電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

それでは皆様よいお年を

いつもの年末恒例の報告。その時々で見た物や読んだ物についてダラダラ考えてるうちに年が過ぎ、最後にまとめて記すスタイルなのでくそ長くなる。とはいえ、流行り物について小まめに流れを追わなければならない今のSNSの速度は自分には向かないのでね。

■2023年最後の挨拶とか年間ベストとか
また例によって本年の収穫物など。
1.小説『ギケイキ』町田康
2.ルポ『イラク水滸伝』高野秀行
3.漫画『大奥』よしながふみ
4.ルポ『スペイン巡礼』天本英世
5.ドラマ『らんまん』脚本:長田育恵
6.映画『ゴジラ-1.0』監督:山崎貴
7.映画『シン・仮面ライダー』監督;庵野秀明
8.評論『アメリカ大衆芸術物語』
9.漫画『魔獣戦線』石川賢
10.東京国立博物館「古代メキシコ展」
列外.茅ケ崎海岸

■1.『ギケイキ』(https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309416120/)
仕事で平安後期の平家と源氏の争乱を調べ直したのを機に通読。
NHKドラマの『鎌倉殿の13人』でも描かれたが、武士道なにそれ食えるの? みたいな、暴虐、奸計、裏切り、女の取り合い、男同士の嫉妬、意地と保身の間で揺れまくる武人たち……。ムカついたら殺す、神仏は必ず罰を下すという、命の値段が一銭五厘どころか藁一束ぐらいの世界、それが中世日本クオリティ。しかしまったく嫌な感じがしないのが町蔵節。漫画化するなら平野耕太か亡き石川賢の絵柄しか思い浮かばんな。
「あの頃、私たちに「日常」なんてなかったのだ。暴力、そして謀略。これをバランスよく用いなければ政治的に殺された。だからみんな死んだんだよ。私も死んだんだよ。
 っていうか、いろんなマイルドなもので偽装されてわかんなくなってるけど私からみればそれはいまも変わらない。」(第1巻79p)
「みんなそれぞれの生を生きている。躍動のまにまに殺し殺される。(略)そんな瞬間のやりとりが戦場ならば、ここも戦場、そこも戦場、命はいつだって流動している。悔いなんてあるわけがない。」(第2巻286p)
一応、ストーリーは元の『義経記』を踏まえ、一ノ谷や壇ノ浦ほかの合戦を省略したのも原典通りだという。現代作家なら意図してキャラクターを配置するものだが、弁慶の父の弁聖だの義経の使用人の喜三太だの、後世では知名度の低い人物が急にやたら目立つ唐突さが逆に妙にリアル。現実は書き割りシナリオじゃないんだから重要キャラとモブの境界線もあいまいだ。
思えば谷崎潤一郎の『源氏物語』とか、太宰治の『右大臣実朝』もあるし、平安時代を現代的に再解釈するのは日本文学の伝統なのか。

■2.『イラク水滸伝』(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292)
高野秀行の本に外れはほぼない。砂漠の国イラクのアウトローな川の民に取材した本書は、例によって民族・宗教文化論から、同地と同じような地縁血縁コミュニティが生きてた近代以前の日本との類比、筆者の個人的なツッコミが縦横にクロスオーバーする。
筆者には『イスラム飲酒紀行』(講談社)という傑作があるが、政教一致のイラン国内は本音と建前があり、判事もこっそり酒を飲んでるが、イラン国外のシーア派は律儀にイスラム教の戒律を守ってるという話は面白い(36p)
中東の宗教-民族-権力者の関係は一律ではない。独裁者フセインは湿地に住むマンダ教徒でも政権に忠実なら差別しなかったが、米軍がフセインを打倒したら民衆の宗教差別が復活したという皮肉(60p)。戦前までイラクではユダヤ人も多く、独自の美しい刺繍布(アザール)技術を持っていたが、戦後はユダヤ人がイスラエルに流出して、彼らの知識も技術もあっさり失われたというのも歴史の皮肉(391p)
腐ってもメソポタミア文明の子孫なのかイラク人は倫理観と秩序レベルが高い模様。治安の悪い土地の道路ではお約束の私的に通行料を要求する役人はおらず、アフリカなどの公務員が腐敗した国家と比較されるとイラク人は怒るという(149p)
現地民に親しまれている即興宴会芸のような詩の朗読(民謡みたいなの)を覚えたら商談がスムーズになったという話も興味深い(239p)。中世の日本では、よそ者でも気のきいた和歌を詠めれば一目置かれたのと似たようなものではないか?
本書に登場する図太くもおおらかな湿地民の生活環境は、河川上流の開発による水量の減少で先細りだが、高野は「シュメール、アッカド、バビロニアなどの文明は高く栄えては滅び、今はもうない。マアダンの人々は一度も栄えたことはないが、滅びることもない」と記す(447p)。実際に今後は、温暖化の影響でむしろ湿地帯の水量が増えて住みやすくなる可能性も皆無ではない。とにかく”数千年スパンの視野”をするっと違和感なく読まされた。あと何度も出てきた水牛の乳のヨーグルトがまじでうまそう。

■3.『大奥』(https://www.hakusensha.co.jp/comicslist/40895/)
NHKでのドラマ化を機に今更ながら原作全巻を通読(ドラマ版は、仲間由紀恵、安達祐実ら往年のアイドル女優に貫禄ある大人の悪役女性をやらせて見せたのが絶妙)。
劇中のように「男女が同数だった時代」が簡単に忘れ去られ、そのあと今度は「男の人口が激減して女が中心で世の中が回っていた時代」があっさり忘れ去られるかとツッコミが入りそうだが、実際に現代人はつい数十年前の「会社員&専業主婦の世帯なんて都市部の上流階層だけで、農家でも個人商店でも夫婦そろって働いてた時代」「みんな子持ちでも仕事が回ってた時代」を忘れてる。江戸時代なら領地や農地などの家財(生産手段!)を継承することに意義があり、それゆえ劇中のような個人の意志を無視した家存続のための婚姻・出産も行われたが、総サラリーマン(雇われ人)社会じゃ家存続の義務感も成り立たない……皆この変化を忘れたまま少子化を嘆いてる。こういう現実を相対化する意味でも、本作はすごく優れたSF(社会の思考実験)だと思う。
本作での徳川吉宗や平賀源内のイケメン女傑ぶり、家茂&和宮の夫婦でも単純な友人でもなく家族と言うよりない不思議な関係の美しさなどは語られ尽くされてるけど、それらに加えて当方はNHKドラマで略された江島生島事件が印象深い。美男美女が大多数を占める本作で、報われない真面目な醜男の江島に唯一好意的に接してくれた生島新五郎が、男慣れした包容力ある年増女の歌舞伎役者というのが泣かせる。よしながふみは、単純な男女の恋愛ではない関係性(主従とか同志的な戦友とか家族愛とか)とともに、年齢を重ねた女性の魅力を描くのが本当にうまい。
ちな男装した女の歌舞伎役者を宝塚だと思った人は多いだろうが、我が国には白拍子というもっと古い女の男装舞踊がある。つくづく本作の設定は日本文化として違和感ない。画面に登場しなかったこの世界の本居宣長は、天照大神や卑弥呼や持統天皇を引き合いにして「女王統治こそ日本の伝統」とか言う人で、それが一時的に幕府公認の思想になるんだけど、所詮は一時的なものに終わりそう。

■4.『スペイン巡礼』(https://www.amazon.co.jp/dp/482640039X/)
スペイン自体が恋人と称したアナキスト天本英世の紀行とくれば筆が乗ってないわけがない。1980年の刊行時、天本は54歳で現在の当方と同年代だが、いや、じつに若々しい。独裁者フランコゆかりの地に来れば敵地に来たような気分になり、1936年に起こったスペイン内戦の初期に戦死したアナキスト指導者ドゥルティの聖地に来れば大はしゃぎする。内戦に勝利して長期のファシズム政権を築いたフランコの死は1975年(本書が書かれたつい数年前)、独裁への抵抗者も全然まだ存命の時期だ。
天本が敬愛する詩人ガルシア・ロルカは内戦期にファシスト軍に殺され、フランコ政権時代、彼の詩は発禁とされたが、隠れキリシタンのように支持者は滅びなかった。天本は東京・高円寺の店で長年フラメンコの朗読をしていたのがスペインのテレビ番組に取材されたことがあり、行く先々で「ロルカの詩を朗読していた日本人」として声を掛けられる。そればかりか、モロッコまで行ったとき天本が怪博士ドクター・フー役を演じた『キングコングの逆襲』を観たことのある人物に出くわしたのには驚く。
当時はアジアからの観光客がめずらしかったゆえか、どこでも現地の住民は好意的。このへんもEUの一部と化した現在のスペインとは大きく異なりそう。独裁体制を脱したばかりの1970年代末の同国はまだヨーロッパの田舎で(それゆえ物価が安い)、南欧ラテン系らしい大部屋雑居の大家族主義が健在の筈、日本人と気質が合ってたのかもしれない。あと食い物がうまそう。貝とか魚とか食材や味覚も日本人に近いのかもしれない。

■5.『らんまん』(https://www.nhk.jp/p/ranman/ts/G5PRV72JMR/)
坂本龍馬にジョン万次郎に自由民権運動と、「明治の土佐」が持っていた要素をこれでもかとぶち込んだ、山田風太郎の明治小説のごとき贅沢なる作風。
学者が主人公のドラマを面白く見せるのは難しそうだが、新種の発見、分類、証明の苦労と、その成果をあげたときの喜びの表現がうまい。地方からの上京者や洋行帰りのエリートとかの若い男たちが混在して、衝突をくり返しつつ試行錯誤に明け暮れる東京大学植物学研究室の雰囲気がよい(『王立宇宙軍』のオネアミス宇宙軍とか、『風と樹の詩』の寄宿学校の感じだ。19世紀~20世紀前半当時なら彼らも中流以上の階層)
そして文化的な開拓期を生きた若者のクロスオーバーが渋い。牧野富太郎と同郷の土木技術者の広井勇ばかりでなく、小林一三や南方熊楠まであのような形で絡んでくるとは。
最後に祖母役の松坂慶子がまさかの再登場してくれたのも嬉しい。

■6.『ゴジラ-1.0』(https://godzilla-movie2023.toho.co.jp/)
本物の戦中派である笠原和夫の脚本なら、あるいは山田風太郎の小説なら、神木隆之介が演じる元特攻隊員の主人公・敷島はラストで迷いなく死んでる。それが当時の人間なら普通の感覚(初代ゴジラの前年である1953年版の『戦艦大和』は、乗員らが波に飲まれて終わりの直球バッドエンド)……が、逆にそれではひねりも救いもない。
だから本作で注目すべきなのは、青木崇高の演じる整備士の橘が、戦友を死なせて生き残った敷島を痛烈に恨みながらも、あえて「赦した」(生還できる脱出装置をつけた)点だろう。その変心の理由は余計な台詞で説明されない。だが、劇中随所で語られる戦時中の人命軽視への嫌悪感は悲痛だ。死ぬ覚悟は2度はできないと戦中派の鈴木清順も語っていた。それでも敷島が今度は本気で死ぬ覚悟を決め、一緒に不眠不休でゴジラ迎撃用の震電を整備した過程で、恨みを超えた真の仲間意識が生まれたのかもしれない。
そう、過程。本作は軍隊も超兵器もなく、元軍人の民間人が旧式の駆逐艦だけでゴジラを倒すというご都合主義ながら、過程のテテールの積み上げで説得力を持たせてる。
今の日本映画は過去の時代が舞台でも画面がきれいすぎて嘘くさいが、戦後の焼け跡の”汚さ”の再現は圧巻。ゴジラは巨大すぎてリアルな恐怖感が薄れがちだが、小さな木造船に狙いを定めて追いかけてくる臨場感、船が大揺れして乗員が水浸しになる描写。赤ん坊が成長し、バラックの家が再建されるわかりやすい復興のイメージ。山崎貴の過去作はそんなにきちんと観てないけど、『三丁目の夕日』『永遠の0』『アルキメデスの大戦』とかで培ったノウハウ総動員なのはわかる。
本作の男性的ロマンティズムに戦争への反省がないという指摘は正しいけれど半面でしかない。現実の戦後復興も陸海軍や軍事工場で血と泥に汚れつつ規律や技術を身につけた男たちが成し遂げたわけで、戦前的なものと戦後平和主義はきれいに区分できない。
それに、もともと1950~70年代の東宝ゴジラシリーズは戦争映画なのだ、『太平洋の嵐』(1960年)『太平洋奇跡の作戦キスカ』(1965年)などとスタッフもキャストも重複するが、軍人の勇気や団結心のロマンと戦争への悔恨の奇妙な同居は当時からだ。これは既に多くのオールド特撮オタクが指摘してるだろうけど、1954年の初代「ゴジラ」にも海上に残留した浮流機雷がちらっと出てくるし(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20140611/p2)、1955年の『ゴジラの逆襲』は本当に最後の30分だけ特攻隊映画だし(戦時中の航空隊の生き残りは全員、迷わずゴジラに突っ込む)。本作では終盤、ゴジラが東京ではなく相模湾の寒村に出現するが、これが幻の本土決戦(アメリカ軍が準備していた関東上陸計画のコロネット作戦)の再現なのは明らかだろう。
とはいえ、よくこんな終戦直後の陰惨な雰囲気を描く企画が通ったなとも思ったが、考えてみればNHKの朝ドラマでは戦中戦後の話は通例だし、『この世界の片隅に』も大ヒットした。今後も「終戦直後」は時代劇の一ジャンルとして定着していくのか。

■7.『シン・仮面ライダー』(https://www.shin-kamen-rider.jp/)
10代のころ石ノ森章太郎の漫画版と、KBCテレビの初代ライダー再放送に熱中した人間としては「1980年代当時にこういうのが見たかった!」が全部詰まったような快作。明らかに怪物じみたヒーロー像、普通のライダースーツの延長みたいにコートを着てたり、首に地肌が見えてるビジュアル、人間臭さあふれる怪人、漫画版通りの12人のショッカーライダーに本郷猛の肉体が死んで一文字隼人と一体化する展開……。
逆に言えば「1980年代当時にあえて1970年代ヒーロー風を狙ったような」二重の懐かしささえ感じる。そんなわけで俺のようなオールド特撮オタクは歓喜ながら、良くも悪くも新味はなく、元の昭和版を知らん人に不評でも仕方ない。実際、パンフレットで庵野秀明自身が、僕の考えた仮面ライダーをやりたいのではなくオリジナルの魅力を現代に再認識してほしかったと述べてる。ただ、本職のスーツアクターに頼らず、演者自身が仮面をつけたまま身体で観客に感情を意識させる演技は圧巻だった(とくに緑川ルリ子が死ぬ場面であえて本郷猛の顔を見せない演出!)
裏を返すと仮面ライダーもウルトラマンも、もはやハムレットや忠臣蔵と同じように、演出を変えつつ再演をくり返す古典素材と化してくのか。

■8.『アメリカ大衆芸術物語』(https://www.amazon.co.jp//dp/4327376175/)
19世紀まで西部劇は「現代劇」だった! 映画が普及する前、アメリカではダイムノベルと呼ばれた安物娯楽小説が大量に売られたが、西部劇はその人気コンテンツで、バッファロー・ビル、ピンカートン探偵社など実在人物をモデルにしつつ荒唐無稽な作品が濫造された。『忠臣蔵』『好色五人女』ほかの歌舞伎も江戸の実録再現ドラマだったのだから、似たようなものだ(いや、梶原一騎原作の実在人物プロレス漫画に近いか?)。その作者の多くは実際にはアメリカ東部在住だったというから、後世のイタリア人が空想のアメリカを舞台にしたマカロニ・ウェスタンと大して違わない。
西部劇の舞台はほぼ南北戦争後の1860~1880年代。現実に「フロンティアの消滅」が宣言された1890年代ごろから西部劇は「懐かしの世界」となる。都市化の進行とともに大衆娯楽は、文学から映画、そして犯罪物、ミステリ、SF、コミック・ヒーローに移っていった。1910年代の第一次世界大戦を節目とした旧時代の威厳ある大人像の解体が、ハードボイルド・ピカレスクヒーローを生んだという分析は興味深い。

■9.『魔獣戦線』(https://www.amazon.co.jp/dp/4575935077)
石川賢の漫画では『5000光年の虎』と同じぐらい好きな作品ながら、小学生のとき読んだきりたったのを中野まんだらけで発見して約40年ぶりに再読。
妻子を平然と実験材料にするマッドサイエンティスト、4匹の獣と一体化して怪物じみた主人公(すごく狂暴)、雪山の洞窟内にいきなり宇宙が広がるシュールな絵面、乱心した神があっさり人類の大掃除、ノストラダムスの大予言とかの影響で漂う終末感、あっさり死ぬヒロイン……そうそう、1970年代中期ってこんなのがめずらしくなかった。
1980年代にもオカルト終末論は流行したけれど、こういう作風が完全に時代遅れになって「等身大」「普通」の主人公が主流になり、石川賢もヤクザ漫画に転進したり迷走していたわけだが、今にして思えば、そういう1980年代の方が特殊だったのか。

■10.東京国立博物館「古代メキシコ展」(https://mexico2023.exhibit.jp/)
金属製品がほぼない、丸い物はあるけど車輪がない、宝飾品が翡翠や貝殻で水晶みたいな透明な宝石がない、エジプトとかインドとまったく違う別大陸の大河なき高山地帯の文明。でも世界のどこでも必ずドラゴンぽい大型爬虫類の像がある不思議。
テオティワカンは8世紀ごろに滅び、記録は何も残らず、数百年後にアステカ人が発見するまで忘れられた都だったという。中米に限らず何度も簡単に文化は断絶する、消えた古代都市の生き残りはどうなったのやら、諸行無常なり。

■列外.茅ケ崎海岸
神奈川県在住の旧友からぜひ遊びに来て欲しいと誘われていたので訪問。せっかくなので初めて江ノ島電鉄に乗る(『スラムダンク』『プリキュア☆スプラッシュスター』の聖地)。東京湾ではなく「太平洋」の海岸を見たのは20代の頃以来ではないかと思うが、強風のため波が高いのに今さら驚く、東映の映画のオープニングみたいだ。
海水浴場に案内してもらって、同地は1945年秋にアメリカ軍の上陸するはずだった場所で、若き日の渡邉恒雄が徴用されて対戦車壕を掘らされたとレクチュアを受ける(つまり日本のノルマンディー)。もし本当に戦場になってたら防御物がほぼ何もない地形だ。これを見てくると『ゴジラ-1.0』の終盤は感慨深い。それが戦後、駐留した米軍によってサーフィンが広められ、サザンオールスターズの故郷になったのはどういう因果か。

■回顧と展望
例によって目先の作業をしてるだけで一年が終わってしまった。本年はどういうわけか長いこと会ってなかった旧友と再会したり急にメールや電話が来たが、幸いにして先取りの走馬灯でもなさそう。転職した者、妻子がいる者、非常勤で大学の先生をしてる者、非営利の団体に勤めてる者、海外と日本を往復してる者……みな大変そうだ。話す内容は20代の頃とあまり変わらんが、それぞれ「大人」をやってる。
一方で自分はどうか? 相変わらず成長しないネオテニー中年いや老人だ。とはいえ、自分の仕事があるうちは責任をもってそれをやらなければならない。
***
というわけで、例によって本年やった仕事の一部。
『一冊でわかる東欧史』(https://www.amazon.co.jp/dp/4309811167)
ウクライナ戦争の勃発を機に、旧ソ連圏からバルカン半島まで冷戦時代の「鉄のカーテン」の東の20か国以上をまとめて一冊で通史にした大胆企画。戦乱と政変の話(おもにカトリック圏VS東方正教圏、ゲルマン系VSスラブ系VSその他の少数民族の対立)ばかりで個々の人物が埋もれそうなので、当方は意識的に、ドストエフスキーも愛読したウクライナの文豪ゴーゴリ、ポーランド独立運動の闘士を父に持つ音楽家ショパン、ロボットという語を発明したチェコ人作家カレル・チャペック、人工知能の基礎理論を築いたハンガリー人フォン・ノイマン、などなどの文化人も拾って論じてます。
『一冊でわかるオーストリア史』(https://www.amazon.co.jp/dp/4309811183/)
当方は15~19世紀のハプスブルク全盛期の部分を担当。17世紀に三十年戦争でこたんぱんにされて以降こそが文化大国オーストリアの本領発揮。軍事は二流で、ついぞ新大陸やアジアに植民地を作らなかったのに19世紀まで欧州五大国の一角にあり続けたのは、女王マリア・テレジアの外交力の遺産といったあたりを説明。
『一冊でわかる平安時代』(https://www.amazon.co.jp/dp/4309722067)
2024年のNHK大河ドラマは紫式部が題材というので注目を集める平安時代だが、当方は後半の院政から平家の盛衰、源氏の内ゲバやらの血なまぐさい時期の方を担当。昨今は「源平の合戦」と言わなくなった理由、皇族・公家・武家・寺社の間の多くの政争の理由は領地の所有権だった事情、平安末期から始まる日本の中世(戦国期まで)=絶対強者のいない多重権力の分立時代という点などをわかりやすく整理したつもりです。
『江戸の暮らしと幕府のすべて』(https://tkj.jp/book/?cd=TD040824)
当方はおもに前半部分を担当。歴代将軍の横顔、大奥の実像、老中や町奉行や寺社奉行といった幕府に仕える者たちの仕事内容、参勤交代の背景などを説明。かつての進歩史観で封建時代は批判的に語られてきた反動で、ここ十数年は江戸時代を持ち上げるのがトレンドだけど、江戸時代だって一長一短だ。それは明治以降ではなく中世以前と比較(ここが重要)するとよくわかる。たとえば街道は安全になった代わりに移動の自由は制限され、寺社や農村の自衛武装が禁じられて戦乱はなくなったが、身分制度は固定化された。各時代ごと良い点もあれば悪い点もある。今の20代以下にはバブル時代やSNS普及以前の00年代のネットに憧れる者もいるそうだが、その時代も別に楽園じゃねえぞ。
***
自分がやってるのは依頼を受けての仕事でしかないけれど、こう書くとじつに偉そうで僭越ながら、読者に対して単なる知識(出来事の説明)の羅列ではなく、現代日本とは異なるものの見方や考え方(文明観)自体を提示したいと常に意識してるつもりだ。あと単に歴史や文化の背景について調べるのが楽しいという面もあるが。
2024年は比較的に本領発揮の仕事に着手することになる予定。
それでは皆様、よいお年を。

それでは皆様よいお年を

また年に一度の報告会だがくそ長いぞ。

■2022年最後の挨拶とか年間ベストとか
例によって本年の収穫物など。
1.小説『死の家の記録』
2.漫画『まんが道』
3.学術書『資本論』第1巻
4.TVドラマ『鎌倉殿の13人』
5.漫画『タコビーの原罪』
6.ノンフィクション『アリストテレスとアメリカ・インディアン』
6.TVドラマ『ふたりのウルトラマン 沖縄本土復帰50年』映画『シン・ウルトラマン』
8.エッセイ『金魚すくいは金魚にとって救いにはならない』
9.映画『月光仮面』(1981年版)
10.特別展 きみとロボット』(日本科学未来館)
列外.人造人間キカイダー、仮面ライダー龍騎、機動戦士ガンダム水星の魔女

■1.『死の家の記録』ドストエフスキー/工藤精一郎 訳 (https://www.amazon.co.jp/dp/410201019X)
6月中、あまりに暑いのでシベリア流刑地の話でも読めば気分が涼しくなるかと考え、長年の積ん読に手を出す。だが、シベリアでも夏の労役の方が「五倍も苦しい」(新潮文庫版34p)と書かれてるw
本書は小説だが作者自身の体験を元にした話だ。監獄の何が辛いかといえば、普通は自由がないとか外界と隔離されるとか書きそうなものだ。しかしドストエフスキーは、「おそろしい苦痛が、獄中生活の十年間にただの一度も、ただの一分も、一人でいることができないことにあろうとは、わたしは絶対に想像できなかったろう。作業に出ればいつも監視され、獄舎にもどれば二百人の仲間がいて、ぜったいに、一度も――一人きりになれない!」(新潮文庫版17p)と、恨みがましく語る。さすが『地下室の手記』の作者だ。この正直な人間嫌いの表明は良い。一人の時間が許されない辛さは俺も味わったからよく知ってる(http://www.axcx.com/~sato/bq/198801.html)。世の中には大勢でいるのが嫌な人間もいるんだよ!
シベリアの流刑地においても、こっそり外界から金品を持ち込んで商売する奴もいれば、看守を買収したり、物売りに来る女性に手を出したり、囚人仲間の金を取ったりの出し抜き合いもある。人間はどんなことをしても生き延びようとするし、どんな環境でも悪知恵を働かせる者はいるのだ。そういや、山田風太郎も書いてたな。「曾て今こそ最低生活なり、この線をきって下降せば国民の生活は破滅すと思いしこと両三度にとどまらず。併し己は、「人間は死ぬまで生きているのだ」という明瞭なる事実を失念していた。」(『戦中派闇市日記』三月一日)。これは財布も身体も危機になった本年の実感(後述)。
流刑囚の世界は、人間の本音と力関係がむき出しだ。囚人に寛容なリベラル看守はかえって舐められ軽蔑されるし、囚人にも最後の精神の拠り所としてのプライドがあるから、恩義や貸し借りをむしろ屈辱だと思って拒否する者だっている。
しかし一方、囚人たちの間にも信頼関係はある。獄中で唯一、皆が信用して金を預ける相手は、カトリック信徒の老人だった。正教徒が多数派のロシアでは完全にアウェーでも一人で信仰を貫いてる無欲で潔癖な偏屈者だ。10年以上前に『スターリンとヒットラーの軛のもとで 二つの全体主義』の評でも書いたが(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20091231/p3)、孤立した環境でも一人で神と対話してる者は強い(一種の狂気だ)。集団の場の空気に精神を支配されてるだけの日本の新興宗教の信徒とは根本から違う。
そして、流刑囚の間では、ロシア人でもポーランド人でもイスラム教徒のタタール人、チェチェン人でも、凶悪殺人犯でも、官憲の暴力に屈しない強い意志の持ち主は民族に関係なく尊敬を受ける。また、文化果つる地の貴種憧憬なのか、意外にインテリ階層の流刑囚の話を聞きたがる囚人やシベリア住民もいる。支配階級やその手先の官憲や看守の価値観と関係なく、民衆にはゆるぎない下世話でしぶとくも誇りある民衆の世界があるのだ。
――案外と、現在のウクライナ戦争が続くロシアの田舎の庶民にも、プーチンを冷めた目で見ている面従腹背の人間は少なくないのではないか。またプーチンも、そんなタフで地道なロシアの民衆を味方に引き込みたいからこそ、必死にEUとアメリカの文化堕落(反キリスト教的なLGBTだの)とか、ネオナチの脅威やらを説いているのではないか。

■2.『まんが道』藤子不二雄A(https://www.amazon.co.jp/dp/4120015203)
春先に月に豊島区のトキワ荘ミュージアムを見に行き、無性に本作が読みたくなって中野区立図書館とまんだらけでゲットしたら、直後に作者の訃報が。
藤本弘(藤子・F・不二雄)はついぞ思春期的なテーマの長編を描かなかったが、安孫子 素雄(藤子不二雄A)は本作と『少年時代』という大傑作を残した。ひょっとして藤本弘の最大の業績は、相方に劣等感を与えたことではないか? 安孫子はそれをバネに大きく成長した。小学生の頃は会社員を三日でやめた藤本はさすが天才、新聞社に一年以上務めた安孫子は凡人だなあと思ってたけど、いやその新聞社時代の下積み経験が重要なのだ。周囲の目立たぬ大人からも学ぶべき点はいくらでもあったりする。
本作は史実そのままではないが、それでも貴重な歴史民俗資料といえる。劇中の満賀と才野(as安孫子と藤本)は、高校時代から大量に映画を観ているが、圧倒的に西部劇ファンだった。西部劇漫画も大量に描いたし、『ドラえもん』でのび太が射撃の達人なのはその名残だ。一方、時代劇を観ることはほとんどなく、時代劇漫画は苦手だとハッキリ書いてる。これは『まんが道』の劇中が戦後の占領期(1946~1951年)と重なるのと無縁ではない。当時、GHQは仇討ち物を中心に時代劇を制限し、アメリカ的価値観の宣伝手段として西部劇をはじめとするハリウッド映画を広めた。これに対し、手塚治虫(1928年生まれ)は日本の歴史物も大量に描いてる。安孫子と手塚の年齢差はたった6歳。それでも、戦前と戦後、富山県の高岡と兵庫県の宝塚という文化環境の差は大きかったのだろう。

■3.『資本論』カール・マルクス(https://www.amazon.co.jp/dp/4003412516/)
本年、仕事のため読んだ本で一番印象深かった一冊。マルクスは本書の前に『共産党宣言』で、人類の歴史はすべて階級闘争の歴史だとトヤ顔で書いた。これを真に受けたマルクス主義歴史学(階級闘争史観)は、今ではさんざん叩かれてる。実際、人類の歴史は常に被抑圧階級が悪い権力者を打倒してバンザイというパターンばかりではないし、本当に時代が進むにつれて世の中が良くなってるのかはビミョーだ。
だが、『資本論』第1巻の第24章(ここは経済学ではなく歴史の話)を読めば、当のマルクス自身、王侯貴族の封建的な土地支配が崩壊したり、産業革命で科学技術が向上しても民衆の待遇はちっとも良くなってない。むしろ農地という生産手段を失い、自分の労働力しか売る物がない身分に転落してますます貧乏になってると、進歩の問題点を力説してる。マルクス主義歴史学の人たちは、ここをきちんと読んだのか? と言いたい。
近代以前の農村は自給自足が基本だから、みんな自分が栽培した米や麦、自作の味噌や蓑笠やわらじを使ってた。ところが、資本主義(商品生産社会)になったら、みんな工場で作ったものを買わないといけなくなった。
マルクスはそのように、すでに資本主義が「自分が作ったものを自分が所有する」という私有のあり方を破壊してる、だったら究極的には私有財産制がなくなるんじゃねえの、と言ってるのであって、これは資本主義が招いたボケに対するノリツッコミなのである!

■4.『鎌倉殿の13人』脚本:三谷幸喜(https://www.nhk.or.jp/kamakura13/)
本作については多くのことが語られているが、粗野で陽気な坂東武士がそのまま内ゲバ粛清地獄になる展開に説得力が溢れてるのが怖い(史実通り)。日本人は昔から平和的で国家に忠実だったとか大ウソ。武士とか公家とかの身分と地域、さらに「××家」という一族郎党こそが帰属意識の基盤で、郎党のため必要となれば昨日までの仲間だって天皇だって平気で裏切る――それが中世クオリティ。近代の途中までの村社会もそんなもんっすよ。
そして、小栗旬の演じる北条泰時がある時期から冷酷な独裁者と化すのではなく、だんだん狂気に陥ってく積み重ねが怖い。西田敏行の後白河法皇は『仁義なき戦い』の山守の親分そのまんまだ(これも史実通り)、北条政子役の小池栄子の台詞外の演技も目を見張る。源頼朝の死後に尼僧姿で泣く場面では、涙は少しでもちゃんと鼻の頭が赤かった。

■5.『タコピーの原罪』タイザン5(https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496638370192)
すごく久しぶりに「本物の子供目線の物語」を読んだ印象。たとえば新海誠の映画とか、十代の少年少女の心理をじっくり描こうとする作品は多いが、思春期の少年少女の自意識だけで話が閉じてるものは面白くない。本作ははっきり「大人や世界に対する無力感」が描かれてる、これが重要。だって現実の子供は、世界が学校と家だけで本当に狭いし、親は選べないし、大人の前じゃまったく選択肢がないぞ。子供の目線では、本当に運の悪い偶然だけの組み合わせとしか思えない事態だってある。さらに、子供だけで何かを解決できると思っても悲惨なことにしかならない……本作はそこをじっくり見せている。あとヒロインが学習性無力で弱っちそうだけど別に良い子じゃなく、殺意全開なのがいい。怒れない人間は困る。そして、劇中であっさり人は死ぬし、けっこう怖い内容なのに淡々とした不思議な透明感と、被害者意識だけに偏らない公平な目線。安達哲の漫画『さくらの唄』と、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の初読時の感じを思い出した。

■6.『アリストテレスとアメリカ・インディアン』ルイス・ハンケ/佐々木昭夫 訳(https://www.amazon.co.jp/dp/4004130638/)
昭和中期の岩波新書のなかでは埋もれた奇書ともいえる一冊。16世紀、南北アメリカ大陸に住む異教徒の先住民も白人キリスト教徒と同じ人間かをめぐって、カトリック教会と神学者ラス・カサスらがくり広げた大論争のお話。
当時の白人植民者の目線は、俗流なろう系異世界ラノベの転生者にそっくりなのに驚く。故郷のヨーロッパでは平民でも新大陸に来れば貴族か騎士様気取りで、新大陸を巨人やドラゴンやユニコーンが住む地と思いながら探検し、現地住民は同じ人間ではないから(異世界ファンタジーでのオークやゴブリンみたいな扱い)何をしてもよいと思ってる。
そんな状況下、ラス・カサスらは人種の平等を説いたが、これは近代的な合理主義による人権思想ではない。「神の前では万人は平等」というキリスト教の考え方を徹底した結果だ。このため、キリスト教以前のギリシャの大哲人アリストテレスだって、異教徒なんだから地獄行きだよとあっさり切り捨てる。こういうのが本物の宗教の強さと怖さだ。

■7.『ふたりのウルトラマン 沖縄本土復帰50年』(https://www.nhk.jp/p/ts/PN3P16XW6Y/episode/te/RYXZ186VWJ/)
 『シン・ウルトラマン』(https://shin-ultraman.jp/)
6月に『シン・ウルトラマン』を観に行って、本当にすごくよくできてるんだが、こんな俺みたいなおっさんオタクが喜ぶネタ満載でいいのかとビミョーな気分になる(本作は初代ウルトラマンの諸要素を巧みなアレンジで再現してたが、劇中の禍特対が禍威獣の研究分析チームであって戦闘は主任務ではないのがポイント。原典の科学特捜隊も本来はそう。斎藤工の演じる主人公の神永が、山本耕史のメフィラス人間体と会話する場面のような、日常的風景とSF的要素の不思議な混在も実相寺昭雄がよくやる演出だった)。
そんななか、本作に乗じてNHKが放送した『ふたりのウルトラマン 沖縄本土復帰50年』が渋かった。ほとんど初代ウルトラマンの原作者と言える脚本家・金城哲夫の挫折は、上原正三の著書『金城哲夫 ウルトラマン島唄』などで語られてる。本作は金城と、円谷プロダクションの監督ながら経営にも関わっていた円谷一の友情と行き違いをメインに描き、最後は金城の死後も多くのヒーロー作品を手掛けた上原の目線で終わる(その上原も2020年に物故した)。1960年代当時、返還前の沖縄は「外国」だった。多くの日本人が愛したウルトラマンは、本土から疎外された異邦人の視点から生まれたのだ。この事実は何度でも語っておく意義がある。

■8.『金魚すくいは金魚にとって救いにはならない』高井守(https://www.amazon.co.jp/dp/B09NRGQWSZ)
高井氏とは興味関心が半分ぐらい重複するが(最初期のコンピュータ史、ベンヤミンやオーウェルら1920~30年代の知識人、東欧や中央アジアのマイナー国史、1960~70年代の特撮などなど)、残り半分はまったく別物だ。それでも、1990年代から勝手に以費塾門弟の兄貴分として仰がせてもらってきた。
氏は堂々と左翼を自称しているが、欺瞞的な大衆性善説は口にしない。自分も含めて人間はくさいしきたない、だからこそ人間は誠実さと公平さを持たなければならないという考え方がうかがえる。このツイート集の多くは、自戒と明るいニヒリズムを下地にしたユーモアが漂う。「みんな自分の自由は好き。他人との平等はきらい。」(2015-3-15)。
人間に虫の良い期待はしないけど、より良くする意志は捨てないって大事。

■9.『月光仮面』(1981年版)原作:川内康範(https://www.allcinema.net/cinema/86044)
長い間映像ソフト化もされず、小学生のとき劇場で見たきりの幻の作品だったが、youtubeに転がってたのを畏友のTwitterから偶然発見。
初見時も感じたがわりと大人向けの作風だ。本作の悪役ニューラブカントリー教団は、社会に不満を抱く若者を集めて自分たちだけの国を作ろうと唱え、その資金を得るため裏で凶悪事件をくり返す。まさに、オウム真理教と赤軍派に、アメリカの人民寺院とブランチ・ダビディアンを足した雰囲気。今にして思えばすごく嫌なリアリティにあふれてる。
劇中では月光仮面が往年のヒーローとして多くの人々に知られているというメタ的設定。月光仮面はオーソドックスなヒーローではなく、教団が秘密裏に強奪した金を横取りして不遇な人々に寄付するなど、一種の劇場型義賊のように描かれる。作品全体のノリも『太陽を盗んだ男』『蘇る金狼』『野獣死すべし』のような同時期のピカレスクアクションっぽい。このへん、若者がシラケ世代などと呼ばれ、真面目な正統派主人公が受けにくくなった1970年代末~80年代初頭の世相を反映した感が強い。
そして、劇中歌の「月光仮面はきみかもしれない」というフレーズが印象的。川内康範は、月光仮面について「けっして主役じゃない、裏方」「正義そのものではない」、だから「正義の味方」だと語っていた(『箆棒な人々』(太田出版)245p)。つまり、正義の実行者はあなたかも知れない、月光仮面はその味方なのだ、というわけだ。

■10.『特別展 きみとロボット』日本科学未来館(https://www.miraikan.jst.go.jp/exhibitions/spexhibition/kimirobo.html)
人型ロボットやドローンばかりでなくサイボーグ義肢の展示も多数。乙武洋匡がみずから被検体に志願した「OTOTAKE PROJECT」で使われた義足の実物も展示されてた。これについては『モノノメ』第2号(https://slowinternet.jp/mononome2/)の記事を当方も少しだけ手伝ってる。『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のスタッフも取材に来たのではないか? あと動力なしのパワードスーツ(着る竹馬だ)が面白かった。

■列外.『人造人間キカイダー』
放送50周年ということで東映特撮youtubeで無料公開を毎週視聴。ある意味で小学生のころ一番熱中した番組(1980年ごろの再放送だったけど)。ほぼ毎回主人公ジローが敵のギル博士の笛の音で乱心、ミツコとマサルの姉弟と父の光明寺博士がすれ違いの大いなるマンネリ。だが、見返りを求めず戦う醜い不良品ロボット・キカイダーの悲壮感はこの時代特有。1970年代当時は、特撮ヒーローだけでなく時代劇も刑事ドラマもこんなんばっか。こういうストイシズムは本当にTVから消えて久しい。
疎外感を抱える異形の怪物的ヒーローは石ノ森章太郎の偉大な発明品だ(Amazon配信の『仮面ライダーBLACKSUN』を邪道とか言ってる奴ぁ素人のニワカ)。これは思春期的な感情で、漫画版でははっきり怪物と人間の一方通行の恋が描かれてる。このモチーフは弟子筋の永井豪『デビルマン』に継がれ、今も『東京喰種』や『チェンソーマン』まで人気だ。それがなぜ1980年代には一度すたれたのか? これは真面目に考える意義がある。

■列外.『仮面ライダー龍騎』
こちらも放送20周年を機に東映特撮youtubeで無料公開。よくできたヒーロー物フォーマットも伝統芸能のように形骸化しては意味がない。この時期の平成ライダーは、仮面ライダーの名だけ冠しつつ従来のヒーローの解体に意欲的だった。見返すと主人公の真司が当初は本当にヒーローらしくない。それが、ノリが軽いようで本音を見せない北岡弁護士(仮面ライダーゾルダ)、「人間はみんなライダーなんだよ」の名言を吐いた強欲社長の高見沢(仮面ライダーベルデ)、責任感も使命感も強固な香川教授(仮面ライダーオルタナティブ)といった大人と対峙しつつ、強い意志の持ち主に成長していく。各々の正義を掲げる者同士の群像劇、巨悪と戦うのではなく並列な関係のドラマが当時は画期的だった。

■列外.『機動戦士ガンダム 水星の魔女』
ガンダムシリーズも、ガンダムの名だけ冠しつつ若手スタッフが自分の作風を試すコンテンツとなって久しい。それでも、古典的な国家間戦争ではない非対称戦争や経済戦争が問題となる21世紀に、えんえんと「地球在住者VS宇宙移民者の独立戦争」の図式をくり返すのはずっと不満があった(富野由悠季自身はとっくにこの図式を卒業してる!)。
そんななか本作は、学園物の皮をかぶりながら。地球在住者の方が差別されるというひっくり返しを初めてやったうえに、国家ではなく企業を敵とする経済バトル(単に敵を倒せばいい武力闘争よりずっと複雑だ)を描いて「おおっ」と目を見張る。
脚本の大河内一楼氏は以前に一度だけゴードギアス本の『クリティカル・ゼロ』(http://www.kisousha.co.jp/geass/)で取材させてもらい、自分と同世代のアニメ関係者の中では少しシンパシーがあるが、キャラクター同士の信頼関係が築かれる過程や、逆に些末なすれ違いの積み重ねを描く手腕にますます磨きがかかってる。『少女革命ウテナ』との対比はさんざん語られてるけど、本作はヒロイン二人が単純な「守る/守られる」関係ではなく、相互的に影響し合ってるのが良い。
で、本作は同性間の関係を描いているからそれだけで素晴らしい(あるいはけしからん)ポリコレ作品だとか、逆にあれは恋愛ではないからダメだとかいう論議があるが、じつにくだらん。「恋愛」でなければならないという考え方こそ臆見では? 単純な男女役割分担ではなく、同性間にも多様な強い絆の関係性(チームメイト、主従、ライバル、戦友…etcetc)があり得るのを描くのが百合とかBLの自由度だろうに。だったら『兵隊やくざ』や『県警対組織暴力』も、同性間の強い絆を描いているからそれだけで素晴らしい(あるいはけしからん)ポリコレ映画なのかよ? これはギャグではないぞ! 実際に男ばかりの関係を描くヤクザ映画を論じてきた春日太一は『俺たちのBL論』を書いてる。

■回顧と展望
父親と母親が死んだ年齢を2で割ると52歳なので、30歳当時はそれぐらいが自分の寿命かなあと考えてた。本年その年齢になったが、どうもまだ死ななそうだ。
12月の頭あまりに喉が痛いので検査に行ったらコロナ陽性が出たが、その前に別のケガ(転んで肩をぶつけた)でアスピリン系の鎮痛剤(ロキソニン)を飲んでたせいか、まったく平熱のまま味覚と嗅覚も異常なく、4日間ぐらい激烈に喉が痛かっただけで終わった。水を飲むのも辛いぐらい喉が痛いので、狂犬病だったらコロナよりヤバいぞと思ったのが恐怖の頂点。そのあとは一週間ぐらい外出できずにだらーっと過ごしてただけ。それで12月まで上映していた4Kリマスター版『王立宇宙軍』を観に行きそびれた。
肩の打撲で抵抗力が落ちてなければ発症してなさそうなのに、そのため処方された鎮痛剤のため症状がほとんどなかったのだから、禍福は糾える縄のごとし。
しかし、こうして50歳過ぎのおっさんが見苦しく自分の生命に執着してる一方、ウクライナでは20代の若者が消耗品のように死んでいる。命の値段が1ルーブル50コペイカぐらい(戦前の日本風に言えば一銭五厘)の感覚。つくづく人間の命の値段は不平等なり。
***
たださぼってたと思われると嫌なので本年の仕事の一部を記しておきます。
『マンガでわかる資本論』池田書店(https://www.amazon.co.jp/dp/426215582X/)。マルクスの生涯から、交換価値、金の物神性、ソ連がダメになった理由、ブラック企業経営者側の都合、資本家もまたシステムの奴隷……といった話を説明。監修の的場昭弘先生には、近代以前の商業と近代の資本主義の何が違うか実地によぉーく説明してもらいました。英国では産業革命の前すでに土地から切り離された近代プロレタリアが成立していた! 第三次産業中心の今やどこの国も勤労者の大部分がその状況だ。
『図説日本の城と城下町(3) 江戸城』(https://www.amazon.co.jp/dp/4422201735/)。大名屋敷跡が官庁街になった霞ケ浦、神田川沿いの高低差が町のカラーを分けた内神田とと外神田、徳川家菩提寺のある上野と元は港湾都市だった浅草、江戸時代から学び舎が多かった本郷と小石川などを担当。東京に来て30数年、実地取材のため初めて東京都の東側を自転車で走り回ったら、新宿区の四谷と皇居、上野と秋葉原の近さを実感した。
『復活事典』(https://www.amazon.co.jp/dp/4862556485/)。ここ10数年のあらゆるジャンルのリメイク作品や再ブームを網羅。これは映画やアニメや1980年代シティポップや競馬ブームだけではない。ファッションじゃ黒髪も復活したし、パワースポットめぐりは江戸時代の寺社参詣の復活だ。上皇も200年ぶりに復活したしね。
『分離・合併事典』(https://www.amazon.co.jp/dp/486255671X/)。こちらはあらゆる分野の「系統図」を網羅。犬の品種、映画ジャンル、ジオン公国から腐るほど多いネオジオン系組織、JRグループ、自民党の派閥、右翼、左翼団体に源氏、平氏、さらには原始人から縄文人と弥生人まで。今の生物学では鳥と爬虫類は同一の分類なんやぞ。
***
本年の収穫物と体験の総論めいたことを偉そうに述べると、確かに世の中は生存競争ではあるけど、現実には武力で敵を倒すより、好きでもないものといかにダラダラと共存するかの方がよほど大変なのだ。ウイルスでも隣国でも家族でも元首相でも、ただ殺せばいいなんて単純なものじゃない。ま、「俺はあいつ嫌いだ」ぐらいはハッキリ言いますけどね。
というわけで当方はまだ生きるつもりなので皆様よいお年を。

我々はなぜ統一教会が嫌いなのか

近代合理主義者と化した保守

安倍晋三暗殺事件をきっかけに統一教会(世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ、反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者のひろゆきと山本一郎なのは興味深い
一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的に1970年代生まれ以下の世代は、保守や愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。
無論、1970年代生まれ以下の世代でも立場はさまざまだ。
東浩紀(1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会の擁護というより、スターリニズムや連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダンの思考を原理主義的なドグマにしてしまった模様。
一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会と利害関係があるらしい。
https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12
http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html
東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的に統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。
今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国、中国、民主党だけでなく、森喜朗に代表される体育会系、マッチョ価値観の自民党重鎮も不人気で、平然と皇室をコケにする書き込みだって多数あった。非合理的な宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係を肯定する主張は評判が悪かった。
かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難が自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか。
ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国、韓国は儒教国家だからダメだ」と言う人間が少なくない。お笑い草である。戦前までの日本だって支配階級の基本思想は儒教だった。幕末に尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代に朱子学が普及して、「幕府が天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇の教育係の元田永孚は西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教的価値観の産物だ。
だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想の日本は、最初から西洋的価値観の近代国家だったらしい。彼らには古代中世の日本の伝統的価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌や能楽や歌舞伎や浄瑠璃より、漫画やアニメやゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽の予算を削減しようとしてたな。
「保守・愛国を唱えながら近代合理主義で何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代人から見れば非合理な考え方に従っていた古代や中世の人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去の時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去の世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄だから天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。
そうなれば、単に力(財力、権力、情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵やワタミが大統領になったら本当にイヤだぞ。

共産主義も統一教会も環境の産物

統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808
つまり、統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威や先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的に山上徹也個人の家庭を破壊した。
『週刊文春』7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三を暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力で自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったかの説明が抜けている。
リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも、伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家は個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段を継承するために血統の存続が重視され、先祖からの連続性が意識されていた。漁村も商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。
ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口は都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供は家族から切り離され、父親も母親も子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界の歴史 第25巻』(中央公論社)270p)
統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想が伝統的な家族観を破壊した」と主張するが、この解釈は因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果から生まれた思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統的共同体を解体して蒸気機関と工場労働者を世に広めた資本家がいたのである。
逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業を全否定して国民を農村に強制移住させたポル・ポトのカンボジアこそが理想かよ?
先進国では工業化社会がさらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会の要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1)高度経済成長期に中卒や高卒で都市の工場や商店に就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出したわけでなく、家計を支えるためとか経済的理由で就職した者が大部分だ。
そして勤め人は世襲の家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想に関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。
こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家に従属する義理はないから上京以来ろくに親元に帰らない。長男の長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地や家業を持ってるのではないのだから仕方ない。
統一教会のような保守派は、家族が大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造の問題にまったく踏み込めていない。

信者にとってのカルト宗教の魅力とは何か?

困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムかカルト的団体に帰属意識を求める者が増える。
エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教的伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀末から1930年代に昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。
統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者の気持ちが理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいかに狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。
先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力でどうにもならない事態に直面していきなりオカルトや宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルのスティーブ・ジョブスのような英才も、最期は近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、非合理的なものへの免疫をつけておくこと必要だ。
そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営の団体も同じだ。
こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いかに社会制度が近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。
あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場の第三者に一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。
これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的に洗脳する側に忖度するように”誘導”することである(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。
その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初はカップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間の常識だと錯覚したという。
これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。
信者は教祖や教団幹部個人の命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。

思想だけで世の中は動かない

2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代の社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合、統一教会的なるもの――家父長制バンザイのカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。
実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラやパワハラは嫌われ、体罰や理不尽な校則は廃止される方向に進んできた。
ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。
近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホやコンビニやAIやドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働を人件費の安い海外にアウトソーシングしたり国内の視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生の世界では、依然として日本人相手なら許されないパワハラが横行している。
いかに自由平等人権といったリベラルイデオロギーの字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義は古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制は廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスもアメリカも奴隷制を廃止したが、それはリベラルな人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場と比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。
統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なものを嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会が崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観への絶対服従を逃れているのであって、本当に自分の力と意志だけで世の中の非合理を克服したり、独立した個人として生きてるわけではないことは、自覚しておきたい。

あけましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします。

それでは皆様よいお年を

もはや惰性で年1回の更新だが、逆に言えばかろうじて生存報告の機会になってるともいえる。今のネットの速度では、話題の出来事や作品に触れても、じっくり考えてるうちに世間の興味は次のネタに移り、文章にまとめてる余裕がない。自分のようなスロースタートで長文書きの年寄りには、今のSNSは向かないのだ。

■2021年最後の挨拶とか年間ベストとか
例によって本年触れたもろもろの年間ベスト。
1.TVドラマ『青天を衝け』
2.評論『星新一の思想』
3.ルポ『明治大正史世相篇』
4.映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
5.映画『狼をさがして』
6.映画『TOVE』
7.漫画『高丘親王航海記』
8.映画『ゴジラVSコング』
9.漫画『国境のエミーリャ』
10.国立博物館 三輪山信仰展&イスラーム王朝とムスリムの世界
列外.村上清の弁明

■1.TVドラマ『青天を衝け』脚本:大森美香(https://www.nhk.or.jp/seiten/index.html)
前々から「武将ではなく、文化人が主人公の大河ドラマがあって良いんじゃないか」と思っていたなか、渋沢栄一を題材にしたのは絶妙。
本作が画期的なのは労働の物語であることだ。商品を作って売る、新しい制度を築くことの苦労と喜びがテーマ。序盤、血洗島の農村で商品作物の藍玉をつくるため、男も女も子供も交じって働いている姿こそ、日本人の原風景なのである(専業主婦? 学校? 何それ)。後半で維新後、「初めて郵便が配達された」というだけの話を、派手な戦乱より感動的エピソードに描いて見せたのが秀逸。
そして本作は、数少ない「民衆視点の幕末」の物語でもある。前半で痛烈だったのが、尾高惇忠の母が、攘夷運動に深入りして捕縛された息子らを思って半狂乱になる場面。いかに男の子が高遠な理想に熱中してるつもりでも、母親にとっては単なる息子を奪うテロ思想でしかない(この図式、その後も不平士族反乱から自由民権、226やら515、全共闘、オウム真理教、Qアノンと延々くり返される)。
山田風太郎史観のように維新志士側より幕臣側に重きを置いてるので、途中まで西郷隆盛が悪役というのも新鮮。なお、劇中ではあんまり詳しく触れてないけど、岩倉具視(五百円札)は、公家の中では下級の身分で、だからこそフットワークが軽かった。とはいえ、薩長志士を支持した公家らの目標は平安時代のような律令制の復活だったから(大蔵省とか兵部省とかいう組織名もその産物)、岩倉は途中から、近代的な議会制を導入しようとする伊藤博文や大隈重信と敵対する立場になる。
終盤は渋沢がすっかり偉い人になってしまうので、人間ドラマ的面白さは落ちるが、そこでボンクラ息子篤二の苦悩を持ってきた構成も憎い。それこそ、戦後の高度成長期に青年期を送った世代が渋沢栄一のポジションとすれば、その子供である就職氷河期世代の多くは、王様になれないまま歳だけくってしまった元王子の篤二みたいなものではないか。

■2.評論『星新一の思想』浅羽通明(https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017383/)
浅羽通明氏が星新一作品を読む会(https://twitter.com/hoshiyomizemi)を始めたのは2016年のことだが、その数年前から、話をうかがう機会があると、かつて1960~70年代に濫読した古典SFやミステリの話題を挙げることが増えた印象があった。いつぞやは「哲学も私小説もSFだよ」とも語ってたと思う。SF的想像力とは世界観を仮構する思考実験なのだ。この「SF的想像力の効用は何か?」というのが、典型的SF少年だった氏の歴年のテーマだったのではないか。
それでは、数ある日本の古典SF作家のなかでも、なぜ星新一を論じるのか? 10代前半の読書一年生に読まれてきた星は、戦後の隠れた「国民作家」であり、知的好奇心の入口としての普遍性を持っていた。ネット社会を先取りした『声の網』を筆頭に、数々の作品に見られる先見性や予言めいた内容も、「人間は未来でもこういうことをやるだろう(考えるだろう)」といった普遍的志向の産物だ。
そして「予見・冷笑・賢慮のひと」という副題が示すように、本書は冷笑系の価値相対主義が本来持っていた可能性を問うている。1980年代の価値相対主義と、文明批評的な初期SFの相性は良かった。ただ、ここで重要なのは、自分自身を相対化する視点をも持っているかだ。優越感のための価値相対主義と冷笑ではないのである。かつてソクラテスは「自分が何を知らんかを知ってる」と自分自身を相対化したではないか。
星新一は、会社経営の失敗という無力感が作家としての出発点になっている。星の私小説とも解釈できる『城のなかの人』の主人公である豊臣秀頼は、自分が環境に生かされているだけの人だと重々自覚していた。
星新一作品を読んでいれば、「人間は正義や理想より利益で行動する」「人間は自分の命が脅かされない限り独裁体制にだって順応する」という一種のニヒリズムが身につくかも知れない。だが、逆に間違っても「××党の唱える正義はくだらないがうちの陣営だけは正しい」とはならんだろう。冷笑系、価値相対主義とは本来そういうもののはずだ。

■3.ルポ『明治大正史世相篇』柳田國男(https://www.amazon.co.jp/dp/4061590820)
新しい仕事企画のネタになるかと考えて20年以上ぶりに再読。近代とは地方の個性を殺す画一化であり、人々の意識の変化は、首から下の生活環境の変化と連動している。
たとえば、かつて、家族と食卓を共にせず自分一人のため火を起こして食事するのは、「大袈裟に言うならば火の神信仰への反逆」とまで見なされた。輸送手段と保存技術が発達するまで、畿内の人々は生魚を食うことを野蛮と見なした(第二章 食物の個人自由)。
明治期に短期間で人力車が広まった一因は、それまで馬車がなかったから。だから人力車夫を牛馬の代わりと見なす意識も広まらなかったが、欧米人は車夫を家畜の仕事と考えて差別したという(第六章 新交通と文化輸送者)。
意外にも柳田は、「日本は離婚の多い国として知られている」と記している(第八章 恋愛技術の消長)。考えてみれば、西洋(とくにカトリック文化圏)では婚姻は教会で神への宣誓がセットなのだから、20世紀中ごろまで日本よりよほど離婚は困難だったのだ。
また、柳田に言わせると農業は「新しい職業」だった(第十章 生産と商業)。つまり、昔の農村は自給自足が基本で、農耕専業ということはなく、味噌や漬物、草鞋や蓑など何でも自作していたし、農閑期には出稼ぎに行くことも多かった。
はたまた、柳田は「女が働かないで養われているという思想は、ごく良い生活から来たのであって、普通は昔から女性が働くのは当たり前」とも書いている(第十一章 労力の配賦)。そりゃそうだ、農村じゃお母さんもお婆さんも機を織り、糸を紡ぎ、わらじを編み、商家では仕入れや売買の帳面つけをしていた。専業主婦なんて伝統でも何でもない。
柳田によると、明治期以前の日本人は整然とした行列を作らなかったらしい。「隊伍を組むようになったのは、軍隊生活の影響と思われる。学校がはやくその整理法を採用し、今では大変な人の数が、こうして街上を動くようになった。」と書いている(第十三章 伴を慕う心)。
わたしたちの考える「日本人はこういうもの」というイメージには、案外と近代150年ほどの歴史しかないものがいかに多いことか。政治や経済の大きな事件だけ語って歴史をわかった気になっていると、こういう側面を見落とす。

■4.映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(https://www.evangelion.co.jp/final.html)
庵野秀明が岡本喜八の戦争映画の強い影響を受けてるという話は昔から有名で、『トップをねらえ』の終盤は露骨に『激動の昭和史 沖縄決戦』にそっくり、『シン・ゴジラ』は庵野版の『日本のいちばん長い日』だった。いずれも共通するのは、個としての人間を最小限にしか描かなず、大局的な運命に動かされる群像を映すマクロな視点だ。
しかし一方、岡本喜八の戦争映画といえば、『肉弾』『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』のような、等身大の個人、戦時下においても紡がれる日常を描いた傑作もある。庵野にそっちの影響はあんの? とずっと思っていたが、その答えが本作だったのはないか。
巨大メカと戦闘と理不尽な大人しかいない空間で生きてきたシンジやレイやアスカが、農村で田植えしたりごろごろするリハビリ過程は、ベタといえばベタだ。とはいえ、メカと戦闘の描写は天才ながら人間をどう描くか試行錯誤してきた不器用男が、40年のアニメ職人歴で獲得した等身大の実感が現れてるのかなあと思うと感慨深い。
そして本領のメカと戦闘描写は、アニメ特撮好きな男の子のハートが溢れまくってる。終盤でヴンダーVS同型艦の戦闘は、30年前の『ふしぎの海のナディア』製作時、「ノーチラス号対ブラックノーチラスをやりたかった」と語っていたのを実現させたんだろうな。してみると、主役VS同型機(しかも敵が複数)の元祖って、仮面ライダーのショッカーライダーじゃね。と、『シン・仮面ライダー』に期待を寄せる。
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ところで、本年には一部で、旧テレビシリーズの同作中の大人はひどいパワハラ上司じゃないかという意見が盛り上がった(https://togetter.com/li/1652999)。
これを言うのは後出しジャンケンに対する後出しジャンケンだが、今になって1995年当時の人物描写を大真面目に批判するのは卑怯ではないか?
何しろ1995年放送ならば、企画、シリーズ構成、シナリオ打ち合わせ等々はその1~2年前のはず。みんな忘れてるが、1990年代(平成1桁年代)は、まだあの程度に世の中全般が体育会系価値観だった。劇中の大人の理不尽に従うシンジはおかしいと言うのは、戦時中の人間に「なんで徴兵忌避しなかったの?」とか、江戸時代の人間に「なんで農民やめないの?」と言うようなものだ。
「ブラック企業」とか「パワハラ」という用語や概念、理不尽な上司には従わなくて良い、転職したり逃げても良い、という価値観がある程度以上まで世の中に共有されるようになったのはネットが普及し、終身雇用も崩れた小泉改革期以降だ。
2ちゃんねるやSNSのような市井の人々同士が直接本音を言い合うメディアが定着してようやく、「うちの職場しか知らんからそれが普通だと思ってたけど、こんな待遇やっぱりおかしいと言っていいんだ」という意識が広まったのである。
エヴァ製作中の1994年当時、インターネットを使ってたのはごく一部の英語がわかる理工系高学歴のみで、世の中の仕事内容は圧倒的に、オタク的インドアワークではなく、夏でもネクタイスーツで大声を張り上げ、手で触れる商品を売るような体育会系価値観の職場のほうが多数だった。劇中のネルフ程度の理不尽パワハラは普通だった。
無論、当時の体育会系的価値観を擁護・礼讃する気はいっさいない。とはいえ、そんな当時なりに、「大人になるには嫌なことも逃げずにやらなきゃいけないのかなあ」と、必死に考えていた庵野秀明らスタッフの切実さを、後出しジャンケンで一刀両断というのは、いささか欺瞞的というものではないか。

■5.映画『狼をさがして』監督:キム・ミレ(http://eaajaf.com/)
1970年代の爆弾テロリスト東アジア反日武装戦線の、その後を追ったドキュメンタリー。一部の愛国者様のお気持ちで上映中断になったというが、えんえん田舎の風景やら、未遂に終わったテロ事件の現場(天皇お召し列車が通った鉄橋)やらと、老人の思い出話が描かれるだけの映画っすよ。それを韓国人の監督が撮った点に意義がある。
劇中に出てくる北海道の森はなんの変哲もないただの森だ。だが、テロリストたちは、それの風景に「かつてはアイヌの土地だったのに、我々が奪った」という想像力を抱いた。「自分たち日本人はみな日本人というだけで侵略者だ」という強烈な日本人自身による日本否定の思想が、なぜ1970年代にしか現れなかったのか?
劇中では細かく触れてないが、かつて日本が支配・侵攻した近隣アジア諸国と日本の戦後の関係はずっとウヤムヤだった。圧倒的にアジア諸国の民衆は日本より貧しかった状況下、韓国は朴正煕、フィリピンはマルコス、インドネシアはスハルトといった反共主義の開発独裁で、過去の事は無視して政府トップの間では経済協力が優先された。こうしたなか、国家政府ではなくアジア各国に経済進出する民間企業を形を変えた侵略の手先と見なして敵視した点に、反日武装戦線の特殊性がある。
――ところが、近隣アジア諸国の人々やアイヌの復讐を掲げた爆弾テロは、たまたま大企業ビルの近くにいた一般人を巻き込んだだたの虐殺になってしまう。犯人の一人、大道寺将司は、被害者を救済するつもりで加害者になったことと対峙し続けた。2017年に出所した浴田由紀子の姿はほとんど「復員兵」だった。
反日武装戦線の事件から半世紀近くが過ぎて近隣アジア諸国は経済的に豊かになり、韓国は臆することなく平然と徴用工訴訟をするようになったお陰で、わたしたちはもはや罪悪感を覚えることがなくなった。だが、現在進行中の技能実習生問題は? 今、テロの標的にされるべき者は誰か?
ところで、反日武装戦線メンバーの一人で、逃亡したまま今も消息不明のままの桐島聡は、平野耕太の漫画『ドリフターズ』に「漂流者」として出てきても違和感ない。

■6.映画『TOVE』監督:ザイダ・バルリート(https://klockworx-v.com/tove/)
ご存じムーミン童話の原作者トーベ・ヤンソンの伝記(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20141230/p2)そのまんまのお話。平板だが手堅い実録。
ヤンソンは正統な芸術家を目指しつつも、本来なら副業の童話作家として名を残したことに少なからず忸怩たる思い抱いていたらしい(富野由悠季が、正統なる映画作家ではなくロボットアニメ監督という仕事に劣等感を抱いていたのと少し似ている)。
自由を愛するけど放置されると淋しがるが、さりとて彼氏や彼女を本気で拘束する気概はない――と書くと、何やら面倒くさい人だが、芸術家は面倒くさくてなんぼである(それゆえ作品に深みがあるのなら)。
ときおりムーミンとスナフキンのBLを描いてる腐女子がいるが(ムーミン受が定番だ)、史実はBLではなく百合だった。現代ならムーミンとスナフキンともに女の子という設定でも商業的に成立するだろうが、当時はそれが許されない時代だったことを考えると重い。
「自由と孤独」はムーミン童話のテーマのひとつだが、自分の作品の理解者だった彼女が一箇所に落ち着かずフラフラしてばかりいるので悶々とする姿は、ムーミン谷からスナフキンがいなくなると淋しがるムーミンそのままだ。劇中でトーベ自身がムーミンは優しいのではなく臆病だと語ったのは自分のことなのか。
あと、昔の能動的な女性は酒も煙草もバンバンやるものだったのをはっきり描いてくれてるのが爽快。何かとジャズに合わせて踊るのが可愛い(これも史実通り)。
映画を観たあと講談社文庫のムーミン童話を立て続けに読み返したが、『ムーミン谷の冬』は初読だった。パパもママもスナフキンもいない中で厳冬期を過ごすムーミンは、初めて「死」を認識するが、その後の春は「再生」の象徴として描かれる。フィンランドでは一年の半分近くが雪に閉ざされ、冬至の時期は一日中暗く、人口密度も低いからご近所は頼れず、映画の中で家具を壊して薪を作っていたヤンソンのように何でも自力で作業する……こういうのが北欧人の心の原風景なんやなあと痛感。

■7.漫画『高丘親王航海記』近藤ようこ(https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000424/)
すでに癌で死期を迎えていた澁澤の死生観を反映した怪作。原作の初読時、頭に浮かんだのは諸星大次郎か水木しげるの絵柄だった。とはいえ、それではあまりに色気がない。近藤ようこが漫画版を描いていると知って、「この人がいたか!」と膝を打つ。シンプルな絵柄ながら、鳥の翼の描写、黒ベタの使い方などはじつに秀逸。

■8.映画『ゴジラVSコング』監督:アダム・ウィンガード(https://godzilla-movie.jp/)
観に行ったのが夏休み前の平日の昼間なので劇場はガラ空き。
フッ素による水道水汚染だのイルミナティの世界支配だの、Qアノンのごとき陰謀説がぽろぽろ出てくるのに苦笑する。一方でキングコングが船で輸送される途中で暴れ出したり、高圧電流を浴びてパワーアップしたり、微妙に昭和版キングコング対ゴジラを踏襲。メカゴジラはなんだか実写版トランスフォーマーに出てきそう。
さえない企業告発youtuberとただのナードが土壇場で活躍と、ツッコミ所は多数だが、怪獣映画は男の子のドリームなんだからこれで良いんだよ。

■9.漫画『国境のエミーリャ』池田邦彦(https://gekkansunday.net/work/408/)
冷戦時代の東西に分断された日本を舞台にしたサスペンスアクション。何やら、過去に同じ小学館から刊行されてた浦沢直樹の『パイナップルARMY』を読み返してるような懐かしさ。この手の「架空冷戦物」は、ディックの『高い城の男』その他の架空第二次世界物と同じく、今後一つのジャンルになるのか。
共産主義支配下の日本では野球が禁じられてるという設定は、同じく冷戦下で東西に分断された日本を描いた矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』(https://www.amazon.co.jp/dp/4041616573)のオマージュとしか思えない。

■10.東京国立博物館「三輪山信仰のみほとけ」展(https://tsumugu.yomiuri.co.jp/shorinji2020/)
三輪山の大神神社は日本最古の神社ともいわれる。が、実際に展示されてるのは仏道で、自然の山をそのまま御神体とする山岳信仰に「形」を与えたのが仏教だったのだなと痛感。数メートルもある巨大なお地蔵というめずらしい物が見られた。
同時期に東洋館のほうでやってた「イスラーム王朝とムスリムの世界」(https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2109)は、アラビア文字書道が結構おもしろい。やたら金銀や宝石で装飾した剣や銃が多数展示されてたが、どう見ても実戦用ではなくステイタスとしての武具という印象。裏返して言えば、近代以前の上流階級には、戦争もまた名誉を得たり力を誇示する儀式だったことを感じさせる。

■列外.村上清の弁明(1995年執筆記事「いじめ紀行」に関しまして)
https://www.ohtabooks.com/press/2021/09/16200000.html
本年、東京オリンピック開会式に付随して広がった小山田圭吾の過去のいじめ問題は結局、実際には傍観者ポジションに近く、わざとワルぶって語った誇張や他の生徒による所業が話のメインだったとかいう(https://bunshun.jp/articles/-/48622)
この件には初期から、ベタなキャンセルカルチャーとネットリンチにいやな感じを覚えつつ、さりとて小山田個人への同情の念も起きなかった。何しろ、渋谷系の王子様だった小山田なんて天上の別世界の他人様である。小山田だって東大卒の小沢健二と比較すれば平民だよと言われても、こちとら皇帝と貴族と平民の区別さえわからない底辺の奴隷身分っすから。
(だからこそ、好きでもない小山田のことを、そう明言したうえで真摯に検証したこの人の根気には頭が下がる:https://note.com/toyamakoichi/n/n01bb51913d8e)
一部には小山田といじめられていた子は仲の良い友人だったという擁護意見もあった、それも事実の一側面だろう。ただ、現実のいじめはジャイアンとのび太のように力関係が明確とは限らず、むしろ表面上は仲良しグループに見えつつ、その中で実質的に”いじられ役”になっていたり、いじられ役もプライドのためその事実を認めていないという場合だってある。だからこそ、教師や外部の人間にはいじめの事実がわかりにくい。
わたしが気になったのは小山田当人より、1995年当時に『Quick Japan』誌上でインタビューを行った村上清という編集者だ。何でも、この人自身が悲惨ないじめ体験者なのだそうだが、記事中では平然と「いじめはエンターテイメント」と書いてる。要するに、正面から自分の私怨を述べたり「いじめは悪い」と主張するのはダサいしウケないと過剰に思い込み、あえて、いじめる側の立場に感情移入する趣旨だったらしい。まるで「反戦平和を訴えるつもりで、『愛国戦隊大日本』を作りました」みたいな話だ。
その答えがこの弁明で、だいたいは予想通りの印象。曰く――
「近年、いじめる側の勝手な論理としてよく伝えられる「いじめてるんじゃなくて、いじってる」を想起させる描写を無配慮に掲載していたことも、恥ずべきだと思いました」
なんだよ、ちゃんとわかってるじゃねえか!
1995年当時の彼は、ミニコミ上がりの新人編集者で、それがオリーブ少女にモテモテの小山田にじっくり話を聞かせてもらったのだから、正義ぶりっこの糾弾口調はできなかったという立場は想像できる。しかし、だからこそ記事中で「今回、話を聞いてる自分も小山田さんにヘラヘラ調子を合わせてしまった。これがいじめの魔力なのだ」と率直に書くべきだったのではないか――だが、こう書くのもすべて後出しジャンケンだ。
みんな忘れてるが、2000年代以降のIT化で産業構造が圧倒的にデスクワーク中心になるまで、世の中全体が体育会系・ヤンキー系価値観で、それに染まれない奴は半人前扱いだった。当時のわたしも小山田と同じように、ワルぶらないと子供扱いされると思い込んでいた。そして、村上君と同じように、「自分が弱者の正義を説いてもダサいしウケない」と思い込み、過剰に強者に尻尾を振る態度を取ろうとしていた。だが、のちには結局、本心では愛してもいない相手に尻尾を振るのは無理だと痛いほど思い知ってやめた。
つまり、わたしも村上君の元同類なのだ(しかも、もっと能力は低い)。会ったことのない兄弟が醜い自画像を正直に見せてくれたような、イヤな感動を味わうことができた。

■回顧と展望
例によって本年やった仕事の一部を挙げとく。
『最新データでわかる 日本人・韓国人・中国人』(https://www.amazon.co.jp/dp/4569900240)
10年前に当方が丸一冊執筆した旧版(累計10万部突破!)の改訂版なのだが、コロナ禍のため多くの分野で統計データは激変し、原稿を9割書き上げた状態から発売が1年延期になった。本書は断固、中韓をアゲて日本をサゲることが目的ではない。が、海外の調査機関の数字データに現れる日本の凋落は残酷だ。感染症対策で日本はアジア4位と見なされ、食の安全だって世界21位とあんまり高くない(韓国は29位、中国は35位)、スマホアプリの売上に至っては中国はわずか3年で日本の1.6倍以上に伸びた。この手の話が次々出てくるが、わざと日本の数値が低い資料ばかり探したんじゃねえぞ、本当だからな。
『日本の歴史的名建築100選』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299019210/)
今回は宝島社の名所案内本の集大成のようで、寺社やお城に加え、一般住居まで網羅。当方は和洋折衷の旧開智学校、三菱財閥が築いた岩崎邸(アニメ版『うみねこのなく頃に』の宇代宮家のモデル)、アールデコ屋敷の朝香宮邸(東京都庭園美術館)等々を担当。執筆中はコロナ禍のため閉鎖していた施設が多かったのが淋しい。
『1日1話5分で身につく歴史の教養365』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299020170/)
カレンダー形式で4~6月のエピソードを担当。ワシントンが初代大統領に就任した日はヒトラーが自殺した日と同じ(4月30日)、朝廷に反逆した藤原純友が死去した579年後の同日、スペイン軍に反抗したインカ皇帝モクテスマ2世は処刑された(6月29日)……地域や時間の連続性を無視して歴史を見るのもまた一興。
『絶滅事典』(https://ddnavi.com/review/866630/a/)
消えた文具、交通機関、家電品をおもに担当。きみは多面式筆入れが発売された時期、3輪トラックはいつまで生産されていたか、ワープロ専用機の最盛期はいつだったか、ジャンボジェットが衰退した理由を知っているか?
***
強いて本年の快事をひとつ挙げれば、ここ十数年オリンピックのたび唱えられてきた「感動をありがとう」というフレーズが、いよいよ地に堕ちて陳腐化したことだろうか。
努力した選手への讃辞は大いにあって然るべきだが、漫画『最強伝説 黒沢』の第一話で描かれたように、この手の感動は常に、ブラウン管の向こうにいる選手たちの感動であって、我々は観客席にいるだけで何もしてない。「感動をありがとう」という言葉には、「きみも選手と思いを共有したよね?」という一体感の押しつけの臭いがする。
――が、2021年の日本人は、皮肉にもコロナ禍によって、選手は選手、何もしてない観客は観客という「分断」(あるいは「身の丈」)をいやおうなく自覚させられてしまった。
自分は人々の一体感を全否定する気はないが、本当は分断があるのにあいまいにごまかされている状態よりは、分断が自明なほうが健全だろう。
本物の一体感とは良いことばかりでなく苦痛や恥辱も共有することだ。それこそ、選手も観客もみんな揃ってコロナに感染して等しく病苦にのたうち、それを一緒に乗り越えたのなら、真に欺瞞なく「感動をありがとう」と言うのにふさわしいのではないか。
というわけで当方もせいぜい、見苦しくのたうちながら生きのびるつもりです。
それでは皆様よいお年を。