石動雷十太(いするぎ らいじゅうた)とは、日本剣術の行く末を真に憂う者である。
CV:大林隆介(旧アニメ版)、小村哲生(PS版ゲーム)、三宅健太(新アニメ版)
漫画「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」第三十四幕「明治剣術模様」より登場。身の丈は剣心の倍以上はあろうかという巨漢。無精髭を生やし、着物の肩には黒い鳥の羽根。左之助からは「羽根オヤジ」と呼ばれていた。
一人称は「吾輩」。掛け声は「ぬん」。語尾に「である」をつける癖がある。塚山由太郎からは「先生」と慕われており、読者にもそう呼ぶ者が多い。
神谷薫の出稽古に付き添い中越流前川道場を訪れた緋村剣心の前に、道場破りとして登場。中越流開祖・師範である前川宮内を容易く打ち倒し、割り入った剣心と対決することになる。
雷十太は「真古流」を称する剣客集団の長であった。彼は竹刀剣術の蔓延により剣術は弱体化したと憂い、各地の道場を潰し、優秀な剣術家だけを選び出すことで、剣客が「飯綱使い」と呼ばれ恐れられた頃の強さを取り戻し、日本剣術再興の大業を成そうとしていたのだ。
だが実戦本位の殺人剣を目指す雷十太が、平和な世を守ろうとしている剣心と相容れる筈もなく、対立は深まる。続き、神谷道場を同志四名に襲撃させるも撃退され、ついに自ら剣心を不意打ちで仕留めようとするが失敗、居合わせた塚山由太郎を負傷させ剣心の逆鱗に触れる。激化する戦いの最中、実は殺人経験が無いことを看破され、戦いの末に剣心たちの言葉に精神を粉砕され、剣客として再起不能となった。
「う… うぐううう!」
雷十太が得意とするのは秘剣「飯綱」(いづな)と呼ばれる技である。これは「かまいたち」と呼ばれる自然現象と同じ原理により発せられる凄まじい切れ味の斬撃であり、竹刀で使った場合でさえ、剣心の持った竹刀を切断するほどの威力があった。真剣で使えば金剛石でさえも切断できるだろうと剣心は推測している。
さらに刀で直接斬りつける「纏飯綱」とは別に、奥の手である「飛飯綱」があり、遠距離に対しても斬撃を飛ばすことができる。
しかし弾道を見切ることができる剣心に対しては、左程有効な技ではなかったようだ。
其の原理は真空の波を発する「かまいたち」であることが判明しているが、どのような術を用いてかまいたちを発生させているのかは明らかになっていない。本人は古流の秘伝書から十年かけて習得したと発言している。
(余談となるが、所謂「かまいたち」は実際は真空によるものではないと言われている。この現象に関する参考文献が見当たらないのが難だが…)
また、京都編でも飛天御剣流の再修業の際に白外套を脱いで本気になった比古清十郎は、刀を軽く一閃しただけで烈風を発生させ(剣心が反射的に身構えている)、地面を刀傷で抉っている。飛飯綱と似たような「飛ぶ斬撃」を披露しているが、どちらも同じ原理で繰り出す技なのかは不明。
デザイン上のモデルは「アメコミの某キャラ」であると、何時もの如く作者の和月伸宏自身が言っているが、小者化の進行と共にかなり変わってしまったとのことで正確なモデルは不明。
石動雷十太は作者の評価がとてつもなく低いキャラクターで、単行本掲載のコメントから近年のインタビューに至るまで、ことあるごとに否定的評価と反省の言が述べられている。そのようなわけで、たびたび作者が挑戦したがっていた「知的マッチョキャラクター」の失敗例として広く知られている。
雷十太のキャラ付けを見失い、闇討ち、目つぶしと卑劣な戦法を使った上、殺人剣を標榜しながら人を殺したことがないと、そこまで貶める必要あったのかという設定まで飛び出してしまい、こうした真相を知った後で雷十太編の前半を読み直すと、実戦本位の殺人剣アピールが滑稽で仕方ないという一粒で二度楽しめる仕様となっている。
勿論、そうなったのは当初大物と見込んで描かれているためであり、殊に戦闘力に関しては非常に高いものとして描写されている。言うまでも無く、「飯綱」の攻撃力は作中でも屈指であり、身のこなしに優れる剣心相手には命中こそしなかったが、これを受けて耐えられる剣客は「るろ剣」作中でもそう多くいないだろう。
飯綱以外はどうか。江戸二十傑の一人に数えられた前川先生……は、まあいいとしても、巨体に似合わぬ飛び込みの速さは神谷薫の実力では見切れないほどであり、決して攻撃力だけの剣士ではないことが伺える。この一戦を見た剣心をして「強過ぎた」との評価を下しており、実際に塚山邸で対峙した際にも迂闊に仕掛けることができなかった。前川先生が弱過ぎたわけではない。剣心は雷十太の同志の一人「双身刀の男」でさえも「なかなかの手練れ」であったと評価しているほどである。
また、性格変化に伴い急速に弱体化するパターンかと思いきや、闇討ちシーンでも龍槌閃を肩に受けても怯むだけで耐え抜く高い耐久力をも見せている。まあ最後は飛龍閃という実戦向きか疑問が残る技によって一撃で斃されるのだが、こうなると弱体化したのではなく、当たり所が悪かったという風に取るべきであろう。そもそも飛龍閃を食らった直後も行動不能になったわけではなく、致命傷となったのはその後の弥彦らの精神攻撃に依る処が大きい。
以上のような描写を踏まえると、最強は言い過ぎとしても、ネタ抜きで強キャラであると考えるほかなく、「戦闘力は高いが精神面に重大な弱点を抱える剣客」という不幸な人物像が浮き彫りとなる。作者はそんなこと言ってないが読者は少なからずそうだと考えているようで、どこでもだいたい雷十太の話題になると「このおっさん普通に強いんじゃね?」という議論に進みがちである。実際十本刀の下位グループあたりと比べれば余裕で強そうに見える。
まがい者野郎となってしまった雷十太だが、剣術再興という思想そのものは、その手段が剣心と相容れなかっただけであり、否定されたわけではない。むしろ手段を選んでいれば同調さえされただろう。問題は何でお前が再興しなきゃならんのだということである。殺人剣を使ってきたわけでもないこのおっさんが何の間違いで飯綱を習得したのか、何の権利があって剣術の弱体化を憂いているのか。
……しかしながら、このように憂うべき事態の当事者でないのに何かを憂って、場合によっては他人に迷惑をかけるということ、案外身の回りにもあることではないだろうか。
特にインターネットは飯綱の如き力や知識を手に入れることも難しくない世界であり、ネット上で手に入れた「何かが危ない」という情報を専門家でもないのに憂いて暴走する「ネット雷十太」「ネット真古流」になっていないか、我々も常々気をかけ、自戒せねばならないと言えよう。
旧アニメ版「るろうに剣心」では、初期OP「そばかす」のイントロ部分に映るライバルたちの中に雷十太の姿も在る。比留間伍兵衛や月岡津南、長岡幹雄よりは好敵手に相応しいと考えられたようだ。
またアニメ版では雷十太の出る回は原作丸ごと改変され、ほぼ名前だけを借りた全く別の物語となっている。
物語は雷十太の率いる真古流と陸軍特殊部隊の戦いにまで発展し、雷十太は普通の強敵として普通に倒された。由太郎が怪我を負うという結末のみが同じになっている。ストーリー改変で由太郎の父・塚山由左衛門は死んだことになった。
前川先生は出番がなくなった。
作者自ら失敗アピールがされていた雷十太だが、連載終了六年後に発刊された「完全版」カバー下表紙で連載された「剣心再筆」にて、インチキ剣士としての要素を強調した「雷獣太」というまったくの別人にリメイクされている。
そのさらに六年後、実写化に合わせて連載された原作のリメイク版「るろうに剣心 キネマ版」では、この「再筆」設定の人物が何人か登場して居るのだが、序盤に出てくる偽抜刀斎が本名こそ出てこないがこの雷獣太である。原作に於ける比留間伍兵衛と多少役柄が異なるとは言え、此のインチキ剣士が役を奪い取った形になる。入れ替えてまで出すほどの人物か?
それから更に五年後の二〇一七年、遂に始まった北海道編の第二幕。その扉絵に過去の強敵たちの後ろ姿が多数描かれているのだが、その中に雷十太らしき黒い羽根の人物の姿があった。
この扉絵に描かれた人物は原作終了時点で死亡が確認されていない者ばかりで、中には以前から北海道編での登場を示唆されていた瀬田宗次郎らの姿も在り、全員が今後の再登場を期待しうるものである…が、(乙和瓢湖とか)再登場すると容易に考え難い人物もあり、雷十太の復活・再登場を保証するものでは無いとも言えよう。
しかし、兎も角、リメイクされていない雷十太を二〇一七年の和月伸宏が描いたのは事実である。作者は未だ当時の失敗に思う所が有るのかも知れない。
さらに六年後、二〇二三年に「るろうに剣心」はリメイクされる形でテレビアニメ化される。旧アニメ版は原作の展開を大きく変えたストーリー改変が行われることが多かったのに対し、新アニメ版は物語の大筋は変えず原作の展開に沿いつつも、補完する形でストーリーに改変を入れることが特徴であった。それは雷十太編も同様で、主な例としては、「原作では由左衛門が来たことで中断された塚山邸の戦闘が、新アニメ版では剣心が雷十太の刀を折り、事実上剣心が勝利する形で戦闘が終了する」「神谷道場を襲撃した雷十太の同志4人の存在が消滅する」「最終戦で縫合の麻酔のせいで右腕が思うように動かせない状態で雷十太を倒してしまった剣心が、弱体化せずに雷十太を倒す」など、他にも改変点があるが割愛する。
肝心の石動雷十太本人のキャラクター性や作中における雷十太に対する評価も大きく変化している。原作で当初は「歪みながらも剣術の行く末を憂う大物」であったが徐々に小物臭くなり、最終的に「殺人剣を振るうことの重みを知らずにいきがる小物」にまで堕してしまったが雷十太だが、新アニメ版では後者のようなキャラクターとして一貫して描かれている。もちろん、序盤には大物感を漂わせ、そこから化けの皮がはがれるまでは同じだが、原作では剣心や弥彦に心を折られた後も一切フォローを入れられなかったのに対し、新アニメ版は剣心たちからフォローを入れられている。
薫からは「(嫌なやつだったけど)纏飯綱、飛飯綱と技はすごかった」と評価され、それに付け加え剣心は「剣の才能は確かだった、だが、なまじ才能があったから剣の本質を問うことなく、ただただ技を追い求めてしまった」と評し、さらに
「人を殺める、その一線を超えなかったことが救いなのだと、あの男が気付けばよいのだが」
とおのれの過去を踏まえたかのような剣心の台詞が追加されている。
極めつけは雷十太編最終話のCパート。これは新アニメ版完全オリジナルのシーンである。剣心との戦いを経て、剣の本質を知らず殺人剣を振るおうとしていたことを見抜かれた雷十太は、衝動に身を任せ、道端の地蔵を拝む老婆とその孫娘を殺害しようとする。しかし、剣心の説いた殺人剣の重みが脳内に響き、その剣を中々振り下ろせない。それでも、剣は振るわれ、ごとりと首が落ちる…。落ちたのは、老婆と少女が拝んでいた地蔵のものだった。老婆と少女は雷十太がいたことには最後まで気づかなかったが、地蔵の首が落ちたことに気付き、元の位置に戻した後その場から去っていく。その後雷十太は地蔵の前に立つと膝を付き、思い切り涙を流し嗚咽をもらす。果たして、その涙は人を斬れず、自分がうわべだけの存在であることを証明してしまった自分に対する悔し涙なのか、はたまた、人を斬らずに済んだことに対する安堵の涙なのかは分からない。しかし、彼を見つめる地蔵はとても穏やかな笑みを浮かべていた。
もう一度言うが、同志がいなくなったことや前述のCパートを除けば原作と話の大筋は変わっていないが、最初から雷十太を「実力は本物」「しかし、腕に対し精神が未熟で剣の本質を知らない」というキャラとして扱い、さらにそれを強調、補完する描写を追加することで雷十太というキャラクターの深みが増している。新アニメ版の改変に、どの程度原作者である和月伸宏の意向が含まれているのかは分からない。しかし、かつて作者が失敗例として扱い、剣心たちから散々に罵倒され、貶められた男が、令和の世にて救いを与えられたのだ。
また、新アニメ版雷十太のCVを務める三宅健太は、インタビューにて雷十太をこう評している。
演じ手側の意見としては、雷十太はすごく純粋な反抗期の少年のように見えています。
生きている中で一度は経験するであろう、物事に対する説明のつかない憤りと憂いをそのまま形にしたような人物像が、魅力的に感じます。
アニメ『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』石動雷十太役・三宅健太さんメールインタビュー【連載第17回】より
人切り抜刀斎であった剣心にまがりなりにも傷をつけるほどの実力を有しながら、殺人剣の重みを知らない未熟さが同居する危うさがあり、しかし、剣心のおかげでおのれの未熟さに最後の最後に気付き、かつての剣心のように人を殺めずに済んだ…少なくとも新アニメ版における石動雷十太とはそのようなキャラなのだろう。願わくば、彼が今後も人を殺めずに、いずれ再起することを期待する。
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最終更新:2025/01/09(木) 08:00
最終更新:2025/01/09(木) 07:00
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