翼にしろ右翼にしろ、自分の政治的な立場なり考えなりを絶対的に正しいものとして、正義が昂進してしまう状態については批判されるべきだと思う。特に徒党で持って押しつぶしにかかる場合などは大きな問題で、私はこのブログでそのことをずっと変だと書いてきたつもりだ。

ただ、「これは私の考えだからほっといてくれ」で話が終わるか、終わらせてよいかというと、それはそれで難しい問題がまた別に出てくるのではないかと思う。

つまり他人の「感覚」をどこまで「許容」「了解」するべきか、あるいは何がそもそも「許容」「了解」すべき「感覚」なのだろうか。

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私は極めて保守的な地方都市にいて、私自身もどちらかというと右寄りのつもりだが、それでもあまりにも保守的な地元の人たちの感覚と全く合わない場面は多々ある。おっさんたちは女性差別を平然とやってるし、女は女で固定観念にとらわれていたりする。

さすがにそれはそういう時代ではないだろうということがいくらでもあり、私は抵抗したいわけだが、こういう時、私は完全に左翼扱いされるのであって、さてどうしたものかといつも思う。

今の私の考えでは、一旦は「許容・了解」したとしても(そうでないと周囲と常に喧嘩をしないとならず、平穏な日常生活を送れない)、自分のできる範囲で徐々に影響を与えて、変えていく努力をする、方向性だけでもつけよう、というあたりになっている。もちろん、支持政党を変えさせるとかそういう大それたことではなくて、もっと身の回りの生活に関わることで、たとえば「近所の子供が通う中学校の部活の先生が異常な指導法をとっていて、その子の体質にあわないがどうしようか」「父親から虐待を受けている子供がいるが、どうしようか」などなどというようなことだ。

あるいはもっと政治的なことでもいいけれど、これは話が微妙になるので、相当慎重にする。

私が絶対に正しいなどと思っているのではないし、それを押し付けたいとも思わないが、しかし黙っていてはいかんだろうということが少なくない。

ある事柄に関して自分がある意見を持つとして、それなりの合理性が自分なりにあると思っているからそういう意見になっているわけで、そこで、よりましだろう、さすがにそれは時代遅れも過ぎるだろうということについて、わずかであっても影響を及ぼしたい、及ぼそうとすることは、自分の責任を自覚したうえであれば(たいていの人は無責任に影響力を行使し、時にカネを稼ぐわけだが)、まあいいのではないかと思っている。

というよりも、そうでなければ、何も前進しないじゃないか。

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もちろん話は単純ではなく、常に試行錯誤の繰り返しで、失敗も多く、「ああ、しまった」ということがたびたびだ。

ただ、個人の考えなり感覚なりを尊重するべしとしても、「対立」を忌避するべきかというと、これはこれで難しい。

個々人の考える正義を持ち出して、時に徒党をもって他者を圧迫することに対する抵抗という意味で、「対立」なり「嫌悪」なりは否定されるべきだと思うけれども、それで静的に固定化されてしまっていいということになると、それは違うと思う。

むしろ、対立そのものが必要有用な場面すらある。

前のイタリア大統領で、イタリア共産党出身のジョルジョ・ナポリターノが、「民主主義的弁証法」という表現を演説で使っていたのを思い出すが、様々な人の立場や利害が対立しぶつかり合うことで、民主主義は前進するのであって、対立がないなら、単なる多数決の数合わせで終わってしまうだろう。