モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ハルキも泣かずば撃たれまい

 さて、村上春樹。>村上春樹さん、ノルウェーで講演 執筆も「ワクワク」@asahi.com

 主人公が、月が二つある現実がねじれた世界に紛れ込む物語「1Q84」の発想について聞かれ、9・11テロを引き合いに出し、「ビルが破壊される映像は完璧(かんぺき)すぎてコンピューター・グラフィックスのようだった。この世界とは別のところに、違う世界があるにちがいないと感じた」と説明。「9・11が無ければ、米国の大統領は違う人になり、イラクも占領しない、今とは違う世界になっていただろう。誰もが持つ、そうした感覚を書きたかった」と話した。

 まぁ、ペラいよね。世界的な小説家であるとは信じがたいほど。昔、エルサレム賞スピーチを擁護した経緯もあるので、落とし前をいくつかつけておく。

9.11の衝撃

 僕も9.11のときには衝撃を受けた。ハルキと似たような衝撃もそこには含まれていたことは認めるが、それは最初の2、3日だけだ。日を追うにつれ、その衝撃の意味はまったく違うものになったことをよく覚えてる。

 もっとも衝撃を受けたのは、9.11以前から、9.11のような出来事にさらされている地域が世界中にあるという事実だった。それも、その多くはアメリカという国が直接間接に関わっている。中南米でアメリカがやってきたこと。パレスチナでイスラエルがやっていること、かつ、アメリカによるその支援。アメリカに限らず、ロシアだってどこの国だって、それこそ日本も含めて先進国は大抵えげつないことをやってきたし、今もやっている。9.11のあの出来事、ビルの倒壊するおなじみにあの映像を見るとき、「これまでに世界中で起ってきた、今も起っている数々の理不尽、それとこの出来事は、どこがどう違うのだろうか」、そう問わずにはいられなかった。


 当たり前のことだが、これは不遜な問いである。しかし、「なぜ」不遜なのだろうか。それは、悲劇の一つひとつの重さを「測ろうと」しているからだ。これも当たり前のことだが、一つひとつの命はかけがえのないものである。下手人が誰であれ、このような悲劇を引き起こすことはただ単に指弾されなければならないのであって、それぞれの悲劇を並べて順序を付けたり大きさを測ったりする必要はない。しかし、そうであるならば。数々の悲劇について私たちは実際に驚かずにいた。つつがなく暮らしてきた。そして、9.11において改めて驚いた。そのようなフリをした。私の示した首尾一貫しない態度の不遜こそ問われなければならない。

 そのように考えるならば、少なくとも「9.11という出来事に出会って、そこで初めて驚いた」という態度の一切は、この不遜さそのものであることは明瞭だろう。これこそ私が無自覚に持っていたレイシズムである。であるから、9.11の出来事に衝撃を受けた私たちは次のことに衝撃を受けなければならない。第一に、これまでの私は、世界中の無数の「9.11」に対して衝撃を受けてこなかったということ。第二に、今なお、世界中の無数の「9.11」には無関心なまま、アメリカの9.11にのみ驚くということの差別性に無自覚な人の方が圧倒的多数派だということ。

 9.11という出来事に際して語られたこと。大事な人たちを失ったことへの悲しみ、怒り、そして、その人たちに対する今も変わらぬ愛。しかし、それらの人間的感情の一切が、まさにレイシズムそのものを形作ってしまうということ。これを悲劇と言わずして何と言えばよいのか。僕にとっての衝撃とは、こういうものだった。今に至るまで、この問題意識が頭を離れたことはない。


※ ちなみに、9.11を数多の「9.11」の中に位置づけること。それを通じて、私たち自身を問い返すこと。こうしたことは、9.11に関連づけたものに限定しても、当時からたくさんの文章が書かれて発表されていたはずだ。おなじみのチョムスキーやサイード、他にも、それこそ小説家も発言してたように記憶してる。そうした発言の数々について、村上春樹はまったく学んでいないということ。これは物を書く人間として相当に恥ずかしいことではないかと思う。

エルサレム賞をふり返って

 で、エルサレム賞受賞スピーチの諸々。ここの読者なら言うまでもないことだけど一応書けば、昨年1月に村上春樹がエルサレム賞を受賞したとき、その受賞スピーチを擁護する一連の文章をここに書いた*1。なぜあのような議論をしたのか。

 当時、ネット上のいろんな反応を読んでいて特に印象に残ったのは、エルサレム賞を受け取ることがパレスチナ問題に対して持つ意味を真剣に受けとめる村上フリークの存在だった。もちろん、僕に直接反応したとある方も含めて、「文学と政治は関係ない」「政治的に振るまう必要はない」「「ありがとう」つって賞だけもらって帰ってくればいい」みたいなことを言いつつ、村上のスピーチが出てきたところで「やっぱり村上はエライ」などと言い出した人たちには心底呆れた。……このあたりは、僕が以前から持っていた村上ファンのイメージ。なので、白状するなら、村上春樹もその読者もどこかバカにしてたよ。こういうくだらない奴らは決して少なくなかったよ。けれども。

 当たり前のことだが、村上の読者はそういう人たちばかりではなかった。村上春樹とパレスチナ問題をつなぐ線ができた。これをきっかけに、パレスチナ問題の理解のために自分の限られたリソースを向けはじめた人も何人か見つけることができた。特に印象的だったのは、とあるパレスチナ問題関連のMLでのことだが。「私は、村上の作品を読むことを通じて、遠くにいる誰かが被っている理不尽と自分が無関係ではないことを理解することができた」、概ねそういう意味のことを語った人があったことだった。村上の読者に対して持っていた先入観=偏見を、少し恥じた。そのことには一言も触れなかったけれども。……ハルキは、受賞スピーチの中で、自分が小説の舞台として「超現実的」な設定を好んで用いることに触れていたが、その分、読者の力量次第の部分も大きいのかもしれない。


 作品から読者が引き出すもの。それはしばしば作者の力量さえ超えることがある。先に述べたMLを投稿した一読者の方が、冒頭の記事に示されたハルキの認識より数段深い*2。その認識に、その人は「村上作品を読むことを通じて」到達したのだと語っていた。まぁ、この人の誤読であるのかもしれないけどね。しかし、その人が「その作品を読む」という行為を通じて到達しえたことが事実としか言いようがないならば、同じことだ。

 というわけで、村上春樹が実際にどうであるかなど、少なくとも僕にとってはどうでもよいことだ。もちろん、村上春樹自身が自分の意図をペラペラと説明しはじめたなら話は別だが、そうでないなら。ハルキが何を考えていようと、そこから引き出しうるものはあり、実際に引き出している読者たちがいる、そこを問題にする方がよい。実際に問題なのは、村上春樹個人ではなく、この世界に暮らす私たち一人ひとりなのだから、それを直接に問題にすればいい。


 逆に言えば、村上春樹の示されていない内心を忖度した批判というのは、もう単に筋が悪いということでしかない。その評価は今もかわらない。そういう話は仲間内では頷いてもらえるだろうが*3、「そうとも言えるが、そうでないとも言える」程度の批判が、意見を異にする人に届くわけがない。というより、そんないい加減な議論に影響されて意見を変えてしまうこと自体、仮にあるとすれば問題だ。

 よって、僕自身は村上春樹のスピーチを擁護した。しかし、読めばわかるだろうが、「賞だけもらってかえってくればいいよ、ハルキは無理する必要ないよ」「それでもやったんだよ、ハルキエライ」とか言ってた恥知らずな村上フリークへの批判でもある。そして、問題にすべきはそういう人たちであり、村上のスピーチを擁護するにせよ批判するにせよ、それを通じて「村上に傍観者たることを許そうとした人たち」をこそ批判しなければならない*4。もし、村上のスピーチを批判することを通じてそれをなすような文章が示されたとすれば、僕はその文章にも同意する。

 パレスチナ占領という現実とエルサレムでの文学賞の受賞記念パーティという現実はつながっている。批判すべきはこれを切断しようとする発想である。この発想を、村上春樹もろとも批判するのか、それとも、村上春樹を踏み台にして批判するのか。それはスピーチ次第でどちらでもよいのであって、テクストを読み込んだ上でやるのであれば、どちらでもよいはずだし、僕は実際のとっころ、踏み台にする方を選んだということ。


 当時は、どうしても村上春樹にこだわらなければ気が済まない人たちから大量のレスポンスを送りつけられ、このあたりの話をする前に疲れ果ててしまった。今回書けて、区切りをつけられたのでよしとする。

追記

 雑誌『オルタ』の09å¹´3-4月号にて松葉祥一「村上春樹のエルサレム・スピーチを批判する」という文章がある。批判の理由として次のようにある。記事中でこのサイトのURLを紹介していただいてもいるので、触れておきたい。

……第一に、スピーチが、「壁と卵」というメタファーを媒介にした相対化のロジックによって、イスラエルを免罪する内容になっているからである。第二に、ガザ虐殺の直後にイスラエルのS・ペレス大統領同席のもと、賞金(一万ドル)を受け取ることは、村上の意図を超えて、ガザ虐殺の容認という政治的意味を持つからである。(p.34)

 こうした危険性がないとは言わない。しかし、第一に、メタファーを「相対化による免罪」とするか、「普遍的な想像力への媒介」とするかは、読者次第なのだ。それは本文中に示したとおり。同様に、第二に、ガザ虐殺の容認という政治的意味「として」受け取るかどうかも、これもまた読者次第なのだ。こうした点から見ると、松葉氏の批判は、村上春樹を批判することを通じて、意味を制作している共犯読者たちを隠蔽してしまっている。その点が決定的な弱点なのだ。

 既に述べたように、スピーチを批判するか擁護するかは、実は主たる問題ではない。スピーチもろとも、あるいは、スピーチを踏み台にして、そうした「免罪」や「容認」という意味を制作している数多の読者たちを俎上にのせなければならない。村上春樹にこだわればこだわるほど、批判すべき本体を見逃してしまうことになる*5。

*1:一月から三月まで断続的にいろいろ書いてある。

*2:もちろん、件の記事の書き手がハルキの認識をゆがめて伝えている可能性もあることは、一応指摘しておく。

*3:批判的であるためには、こうした頷きあいが持つ心理的影響を十二分に警戒しなければならないのだが。まぁ、今回は本題ではない。

*4:こういう人は、自分自身に対しても「傍観者であってよい」と言うだろう。これは、私たちが傍観者であるしかないことがある(ゆえに苦しむしかないことがある)ということとは別の話である。

*5:言うまでもなく、このような意味での「読者たち」とは、僕が常々言うところの「観客席の人たち」である。