手術の前後は必ずいなければならないのだが、親がすることできることは限られていて、概ね退屈な時間が続く。持参した本を読み終えて、院内文庫で本を借りることにした。頭は使いたくないが、すぐ読み終わるようなものは困る。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」があった。好きな小説だが、ここ数年は読んでいなかったので、これを読み始めた。
小児病棟というのは、悲劇が日常になっていることが、感じられないくらい空気に溶け込んでいる場所だ。
付き添いで泊まり込んでいる若い母親が、もう泣きたいよーと笑いながら話す声が聞こえる。子供なんて、普通に生まれたら普通に育つもんだと思ってたら、まさか癌になるとはね。私からは見えないところから、笑い声の合間に鼻をすする音はするが、声は乱れず明るい。
細い足をむき出しにした小さな子を抱っこ紐で抱えたパンクファッションの母親が、エレベーターを待っている。母と話す声で、その子が女の子であること、思ったよりずっと年齢が高いことが分かる。髪は産毛のようにふわふわして、地肌が見えている。
長期入院から退院した少女が、まだ入院中の友人に会いに来ている。馴染みの看護師の噂話や、院内学級の話をひとしきり交わす内に、看護師が検査のため友人を呼びに来る。二人の少女は、またねと言い合って別れる。外から来た少女は冬の服、病棟に戻る少女は素足にサンダルだ。
医師が少年に話している。君の病気は、完治は見込めない。今は寛解と言って、症状を抑えている状態だ。明日で退院だけど、薬とは一生の付き合いになる。少年は静かに聞き入っている。
私の子供は何度か手術を受ければいいだけで、生きるか死ぬかなどというものではない。悲劇にも度合いがある。我が家のそれは、単なる煩わしさであって、悲しみの入る余地はない。しかし、多くの家族があの場所で嘆き悲しみ、それでも懸命に日々を生きている。ある子は完治して去り、ある子は病と共に生き、またある子はそこで命を落とす。
そんな場所で読む「ダンス・ダンス・ダンス」は、信じられないくらい薄っぺらく、陳腐だった。あんなに大好きで共感していた主人公は、鼻持ちならない傲慢なナルシストにしか思えない。
作中に出てくる人物は、並外れて奇妙か、または美しくて服装がファッショナブルでないと、ネガティブ、あるいは評価に値しないような扱いを受ける。
この小説に私が出てきたら、こんな風だろう。
「その母親は化粧気がなく、部屋着も同然の姿をしていた。顔つきは暗く、目に力はなく、何もかもが灰色でそそけだっているように見えた。親しくなりたいタイプの女性ではない。」とかなんとか。「そそけだって」の所には傍点が付く。英訳されたら、この部分だけ全部大文字になる。
村上春樹は何も悪くない。他の作家なら違和感を覚えなかった訳でもなかろう。
ただ、ずっと好きだった作品を久しぶりに読んで、ここまでがっかりしたのがショックなのだ。
示唆に富み、人生の本質を探り当てていると思っていた小説が、陳腐で皮相的としか読めないのが悲しいのだ。
結局最後まで読まずに返却し、その後はクロスワードパズルをして過ごした。子供が起きられるようになってからは、二人でクロスワードパズルを作ったり、絵を描いたりして暇を潰した。
家に帰ると、本棚に数冊の村上春樹の本がある。日常の中で読めば、元のように親しみを感じるかもしれないが、今は手に取る気になれない。
たかが数日の入院に付き添った私でこうなのだ。ずっと付き添っている人達はどうしているのだろうか。どんな本を読むのだろうか。こんなことを気にすること自体が、お気楽な証拠なのだろうか。
「オシャレ」で魂は救えない
レイモンド・カーヴァーいかが 余計気が滅入るかもしらんが 少なくとも村上春樹よりは病棟付添人に寄り添ってくる感じがするかもよ
薄っぺらいとか薄っぺらくないとかいう話ではないのでは。 作品のテーマが響かない人には響かないだろうし。 同じ人が読んでも、その人のポジションが変われば、 響くようになった...