第二次大戦中
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フランスへ渡った湯浅はラジウム研究所を訪れた。しかし研究所はすでに軍の管理下にあり、外国人が入るのは非常に難しかった。湯浅は研究所に入れてもらえるよう、外務省などを通じて何度も交渉を行った結果、イレーヌ・ジョリオ=キュリーやポール・ランジュバンの協力を得て、コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所のフレデリック・ジョリオ=キュリーのもとで研究できるようになった。 研究所では、中性子をベリリウムに当てたときにできる 5 H e {\displaystyle {\rm {{}^{5}He}}} の安定性を調べる研究にたずさわった。真摯に研究に取り組むことのできる研究所の環境や、研究で行き詰った時に頼りになるジョリオ教授の存在などに湯浅は喜びを感じ、後に「祖国で経験したことのない魂の自由さを味わった」と記している。 1940年5月、ドイツ軍はフランスへの進撃を開始し、パリの研究所は危険な状況となった。湯浅はフレデリック・ジョリオ=キュリーの勧めで、いったんボルドーへと避難した。しかし研究を行うことができないボルドーでの生活に耐えられなくなった湯浅は、研究所で爆弾の下に死んでもかまわないから呼び戻してほしいとジョリオに願い出て、5月31日にパリへと戻った。 6月、パリがドイツ軍の占領下におかれると研究所は一時閉鎖されたが、9月に、ドイツ人との共同研究をすることなどの条件のもとで再開された。湯浅はジョリオの指導のもと、霧箱を使用して原子核崩壊の際のエネルギーや運動量の変化を調べる実験を行った。1941年には渡仏後初めての論文を発表した。 1941年1月、父が死去した。湯浅は大使館を通じてその情報を3月に知った。しかしこのときジョリオから、日本に帰らずにここで研究を続けるよう言われたため、湯浅はフランスに留まった。また、若いころに父を亡くしたイレーヌ・ジョリオからは慰めの言葉を受け、父親であるピエール・キュリーの伝記を手渡された。その中にあるピエールの言葉「どんなことが起ころうとも、そしてたとえ魂のない身体になったとしても、やはり研究を続けなければならないだろう」は、その後の湯浅の励みになった。1943年には学位論文を提出し、理学博士となった。 日本はドイツと同盟を結んでいたため、戦争が続くにつれてフランス国内における日本人の立場は微妙なものになっていった。そのため1944年8月、大使館の要請による日本人の引き揚げが始まり、湯浅もベルリンへ移動した。なんとか研究を続けたい湯浅はドイツ内での研究場所を探し、そして、オットー・ハーンのもとで研究できる許可を得た。しかし出発直前になって、当時ハーンのいたタイルフィンゲンにも戦線が近づいているとの報告を受けた。そのため、ハーンの元での研究はかなわず、代わりにハーンの紹介により、ダーレムにあるベルリン大学付属第一物理学研究所のクリスチャン・ゲルツェン教授のもとで12月から研究を行った。 しかし、空襲がはげしくなると、ベルリンの研究所も危なくなり、1945年4月には研究所を離れなければならなくなった。5月、ドイツ軍が降伏すると、湯浅はベルリンからモスクワに送られ、そこから日本へと送還された。
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第二次大戦中
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1940年、マックス・ホルクハイマーがニューヨークからカリフォルニアに移る。これを追うようにアドルノもカルフォルニアに移住、この時期に代表的著作の一つ「啓蒙の弁証法」がホルクハイマーとアドルノの共著で執筆開始。 9月24日 ナチスに追われたヴァルター・ベンヤミンが逃亡中ピレネーの山中で服毒自殺(近年暗殺説もあり)。 この頃社会研究所は財政難に陥いった。アメリカに亡命した多くの研究所メンバーは生活に困窮し、様々な副業(大学の臨時講師、法律関係のアドバイザーなど)でしのいだが、やがて戦時において優秀な頭脳を求める多数の政府機関が彼らの持つ学問的スキルや知識、情報を求めてリクルートした。 一部はO,S,Sの中枢で活動、ドイツと日本の情報分析と戦後政策の策定に深く関与した。とくにドイツの戦後政策策定に関してはフランツ・ノイマン、ヘルベルト・マルクーゼらが関わっており、ニュルンベルク裁判ではフランツ・ノイマンが法学の知識を活かして深く関与した。(フランツ・ノイマンについては1995年に公開されたヴェノナファイルによってソヴィエトのスパイ(暗号電文上のコードネームは“ラフ”)として活動していたでことが判明している) 1942年、フランツ・ノイマンが戦略諜報局(OSS。CIAの前身)調査分析中欧課に入り、対独情報分析にあたる一方で「ビヒモス」(1944年に増補版刊行)を出版する。 1945年、フランツ・ノイマンがアメリカ合衆国国務省のドイツ調査部門の責任者に就任。
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第二次大戦中
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「フランス領インドシナ・ピアストル」の記事における「第二次大戦中」の解説
1939年に、1/2サンチーム亜鉛貨と10、20サンチーム白銅貨またはニッケル貨が導入された。「フランス国(État français)」という名で1942年から1944年の間、1/4、1、5サンチーム硬貨が発行された。全て穴銭で、1/4サンチームは亜鉛貨、1、5サンチームはアルミニウム貨であった。1945年に10、20サンチームアルミニウム貨が導入され、その後穴のない5サンチームアルミニウム貨、1ピアストル白銅貨が導入された。 フランス領インドシナ・ピアストル硬貨:第二次大戦中発行分額面発行開始年表面裏面表面裏面組成1/4サンチーム(1942年–1944年) 額面 État Français(フランス国), Indochine(インドシナ), 発行年 亜鉛 1/2サンチーム(1939年–1940年) フリジア帽; R F(Republique Française(フランス共和国)の頭文字) Indochine Française(仏領インドシナ); 額面; 発行年 Zinc 1サンチーム(1940年–1941年) Republique Française(フランス共和国); フリジア帽; 額面 Indochine Française(仏領インドシナ); 額面; 発行年 亜鉛 1サンチームt(1943年) Indochine(インドシナ); 額面 État Français(フランス国), 発行年 アルミニウム 5サンチーム(1943年) Indochine(インドシナ); 額面 État Français(フランス国), 発行年 アルミニウム 10サンチーム(1939年–1941年) Republique Française(フランス共和国); マリアンヌ; 発行年 Indochine Française(仏領インドシナ); 米穀; 額面 白銅 20サンチーム(1939年–1941年) Republique Française(フランス共和国); マリアンヌ; 発行年 Indochine Française(仏領インドシナ); 米穀; 額面 ニッケルまたは白銅
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第二次大戦中
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1941年にラインハルト・ハイドリヒがベーメン・メーレン保護領の副総督に任じられ、同地の対レジスタンス掃討作戦を担当する。ハイドリヒはきわめて有能でレジスタンス組織は苦境に陥った。危機感を抱いたチェコスロバキア亡命政府とイギリス政府は、ハイドリヒの暗殺作戦を立案し、在英の亡命チェコ軍人からヨゼフ・ガプチーク、ヤン・クビシュ(Jan Kubiš)ら10人を選抜する。暗殺部隊はイギリス軍機でプラハ郊外に落下傘降下し、市内潜入に成功した。 1942年5月27日 、ハイドリヒはいつものようにプラハ郊外の宿舎から、執務室がある市内のプラハ城に専用車で出勤した。朝10時半頃、車がホレショヴィチェ通り(Holešovice)にさしかかった時、待ち伏せしていたガプチークとクビシュは爆弾を投げつけた(詳しくはエンスラポイド作戦)。ハイドリヒの乗車は破壊され、重傷を負ったハイドリヒは病院に搬送された。ガプチークとクビシュは現場から逃亡した。 証拠はなかったが、クラドノの保安警察及びSD指揮官ホルスト・ベーメは、リディツェの住民がこの襲撃事件の犯人を隠匿していたと考えた。襲撃の翌日の5月28日にゲシュタポがリディツェ在住の2家族(男性8人、女性7人)を逮捕した。住民たちはこれで終わったと思いこんでいたが、ベーメとベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察指導者カール・ヘルマン・フランクは、リディツェの完全な破壊をアドルフ・ヒトラーに上申していた。 6月4日、ハイドリヒは感染症で死亡した。ヒトラーは怒り、6月9日に上申されたリディツェの掃討を実行する総統命令を出した。 翌日の6月10日、保安警察部隊が再びリディツェにやってきた。前回とは異なり、約500人いたリディツェの住民全員が一箇所に集められ、15歳以上の男性約200人は納屋に押し込まれたのち、10人ずつ引き出されては銃殺された。なおこの際の処刑の様子は保安警察が映像に収めており、後にニュルンベルク裁判で証拠として使用された。 女性約180人は、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られた。四分の一がチフスと過労により死亡した。 約100人の子供は、ウッチ(Łódź, 現在のポーランドに存在)のグナイゼナウ通り(Gneisenaustraße)の強制収容所に送られ、人種的に分類された。そこでアーリア化に適していると判断された8名の子供のみがドイツに送られ(戦後に発見され、チェコスロヴァキアに送還された)、残りの子供はヘウムノ強制収容所に送られた。 チェコ政府はヘウムノの収容所で死亡したと思われた乳児の一人で1941年生まれのマルタ・フロニコヴァ(Marta Hroníkova)が生存していることを2005年に発表した。この追跡はドイツ人記者ケルスティン・シヒャ(Kerstin Schicha)とドイツ人弁護士フランク・メッツィング(Frank Metzing)により行われた。 暗殺作戦を担当したガブツィクらはプラハ市内の教会に隠れていたが、6月18日に発見され、銃撃戦で死亡した。6月24日には隣接するレジャーキがリディツェと同様に破壊された。ハイドリヒ暗殺事件に関連して殺害された者は約1300人に上った 。 ナチスはヨーロッパ占領地域で行なった住民の虐殺を秘匿することが多かったが、リディツェの事件は大きく宣伝した。この事件は連合国のメディアも取り上げ、本件を題材に、チェコの外交官アヴィグドル・ダガンが制作を主導し、ハンフリー・ジェニングズが監督した宣伝映画「沈黙の村」(The Silent Village)が製作され、事件直後の1943年に公開された。
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第二次大戦中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:24 UTC 版)
戦時中の日本にあっては外国人は防諜と身辺保護の名目のもと、敵国人、非敵国人を問わず、特定地域への移住が進められ、神奈川県では箱根がこれに充てられ、大使館や公使館、商社などが移住させられた。また、長野県軽井沢も特定地域に指定され、ワイルは1944年3月27日、外国人の避暑地として栄えた軽井沢の別荘をあてがわれ、横浜市中区山下町87から長野県軽井沢720へ移住させられている。そこでワイルは国際赤十字代表団に所属し、食料品の購買を担当していた。しかし、戦時中の日本における食糧調達は困難を極め、配給制であっても遅延や欠乏が常態化していた。農地を持たない疎開民は物資を買い付けるために佐久や小布施まで赴かねばならず、また、運よく手に入れた物資が露見しては没収されることも間々あった。くわえて軽井沢の別荘は夏を快適にすごせるよう設計されていたために、厳しい冬の寒さにも耐えなければならなかった。
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