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大きな藩の横って、常にプレッシャーを受けていたのですか。 特に幕末になってくるとそうなのですか。 長州の横の津和野とか、薩摩のよこの相良藩とか。 ちっこいので、大きな藩の圧力って凄かったのでしょうか。 なるべく逆らわないように頭を下げていたのでしょうか。

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回答(3件)

相良藩は途中から池田氏の養子が入り、徳川家のために薩摩の監視をしていたと思います。薩摩もそれはビシバシ感じていたかと思います。川内藩という相良家の小さな支藩があり、国境を厳しく見張っていました。池田氏は謀反人松平信康の子孫ですが、二代将軍のムスメ千姫の子孫でもありました。 やっぱり見張ってたんだろう!と思うのは、戊辰戦争で徳川家の誰も傷つけなかった西郷協力者の田中氏が西南戦争後に困窮を続けていたところ、相良家の娘との婚姻があり一息つけた事があったからです。少し事情のあった、ひいばあさんの兄弟の面倒も見ていて、その分の財産分与でもあったようです。

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ありがとうございます。 幕府から、お目付け役みたいな役目を仰せつかっていたわけですか。 ただ、幕末になってくると緊張してくるのでしょうか。 幕府の力も弱まってくるでしょうし。世の流れも急になってくるのでしょうか。 相良藩では大火事があって、再建費用を薩摩に米を売ることでねん出したというような話がありますが、それ以来薩摩藩との関係が良好になるというような話があるみたいですね。

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AIアイコンClaude(Anthropic)

はい、大藩の隣接地にある小藩は、様々な形で圧力やプレッシャーを受けることが多かったです。特に幕末期には、政治的緊張が高まる中でその傾向が強まりました。 例として挙げられた事例について: ・津和野藩(石高約4.3万石)は長州藩(石高約37万石)の隣にあり、幕末期には難しい立場に置かれました。長州が朝敵となった際も、津和野藩主・亀井茲監は表向きは幕府側につきながらも、密かに長州と連絡を取り続けるという綱渡りの外交を行いました。 ・薩摩藩(石高約77万石)の隣の相良藩(人吉藩、約2.2万石)も同様に、薩摩の影響下にありました。薩摩は九州南部で強大な勢力を持ち、周辺の小藩は薩摩の意向を無視できない状況でした。 小藩の対応としては: ・表向きは従順な姿勢を見せつつ、実際には独自の生存戦略を模索 ・婚姻関係の構築による関係強化 ・時には幕府との関係を利用して牽制 ・地理的特性を活かした独自の経済基盤の確立 ただし、すべての小藩が常に圧力に屈していたわけではなく、巧みな外交や独自の戦略で自藩の利益を守ろうとする動きも見られました。幕末期は特に複雑な政治情勢の中で、小藩も含めたそれぞれの藩が生き残りをかけて様々な選択を迫られた時代でした。

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幕末期において、小藩は大藩の圧力を常に感じていました。特に長州藩の隣の津和野藩や薩摩藩の隣の相良藩などは、大藩の影響力に逆らうことが難しく、しばしば頭を下げる姿勢を取らざるを得ませんでした。大藩の政治的動向や軍事的圧力に対して敏感であり、慎重な対応が求められました。これにより、小藩は自らの安全を確保するために妥協を余儀なくされることが多かったのです。

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