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今年の「#文学」
note.com/papanda0806
今回もミーティングの話。結論は、誰かが一方的に話すだけのミーティングはつまらない以上に生産性が低いよね、「連絡・共有」はチャットなり何なりほかの方法で良いよね。 このテーマ、もう既出でしかないのだけど、あらためて挙げたい。引き続き、「時間」というリソースの希少性は高い。そういう中で、クオリティの低い、あげる気のないミーティングに自分の時間を投じていくことのやるせなさは、皆さんもいまだ感じているはず。 この問題はもとを正せば、コロナ禍まで遡る。あの状況の下で、私達が直面した不都合は実に様々あった。その中ではささやかなことでありつつも、フラストレーションが異様に高まることとして「マイクを握りっぱなしの人が出てくる」というものがあった。一人で話しすぎ。話す手番が多いか、話がいちいち長い。 対話とは、ラウンドロビン(マイクをその場で回す)を各自が意識して、いかに密度の高い回転にするかで、そのクオリ
アジャイルに取り組み始めると、必ず出てくる声に「ミーティングが多い、時間が長い」というものがある。プロダクトづくりでも出てくるし、組織アジャイルでもほぼ必ずと言って良いほど出てくる。 こうした声の流れあるいは背景には「ミーティングなんて無駄」という、会議=悪しき存在という考えが存在している。無目的で、無用なミーティングなんて、私も撲滅されれば良いのに、という立場を取るが、このことと、先述の状況は非なるものである。 ほとんどの場合、ミーティングの回数が多くなるのも、時間が長くなるのも、ファシリテートの問題だからだ。つまり、アジェンダ設計から、進行まで、内容のほうの問題だ。チームの「場」自体は必要であるし、一定のコストをかけて行うこともある。スクラムイベントはそちら側の話だ。 例えば、アジェンダがなければ、何をどこまで話すのかが分からないから、ミーティング中の濃淡をつけられず、時間切れで、おか
何をマネジメントしたら、成果に辿り着きうるのか? これまでの仕事のやり方と、今期待されている仕事のやり方、この2つの間にある大きな違いについて、気付くための問いだ。さらに、この問いの背景には、成果そのものの意味が異なる、という事実が存在する。 成果とは何か? この問いに向き合うたびに、ドラッカーの顔を思い浮かべてしまう。シンプルながら突き詰めて答えようとすると歯ごたえのある良い問いだ。 決められた期日に、予定されたコストで、必要とされるアウトプットを揃える。こうした、守るべき制約は確かに存在する。しかし、これらが成果にあたるかどうかは、仕事の目的に依る。アウトプットを期待通りに完成させることで対価が得られる仕事ならば成果と言える。 一方で、「相手にとっての利便性に一定以上到達すること」であったり、「想定するニーズが確からしいか判断できるようにする」といったことを仕事とするならばどうだろうか
プロダクトづくりには2つの状況がある。何もない、ゼロから臨む場合と、すでにあるプロダクトをより良くしようとする場合とで。いずれの場合にも、「何が正しいのか?」に答えるための仮説検証と、作りながら確かめていくアジャイルの二刀流で臨む必要がある。 ただ、指す言葉は同じでも、「ゼロから」と「すでに」で適用する方法は変わる。置くべき焦点が異なる。そうした文脈の違いを捉えながら、どのようにしてアジャイルにプロダクトをつくるのか。ここを語るための本を書いた。文字通り「アジャイルなプロダクトづくり」だ。9月4日発刊予定。 プロダクトづくりの芯には「価値探索」という行為がある。誰にとってのどんな価値があり、どのようにしてそれを実現するのか、という探索活動のことである。どれほど忠実にスクラムを回転させたところで、価値あるもの、意味あるものの仮説がなければ、その回転は徒労に終わってしまうかもしれない。「間違っ
「解像度をあげる」とは、より見分けられるようになるということだ。同じようなものと捉えていたことを明確に区別できる。理解の「密度」が高くなる。だから、言葉でより説明ができるようになる。 それはただ単に細かいことをあげつらうということではない。区別できるようになった上で、さらに統合する。共通するところと、異なるところを比較して、区別する前の「全体」として言えることをまた生み出す。個別だけではなく、全体として解釈できるようにする。 このことを前提として何を言いたいかというと、「つくる」ということについてだ。具体的には、ソフトウェア開発とプロダクト開発は、未分化のまま捉えることもできるし、明確に区別することもできる。 思えば、仮説検証型アジャイル開発(正しいものを正しくつくる)とは、ソフトウェア開発(業)が育ててきた前提、認識を、プロダクト開発に移行するための手立てとも見ることができる。 ここで、
「アジャイルとは何か」ということを、先日語らせて頂いた。また、ずいぶんと根本に返った話を今更と思われるかもしれない。ただし、「アジャイルとは何か」、このことについて会話した相手は開発者、開発チームではない。日常で開発には携わらない方々だった。 そうした方々に向けて、アジャイルなるものを語る。それがいかなる経緯で今に至り、われわれに何をもたらし、どこへ向かおうとする営みなのか。その本質を語ろうとするのは、簡単なことではない。それでも、このところそうした機会を積極的に作っている。 私は、アジャイルに希望を持っている。 私が寄せる希望とは、開発への変革以上に、仕事への向き合い方そのものの変革だ。かつて、さんざん開発の文脈で語り明かした「アジャイルとは何か」を、より広い文脈で捉えていく。「アジャイルに取り組むことが越境だった」時代があったが、今は「アジャイルの越境」を後押ししていく状況にある。 ア
今日は結論から。安易な生産性向上云々が、組織を殺しかねない。 至る所で、「効率への最適化に囚われ続けられないよう、探索と適応を始めよう」と話している。 その際に、合わせて「とはいえ、私達の仕事は効率を上げていかないと、グダグダのままではどうにもならない」とも言うようにしている。そう、効率への最適化が全くダメでゼロにしろという話ではない。むしろ、改善が必要不可欠なのは言うまでもないことだ。 生産性向上が現場や組織の中で掲げられるのは当然のことと言える。同じ価値提供を実現するにあたり、かかるコスト(時間、費用)を減らしその分を別のことに回していく。そうやって、私たちは価値の再生産、拡大につとめていく。 価値提供と生産性がつりあう状態 だから、不用意に時間や人件費を投じるようなことは避けて、生産性を研ぎ澄ましていくこと。ムダのない筋肉質な体制、プロセスを講じていくことは組織内で「正しいこと」と目
ゼロから組織にアジャイルを宿していくための「手がかり」とは何か。いくつか考えられるが、イニシエの頃より取られていたのは「社内コミュティ」を立ち上げることだった。 アジャイルはソフトウェア開発の世界で端を発し、ここまで育まれてきた。その最初期においては、組織の中ではもちろん、外においてもアジャイルの実践者などほぼ存在していないようなものだった。 その頃のわれわれが頼りにしたのは数少ない、実践に際しての知見を分かち合うことだった。それからアイデアを生み出し、繰り返しトライアルに挑む。どうすれば始められるか、機能するのか、仮説を立てて繰り返し検証する姿に近い。当時は意識していなかったが、誰もがそんな具合だった。 だからこそ、知見を得る、学びとする場が拠り所であり、気持ちの上での支えにもなっていた。「コミュニティ」を得ることをいまだに私が推すのはこんなところからだ。 なぜ、コミュニティか、どのよう
「実現したいこと」と、そのために手にする「手段」の整合を取らねば、まず期待するような成果は現れない。 プロダクト作りにあたってもこのことを念頭に置く必要がある。テニスの試合に臨むにあたって、野球バットを手にしていくようなことが無いように。手にする手段が違っていては、話にならない。たとえ、これまでどんなにバットを振っていて、スイングには自信があったとしてもだ。 プロダクトチームでありながら、「要件」「仕様」という言葉を耳にすることが多い場合、「手持ちの武器による誤謬」に陥っている可能性が高い。 プロダクト作りにおける「要件」とは何か? いつ、だれが、それを決めるのか。まさか、プロダクトオーナー? 「何をつくるべきか?」この問いにプロダクトオーナーも、開発者も、デザイナーも、プロダクトチームのメンバーは全員向き合わなければならない。そこに「要件」という言葉をあてはめているようだと、作ろうとして
2月15日、「シン・正しいものを正しくつくる」と題して発表を行った。 正しいものを正しくつくるとはどういうことなのか? それは「整合を取る」ということではないか。かなめは、既に「正解」があってその正解との整合を取る、ということではなく。整合(する)先自体を自分たち自身でつくり出すこと。 左右の「整合を取る」という軸で内容を一貫してまとめた。 ご案内が二つある。一つは、講演時にアナウンスした「正しいものを正しくつくる部」について。「正しいものを正しくつくる」について語るのは今回、久しぶりなことで、自分でも収まりつけるのが難しいくらいトピックがあった。もう少しこのテーマでレクチャーや議論の頻度を持ちたいと感じた。 そこで「正しいもの正しくつくる」の少しコアな会話が出来る場を作ることに決めた。ただ「研究会」などと称するとやや敷居が高く感じられるので、勉強会と研究会の間くらいのイメージとして言葉選
「スクラムマスター」が果たす役割とは何か。スクラムマスターは「ともにある」ことをその根幹としている。チームとともにある。プロダクトオーナーとともにある。組織とともにある。 チームとともにある スクラムが前提としてチームに期待する「自己管理型」というのはどんな状態か。自分で考えて、自分で動く、ということができることだ。では、それを一人ではなくチームとして立ち振る舞うためには何が必要か。 考えるための機会も、動きを整える働きかけも、その結果に向き合う時間も要る。こうしたことをスルスルとやってのけられるチームは相応の熟達を得ていると言えるだろう。そこに至るまでの間の「ともにある」が求められる。 プロダクトオーナーとともにある プロダクトオーナーは孤独になりがちだ。的を射るゴールの定義と、そのために必要なバックログの整備を牽引していくことが求められる。その中身についてチームと深い理解を共通にする必
書籍で「組織の芯からアジャイルを宿す26の作戦」として、 組織は戦略に従い、戦略は意図に従う という言葉をその一つに挙げた。「組織は戦略に従う」とは、アルフレッド・チャンドラーが残した超有名な言葉だ。ここでは、平常運転時の組織ではなく、昨今のような変化に迫られた時代における組織を前提においている。 これまでとは異なる方向性へと動き出すためには、相応の舵取りが必要だ。従来の延長線を辿っていくだけで、いつの間にか別のところへ到達する、ということはない。どこへどのように向かい、どこには足を踏み入れないのか。組織が動き出すための「戦略」が必要になる。 そして、そうした方針がどこから生まれるかというと、「意図(目的、狙い)」に依る。ゆえに、意図なき組織はどこかへ向かうという動機自体が存在せず、迷走を続けることになる。意図、つまり「芯」たるものを組織の中に見出す、あるいは作り出せるかが、組織アジャイル
どのようにして組織のあり方を変えていくか? 大きすぎるテーマだが多くの伝統的な組織がDXの名の下に一様に取り組んでいる。いくつかの業界と企業を越えて、その試みに伴走していると実に様々な洞察が得られる。複数の組織の営みを俯瞰することで得られる共通と差分。その中の一つには、どのような「突破口」を作るかという観点がある。 どのような立ち上げをどんな組織あるいはチームで行うのか。そしてどのようにその活動を組織内で広げていくのか。目指すところも、出発地点の状態も組織によって様々だ。つまりは、組織の数だけ "DX"、組織変革のジャーニーがあるということだ。そうした多様性の中で、一つ得られている仮説がある。 それは、いかに「芯」を作るかということ。芯とは、探索と適応の発生となる「源」のことだ。これまで踏み込んだことがない領域ににじり寄り、立ち入り、そこでしか得られぬ学びを刈り取っていく。そして、積み重ね
執筆をしていて、時々迷うことがある。 「ソフトウェア開発」と書くべきか、「プロダクト開発」と書くべきか。 手元の行為としては同じでも、この2つの言葉の間には隔たりがある。 何げなく使っている言葉であっても、突き詰めて捉えていくと違いに気づくことができる。言葉を丸めたまま扱うと、それ以上理解が深まることはない。大事なテーマであるほど、使う言葉に気を払うようにしたい。「ソフトウェア開発」と「プロダクト開発」この言葉の違いを、置いている「目的」から捉えてみよう。 ソフトウェア開発の目的とは、ソフトウェアを作ることにある。ソフトウェア開発と称して「作らない」ということは稀だろう。どのようにソフトウェアを作るか、という観点に焦点があたりやすい。ときとして、ソフトウェア作りそのものが「こだわり」へと昇華していく。 一方、プロダクト開発の目的とは、プロダクトを利用してもらうことにある。プロダクトを提供し
今日も今日とて、様々なところで相談を受けている。日本中、そこかしこで課題がある。そんな中で寄せられる一つに「アジャイルができない」という話がある。 話を聞いていくと、アジャイルをやりたいのだけど上手くいかない、という。よくある話だけども、そもそも「なぜアジャイルをやりたいのか」を問うと、ごにょごにょし始めてしまう。 なぜアジャイルなのか? になると言葉に詰まる、あるいは通り一遍のフレーズ「変化に対応できるために」しか出てこない。どんな変化のことなのか、対応とはどういうことか? このあたりが言語化できないと、アジャイルを利用しようとしていて、その実、アジャイルという言葉に使われているだけかもしれない。これもよくある話。いわゆるアジャイルをやることが目的になっている。 そんなんじゃダメだから。すぐにアジャイルなるものの意義を確認しよう。 「だから、アジャイルは手段なんだ。あくまで手段なんだ。ア
デザイン思考(仮説検証)とアジャイルを組織の中心に据えて、あらゆる組織活動をトランスフォームしていく。まさしくDXの中核となる取り組みと言える。株式会社リコーの「みんなのデザイン思考とアジャイル」という発信は、リコーがDXをどう捉えているかを示す一端と言える。 こうした取り組みはリコーにおけるDXのごくごく一部ではあるが、発信の第一歩であるのにはほかならない。今後、日本のDXにおけるリファレンスとなるコンテンツを発信できるよう、noteに限らず努めていきたい。 一方で、こう思う方もおられるかもしれない。なぜ、デザイン思考とアジャイルなのかと。 実のところ、デザイン思考に関する組織を立ち上げているところはあるし、アジャイルに取り組む伝統的な大企業も出始めている。しかし、両者を同時に組織変革の軸に据え、具体的に組織的取り組みを進めているところは少ないのではないか。 DXや組織変革の狙いを「いま
実に350ページを越える大部となっている。相当な厚みだが、くじけずに目を通せば何かしらの示唆が得られる内容になっているので、一読をおすすめしたい。というか、DXに関わる者にとっては必読もいいところ。これを無償で配布するのだから、IPA恐るべし。 まず目次に目を通そう。4部構成になっている。 第1部 総論 第2部 DX戦略の策定と推進 第3部 デジタル時代の人材 第4部 DXを支える手法と技術 総論の第1部と、具体としての第2部をあわせると100ページほどで、ここは必ず読んでおきたいところ。第3部は人材育成、第4部はDXのコアとなる技術に関する記述なので、関係が深い人はやはり読んでおきたい。 この白書の白眉なところは、徹底した「日米比較」を行っているところである。数多くの観点について、徹頭徹尾日本と米国での比較を示している。これが非常に分かりやすく、いかに日本のDXが水をあけられているか、こ
「組織のアジャイル化」を実績として語れるというのは実に大したもので、人様にそう言ってのけるには相応の勇気というか、背負っているものがないと言えたものではない。 そもそも、組織という言葉自体が既に範囲不明確(1チームでも組織)で、「アジャイル化」という分かっていそうでたぶん分かってない言葉で表現してしまっていたりすると首を傾げざるを得ない。 というわけで、Validationのための質問を考えてみた。 「アジャイルとは何か?」 どの切り口でのアジャイルの話をしているのか。プロセスとしてのアジャイル、チーム活動としてのアジャイル、組織としてのアジャイル、価値観としてのアジャイル。様々なレベルのアジャイルという言葉が用いられる。そもそも、あなたの言っているアジャイルとは何か。どこかの本の引用ではなくて。どんな言葉でアジャイルを表現するか。最初から実は難しい問い。 「"組織のアジャイル化"として、
伝統的でかつ大きな組織で、アジャイル開発を広げていくためには? 難しいテーマで、必ずといって良いほどに直面する。様々な考え方があるが、何周か回って、私は「ガイドを作る」を推奨することにしている。 ガイドと聞いただけで眉をひそめる人もいるかもしれない。私も、ガイドなんかで表現できるものではない、かえって安易な理解に留まってしまう、と考えていた方だ。 しかし、アジャイル開発に限らず、何をするにしても最初のまとまった足場的知識が無ければ、スタートを切ることさえできないのも事実。もっというと、足場的な理解とは当事者だけ得られば良いわけでもなく、同じように組織内の他者にも一定分かってもらう必要がある。そうでなければ組織として動くことができない。 だからこそ、スクラムガイドがある。いくつかモダンなアジャイル開発の入門書もある。そう、まずもって、アジャイル開発に取り組むのであれば、スクラムガイドを読むの
世の中の受発注によるソフトウェア開発には、両極端がある。一つは、「誰もいない開発」。もう一つは、「おまとめしておきました開発」。 全員集合なのに「誰もいない開発」 「誰もいない開発」は、プロジェクトや開発の進め方をどうしていくべきか、誰一人考えられていない状況のこと。いろいろと「こうすべし」「ここが課題だ」と意見だけは出てくるが、主体的な行動が取られることは無い。 業を煮やした発注側の指摘も、受注側のテコ入れ人材の指摘も、会議で波紋は呼ぶが、少し揺れて消えていく。いずれにしても、行動に落ちていかないため、言葉として宙をしばらく漂うだけ。「前回のあれどうなった?」で場には、再び波紋が広がるが、大した結果には繋がらない。 結局は身をもって引っ張っていくような人物が出てくるまで、状況は変わらない。どれだけ発言があったとしても、行動に落とし込むまでは。言葉だけ重ねても状況は一歩も進んでいかない。
「とりあえずやってみる」 この言葉自体は正しい。むしろ、こうした姿勢がないから、「事前にすべてを見通すこと」を善とするあり方を取ってきてしまったから、日本の現代企業の苦しさがある。 考えて続けても結論がでないことは、ひとまずやってみる、一歩踏み出してみる、それによって状況の変化があり、新たな情報、つまり理解を得ることができる。これが「やってみる」の意義。何をやったらどうなるか分からない、現代においては有力な選択肢といえる。 だが、「とりあえずやってみる」は苦し紛れでも、精神論でもないことには留意したい。あくまで「新たな理解を得るため」の選択肢であるということ。つまり、意図した作戦と言える。 「とりあえずやってみる」は思考を止めて「とにかくやってみる」とは違う。やってみることで、何を得たいのか? やってみたらどうなるのか? そもそも、やってみる他に選択肢、作戦はないのか? に考えを巡らす。(
「アジャイル開発を組織で認めてもらうためにはどうしたら良いか?」という相談をいまだ受けることがある。日本におけるアジャイル開発は、マジョリティ層に到達している、というのが私の肌感だが、それは同時に先の悩みに直面する人達がまた増えるということでもある。 そういう方に向けては「そもそも事業やプロダクト開発をどうやるか?」からの「仮説検証」の前提性を説くと良い。仮説立てて、検証する、そもそもこうした活動が組織にとってどう判断されるか。 10年、5年前と違うのは、デジタル・トランスフォーメーションを良い意味で傘に着られることだ。DXを本気で進めようとする組織で「仮説検証」の不要論が持ち上がることはほぼ無い(もしそうなった場合は、DXの捉え違い問題が発生していることになる)。 「仮説検証」が事業活動に取り入れられていない場合、2つの種類の失敗が起きうる。「採用の失敗」と「却下の失敗」だ。前者は、勘と
新しい事業アイデアを育てるプログラムで、どうにかひねり出した仮説を経験豊富な上層部からコテンパンに叩きのめされる。珍しいことではない。よくある構図だ。プログラム伴走をつとめると、こういう局面を必ずといって良いほど目の当たりにする。 あいまいで、何も筋道がみえない中で、それでも仮説を整えて、どうにか最初の段階を乗り越えようと(この手のプログラムはステージ制の設計が織り込まれる)、手がかりを掴んで審判の場に臨む。そこで、即時ノックダウン。3カウントさえ要らない。むしろ早くリングから助け出した方が良いのではないかと思えてしまう。 洗礼の内容としては至極もっともで、正しい。さすが、年の功というべきだ。長年の領域であれば経験に裏打ちされた、確かな教えが洪水となって溢れでてくる。自分の知っている正しいことで、自分の認識している自分の役割(未熟なアイデアをバウンスするゲートキーパー)を果たそうとする。
ところによっては「兼任(あるいは兼務)」の問題が深刻になっている。ある勉強会をきっかけに、兼任の難しさ、なぜ兼任が増えているのか、について有志と議論を行った。 ここでいう兼任のイメージは、1人で複数のプロジェクトでの役割を持つこと。なおかつその役割の間で兼務しなければならない必然性が低いような場合の話だ(兼務したほうが効率が良くなる、然るべきケースではない)。 昔は兼任問題よりも「火消し問題」 はじめてこの辺の事情を耳にした際、意外な思いがした。過剰な兼任の問題は、以前はそれほど顕著にはなかった。5年前、10年前と遡ってみたが、強い記憶は残っていなかった。むしろ、「火消し」問題のほうが多かった肌感だ。 プロジェクトが炎上してきたため、単純にパワー不足を補うため、あるいは特定の専門性を提供するために唐突にアサインされてしまう。そうした火消し役はストレスやプレッシャーを大きく受けるところがあり
先日、「はじめてのアジャイル開発で、はじめてのプロダクトオーナーをつとめる」という方々と立て続けに仕事をすることがあった。DXの文脈ではこうした状況に直面するのは珍しいことではない。そもそも組織としてはじめてアジャイル開発の取り組むのだから、プロダクトオーナーなんて役割も誰が担ってもはじめてになる。 はじめてのプロダクトオーナーに伝えたいことを、絞りに絞って整理した。書籍「正しいものを正しくつくる」の4章で書いたとおり、プロダクトオーナーに求められることは数多くある。すべてを一度に整えるのは、相当に困難である。いわんや、エンジニアリング知識が無い人が臨むにあたっては尚更のこと。 この中で、プロダクトオーナーが持つべき原則というのをまとめた。 ・決める→会話する→確認する→フィードバック ・アリの目、トリの目 ・現実に計画をあわせる ・現物を確認する ・経験主義 ・目的から始める ・疑問をそ
「リモートワークでどのようにしてアジャイルにやるか?」 このテーマ設定に取り組む組織や現場は、従前のDX(デジタルトランスフォーメーション)の流れからこのcovid-19の発生によって、より差し迫った適応を求められたに違いない。 リアルの場でも、噛み合った仕事になるか分からないところに、それぞれの場所も分断して、臨む。仕事の方法をより難しくして、挑戦するような感覚だ。そうした現場や組織の懸念に伴走して取り組むことに、このところ力を入れている。 ただ、この命題を現場とともに取り組んでいると、妙な違和感を同時に覚えることがあった。いわゆる「アジャイルはやり方ではなく、あり方に本質がある」という「not do Agile, but be agile」の精神への不一致感もあるが、それだけではない気がした。 ある時、リモートとDXの共通点に気がついた。両者とも要は「分断」を扱っているのだ。リモートは
discordはslackに比べて状況をつくる手間がかからない この1ヶ月で私自身が主管しているslackはほぼdiscordに移行した。特別な事情が生まれない限り、このまま運用が楽なdiscordを使っていきそうだ。例えばslackと違って、チャンネルにいちいちinviteする必要がなく、全員全チャネルを同時に閲覧できる。見る必要がないものは個々人がミュートすれば良い。 仕事柄、プライベートチャンネルを作ることが多いのだが、無料のままのslackだと組織という概念がないのでいちいち、一人ずつ必要な人をinviteする必要がある。discordはロールという概念があり、ロールで見れるチャンネルを指定できるためとても楽だ。 それから、voiceチャンネルの使い勝手の良さは、zoomを凌駕している。zoomを開いて、urlをコピペして、相手に連絡して、ミーティングを始める。たったこれだけでも、
ウォーターフォールからアジャイルへと変遷したチームが、さらに「全員リモートワーク」の状況に移行した場合、どのような問題に直面するか。おそらく多くのチームで、意思疎通が上手くいかなくなる。物理的に場所を隔てるようになったのだから、当然の問題? まあ、そうなのだけど、問題の芯を捉えなければ、解決策を誤りかねない。ウォーターフォール、アジャイル、リモートワーク、それぞれのスタイルでどのようにして情報の受け渡しをしているのかを考えよう。 ウォーターフォールの狙い そもそもウォーターフォールとは、あるタスクに特化したフェーズ(工程)を設けて、リソースの集中による効率化をはかる作戦と言える。フェーズ毎に必要な能力を宿したメンバーを配し、まとまったアウトプットを必要十分な期間で仕上げていく。アウトプットをフェーズ間で受け渡し、フェーズを繋げていくことで最終的な成果物を完成させる。各フェーズの活動の中心に
いよいよリモートワークが増えてきた。年季の入った組織でも、なし崩し的に(備えなく)、全員フルリモートへ突入、という潮目になってきている。現場、組織運営としてはここから正念場に入っていくことになるだろう。 私も6年フルリモートワークの会社を運営してきたが、どちらかというと1日中現場を回っているか、ミーティングをこなしているかが多く、1日中自宅に座り続けるということがなかった(だから今回紹介するようなツールがの必要性が低かったのだ)。今は、1日自宅に座って、自宅からミーティングを開催したり、ワークをしたり、というモードに移行してしまっている。 そうした状況に変わると、他人とのコミュニケーションコストの高まりをどうしても感じてしまう。slackはあるが、テキストですべてを文字化してやりとりするのは現実的ではない。口頭のコミュニケーションもはさみたくなる。だから、まず時間が空いているかslackか
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