モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

構造的暴力と個人の責任

 以上のやり取りに対して。


 構造的暴力が個々人に起因するか。起因するかしないかは事実の話であり、その起因のありようを把握できるかどうかは認識の話であり、そこに責任を問うかどうかは規範の話ですし、責任を問うとしてその問い方は技術的な話であって認識の話などとも関連します。いずれにせよ、ごちゃまぜにしないでください。

 実際問題として、「その起因のありようを把握」すること=認識が著しく困難だから、強制力を伴った形で責任を要求することは困難ないしほとんど不可能となります。自由な社会を維持しようとすれば。

 ただし、起因している、という事実はあります*1。その事実を前にして、それぞれがそれぞれに自身の引き受け方を考えるしかない。考えない人には、呼びかけて、考えていただくしかない。ただし、各自勝手に考えてそれで終わりではなく、結局のところは構造的暴力が解体されない限り私たちの責任はそこにあり続ける、ということは最低限確認されるべきでしょう。だから、それぞれになにがしかは引き受けることを呼びかけていくし、それしかないわけです。その意味で、徹頭徹尾、「個人」に問うしかしょうがない話です。

 たとえば、いじめのような卑近な構造的暴力において、それを解体するためには、結局のところ、その集団を構成するメンバー一人一人に、自発的な引き受けを要請するわけです。自発的な引き受けを互いに呼びかけ合う公共圏が要請されるわけです。

 sionsuzukaze氏が引かれている南北問題についてもそうでしょうし、貧困問題だってそうでしょう。かたや飽食、かたや飢餓、そういう状況があるなら、それは直ちに構造的暴力です。それは、制度や文化などの構造と個々人の行為の両方に起因しますが、制度や文化などの構造も個々人の行為や黙認の結果なのであり、結局のところは、個々人の行為に起因するとしか言いようのないものです。ただ、繰り返しになりますが、その責任を強制力を伴う形で問うことが、ほとんど不可能だ、という話であって。それでも、構造的暴力が存在する限り、それに対する責任はさまざまな位置にいる個々人に、さまざまにあるでしょう。


 それでもなお、公共圏が機能せず、個々人が構造的暴力に対する責任をネグり続けるなら。困難だろうがなんだろうが強制力を使うしかない、という「自由な社会」そのものへの卓袱台返しが出てくるのは当然でしょう。僕はそれが嫌だから、うるさいことを言い続けるわけですけどね。だからこそ、あなた方は本気で「自由な社会」を守る気があるんですか、と思うわけで。

*1:これを否定するなら、してください。そこで笑いますから