電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

女の戦争

こちらでわざわざご指名があったので『花子とアン』の話をする。

NHK朝ドラ「花子とアン」より面白い? 史実「村岡花子と宮崎龍介」
http://b.hatena.ne.jp/lotus3000/20140907#bookmark-223553881

村岡花子がドラマとは異なり史実ではむしろ戦争協力者だったという話は、当方が述べるまでなくこちらで詳しく説明されている。

『花子とアン』村岡花子の戦争協力 なぜ女性が戦争に加担してしまう?
http://lite-ra.com/2014/09/post-436.html
「ここで忘れてはならないのは、「女性の国民化」プロジェクトは、当時の女性運動家たちにとって少しも「逆コース」でも「反動」でもなく、「革新」と受けとめられていたことである。女性の公的活動を要請しかつ可能にするこの「新体制」を彼女たちは興奮と使命感を以て受けとめた」

女性の学歴が圧倒的に低かった戦前当時、女流作家という先端的少数派が戦争に協力することで地位の向上を果たそうとしたという図式は、ものすごくよくわかる。
そう、村岡花子もまた、堀越二郎や円谷英二のお仲間だったのだ!

ゴジラ復活で真夏に思う。『円谷英二の戦争協力、ガチだよな…』。彼は”特撮の堀越二郎””日本のレニ”ではないか?
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140813/p3

戦争には、あらゆるマイノリティが国家に役立ってみせることで権威と一体になり、地位向上を果たすという効用がある。米国では二度の世界大戦で白人の将校も黒人軍人の活躍を認めざるを得なくなり、連合国はユダヤ人のイスラエル建国を認めざるを得なくなった。
桃中軒雲右衛門の一代記を描いた『俺の喉は一声千両』(isbn:4103245328)の中では、日清戦争から日露戦争に至る時期、雲右衛門が時局を反映して(つまり時局に迎合して)義士伝のほかに「広瀬中佐」なんて演目もやったり、「武士道鼓吹」に務めることで、もともと卑賤な下層民の芸能とされていた浪花節の地位向上を果たし、ついに皇族にも拝聴してもらえるようになった次第が詳しく書かれている。
こうした図式は、女性というマイノリティも同様だ。

優秀な女性ほどリベラル、にならないワケ

昔からばくぜんと、男性原理と言えば戦争やミリタリー的な物と相性がよく銃器や戦闘機に目をキラキラさせるのはもっぱら男の子なので、反対に女性原理と言えば平和主義でリベラル、というイメージがある。
これがまったく根拠のない偏見なのは、英国のサッチャー元首相、片山さつき、稲田朋美、櫻井よし子、長谷川三千子その他大勢の女史を見れば一目瞭然だ。
惑星開発委員会の『ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来』(←じつは当方も少し記事構成に協力しました)の中では、北原みのり+朴順梨『奥さまは愛国』(isbn:4309246494)の取材裏話が出てくる。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00MLJ9J5K
いわく、昨今の在特会など所謂「行動する保守」系デモに参加する女性というのは、「ネトウヨ=どうせ底辺層」という偏見イメージとは裏腹に、高学歴でまっとうな夫がいたり、実際に仕事で中国に滞在した経験のある国際派ビジネスウーマンが少なくないという。
彼女らの保守心情とは大東亜戦争の大義が云々とかいった思想的観念的なもの先にありきではなく、生活保守ではないかという気がする。すなわち、今の日本の、どこでもエアコンの効いた快適な部屋と安全な食品と清潔なウォシュレットがあり、24時間コンビニが利用可の安定した豊かな暮らしが脅かされるのはイヤで、中国や韓国のような新興国らしいマナーの悪さや暴力性は我慢ならない……といった感覚なのではないだろうか。
加えて、現代よりずっと男尊女卑社会だった戦前当時、村岡花子のように女性で立派な学校を出て、男性と同等に出版やらラジオやらの文化産業に従事している例外的な身分の人間(いわゆる「名誉男性」枠)が、体制に迎合せず戦争に反対などすればどうなるか? 
ドラマ劇中の比ではない深刻な世間からの袋叩きは必至であろう。劇中の宇田川満代先生のような同業の女流作家からも、自分らはせっかく男社会の枠内で頑張って男性と対等に近い地位を得ているのに「『貴女のせいでこれだから女が学問やったり作家になるのはダメだ』と言われる」と突き上げを食らってもおかしくない――そらインテリのエリート女性ほど体制に迎合するのも必然だわな。
そういや『赤毛のアン』劇中でもアンの家族・マシューとマリラは保守党支持者だった。まあ、これはむしろ近代的な都会文化と隔絶した農村地帯の価値観だろうけど。

ぼくのかんがえたさいきょうのてきとうな花子とアン

『週刊文春』9月11日号での中園ミホ×林真理子対談を読むと、『花子とアン』脚本を担当している中園も、史実の蓮子関係の方がずっと面白いことは認めているが、かといってそっちを丁寧に描けば花子の存在感が霞むし、子供からおばあちゃんまで幅広い層が見る朝ドラマではいろいろ表現に限界があるという苦労を打ち明けている。
なるほど、史実上の蓮子の夫関連で宮崎滔天や東方会と中野正剛の話を詳しくやっても、わたしのような人間には激烈に面白いが、本来の視聴者にウケるかは甚だ難しい。
それらも踏まえたうえで、以下は当方が勝手に考えた妄想の『花子とアン』戦中編。
村岡花子がむしろ戦争協力者だったという史実に合わせるという点を抜きにしても、昨今それこそ『奥さまは愛国』に登場するような保守女子、愛国女子が増えているからこそ、「戦争はいかん」というタテマエに沿うのであれば、劇中の花子ははじめ悪意なく戦争に協力し、やがて誤りに気づく……という展開こそが効果的ではないか。
といっても、べつに劇中の花子にご大層な大東亜戦争の大義とか小難しいことを力説させる必要はないし、また途中で理屈っぽい反戦平和主義に目覚める描写も必要ない。周囲の普通の善良な人々が戦争に身を投じてゆく流れに巻き込まれてゆく姿を描くのだ。
劇中の花子の兄・吉太郎は軍人だが、その日常や人間性があまり描かれてないのが残念だ。そこで吉太郎が休日、村岡宅に若い軍人の部下を連れてくるのはどうか。
この部下も貧しい農村出身で、実家に病気の家族がいたりして、吉太郎が何かと世話を焼いてくれている。で、「自分の甥もラジオのおばさんの大ファンなんです」などと言う(この役はそれこそ福士蒼汰のようなイケメンが不器用そうに演じるのがふさわしい)。
ふとした機会に花子とこの若い軍人が二人きりで会話し、「安東准尉殿は『若い頃、父が花子ばかりひいきするので悔しがっていたけど、自分も立派な学校に行った花子に刺激されて軍隊に入って一生懸命努力した……今では花子を自分にはもったいない自慢の妹だと思ってる』と言ってました」などと語り、花子は自分のような都会の出版業界人の陰で、貧しい軍人などが日本を支えているという感慨に思い至る。
この若い軍人は明朗に大東亜戦争の大義を信じて最前線に出征し、花子もそれが誇らしいことであるかのように思って送り出し、ラジオで「勇敢な若い軍人」の活躍を、よかれと思って報道する。さらに、その放送を聞いていた蓮子の息子・純平も出征してゆく。
だが、やがて戦局は悪化し、吉太郎の部下の若い軍人はアッツ島だかガダルカナルだかインパールだかで無残きわまる死を遂げる(名誉ある戦死ですらなく、困窮の末の餓死だったという戦場の噂が伝わってくる)。蓮子は表面上は戦時下の隣組に協力的な態度を取りつつ、内心では戦地の純平の身を心配するようになり、花子がいつもの軽いノリで「蓮さま、そんなに気にしなくても……」などと言うと「貴女は戦地に息子がいないから私の気持ちがわからないのよ!」と激昂され、気まずい雰囲気になる。
ほどなく、純平の戦死の報が蓮子の許に届く。悲しみに暮れる蓮子の姿を見ながら、花子はもし自分の息子の歩が生きていたら同じ運命をたどっていたかも知れないと気づき、自分がラジオで行ってきた戦争報道をふり返って暗澹たる気分に陥る――と、そこで昭和20年の東京大空襲。戦火の中で花子は、たとえ多くの子供らが自分のラジオを聞いて戦場に行ったのだとしても、ならば今後せめて今生きている美里らは大事にせねばならないと思い至り、『赤毛のアン』原書を抱えて娘の手を引きながら炎の町へ飛び出してゆく……。
――と、以上のようなシナリオを中園ミホに期待するのは、原宿のクレープ屋でぬか漬けを注文するような無理というものであろうけれど。
だが実際、戦後、理屈くさい反戦思想抜きに多くの女性の間でばくぜんと「戦争はいかん」というタテマエが広まったのは、まさに小難しい戦争の大義とかに関係なく「戦場で散った息子は帰ってこない」という『きけ わだつみのこえ』のメンタリティではなかったか。これもまた思想抜きの体感的リアリティだったはずである。

余談

もし宮藤官九郎が『花子とアン』の脚本を書いていたら、当初は妹に対してすねた所のある田舎者の地味な努力家・安東吉太郎も、ちゃらちゃらした演劇青年が不倫の恋を機に大人の世界と対峙するはめになった宮本龍一も、ぐっと哀愁と愛嬌の両方漂う人間味の深いキャラになっていたのではないか? という気がする。
実際、クドカン自身が龍一のような貧乏演劇青年あがりだし、『タイガー&ドラゴン』で竜児が実家に帰った場面や、『あまちゃん』の終盤で忠兵衛が漁から帰った場面では、いい歳した大の男が周囲に構ってもらえずにすねる展開を、適度なリアリティを漂わせつつ、笑って見られるような距離感で上手にやってくれているし……まあ、それでは『花子とアン』にならないか。別にクドカンでなく女性の脚本家でも、小林靖子はこういう男の真剣さと格好悪さを適度なリアルさで描くのが上手いんだけどな。