いわゆる「ニセ科学批判」に於いて、目指す方向、やろうとしていることは概ね賛同できる。
なのだけど、「批判」という用語を使うことに伴う語弊が大きすぎる気がしてならない。
下手に喩え話を出すと色々突っ込まれる事とは思うがあえて書くと、
たとえばタバコや飲酒をやっている高校生が居たとして、それを高校の教師が「生徒批判」したとしたら、言っていることがいくら正しくても、「生徒批判批判」が起こるのではないかという事。何を他人ごとみたいな言い方してるんだと。教師としての立場をわきまえろと。普通、こういう場合は「生徒批判」ではなく、「生徒指導」という言い方が用いられる。社会的な立場として、教師には「批判」ではなく「指導」という行為が期待されているという事だ。
では、大学の教授が、社会に対して公に「ニセ科学批判」することに関してはどうなのか。本人は、ただ人として正しいことを言っているだけなのかもしれない。しかし、社会的には、「教授」という肩書きを表明した瞬間から、どこへいっても「先生」と呼ばれる存在である。本人が好むと好まざるとにかかわらずだ。したがって、この場合、立場上は「批判」ではなく「指導」であることが望ましい。さもないと、「ニセ科学批判批判」が起こる。
もっとも「指導」という言葉も、なんだか手垢がついてしまっている言葉なので、もっと他の言い方がないものかと考えている。「ニセ科学指導」などというと、ニセ科学を推進しているかのように誤解される恐れがあるし、他の言い回しだとどんな言い方があるだろう?。「ニセ科学指摘」「ニセ科学訂正」とか?
手先の器用さと脳内のイメージを具現化することに長けているかどうかをみれるかも。
ゲームには、システムやキャラクター、シナリオという要素があるなぁ、という所から始まって
この内システムはシリーズで使いまわしながら変化や改良ができる(キャラも使いまわしはできる)、と考えて
そこから、システムと同じようにシナリオを使いまわしながら変化や改良をして、シリーズの一つだと主張したらダメなのかと考える。
さらに、何もこれはゲームだけに当てはまるわけではなく、漫画やアニメなどのシナリオを含む作品全般について言えるんじゃないかと考えた。
シナリオを使いまわしながら変化や改良するとは、大筋で同じ設定やキャラクターや物語を使うのだけれども
こうすればもっと面白くなる、あれはああすべきではなかった、こんな設定を加えてみたらどうだろう、
と変化や改良を加えていくことを想定している。
例えば、けいおん!だったら、唯以外のメンバーも全員初心者であるとか、1年の内に新しい部員が入るとか、
一部キャラの髪形が違うとか、そういう変化を付けて、高校生編をもう一度やってそれを新しい作品にしてしまう。
これって反則なのかな。
話をゲームに戻すけれども、優れたシステムやキャラクターをデザインすれば
それを何度も使いまわしてに一大シリーズを作れる可能性があるのに、優れた物語(シナリオ)を作っても、それが一回きりで使えなくなるというのは
何かもったいない気がしている。
2chさっさと潰せボケが。今年中に潰さないとお前自宅で殺すぞ。
早く仕事見つけないとろくに社会に還元できない出来損ないになるぞ?
鉢呂氏発言についていろいろ思うことがあり筆をとります。
今日新聞、テレビなどメディアで鉢呂氏が福島県「死の町」と発言し首相が不穏当な発言と非難し引責辞任をしたと報道された。
僕のツイッターTLでもおおむねその意見に同調する方が多く思えた。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201109100180.html
(引用) 鉢呂氏は8日、首相とともに原発周辺地域を視察。翌9日の記者会見で「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない『死の町』だった」と発言した。
しかし、間違っているんだろうか?
僕が登山家 野口健氏が福島の原発周辺を取材したブログを見たときの印象は、どちらかというと鉢呂氏の「死の町」との表現に近いものだった。
野口健ブログ http://blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/52166029.html
それまで生活があった町から人が消え、今後何十年にもわたって住めなくなってしまった。チェルノブイリのように健康への懸念もある。
ゴーストタウンになった町をその目で見て、これからも住めないと思うと「死の町」という表現を使ってしまうのもわかる。
(引用)鉢呂氏は福島第1原発事故を受けたエネルギー政策の見直しを所管しており、事故対応を政権の最優先課題に掲げる野田首相は早急な態勢立て直しを迫られる。停止中の原発再稼働をめぐる地元自治体との協議にも影響を与えそうだ。
そしてこれだ。
鉢呂氏は経済産業相で、エネルギー政策の見直しを所管していた。
その人物が実際に福島の現状を見てその絶望的状態を認めたともとれる発言をした。
それに対して首相が「不穏当」と言ったのであれば?
まったく意味が変わってくる。
もし鉢呂氏が原発について絶望的な状態を認めたとしたら、今後のエネルギー政策は大きく変わる。少なくとも原発推進を進めることはしないだろう。
それに首相は「不穏当」と言った。
(引用)また視察後の8日夜、都内で報道陣の一人に防災服をすりつけるしぐさをし、「放射能をうつす」という趣旨の発言をしていたことも分かった。
これにしたってツイッターからの情報で真偽は今の僕にはわからないが
鉢呂発言。記者が「福島の放射能ついたままですか?」と質問して、それに対して抗議した大臣が、「それがどうしたんだ?放射能つけてやろうか?」と怒ったという話がある。もしそうならば、記者が差別発言で、鉢呂さんは、それに抗議したということになる。
本当に糾弾するべきは鉢呂氏だったんだろうか?
そして
もっとも糾弾されなければいけないのはショッキングな言葉を捕まえ、その発言の真意を深く追求することなくスキャンダラスに報道するマスコミではないだろうか?それをそのままうのみにする我々国民ではないだろうか?
こんなもの自民党時代の「漢字が読めない」「夜はバー」などと政策と関わらないところであげ足をとる報道と一緒だ。
ツイッターでは震災以降、いや尖閣以降政府やマスコミによる隠ぺいだの情報操作だのに対する怒りが多く聞かれる。
それをそれを喜んで享受し一緒になって叩いてるんじゃないのか?
ふざけるな!
これはwwwwwwwwwww
私は「他人を貶めることしか知らない」両親の元に育って、自分もそういう態度(自覚なしに)を取っていた。当然、友達なんか一人もいない。気が強いからいじめられはしないが、たぶん、油断してたらやられてたろ。もう、いい大人になったから、むやみに他人を貶めたりはしないが、やはり、相手がホッとするような持ち上げ方は難しい。インターネットじゃ、若い人が多いから、さらっと持ち上げられたりすると(おおっ、若いのに人間出来てるー)と感動する。褒めて悪いことは無いよ。ただ、誰相手でもホッとする言い方が出来るようになるには、それなりに人生経験積まないと出来ないだろうなあとは思う。
でもね。文言が見当外れでも(ホッとしてもらいたい)って気持ちは伝わるからさ。「相手を救う言葉」を考えてくれる人は、やっぱり、あったかいなあと思う。