â– 

(昨日の続き)

「ファシズム」「ファシスト」というのは非常に便利な言葉で、定義づけが大変に難しいわりに、なんにでも使えてしまえるので、レッテル貼りにはちょうどいい単語には違いない。安倍でも小池でもなんでもいいが、「ファシストだ」という単語をペタッと張り付けてやればいいだけなので簡単だ。

もちろんそれではよくないのだが、政治家に「ファシスト」のレッテルを貼るのに違和感を持つのは、そういう問題だけを意識しているのではないように思う。

街頭演説の前後にバイオリン独奏で国歌を流す、それを批判すると「神聖な国歌に何を言う」と言い返すメンタリティ、街頭演説で首相にヤジを飛ばすのは選挙妨害だというメンタリティ、首相に質問する記者が足を組んでいると失礼だと言って非難するメンタリティ、そちらのほうがはるかにファシズムに近い。

つまり、政治家にレッテルを貼るのは簡単だけれども、そうではなくて、ごくごく自分たちの身近にあるファシズムに近い心性に対する批判や意識が薄いことのほうが問題だろう。

ムッソリーニのファシズムは、いろんな条件が整ったので成立したけれども、ムッソリーニ個人の能力はもちろん否定できないことながら、暴力をもって強力に支持した人たちというのがいたわけだが、それを黙認した人たちというのもいた。

ムッソリーニは暴力を黙認したが、本人は常にこれをコントロールしたかというとそうでもなくて、困らされる場面もあったことは以前書いた。

また、当時の支配者層資本家層は革命が起こるよりはと、ファシズムを黙認し、これをつぶすことをあえてしなかった。

こういう状況がファシズムを成立させる背景になっていた。

つまり、ムッソリーニが人民の間に生み出してしまった空気が問題で、暴力的なほどの強力な支持者はごく一部であったため、叩き潰すのも実は容易だったのに、そういうことにはならなかったことが問題だった。

これに今の日本が似ているのは、民主党政権に対する反動から、自民党に極めて甘くなっているところで、こうなると少々のことがあっても批判がきかなくなってしまう。つまり、政治家個々人のファシストぶりを揶揄するよりも、我々の身近にある状況や一人ひとりの意識・メンタリティや価値観のほうがはるかに重大な問題なのに、そのことへの批判が「でも『左翼』はダメだから」ということで黙ってしまうことがよくない。

それはそれ、これはこれ、で、左翼がダメなのと、今の内閣がダメ、身の回りの人たちのメンタリティがダメなのとは全く別の問題であって、批判は批判としてやらないといけない。

これを読んで、ふと「就業者数」でtwitterを検索してみると、無茶苦茶な議論が出るわ出るわ、頭を抱えた。プロパガンダでもデマでもなんでもいいが、こういう状況が是認されている現在というのは、決して健全ではない。

ファシズムというのは、政治家の力だけではできない。人民の側が支持しないとファシズムは成立しない。そのことを思わざるを得ない。