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大そうじへの備え
mojimoji.hatenablog.com
いやー、アキヒトさん、いいこと言ってますね。でも、いいことなら詐欺師でも言うのであって、むしろ大事なことは「言わなかったこと」「なかったことにしてること」「無視したいと思っていること」の方にありますよね。感動してしまった皆さんにおかれましては、その点に留意してよくよく会見の全文を読み直すことをお勧めします。僕などは、今回の会見があまりによく演出されてるので、その底知れない悪意の深さに寒気しましたよ。今年最大級の気持ち悪さ。 1.アキヒト発言に書かれていないこと 以下、アキヒト発言にコメントを付してみたいと思います。 ◆自然災害への強い関心、人災への並外れた無関心 冒頭、今年の災害を振り返る言葉について。僕などは、「想像を絶する自然の力」と共に「(赤坂自民亭をはじめとする)政権を担う権力者たちの鈍感さ、無責任さ」がとてもとても強く印象に残っています。なんなんでしょうね、この「なかったことにす
選挙が終わるや否や、安倍が全国の機動隊を高江に派遣し、現地が騒然としていることは皆さんご存知のことと思います。まぁ、なんともえげつない話です。野蛮な国だと思います。警察が国家権力の忠実な手足となっているわけです。 ところで、警察がこのように国家権力の犬となってしまっては、困ります。警察には政治的中立性が要請されるわけです。そこで、警察に対して管理・監督する行政委員会・公安委員会が設置されていて、警察に対する苦情を受け付けたり、諸々そういう仕事をやっています。……もちろん、事実、警察は国家権力の犬そのものなわけです。なぜか。公安委員会がまともに仕事しないからです。 公安委員会の仕事の一つに「警察庁や他の都道府県警への応援要請」というのがあります。問い合わせた人によると、警視庁は「沖縄県警の要請に応じて派遣している」とのことですが、正確には、沖縄県警が直接に要請することはありません。沖縄県公安
栗原康『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』を読みました。 現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す (角川新書) 作者: 栗原康 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店 発売日: 2015/08/10 メディア: Kindle版 この商品を含むブログを見る たぶん、普通の人が普通に読んだら「テロリズムを礼賛する危ない人」にしか見えないと思います。実際、アナキズムの研究者である栗原氏は、研究会後の懇親会などで、そういう前提のいじわるな質問を度々されているようです。 で、本書を読んでみると、実際ヤバイ。ヤバイ匂いがプンプンする。本人もそれを隠しもしない。僕などは、そこがまた潔いと感じてしまうのですが、引いてしまう人の方が多いのではないかと想像します。ここまでテロリストに共感的に随伴する書物は他にないと思いますので*1。 このようにとてもヤバイ雰囲気の本ですが、だからこそ、次の認識に
まずは、関連リンクの整理。 鄭玹汀「SEALDsについて」 https://www.facebook.com/permalink.php?id=100004420802283&story_fbid=480331362124220 SEALDs綱領の該当部分 http://www.sealds.com/#opinion の中の三つめ。NATIONAL SECURITYの部分。 高橋若木氏による反論 https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1412446015750101&id=100009541482871&fref=nf&pnref=story 僕としては、鄭玹汀氏の批判は的を射たものであり、SEALDsのみならず、日本全体で受け止めるべき大事な論点を提起するものと考えています。その点について、高橋若木氏による鄭玹汀氏への反論を検
以前から「やばいやばい」と言われていた刑事訴訟法改正法案が3月13日に閣議決定され、今国会に上程されているようです。この件について、去る3月26日に山本太郎参議院議員(生活の党と山本太郎となかまたち)の質疑がありました。見ると、これがまた改めてやばい。いくつか補足情報を加えて、紹介したいと思います。 まず、これまでの経過を簡単に整理しておきましょう。2009年に発生した(厚生労働省の村木厚子氏を被疑者とする)障害者郵便制度悪用事件の関連で、検察官による証拠捏造事件が発生。これをきっかけとして法務省で「検察のあり方検討会議」がもたれ、検察改革が議論されました(2010年11月~2011年3月)。その後引き続き、法務省法制審議会で「新時代の刑事司法特別部会」がもたれ、刑事司法制度全体に対象を広げ、議論されました(2011年6月~2014年7月)。 経緯からわかるように、「証拠捏造による冤罪(未
憲法96条改正論議や解釈改憲という暴挙に象徴されるように、為政者自身が憲法的価値をまったく尊重しない。そんな異常な時代に、哲学者・高橋哲哉と政治学者・岡野八代が「憲法」をめぐって対話する。これは読まないわけにはいかないでしょう、という企画ですね。 憲法のポリティカ―哲学者と政治学者の対話 作者: 高橋哲哉,岡野八代出版社/メーカー: 白澤社発売日: 2015/03/07メディア: 単行本この商品を含むブログ (1件) を見る まずは内容紹介からしておきますと、全体は三部構成で、安倍政権下の現状を批判していく第一部、そこから憲法論を深めていく第二部、そして(安倍政権批判を超えて)さまざまな思想的課題に挑む第三部、という流れになっています。 話題は多岐にわたるのではありますが、憲法をめぐる中心的な論点として二つを拾えるかと思います。一つが9条。いま一つが天皇制。それぞれ整理してみたいと思います
まず取り上げるのは、一つのコメントである。「『判断の正しさ』について」の中で「ニュートンはまちがってましたけど」と記述したことに対して、「ニュートンの理論は適用範囲が狭まっただけで間違ってなんかいない」という(本人が信じるところの)「ツッコミ」が入った。大変興味深いコメントだと考えるので、以下、検討の俎上にのせてみたいと思う。 一般的に、言葉は多義的である。それも「一つの語が互いに異なる複数の意味で使われる」というだけでなく、同じ用法に属する場合であっても、文脈によって意味は大きく変わることがある。これを「文脈依存的な多義性」と呼んで区別しよう。その上で、私が書いた「ニュートンはまちがってましたけど」という記述に含まれる「まちがい」の意味は、幾通りかの解釈の可能性がある。 最初に簡単な区別をしておこう。一つの解釈は「ニュートンの理論は、常に、偽なる予想を導く(A)」という意味で「まちがい」
実は、震災がれき問題に関わっている間、「震災がれきを燃やすことは危険ですか?」という質問に対して、「危険です」と答えたことは一度もない。この直截な質問に対しては、原則として「わからない」と答えてきた。それでは、僕は何を問題にしてきたのか。安全性と必要性を問題にしてきたとは言えるが、正確に言えば、「政府の言う『安全です』『必要です』との主張の根拠には合理的な疑いの余地がある」ということだ。そして、政府が示している論理と証拠に対して、一つずつ丁寧に疑問を投げかけていった。環境省はおよそ何一つ答えなかったし、答える意志もなかった。 言うまでもないが、「危険です」と答えることと「(安全か危険か、危険だとしてどの程度危険か)わからない」と答えることの間には大きな違いがある。もちろん、「安全です」と答えることの間にも大きな違いがある。僕の立場は、実際に何が起こるかはわからないし、この点で確信的に言える
「判断を誤った」ことを制裁の対象にしていくと、頑として誤りを認めない、誤ったことを隠す、そういう体質にどんどんなっていくと思っています。つまり、判断の結果に注目することは、問題を大きくしてしまう。そうだとするならば、代わりに、どのように考えればよいのでしょうか。 そもそも、判断とは、判断の「正しさ」とは何でしょうか。 ニュートンはまちがってましたけど、それでも、彼の理論が土台となってアインシュタインやその後の理論が生まれてきたとは言えると思います。間違っても「正しいと信じられること」を言葉に、形にすること、それが私たちの世界に対する認識を進歩させてきました。逆に、あてずっぽうで結論だけ言い当てることができたとしても、そのことに何か意味があるでしょうか。少なくとも、次なる判断に生かしうる知見を何ももたらしていないという意味で、まぐれ当たりの正解には何の価値もありません。 正しいか間違いかで言
僕は、常々、できるだけわかりやすく語りたいと考えているし、できるだけおもしろく語りたいとも思う。耳を傾けてほしいからだ。しかし、もちろん、わかりにくくても大事なことに、おもしろくなくても大事なことには耳を傾けてほしいと願っている。 後者のメッセージはほとんど伝わらない。このメッセージを受け取ることは、多少の面倒くささをもたらすからだろう。気付かないのか気づきたくないのか、とにかく、この部分のメッセージはほとんど届くことがない。 ユーモアをもって語ることは、確かに、社会を大きく変えることがある。しかし、「ユーモアをもって語られていないことに耳を傾けない態度」、ここだけは頑として変わらなかった、変えることはできなかったのではないか。思い起こしてみてほしい。この社会で語られた本当に大切なことの多くは、本当に本当に痛切な思いで語られていて、聴いているだけでつらく苦しく胸が痛むようなことではなかった
同じ話なら、できるだけわかりやすく話した方がいいと思うし、そのように努力することは大事だと思う。ただ、だからこそ、聞き手である人々は、わかりやすさの危険性について、もっと具体的に考えておいた方がよいと思う。 人は、気づいていないことには、気づいていない。そのことに気づくことは、決してわかりやすいことではない。ちょっとした違和感を感じて、少し足踏みをするように考えて、ジワジワとの気づいていなかった「何か」の姿が見えてくることもあれば、あるヒラメキとともに「何か」が見えてくることもある。いずれにせよ、「気づき」と「わかりやすさ」は別のものだ。 だから、次のことに注意する必要がある。もし、あなたが「わかりやすさ」を基準にさまざまな知識や考え方を求めているなら、あなたの気づいていないことに気づかせる「何か」に出会う可能性は、その分だけ、低くなる。 この「何か」は、まだ気づいていない盲点にある、とい
占領下パレスチナを題材にしたドキュメンタリー映画「プロミス」にて。映画の中で、イスラエルとパレスチナの両方の少年たちが、一日一緒にサッカーをしたりして仲良く交流する。その後で感想を聴くシーンで。イスラエルの少年が交流を通じての和解の可能性を語っていたのに対して、パレスチナの少年は別の感想を抱く。「仲良くしたい。でも、仲良くしちゃいけない気がする」、文言は正確ではないが、パレスチナの少年はそのようなことを言った。 当時、「イスラエルの少年は寛容だけど、パレスチナの少年の方がよくないね」と感想を言った人もあって驚いたけれど、もちろん、これはそんな話ではない。パレスチナとイスラエルの間を隔てる検問所。分離壁。イスラエルによってほとんど一方的に振るわれる暴力の数々*1。それらの非対称な関係をどちら側から見ているのか。それが少年たちの発する言葉の違いに現れているのだろう。問題は仲良くするかどうかでは
今日、新宿駅で、安倍政権による集団的自衛権容認への動きに抗議して、男性が焼身自殺を図ったという。その後、亡くなったという話は聞いていない。とにかく命をとりとめたなら、そのことは良かった。 「焼身自殺(未遂)」という行為を、持ち上げることも貶めることもしたくない。自分もやりたいと思わないし、他の誰にも真似してほしいとも思わない。しかし、少なくとも言えること、言わなければならないことがいくつかあると思う。 当たり前のことだが、男性が「身を焼いた」ことは、男性の主張が正しいことをまったく意味しない。関係がない。しかし、私たちは重々承知しているはずだ。安倍が進めている集団的自衛権容認への手続きは、ありとあらゆる嘘とゴマカシに満ちており、今すぐやめるべきだということを*1。つまり、男性が身を焼いた事実とは無関係に、男性の安倍政権への批判は、正しい。 にもかかわらず、この正しさ=安倍政権の欺瞞をめぐる
塩村都議の過去のテレビ出演歴や発言が取りざたされている。そもそも、このタイミングでそれらの事実について論評することすらはばかられる。言うまでもなくそれは犠牲者非難=二次加害に他ならないから。 それは前提として、それでも塩村都議の過去を問題にするのであれば、女性性を徹底的に商品化する社会の性差別性と切り離して語ることなどできはしない。そのような構図を生み出しているのは、まさに件の野次を容認している社会そのものだということに気づかないわけがない。 また、過去を問題にするなら、同時に現在をも考慮に入れるべきだ。差別野次を投げつけられた質問で塩村都議が取り上げたのは、喫煙問題であり、動物の殺処分問題であり、女性問題だ。これらを正面から取り上げてきちんと報じることこそ、政治と関係のない過去の発言を取り上げるよりはるかに優先されるべきことだろう。 ほんの少しだけ週刊誌に同情するとすれば、これらメディア
「美味しんぼ問題で編集部「批判受け止める」と見解 次号から休載へ」 http://www.sanspo.com/geino/news/20140516/sot14051620000006-n1.html かなり恣意的な見出しの付け方だと思います。 「圧力を受けて休載」という印象を与えることを狙ってるんじゃないかと。 最近の漫画雑誌では、大きなエピソードが終わると取材その他のために比較的長期間休載するケースは珍しくありません。ヤングジャンプの「Liar Game」は最近再開されるまで1年ほど休載してましたし、かなり長い休載もよくあることです。 「美味しんぼ」でも、福島編のエピソードが終わったら休載するのは、むしろしない方がおかしいし、このエピソードは相当エネルギーを注いで描いてたはずなので、休載も少し長めになるのも、僕からすると納得のいく話です。そもそも、あの福島編を描いた後に、どんなグルメ
「美味しんぼ」が明らかにした論点は、鼻血が科学的にどのような意味を持つかという点だけではない。 行政が、自覚症状の訴えに関する系統的な調査をまったくしていないこと。そもそも、がれき焼却にせよ低線量被曝にせよ、危険性を明らかにするような調査は原理的に困難であること。そのことを承知の上で、がれき焼却を強行し、除染の効果を検証もせず、性急に汚染地域への帰還を推し進め、汚染食材の流通を野放しにする等していること。これらの重大事項が、「美味しんぼ」で紹介されている大阪の母親たちの聞き取り調査の方法論に関する科学的な批判と同列に並べて良いものかどうか、真剣に考えるべきだ。 僕は大阪のあの調査を根拠として何か科学的な主張をするつもりは、少なくとも当面はまったくないけれど、しかし、あの調査の不十分さを批判する資格のある人間は、少なくともこの日本にはいない、このことは断言する。仮に批判をするならば、その数百
さて、村上春樹。>村上春樹さん、ノルウェーで講演 執筆も「ワクワク」@asahi.com 主人公が、月が二つある現実がねじれた世界に紛れ込む物語「1Q84」の発想について聞かれ、9・11テロを引き合いに出し、「ビルが破壊される映像は完璧(かんぺき)すぎてコンピューター・グラフィックスのようだった。この世界とは別のところに、違う世界があるにちがいないと感じた」と説明。「9・11が無ければ、米国の大統領は違う人になり、イラクも占領しない、今とは違う世界になっていただろう。誰もが持つ、そうした感覚を書きたかった」と話した。 まぁ、ペラいよね。世界的な小説家であるとは信じがたいほど。昔、エルサレム賞スピーチを擁護した経緯もあるので、落とし前をいくつかつけておく。 9.11の衝撃 僕も9.11のときには衝撃を受けた。ハルキと似たような衝撃もそこには含まれていたことは認めるが、それは最初の2、3日だけ
表現の自由に関して。しばらく前に書いた記事。>http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20100805/p1 この話題に触れるときにしばしば強調していることだが、ヘイトスピーチの問題は規制では収まらない。これはほぼ確実に言える。ヘイトスピーチに表現される類の欲望を抱えた人間は、表現の自由があればそれを使って、それが制限されているときにはその制限の範囲内で、同じことをやろうとするだろう。これは究極的には、人間の問題なのだ。 ただ、それでもヘイトスピーチ規制に意味がありうるのは、この社会はヘイトスピーチを投げつけられる側のカタを持つのだということが明確な形で示されるということだ。それは、これまでヘイトスピーチによって押さえつけられてきた側の発話を引き出す効果を持つだろう。そのような言論空間の再編成の中で、それぞれの認識が深められ、なにより、「ヘイトスピーチをするような連中
表現規制の話で。 表現規制において踏みにじられる個人の表現の自由と表現の自由において流通するヘイトスピーチ*1に踏みにじられる個人の尊厳に関わる自由とで、どちらかを優先すべきとするアプリオリな序列づけはできない。まず、このことは大前提。このことを踏まえない議論は全部ダメ。 両方の自由に等しい重みを与えようとするなら、目指されるべきは両方の自由であり、そのためには表現の自由だけでは絶対に足りない。仮に、表現の自由自体には制限を加えないのであれば、両立のために「表現の自由」を使うこと、すなわち「ヘイトスピーチに実際に反対すること」が必要である。それも、そのターゲットになる人たちが十分な安心感と尊重が感じられる程度に大きな規模で。 つまり、(誤解したがる人が誤解するだろう表現を使うならば)、表現の自由はある種の義務を伴わざるをえない。ただし、この義務は、果たされなくても罰せられることのない義務で
id:the_sun_also_rises 敵と味方。二元思考。左派に多い論調だ。今回左派の主張は実現しなかった。彼らは失敗からなぜ学ばないのだろう。粘り強いではなく頑迷。理想論ではなく教条的。現実を少し分析し取入れれば違う将来もあろうにと思う*1 これはこれでよくある論調だな。 政治的な争点をめぐって「二分法」を使わずにどのように考えることができると言うのだろう。今回の件で言えば、「辺野古案に賛成か、反対か」、そのような二分法を用いて状況を整理することは必要不可欠なことでさえある。問題は、二分法それ自体ではない。 もちろん、「二分法」といってもさまざまな分け方がある。だから、ただ一つの分け方だけを特権的に論点化し、「より重要な」他の分け方を隠蔽するように用いるのであれば、そこには問題がある。たとえば、「鳩山首相の退陣に賛成か、反対か(A)」という二分法を強調することで、「辺野古案に賛成か
普天間問題全国知事会 首相と出席知事の主なやりとり@asahi.com。 橋下が一人、大阪での受け入れ可能性に言及したとかの件から。 本記事とは関係ないけど、本日もっとも重要な国際ニュース。>ガザ支援船をイスラエル軍が強襲、10人以上死亡 トルコ強く抗議 橋下徹・大阪府知事 沖縄県などの犠牲の上に、大阪府民は安全をタダ乗りしている。普天間問題がクローズアップされ、チャンスだ。小学校の子どもですら、この問題を考えるようになった。ただ、自治体が動いても、米国からダメだと言われると動けない。2006年の米軍再編のロードマップを履行し、政府が第2段階の基地負担軽減というときに話を振ってもらえれば、できる限りのことはする。必要があれば、沖縄のみなさんにお願いをしに行き、大阪府民として申し訳ございませんと言いたい。 前々から思うのだが、橋下が言及している「受け入れ」とは「訓練」のことであって、基地その
Arisanの分析。>「排除する政治」@Arisanのノート ここに続けて。 元々、民主党というのは寄り合い所帯で、統一的な政見などない。個々のメンバーは民主党そのものの党勢を考えるようにはできていない、つまり、民主党内の保守層が「党利党略を超えて」、社民的なものを政治の場から排除するべく画策した、と考える必要がある。民主党右派というのは、その路線を実現するために、民主党左派の存在を仮面として、まるで社民主義的なもの「も」代表するかのごとく擬態しているだけだ。 ともかく、辺野古回帰案のような暴挙が出てきた以上、社民党としては罷免されるまで抵抗→連立離脱は鉄板。連立に未練を残すようなスタンスこそが、ここでは害悪だろう*1。その上で、現在のターンに注目すべきは、民主党左派のグループだろうと思う。 で、以前から危惧していることなのだが、民主党左派のほんとどはシングル・イシューの人だというところ。
たぶん、一連のトラバとか、批判ブコメとかに答える、ことになってると思う。ブコメやトラバはいちいち真面目に読んでませんが。 「台湾侵攻に合理性がない」ことは共通認識 「中国政府が台湾に侵攻する合理的理由は存在しない」という指摘に対する批判のほとんどが、「中国政府が合理的に行動するとする保証はない」というものだった、というのは、かなり興味深いことではあるね。もちろん、政府の統制を離れて軍部が暴走する、という類のことが絶対起こりえない、とは言わないけれども、「可能性はゼロではない」という程度のことは、相当に荒唐無稽な話についても言えるのであって。少なくとも、たとえば、「資源確保」という合理的理由がすぐに思い浮かぶチェチェンやイラクのケースなどと比べて、遙かに戦争になる可能性が低い、ということは言えるだろう。 で、前回の記事でもそうだけど、僕は「荒唐無稽な話だから備える必要がない」などとは述べてい
なぜ普天間基地移設先は沖縄県内でなければならないのか この人、軍事に詳しい人、とされてる人ですよね、一応。なーんなんだろ、この妄説は。 米海兵隊の戦略と沖縄 マジレスすると、海兵隊にとって重要なことはヘリや支援戦闘機、揚陸艦、上陸部隊が一体となって行動できること。その意味で言えば、佐世保の揚陸艦艇、岩国の支援戦闘機などと一体運用するためには、民間の飛行機がほとんど使ってない佐賀空港あたりにでもヘリ部隊を移し、付近に上陸する地上部隊の駐屯地を作るのが一番いい。九州には自衛隊の演習場も多くあり(大分など)、米軍にとっては願ってもないロケーションだ。ついでに言うと、北朝鮮までの距離も半分になる。文句のつけようがない。戦略戦術をいうなら、断然九州。 地政学的に沖縄にあることが重要といえそうなのは、嘉手納基地(空軍)くらいでしょう。海兵隊については、沖縄にある必然性はまったくないどころか、分散配置の
中間集団に所属することと(その中間集団を批判することも含めて)個として生きることは両立する。両立しない、と言うなら、それは「反日は日本を出て行け」の類の頭の悪さ以外ではない。 言うまでもなく、私はさまざまな集団に所属し、その集団の威を借りて生きている。これは当たり前のことだ。人は、たまたま生まれ落ちた場所にあったあらゆるものを使って生きようとする。それも当たり前のことだ。というより、人が在ることの条件そのものだろう。で、僕が常々主張していることは、それぞれの集団の中において、それぞれの集団の外に対して、個として突っ張り通すことを外して考えることはできない、ということだ。 右でも左でも、こういうことがさっぱり理解できない人というのはいる。たくさんいる。でもまぁ、いちいち驚くよりは、いちいち指摘する方が生産的だと思うので記しておく。さすがにウンザリはするわけだが。 自由で自立した個人なんて、一
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091117 http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/lever_building/20091117 あまりまとめずに書く。──わざわざ説明するのも興がそがれるけれど、「「時間厳守」はみんなのもの」とは、「みんなの義務」という程度のことを言っているのではないし、「みんなが守ればみんながハッピー」などと言っているのでもない。 自立生活してる障害者の介護に入っていたのだけど、介護者が交代の時間を守らないと、あらゆる人の予定が狂う。場合によっては、命に関わる。不測の事態というのはいくらでもあるので(そして、それぞれの人のメンタルの問題も含めて、不測の事態というものを相当程度広く取ることも必要だということは認めた上で)、それに対処するためのある程度の余裕は作っていく方がよい。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20091023/1256241079 http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20091006/1254813776 では「まさか宗旨替え?」と一瞬思ったけど、sk-44さんはsk-44さんなのであった。ちなみに、sk-44さんを特徴づけているのはある一つの断念であり、僕を特徴づけているのはその断念の拒否だと僕は思っていて、だから議論はいつも同じところをグルグルまわる。なんどもまわっているうちに見えてきたことも、多分、ある。 問題は自己欺瞞にある。だから、それを叩くのだけれども、しかし、自己欺瞞があるからこそ人は生きていける。そういう側面があることを知らぬわけでもない。そのことに積極的に言及したことはないけれど、僕にせよ日常を日常として生きていることは機会あるたびごとにいつも述べてきたのだから、それを無視してきた、と
http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091017/1255715610 僕のコメント http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091017/1255715610#c1255740544 それへのレス http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091017/1255715610#c1255859662 以上のやり取りに対して。 構造的暴力が個々人に起因するか。起因するかしないかは事実の話であり、その起因のありようを把握できるかどうかは認識の話であり、そこに責任を問うかどうかは規範の話ですし、責任を問うとしてその問い方は技術的な話であって認識の話などとも関連します。いずれにせよ、ごちゃまぜにしないでください。 実際問題として、「その起因のありようを把握」すること=認識が著しく困難だから、強制
「知の権力」ですか。> http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091008/p1#c1255838841 > id:kurahitoさんのコメント 追記:TBを受けて、末尾に。 「知の権力」というのは、いかにも形容矛盾な感じがしますね。「知」が「知」と呼びうるものであるならば、「右」ならば「右」としか言えず、「右」とも「左」とも言える恣意性の働く余地はないからです。たとえば、「共に生きる」ならば「分ける義務」が論理必然的に出てきます。「共に生きる」と「分ける義務の否認」は、どうやっても両立しえないし、両立するとしたら、それは「知」と呼びうるものではないでしょう。 一般に「知の権力」と呼んで批判されるのは、たとえば、「共に生きる」と「分ける義務の否認」を「知」として流通させることのできる権威であり、権威を支える制度です。重度障害者の「分配せよ」に対して「財源がない
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