考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

大学院進学、あるいは、教育の成果

2005å¹´05月30æ—¥ | æ•™è‚²
 昔からオーバードクターはいた。以前、内田先生のブログで、大学院生定員1万人に対して、大学教員は3000人しか必要ないそうだ。よって、どんどん、オーバードクターを日本は養成していることになるというようなことが書かれていた(と思う)。教員資格も院卒にしたらどうだろうか、と思って、その話を仲の良い同僚にしたら、「今、非常勤できている○○さんは、教員採用試験を落っこちて大学院に進学したそうですから、院卒でも当てにならないでしょうよねぇ」らしいが。。(ウチの学校だけでも数名、数年受け続けても採用試験に合格しない、つまりは、教員たり得なかったはずの人員が、非常勤、あるいは常勤講師という名で教室に立っている。)
 
 前任校も含めて、卒業生の話を聞くと、大学院まで進学する生徒がけっこういる。工学部だけでなくても文系学部でもそうだ。イマドキだったら、私だって大学院に進学したがったかもしれない。でも、今から二十年以上?まえの昔は、大学院に進学するというのは、余程の能力の持ち主か何かだったように思う。これももう二十年ほど昔だが、もう亡くなった伯父が、「大学や大学院進学は失業対策だ」と言っていたが、今、社会で活躍している大学の先生方著名人の学生時代の思い出話を読むと、イマドキの大学生を30年、40年前にやっていた様子である。もっとも、能力的なものはまた全然別個の話だろうが。

 多くの人の学歴があがってきて生じる問題は、平均値が下がると言うことだろうが、それと共に、教育を受けた側が、学校に行ったからには自分にはより優れたより高い能力が、即、身に付いたと思いこむことのような気もする。教育は、受けないより受けた方が断然良い。しかし、技能的な専門技術でない限り、一般教養のようなものは、受けてたとえば単位を取ったから即ち教養が身に付いたというわけにはならない。教員の仕事も、技能技術的な側面は大きいが、それでも、根本的な何かというか、説明しにくい部分は、生まれたときから培われてきた何か、じわじわしたものが大きい気がする。勉強ができれば、人の気持ちが分かれば、それで良い訳ではなかろうというところだ。
 変なことを思い出してしまった、ある若手教員のせりふ、「(私は全く悪くないのです。それなのに、もしも、)私が、間違っているというなら、それは(私のせいではなく、)新任研修制度が不備だからではないでしょうか。」

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