閉山後
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1974年 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と、15億5,000万円で和解が成立。 1976年 草木ダム竣工。 1980年 足尾町「足尾銅山観光」がオープン。 1989年 JR足尾線が、わたらせ渓谷鐵道への転換に伴い貨物廃止。足尾での製錬事業が事実上休止状態になった。 2002年 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止。 2006年 足尾警察署廃止。足尾交番に。 2007年 足尾銅山を「負の遺産」として世界遺産暫定リスト記載に向けて文化庁に要望書を提出。日本の地質百選に選定。経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」として認定される。 2008年 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定。 2010年 製錬場が一部の施設を残して解体される。 2011年3月11日、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により再び決壊。鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛が検出される。また、決壊により、わたらせ渓谷鐵道の線路が破損し、同鉄道は同年4月1日まで運休を余儀なくされた。 2012年6月15日、「足尾銅山写真データベース」が正式公開される。
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閉山後
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その良質な鉄鉱石は研究などの用途で現在も年間100トン程度の採掘がおこなわれている。閉山後、ワイン用のぶどうの栽培や川魚の養殖を試みたが採算には乗らず撤退している。地下350mから湧き出る鉱泉水を利用したミネラル・ウォーターの製造販売を試みたところ、好評を得て「仙人秘水」のネーミングで流通している。地下200mの鉱体の採掘跡に水をため、地下500mの発電施設までの落差320mを用いて発電する地下水力発電所も設けれている。そのほかにも、坑道の観光や、広大な地下空洞では地質調査、地震計設置などの学術研究支援や空洞を利用したコンサートホールなどの利用がある。
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閉山後
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閉山後もアンチモンの製錬部門は輸入鉱石を原料として操業を継続した。現在では海外からアンチモン地金を輸入し、三酸化アンチモン等のアンチモン製品の製造を行っている。 バッテリーロコ(蓄電池式機関車)とナベトロ、江戸時代に金鉱石を砕くために使われていた山臼 中瀬産自然金
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閉山後
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海水流入事故が発生した炭鉱は、救出や遺体の回収も不可能であり、坑道ごと放棄された。 長生炭鉱が存在した海上には、吸・排気や排水を担っていた巨大なコンクリート構造物(ビーヤー)2基が残るほか、石碑の史跡も残っている。近年、慰霊行事などが盛んに行われている。 宇部市内のときわ公園には、石炭記念館が設置されている。 市内の各所には、かつての炭鉱住宅が散在する。 沖ノ山炭鉱の入れ替えに使われた電気機関車が銚子電気鉄道に譲渡され、デキ3型として動態保存されている。
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閉山後
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志免鉱業所の閉山後は人口が激減した。しかし、その頃から福岡都市圏への人口増加が始まっており、自治体は盛んに宅地開発や中小企業誘致を進めた。後に九州地方の拠点都市、あるいは対アジアへの玄関口として一層重要性を増すようになると、糟屋郡一帯は衛星都市として当時より人口が増加し、2008年現在糟屋郡は国内で最も人口が多い郡部となっている。都市圏への近接性が幸いし、住宅都市として復活を遂げた点は他の産炭地域と比較すると格段に幸運であるといえる。また、一部の炭住は現在もそのまま住宅として利用されており、炭鉱の遺構は一部が公園整備されるなどしている。
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閉山後
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万字地区は万字炭鉱最盛期の1950年代には5000人以上の人口があり、山間部ながら一つの市街地を形成していたが、炭鉱閉山後は人口が激減。2011年をもって地区から商店がなくなり、行商のみとなっている。万字英町の岩見沢市万字診療所も週二回のみの開業となり、巡回診療が行われている。2013年には人口が100人を割り込んだ。住民の高齢化が著しく進んでおり、限界集落になっているため、岩見沢市やボランティアが除雪などの援助を行っている。2016年現在77人の人口がある。うち万字巴町は1世帯のみ。万字旭町・万字西原町・万字錦町・万字二見町・西万字は人口0人となっており、炭鉱跡から夕張市方面の北海道道38号夕張岩見沢線沿いには全く民家はない。万字地区全体の人口が80人足らずとなった2016年現在でも町内会は「万字炭山町内会」と「万字市街町内会」が併存しており、元炭鉱従業員とその家族・遺族が「万字炭山町内会」、開拓入植農家や元商店主などが「万字市街町内会」を構成している。「万字炭山町内会」が万字英町鎮座の万字山神社(万字錦町にあった万字炭山神社を遷座)を、「万字市街町内会」が万字幸町鎮座の万字八万神社をそれぞれ管理している。いずれも神主不在の無人の社で社家もなく、総代を置いて町内会が運営にあたっている。無人となった町丁も町名は廃止されておらず、郵便番号も割り振られている。 国鉄万字線は1985年(昭和60年)3月31日限りで廃線となった。旧万字駅舎が万字仲町簡易郵便局の局舎として再利用されているが、局員は局長1人である。万字線廃止後北海道中央バスが北海道中央バス岩見沢ターミナル(岩見沢駅)から万字簡易郵便局前(現・万字バス待合所)間のバス路線万字線を運行していたが、2008年3月をもって万字地区からは撤退し,毛陽交流センター迄に短縮された。代替として、市役所栗沢支所・毛陽交流センターと万字地区とを結ぶ無料市営バス万字線が運行されている。 万字炭山の周辺は万字炭山森林公園として整備・管理されている。選別場などのコンクリート構造物が施設周辺に老朽化しつつも現存しているほか、夕張市方面の北海道道38号夕張岩見沢線沿いにはかつての高圧送電線の施設などが残っている。かつて湯治場を兼ねた従業員寮だった施設はその後も温泉として存続、1983年に温泉宿「万字温泉奥万字王国」が開業したが、2006年に廃業。2009年9月には建物解体、更地となっている。万字地区の山中からは現在も鉱泉が湧出しており、万字寿町には万字ポンネベツ冷泉利用組合によって維持管理されている温泉スタンド「ポンネベツ冷泉ポンネ湯」がある。 万字英町に岩見沢市役所美流渡出張所万字連絡所(万字交通センター)が置かれており、市職員が常駐している。旧栗沢町立万字中学校(1947年(昭和22年)5月1日開校)は1980年(昭和55年)3月31日閉校となり、間もなく校舎は解体されたが、跡地には校門の門柱や校庭の設備などが残っている。旧栗沢町立万字小学校(1906年(明治39年)9月21日開校)は1990年(平成2年)3月25日に閉校となった。跡地には記念碑が建てられたが、校舎も残され、備品や図書室の蔵書などがそのままになっていたが、廃墟化が進行したため、2010年(平成22年)8月から10月にかけて解体されている。小学校と同じ場所に旧栗沢町立万字保育所もあったが閉園。これも解体されている。 2代目英(はなぶさ)橋等が朽ちつつも残されているほか、当時の炭鉱住宅は個人に払い下げられ、個人住宅となっている。社寺は移転したものもあるが存続している。万字西原町や西万字など無人となった地区にはほとんど道路が通じておらず、既に自然に還っている場所もある。
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閉山後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 10:11 UTC 版)
炭鉱の閉山後は、自治体の財政基盤が失われるとともに多数の失業者が発生し、人口の流出も生じた。しかし、筑豊は北海道の山奥のように閉山が地域コミュニティの消滅を意味することは無く、そのまま炭鉱住宅に住み続けることができたため、大都市への転居や再就職活動を行わずに生活保護を受給する者が多く見られた。1960年代後半、1000人当たりの生活保護受給者数が全国平均14.5人であったのに対し、筑豊地域全体では124.1人、炭鉱町として代表的な糸田町は302.4人と突出する傾向が見られた。 北九州工業地帯に近い地の利を活かし、炭鉱跡地を造成して工業団地とし、工場を誘致して産業の育成を図っているが、依然として失対事業などに頼る面もある。麻生セメントに見られるように炭鉱からセメント業に転進した企業もある。 また、同炭田一帯は一帯の土壌が石炭採掘、加工などによって汚染され、農業にも適さなくなっていることが一層産業の転換を困難にさせている(一部の地域では土壌の改良を行った上で、蔬菜、果樹、花卉などの栽培が推進されている)。 歴史的資料の保存としては、直方市・田川市・宮若市では石炭を専門に扱った博物館・資料館を開設している。また、これ以外にも飯塚市の住友忠隈炭鉱のボタ山、飯塚市幸袋の炭鉱王・伊藤伝右衛門の邸宅などがある。
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閉山後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 23:44 UTC 版)
選鉱場跡には鉱山資料館が建てられたが、2017年現在は閉鎖されている。小学校跡には自然王国白滝の里が作られた。
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閉山後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 23:23 UTC 版)
唐津炭田の閉山後、唐津市は臨海工業都市、あるいは一帯の商業中心地、また水産都市として盛り返したが、多久市、相知町、大町町などは著しい人口減を余儀なくされ、農業を奨励したり、工業用地の造成などを行ったりしているが、往事の人口には遠く及んでいない。しかし、産業転換も盛んに行われ、多久市では干魃被害を防ぐために天ヶ瀬ダムを開発し、みかん栽培に注力、唐津市ではみかん供給が落ちる夏場に向けたハウスみかんの栽培が始められ、全国一位の出荷量にまで成長し、今日では台湾などにも輸出されている。その他、炭鉱王として、また文化人、義君としても尊崇を受けた高取伊好に因んだものが多く、多久市では同氏の雅号を採った西渓公園を整備して、多久聖廟とともに観光資源として活用したり、唐津市では旧高取伊好邸が国の重要文化財に指定されたのを皮切りに一般公開を始めたりしている。
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閉山後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 23:37 UTC 版)
閉山後は明星大学の所有物となり、施設の一部を利用して明星大学田老キャンパスや明星大学田老宇宙線観測所が開設されている。大規模な選鉱所や従業員住宅の遺構は現在でも残されている。 閉山後も鉱業権者のラサ工業によって排水処理が続けられている。
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