寛政年間とは? わかりやすく解説

寛政年間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 03:22 UTC 版)

菅江真澄」の記事における「寛政年間」の解説

蝦夷喧辭辨(エミシノサエキ) - 1789年寛政元年4月から6月に、福山から北海道久遠郡せたな町太田権現までを往復した時の日記。江差までは陸路取り、そこから舟に乗り久遠村という蝦夷コタン到着する。ここで蝦夷様子風俗記録し太田権現参拝した帰路天の川に来た時にクナシリ・メナシの戦い伝え早馬出合う太田権現には現在は現存していない多数円空仏見た記している。 昆布苅(ヒロメカリ) - 1789年寛政元年11月中ごろ、今の函館から副山までの海岸歩いた上下2巻記録上巻文章発見されていないアイヌ人の生活を記録している。別に廣布乃具」という書もあり、共に正確な図に満ちている。 蝦夷乃手布利(エゾノテブリ) - 1791年寛政3年5月24日山から東方向への旅にたった半分船旅沢山のスケッチがある。有珠山後方羊蹄山登り6月11日虻川到着した所で日記終わっている。蝦夷の舟に乗り、家に泊り生業尋ね蝦夷風俗言語丹念に記録している。。ムックリイヨマンテ鶴の舞ユーカラなどの風習記録する。 智誌磨濃胆岨(チシマノイソ) - 1792年寛政4年前半日記。春と夏の巻がある。松前城下の正月から、次第春になって野山で遊ぶころまでの季節の移り変わり描かれている。城内男女の歌の門人との交流が多い。歌会中心人物藩主松前道広継母松前文子である。 牧の冬枯 - 1792年寛政4年10月1日大黒屋光太夫根室到着する話を聞く10月7日人々送られ松前出て下北半島奥戸(オコッペ)の港に上陸する恐山登り次々土地風雅人を訪ね盛んに唱和し、田名部の町で正月迎える。 於久宇良宇良(オクノウラウラ) - 1793年寛政5年4月始めから6月30日までの記録佐井村から牛滝港へ小舟移動。3泊後、小舟仏ヶ浦などの景勝地を見ながら北上福浦からは陸路取り佐井村につく。佐井村でしばらく過ごした後、小舟南下今度福浦から陸路佐井村移動。ここで風邪にかかり数日間滞在回復する小舟で、大荒川まで移動ここから藤城片貝脇野沢村まで移動。脇野沢数日過ごし川内、城ヶ沢で宿を取り田名部到着する田名部にしばらく滞在しその間近辺遊覧恐山登る恐山大祭の時は、長期間恐山滞在し宇曽利湖小舟で遊ぶ。 牧の朝露 - 1793年寛政5年)秋の三ヶ月間の記録田名部から大畑移動大畑ではねぶた流し七夕を見る。田名部に戻る途中沢という浜路菊池成章、菊池清茂らに出合う易國間(イコンクマ)、大間奥戸など前年度の冬に歩いたを再び訪れ各地知人交遊し、途上の珍しい見聞記録している。易國間では、大黒屋光太夫事件処理する幕府役人同地宿泊したことを記録している。 尾駁乃牧(ヲブチノマキ) - 1793年寛政5年)冬の三ヶ月間の記録10月下旬に一旦田名部出て太平洋岸を南下し小川原湖牧場地方過ぎて尾駁の牧を経て、さらに南下し行こうとしたが、降雪により断念し再び田名部戻ってきた日記の皮を灯心としカスベの油を灯火にするなど奥州僻村の冬の生活が詳細に記録されている。「尾駁の牧」も「坪」も歌枕関連した地名である。 奥乃手風俗(オクノテブリ) - 1794年寛政6年正月田名部滞在して土地風俗や行事を記録する9日より菊池成章と和歌やりとりをする。2月2日より栗山村から恐山登る氷った宇曽利湖湖上歩いて渡り、小尽山の小屋木こり一緒に杣小屋で眠る。山から降り、城ヶ沢の海岸着いたところで筆を置いている。 (この年現在の十和田市から三戸町八戸市周辺巡り、『千引の石』や『牧の夏草』を記述した思われるが、これらは未発見本となっている) 淤遇濃冬隱(オクノフユゴモリ) - 1795年寛政7年)の日記とあるが、実は前年日記10月から12月までの日記で、この冬も田名部出発しようとして、友人からとめられ結局田名部滞在し翌春にここを立つことにしたと記している。田名部菊池成章と歌の贈答をしたり、日記見せたり交流深めている。 津軽の奥 - これは所有者後で付けた名前。切れ切れの数編の紀行文合綴されている。1795年寛政7年3月22日南部領去り津軽領に入り小湊浅虫々を巡り花を見た記録11年ぶりに弘前黒石周辺訪れ文人交流し11月末に青森引き返した記録1796年寛政8年正月浅虫温泉滞在し正月行事記録し13日からは小湊小正月行事見学2月小湊発ち岩木山登り、さらに岩木山山麓々を巡り弘前方面遊歴し記録からなる家乃山(スミカノヤマ) - 1796年寛政8年4月半ばから5月20日までの遊覧日記青森付近三内千本桜眺め、このの堰から出土した土器記録した史跡巡り風俗記録して、さらに南下し浪岡町水木通り黒石着き筆を置いている。この本は六郷町竹村家写本のみが現存している。大正時代秋田県立図書館竹村家から購入している。 外濱奇勝(ソトガハマキショウ) - これも幾つかの紀行文集めたもので、表題後人付けたもの。過去所蔵主の印章加筆が多い。1796年寛政8年6月弘前出て津軽に遊ぶ。行き十三湖東岸の路を行き竜飛岬の先端巡り小泊村一泊帰り湖西屏風山下を経て7月6日鰺ヶ沢の港についたその間安倍氏遺跡探り源義経伝説記述し十三湖風景記録している。さらに7月16日12年前に通った深浦から秋田藩への道を境の大間越近くまで歩いている。また、1798年思われる3月過ぎに小湊出て弘前至り5月半ば弘前出て岩木山入って薬草を採り、尾太鉱山廃坑見て山上杣小屋山子と共に寝て一昨年の冬に見た暗門の滝眺め深浦入り7月始め深浦出て赤石村の宿に達する。この本は句仏の印章があることから、真澄津軽から去った後は、友人である弘前俳人三谷句仏(みたにくぶつ)が保管していたと考えられる1840年に句仏は江戸帰る山鹿高厚(やまがたかあつ)に餞別としてこれを贈った1922年青森市在住画家佐藤(さとうしとみ)のもとに「外浜奇勝」の直筆本が東京神田古書店出ていることが伝わり佐藤はこれを入手その後、この本は2012年3月青森県立郷土館寄贈された。 雪乃母呂太奇(ユキノモロダキ) - 1796年寛政8年10月末、深浦から岩木山山麓巡り11月1日山奥にある暗門の滝見学した紀行文。再び深浦11月10日戻り残りの冬を過ごす。 津介呂廼遠地(ツガロノヲチ) - 1797年寛政9年正月元日から、6月1日までの日記深浦の町の富豪若狭屋俳人竹越里圭は真澄の最も親し友人であった。そこに5月7日まで滞在し地区独特の正月節句行事を見る。さらに鰺ヶ沢から弘前出て多く旧友訪ね藤崎町安倍貞任次男と言われる高星丸(たかあきまる)と唐絲姫の遺跡探り水木では毛内家に挨拶し6月1日夕顔の今氏の家で病に伏し筆を置いている。 邇辞貴迺波末(ニシキノハマ) - 津軽藩時代の数編の小紀行文順序もなく合綴したもの藤崎村弘前周辺正月風景記述したもの。五所川原2月風景1797年寛政9年6月17日より藩命受けて医師達と薬草取り同行し阿闍羅山付近や、蟹田平舘村周辺薬草採取した記録年代不明だが、8月半ば弘前出て9月半ばまで鰺ヶ沢滞在友人交遊すると共に花山院忠長、羽笠、古燕等の古跡偲んだ記録。 追柯呂能通度(ツガロノツト) - 1798年寛政10年)2篇の日記と2小篇随筆を1冊にしたもの正月元日から同20日まで(平内町童子滞在して正月行事記録したもの。黒石から獅子沢獅子頭石を見物したもの。随筆津軽地方漁と、黒石付近出土土器について考察したものから出来ている。 櫻狩紅葉狩(サクラガリモミジガリ) - 「さくらかり」は津軽有名なの絵10描かれている。「もみじがり」は1798年寛政10年8月半ば十三湊から弘前移動し初雪遭い黒石から花巻中野もみじ山板留沖浦まで移動し各地紅葉狩りをして、藤崎まで帰った記録

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寛政年間(1789年 - 1801年)

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大相撲優勝力士一覧」の記事における「寛政年間(1789年 - 1801年)」の解説

場所番付四股名成績備考1789年(寛政元年)3月 東関脇 小野川 10全勝 1789年(寛政元年)11月 東関脇(横綱) 小野川 8勝0敗1分1預 7日目谷風とともに横綱免許1790年(寛政2年)3月 東大関(横綱) 小野川 8勝0敗1無勝負 1790年(寛政2年)11月 西関脇 雷電 8勝0敗2預 1791年(寛政3年)4月 東大関(横綱) 小野川 8勝0敗1無勝負1休 1791年(寛政3年)11月 東大関(横綱) 小野川 8勝0敗1預1休 1792年(寛政4年)3月 西大関(横綱) 谷風 8勝0敗2休 1792年(寛政4年)11月 西大関(横綱) 谷風 3戦全勝 悪天候のため3日打ち上げ1793年(寛政5年)3月 西大関(横綱) 谷風(雷電) 7勝0敗2休 雷電は西関脇で8勝1敗。 1793年(寛政5年)11月 西関脇 雷電 8勝0敗1預1休 前場千秋楽から9連勝43連勝はじまり1794年(寛政6年)3月 西小雷電 6勝0敗1分1預2休 15連勝1794年(寛政6年)11月 西関脇 雷電 8勝0敗1預1休 23連勝1795年(寛政7年)3月 西大雷電 5戦全勝 悪天候のため5日打ち上げ雷電28連勝1795年(寛政7年)11月 西前2 柏戸 8勝1敗1休 1796年(寛政8年)3月 西小結 花頂山(柏戸) 5勝0敗1分4休 のちの大関市野上柏戸西前2枚目で6勝1敗1分2休。 1796年(寛政8年)10月 西大雷電 9勝0敗1休 前2場所は番付出ず37連勝1797年(寛政9年)3月 西大雷電(磐石) 8勝1敗1休 7日目43連勝止まる翌日から44連勝開始磐石東関脇で8勝1敗1休。 1797年(寛政9年)10月 西大雷電 10全勝 12連勝、また千秋楽五人掛け1798年(寛政10年)3月 西大雷電 8勝0敗1無勝負1休 20連勝1798年(寛政10年)10月 西大雷電 9勝0敗1休 29連勝1799年(寛政11年)2月 西大雷電 6勝0敗1休 悪天候のため7日打ち上げ雷電35連勝1799年(寛政11年)11月 西大雷電 9勝0敗1休 44連勝1800年(寛政12年)4月 西関脇 花頂山(柏戸) 3勝0敗1無勝負1休 不景気のため5日間で打ち上げ柏戸西小結で3勝0敗2休。 1800年(寛政12年)11月 西関脇 千田川 6勝0敗1無勝負3休 初日雷電連勝止まる

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寛政年間

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歌舞伎の演目一覧」の記事における「寛政年間」の解説

寛政の改革時代。 『有職鎌倉山』(ゆうしょく かまくらやま) (寛政元年1789) 『鎌倉山』 『彦山権現誓助剣』(ひこさん ごんげん ちかいの すけだち) (寛政2年・1790)『瓢箪』(ひょうたん だな)、『杉坂墓所』、『毛谷村』(けやむら) 『傾城阿波の鳴門』(けいせい あわの なると) (寛政2年・1790) 『どんどろ』 『義経腰越状』(よしつね こしごえじょう) (寛政2年・1790) 『五斗三番叟』(ごと さんばそう)、『鉄砲場』 『木下蔭狭間合戦』(このした かげはざま かっせん) (寛政6年・1794) 『石川五右衛門』 『神霊矢口渡』(しんれい やぐちの わたし) (寛政6年・1794) 『お船兵衛』 『五大力恋緘』(ごだいりき こいの ふうじめ) (寛政6年・1794) 『八重廓話』(やえぎり くるわ ばなし) (寛政7年・1795) 『嫗山姥』(こもち やまんば) 『壇浦兜軍記』(だんのうら かぶと ぐんき) 『阿古屋』、『琴攻め』 (寛政8年・1796) 『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんど こいの ねたば) (寛政8年・1796) 『油屋』 『絵本太功記』(えほん たいこうき) (寛政11年・1799)『太十』(たいじゅう

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