寛政年間
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蝦夷喧辭辨(エミシノサエキ) - 1789年(寛政元年)4月から6月に、福山から北海道久遠郡せたな町の太田権現までを往復した時の日記。江差までは陸路を取り、そこから舟に乗り久遠村という蝦夷のコタンに到着する。ここで蝦夷の様子や風俗を記録し、太田権現に参拝した。帰路、天の川に来た時にクナシリ・メナシの戦いを伝える早馬に出合う。太田権現には現在は現存していない多数の円空仏を見たと記している。 昆布苅(ヒロメカリ) - 1789年(寛政元年)11月中ごろ、今の函館から副山までの海岸を歩いた上下2巻の記録。上巻の文章は発見されていない。アイヌ人の生活を記録している。別に「廣布乃具」という書もあり、共に正確な図に満ちている。 蝦夷乃手布利(エゾノテブリ) - 1791年(寛政3年)5月24日副山から、東方向への旅にたった。半分は船旅で沢山のスケッチがある。有珠山、後方羊蹄山に登り、6月11日に虻川に到着した所で日記は終わっている。蝦夷の舟に乗り、家に泊り、生業を尋ね、蝦夷の風俗や言語を丹念に記録している。。ムックリ、イヨマンテ、鶴の舞、ユーカラなどの風習を記録する。 智誌磨濃胆岨(チシマノイソ) - 1792年(寛政4年)前半の日記。春と夏の巻がある。松前城下の正月から、次第に春になって野山で遊ぶころまでの季節の移り変わりが描かれている。城内の男女の歌の門人との交流が多い。歌会の中心人物は藩主松前道広の継母の松前文子である。 牧の冬枯 - 1792年(寛政4年)10月1日大黒屋光太夫が根室に到着する話を聞く。10月7日、人々に送られて松前を出て、下北半島の奥戸(オコッペ)の港に上陸する。雪の恐山に登り、次々に土地の風雅人を訪ね盛んに唱和し、田名部の町で正月を迎える。 於久の宇良宇良(オクノウラウラ) - 1793年(寛政5年)4月始めから6月30日までの記録。佐井村から牛滝港へ小舟で移動。3泊後、小舟で仏ヶ浦などの景勝地を見ながら北上、福浦からは陸路を取り佐井村につく。佐井村でしばらく過ごした後、小舟で南下、今度は福浦から陸路で佐井村に移動。ここで風邪にかかり数日間滞在。回復すると小舟で、大荒川まで移動。ここから源藤城、片貝、脇野沢村まで移動。脇野沢で数日過ごし、川内、城ヶ沢で宿を取り、田名部に到着する。田名部にしばらく滞在し、その間に近辺を遊覧し恐山に登る。恐山大祭の時は、長期間恐山に滞在し宇曽利湖を小舟で遊ぶ。 牧の朝露 - 1793年(寛政5年)秋の三ヶ月間の記録。田名部から大畑に移動。大畑ではねぶた流しや七夕を見る。田名部に戻る途中、鵜沢という浜路で菊池成章、菊池清茂らに出合う。易國間(イコンクマ)、大間、奥戸など前年度の冬に歩いた村を再び訪れ、各地の知人と交遊し、途上の珍しい見聞も記録している。易國間では、大黒屋光太夫事件を処理する幕府の役人が同地に宿泊したことを記録している。 尾駁乃牧(ヲブチノマキ) - 1793年(寛政5年)冬の三ヶ月間の記録。10月下旬に一旦田名部を出て太平洋岸を南下し、小川原湖の牧場地方を過ぎて尾駁の牧を経て、さらに南下し坪村に行こうとしたが、降雪により断念し再び田名部に戻ってきた日記。桧の皮を灯心としカスベの油を灯火にするなど奥州僻村の冬の生活が詳細に記録されている。「尾駁の牧」も「坪村」も歌枕に関連した地名である。 奥乃手風俗(オクノテブリ) - 1794年(寛政6年)正月に田名部に滞在して土地の風俗や行事を記録する。9日より菊池成章と和歌のやりとりをする。2月2日より栗山村から恐山に登る。氷った宇曽利湖の湖上を歩いて渡り、小尽山の小屋で木こりと一緒に杣小屋で眠る。山から降り、城ヶ沢の海岸に着いたところで筆を置いている。 (この年、現在の十和田市から三戸町、八戸市周辺を巡り、『千引の石』や『牧の夏草』を記述したと思われるが、これらは未発見本となっている) 淤遇濃冬隱(オクノフユゴモリ) - 1795年(寛政7年)の日記とあるが、実は前年の日記。10月から12月までの日記で、この冬も田名部を出発しようとして、友人からとめられ結局田名部に滞在し、翌春にここを立つことにしたと記している。田名部の菊池成章と歌の贈答をしたり、日記を見せたりし交流を深めている。 津軽の奥 - これは所有者が後で付けた名前。切れ切れの数編の紀行文が合綴されている。1795年(寛政7年)3月22日に南部領を去り、津軽領に入り小湊や浅虫の村々を巡り花を見た記録、11年ぶりに弘前や黒石の周辺を訪れ文人と交流し、11月末に青森に引き返した記録、1796年(寛政8年)正月に浅虫温泉に滞在し正月行事を記録し、13日からは小湊の小正月行事を見学、2月に小湊を発ち岩木山に登り、さらに岩木山山麓の村々を巡り、弘前方面に遊歴した記録からなる。 栖家乃山(スミカノヤマ) - 1796年(寛政8年)4月半ばから5月20日までの遊覧日記。青森付近の三内の千本桜を眺め、この村の堰から出土した土器を記録した。史跡を巡り風俗を記録して、さらに南下し浪岡町や水木を通り、黒石に着き筆を置いている。この本は六郷町の竹村家の写本のみが現存している。大正時代に秋田県立図書館が竹村家から購入している。 外濱奇勝(ソトガハマキショウ) - これも幾つかの紀行文を集めたもので、表題も後人が付けたもの。過去の所蔵主の印章や加筆が多い。1796年(寛政8年)6月に弘前を出て北津軽に遊ぶ。行きは十三湖の東岸の路を行き、竜飛岬の先端を巡り小泊村に一泊、帰りは湖西の屏風山下を経て、7月6日に鰺ヶ沢の港についた。その間、安倍氏の遺跡を探り、源義経の伝説を記述し、十三湖の風景を記録している。さらに7月16日に12年前に通った深浦から秋田藩への道を境の大間越の近くまで歩いている。また、1798年と思われる3月過ぎに小湊を出て弘前に至り、5月半ばに弘前を出て岩木山に入って薬草を採り、尾太鉱山の廃坑を見て山上の杣小屋に山子と共に寝て、一昨年の冬に見た暗門の滝を眺め、深浦に入り、7月始めに深浦を出て赤石村の宿に達する。この本は句仏の印章があることから、真澄が津軽から去った後は、友人である弘前の俳人三谷句仏(みたにくぶつ)が保管していたと考えられる。1840年に句仏は江戸に帰る山鹿高厚(やまがたかあつ)に餞別としてこれを贈った。1922年青森市在住の画家・佐藤蔀(さとうしとみ)のもとに「外浜奇勝」の直筆本が東京神田の古書店に出ていることが伝わり、佐藤はこれを入手。その後、この本は2012年3月に青森県立郷土館に寄贈された。 雪乃母呂太奇(ユキノモロダキ) - 1796年(寛政8年)10月末、深浦から岩木山の山麓を巡り、11月1日山奥にある暗門の滝を見学した紀行文。再び深浦に11月10日に戻り残りの冬を過ごす。 津介呂廼遠地(ツガロノヲチ) - 1797年(寛政9年)正月元日から、6月1日までの日記。深浦の町の富豪若狭屋の俳人竹越里圭は真澄の最も親しい友人であった。そこに5月7日まで滞在し、地区独特の正月や節句の行事を見る。さらに鰺ヶ沢から弘前に出て多くの旧友を訪ね、藤崎町で安倍貞任の次男と言われる高星丸(たかあきまる)と唐絲姫の遺跡を探り、水木村では毛内家に挨拶し、6月1日夕顔堰村の今氏の家で病に伏し筆を置いている。 邇辞貴迺波末(ニシキノハマ) - 津軽藩時代の数編の小紀行文を順序もなく合綴したもの。藤崎村や弘前周辺の正月風景を記述したもの。五所川原の2月の風景。1797年(寛政9年)6月17日より藩命を受けて医師達と薬草取りに同行し、阿闍羅山付近や、蟹田村や平舘村周辺の薬草を採取した記録。年代は不明だが、8月半ばに弘前を出て9月半ばまで鰺ヶ沢に滞在、友人と交遊すると共に、花山院忠長、羽笠、古燕等の古跡を偲んだ記録。 追柯呂能通度(ツガロノツト) - 1798年(寛政10年)2篇の日記と2小篇の随筆を1冊にしたもの。正月元日から同20日まで(平内町)童子村に滞在して正月行事を記録したもの。黒石から獅子沢の獅子頭石を見物したもの。随筆は津軽地方の鱈漁と、黒石付近出土の土器について考察したものから出来ている。 櫻狩紅葉狩(サクラガリモミジガリ) - 「さくらかり」は津軽の有名な桜の絵10枚が描かれている。「もみじがり」は1798年(寛政10年)8月半ばに十三湊から弘前に移動し初雪に遭い、黒石から花巻、中野のもみじ山、板留、沖浦まで移動し各地で紅葉狩りをして、藤崎まで帰った記録。
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寛政年間(1789年 - 1801年)
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場所番付四股名成績備考1789年(寛政元年)3月 東関脇 小野川 10戦全勝 1789年(寛政元年)11月 東関脇(横綱) 小野川 8勝0敗1分1預 7日目に谷風とともに横綱免許。 1790年(寛政2年)3月 東大関(横綱) 小野川 8勝0敗1無勝負 1790年(寛政2年)11月 西関脇 雷電 8勝0敗2預 1791年(寛政3年)4月 東大関(横綱) 小野川 8勝0敗1無勝負1休 1791年(寛政3年)11月 東大関(横綱) 小野川 8勝0敗1預1休 1792年(寛政4年)3月 西大関(横綱) 谷風 8勝0敗2休 1792年(寛政4年)11月 西大関(横綱) 谷風 3戦全勝 悪天候のため3日で打ち上げ。 1793年(寛政5年)3月 西大関(横綱) 谷風(雷電) 7勝0敗2休 雷電は西関脇で8勝1敗。 1793年(寛政5年)11月 西関脇 雷電 8勝0敗1預1休 前場所千秋楽から9連勝、43連勝のはじまり。 1794年(寛政6年)3月 西小結 雷電 6勝0敗1分1預2休 15連勝。 1794年(寛政6年)11月 西関脇 雷電 8勝0敗1預1休 23連勝。 1795年(寛政7年)3月 西大関 雷電 5戦全勝 悪天候のため5日で打ち上げ、雷電28連勝。 1795年(寛政7年)11月 西前2 柏戸 8勝1敗1休 1796年(寛政8年)3月 西小結 花頂山(柏戸) 5勝0敗1分4休 のちの大関市野上、柏戸は西前頭2枚目で6勝1敗1分2休。 1796年(寛政8年)10月 西大関 雷電 9勝0敗1休 前2場所は番付に出ず、37連勝。 1797年(寛政9年)3月 西大関 雷電(磐石) 8勝1敗1休 7日目で43連勝止まる、翌日から44連勝開始、磐石は東関脇で8勝1敗1休。 1797年(寛政9年)10月 西大関 雷電 10戦全勝 12連勝、また千秋楽は五人掛け。 1798年(寛政10年)3月 西大関 雷電 8勝0敗1無勝負1休 20連勝。 1798年(寛政10年)10月 西大関 雷電 9勝0敗1休 29連勝。 1799年(寛政11年)2月 西大関 雷電 6勝0敗1休 悪天候のため7日で打ち上げ、雷電35連勝。 1799年(寛政11年)11月 西大関 雷電 9勝0敗1休 44連勝。 1800年(寛政12年)4月 西関脇 花頂山(柏戸) 3勝0敗1無勝負1休 不景気のため5日間で打ち上げ、柏戸は西小結で3勝0敗2休。 1800年(寛政12年)11月 西関脇 千田川 6勝0敗1無勝負3休 初日に雷電の連勝止まる。
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寛政年間
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寛政の改革の時代。 『有職鎌倉山』(ゆうしょく かまくらやま) (寛政元年・1789) 『鎌倉山』 『彦山権現誓助剣』(ひこさん ごんげん ちかいの すけだち) (寛政2年・1790)『瓢箪棚』(ひょうたん だな)、『杉坂墓所』、『毛谷村』(けやむら) 『傾城阿波の鳴門』(けいせい あわの なると) (寛政2年・1790) 『どんどろ』 『義経腰越状』(よしつね こしごえじょう) (寛政2年・1790) 『五斗三番叟』(ごと さんばそう)、『鉄砲場』 『木下蔭狭間合戦』(このした かげはざま かっせん) (寛政6年・1794) 『石川五右衛門』 『神霊矢口渡』(しんれい やぐちの わたし) (寛政6年・1794) 『お船頓兵衛』 『五大力恋緘』(ごだいりき こいの ふうじめ) (寛政6年・1794) 『八重桐廓話』(やえぎり くるわ ばなし) (寛政7年・1795) 『嫗山姥』(こもち やまんば) 『壇浦兜軍記』(だんのうら かぶと ぐんき) 『阿古屋』、『琴攻め』 (寛政8年・1796) 『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんど こいの ねたば) (寛政8年・1796) 『油屋』 『絵本太功記』(えほん たいこうき) (寛政11年・1799)『太十』(たいじゅう)
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