「近代日本の地下水脈 I」(その3)

保阪正康「近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇」の3回目。

71cD8ZjwQiL_SL1500_.jpg 今日は、近代日本で神に祀り上げられた天皇がこの時代をどう過ごしたかに注目しよう。
著者は「平成の天皇・皇后両陛下にお目にかかって雑談をさせていただく機会を計六回いただいた」とのことである。
もちろん軍事国家時代の天皇は昭和天皇だから、平成の天皇の話は昭和天皇ご本人のお考えとは違うだろうし、もし昭和天皇と話せたとしても、必ずしも本当のことをお話しになったかはあやしいと思う。だが、昭和天皇の身近におられた平成天皇が語ることにはかなりの重みもあるだろう。

著者がもっとも驚いたと書いているのは、民主主義についてだ。
 平成の天皇と「民主主義」
 さて、平成の天皇は自身の内面と天皇という役割について、どう捉えていたのだろうか。私は平成の天皇・皇后両陛下にお目にかかって雑談をさせていただく機会を計六回いただいた。陛下は日本の近現代史に強い興味を示されていた。とりわけ太平洋戦争に至る経緯については、ご自身で数々の文献に当たられて勉強されていることもわかり、私は驚きを禁じ得なかった。
 そうした雑談の中で感じられたのは、「なぜ日本は戦争への道を歩んでしまったのか。戦争は決して起こしてはならない」という陛下の強い思いである。また、「自分の代には戦争がなかった」ことを非常に喜んでおられることも、ひしひしと伝わってきた。
 陛下との会話で私が最も驚いたことのひとつに、「日本にはどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」という言葉があった。短い言葉ではあるが、ここには日本の近現代史に内在する問題と、陛下ご自身の長年の思いが凝縮されていると私は考えている。
 明治維新以降、天皇制は絶対のものとされ、民主主義の導入を目指す動きはことごとく弾圧されてきた。だが、陛下は、皇太子時代から東宮職参与の小泉信三らの教えをはじめとして、ご自身の目で戦後民主主義の発展を見ながら成長された。元学友らの証言の中には、高校時代に「再軍備には絶対に反対である」「あくまでも新憲法を順守する」といっ考えを述べられたと伝えるものも多い。
 また、「父(昭和天皇)の歩んだ戦争への道に疑問を覚え、悩んだこともある」と述べられたのを伺ったという学友の証言もある。昭和二十年代は学習院にも赤化した教授や学生が多くおり、皇太子が心無い言葉を浴びせられることも少なくなかったという。
 そうした環境の中で、父・昭和天皇はなぜ戦争を避けられなかったのか、自分が皇位を継承した時、このような事態にどう対応すべきかを、陛下は常に自問自答してこられたと思われる。その意味においては、平成の天皇陛下は「天皇」としての役割と「明仁」個人の内面を、民主主義の下において一体化されたのである。

はじめに 失敗の本質は軍事主導」にあった
「人命軽視」の答えを探す旅/戦争が「ビジネス」であった戦前の日本/日本が模索した「五つの国家像」/「地下水脈化」した国家像/西南戦争と民権運動
 
第1章 日本にありえた「五つの国家像」
「歴史の地下水脈」とはなにか?/司馬遼太郎が指摘した「攘夷の地下水脈」/五つの国家像/暴力によって成立した体制は暴力でしか守れない/山縣有朋の「主権線」と「利益線」/戦争を「ビジネス」にした日本軍エリート/日本は帝国主義の「実験国家」/人身売買有罪と「芸娼妓解放令」/「道義」を掲げ中国で戦った日本人/不平士族と民権運動/藩をもとにしたアメリカ型の連邦制国家/攘夷と「小日本主義」/無自覚的帝国主義からの出発/日本が植民地化を免れた要因/不平等条約という重荷/日本人乗客だけが全員死亡/プロイセンに理想の国家像を見る/征韓論の台頭/征韓論は「帝国主義」の萌芽か/天皇に武力を与える
 
第2章 武装する天皇制
天皇の武装化はなぜ必要だったのか?/武士と農民の不満/「軍人勅諭」で神話を国家原理に/政治への関与を厳しく戒める/「統帥権」と「輔弼」で軍人がやりたい放題/「明治政府にとって都合のよい天皇」に仕立てる/「これは朕の戦争ではない」/涙を流した明治天皇/伊藤博文の「説得」/大正天皇の文学的才能/御製に託した厭戦気分/昭和天皇の帝王学/「しかし、よくやった」/統帥権を行使できなかった昭和天皇/勝手に作られた「天皇のイメージ」/皇族が首相になるのには反対/昭和天皇の独り言/ポツダム宣言受諾を決めた理由/昭和天皇の涙の意味/昭和天皇に戦争責任はあるか?/戦争責任は「言葉のアヤ」/平成の天皇と「民主主義」
 
第3章 「軍事哲学」なき軍の暴走
軍事哲学とはなにか?/「海主陸従」の逆転/フランス陸軍をモデルにする/プロイセン方式へ乗り換える/アメリカの軍制を採用しなかった理由/戦術を学んでも「軍事哲学」は学ばず/シビリアン・コントロールなき日本/丸暗記とゴマスリのエリートたち/朝鮮半島進出への野望/「主権線」と「利益線」/清を仮想敵国に設定/民権派から国権派に転じた徳富蘇峰/清を騙した西欧列強/三国干渉の屈辱と「臥薪嘗胆」/戦争の「蜜の味」/閔妃暗殺事件の謀略/森鷗外が翻訳したクラウゼヴィッツ/中国を「面」で支配する無謀/東條英機のお粗末な答弁/石原莞爾の軍事哲学/「世界最終戦論」/アメリカを知らなかった軍人たち/「親米保守」の空虚な思想/自壊する日本のナショナリズム/いまだ軍事哲学なき日本
 
第4章 戦争が「営利事業」だった日本型資本主義
日本型資本主義の歪みの元凶!/「藩士」から「サラリーマン」へ/経済秩序は「藩」から「国家」へ/藩士たちの大リストラ時代/「政商」五代友厚/三菱と三井の台頭/渋沢栄一vs.岩崎弥太郎/古河市兵衛と足尾銅山/「戦争に勝てばカネが儲かる」と学習/欲望むき出しの帝国主義/「生産性」と「利益配当」への理解が歪む/安田善次郎の禁欲的労働観/大原孫三郎が目指した理想の企業/「資本家は民衆の敵」となる/金融恐慌と財閥の支配強化/「金解禁」という選択/昭和財閥に向けられた凶弾/中国侵略というビジネス/満州に進出した新興財閥
 
第5章 なぜ日本に民主主義は根付かなかったのか?
日本型民主主義とはなにか?/昭和天皇が引用した「五箇条の御誓文」/日本型民主主義の原点は聖徳太子「十七条憲法」/自由民権運動に与えた影響/天皇と国民の間の回路がふさがれる/黒田清隆の脅え/御雇外国人たちの提案を拒否/いきなり過半数割れした「吏党」/予算の通過が困難に/薩長至上主義を丸出し/政党政治のはじまり/「憲政の常道」の成立/五・一五事件の異様な法廷/軍人が政治家を「黙れ」と一喝/「皇紀二六〇〇年」という転回点/攘夷の地下水脈が噴出/神話を国家のルーツに制定/日本人差別への憤り/共産主義への恐怖/仕掛けられた「神話ブーム」/「不要不急」の贅沢品がやり玉に/閉塞感の中で迎えた祝祭/蘇生した尊王攘夷/反軍部の闘士が掲げた御誓文/昭和天皇の「人間宣言」/「民主主義というものは決して輸入のものではない」/天皇が要求した御誓文の挿入/天皇側近との暗闘/天皇の「自己批判」/石橋湛山の「わが五つの誓い」/「与えられた権利」の空虚さ
 
おわりに
戦後日本に根付かなかったもの、民主主義と地方自治、私の持論だが、平成の天皇も民主主義が根付かなかったとお考えのようだ。(これで私の持論も箔が付く?)
そういえば、昭和天皇のときから、多分今でも、天皇は靖国を参拝されない。だからといって「英霊」を軽視されているわけではないと思う。

であるけれど、日本にも民主主義のようなものがあったのだという主張もされたかったらしい。
私には少々無理があると思えるけれど、戦後出された詔書において、五か条の御誓文を入れるというのが昭和天皇の意思だったらしい。
 昭和天皇が引用した「五箇条御誓文」
 日本の民主主義を考える糸口として、まずは「五箇条の御誓文」に注目してみたい。
 敗戦から五カ月後の昭和二十一(一九四六)年一月一日、官報の号外が出され、昭和天皇による「新日本建設に関する詔書」が掲載された。その冒頭には、「五箇条の御誓文」が引用されている。

一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、舊來ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ


本書では、日本の「民主主義」の底流には、聖徳太子の十七条憲法があるともいっている。
一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

一曰く、和をもって尊しとし、逆らわないのを教義とせよ。人は皆、群れるし、また頭の達者な者は少ない。 それゆえ、あるいは父たる天皇に従わず、背くにおいて隣の里。しかれども、上が和らぎ下と睦まじく、戯れにおいて事を論じれば、すなわち事の道理は自ら通じる。何事においても成し遂げられないことがあろうか。


五か条の御誓文も十七条憲法も、国民一般を対象とするものではなく、朝廷の役人向けのものだという話があり、暴力ではなく議論によって事を決するようにという趣旨だとする。そう考えれば民主主義の底流とはいいがたい。
しかし重要なのは、そうした歴史学的解釈ではなくて、民主国家として再出発するにあたって、国民にそれが日本の本来の姿であるという主張をしたかったということだ。

ところで天皇の戦争責任について、著者は次のように述べる。
 昭和天皇に戦争責任はあるか?
 戦後の日本人が直視してこなかったものに「天皇と戦争の関係」がある。
 私は講演などで、二つの質問を受けることがよくある。一つは「天皇に戦争責任はありますか?」という質問、もう一つは「天皇は平和主義者だったのですか? それとも好戦主義者だったのですか?」という質問だ。
 これらの質問は、左翼公式史観の側からの決めつけであることに、質問者が気づいていないことが多い。「天皇は軍部の最高責任者なのだから、実際に戦争を指揮していたはずだ。だから好戦主義者だ。戦争責任を問われないのはおかしい」といったレトリックに嵌まってしまっているのだ。
 ここで私の立ち位置を先に簡潔に記しておくが、昭和天皇には戦争に関連するすべての責任とは言わないまでも、その一部に関して「責任はあった」と言うべきだと考えている。また、天皇は平和主義者と好戦主義者のどちらでもない、と考えている。これは昭和天皇だけでなく、明治天皇、大正天皇も含めてである。早合点しないでほしいのは、私の考えは、「戦争責任」という曖昧な言葉をもとにした責任論ではないという点だ。「戦争についての責任」を要因に分解して検証した場合、いくつかの点で責任があったとみなすことができるというのが私の見立てである。
 また、天皇が平和主義者でも好戦主義者でもないことは、「歴代天皇が最も重視していたことは何か?」という点を検証すれば自ずと明らかになる。先に説明したが、天皇が最も重視していたのは「皇統の存続」である。戦争を継続するか止めさせるかは、皇統の存続にとってどちらが有利かという判断による結果だった。

戦争責任についてはこのとおりだろうと思うが、私が注目したのは「歴代天皇が最も重視していたことは何か?」であり、それは皇統の存続だということだ。
それが政治に反映したのが、皇族首相を天皇が嫌ったことだ。
 皇族が首相になるのには反対
 昭和天皇はなぜ開戦に反対したのか。それは、戦争が引き金となって君主制が倒れてゆく欧州の模様に危機感を抱いていたからだ。二十世紀初頭、欧州で君主制でなかったのはフランスとスイスのみであった。ところが第一次大戦などの戦乱後、君主制は次々と潰れていった。
 近衛も戦争は避けたかった。しかし軍の説得はできず内閣を投げ出し、自らの後任に陸軍大将だった東久邇宮稔彦王を推した。しかし天皇はこれを退け、内大臣の木戸幸一の推薦を受け入れて、陸軍大臣の東條英機を首相とする方針を示した。その思いが『昭和天皇独白録』に記されている。
「私は皇族が政治の責任者となる事は良くないと思った。尤も軍が絶対的に平和保持の方針で進むと云ふなら、必ずしも拒否すべきではないと考へ木戸をして軍に相談させた処、東条の話に依れば、絶対に平和になるとは限らぬと云ふ事であった。それで若し皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を採(ママ)る事となるので良くないと思ったし又東久邇宮も之を欲して居なかったので、陸軍の要求は之を退けて東条に組閣をさせた」
 東久邇宮が開戦時の首相となっていたら、「戦犯」として東京裁判で裁かれていただろう。天皇のこの判断は、皇統を守るという意味では奏功したと言えるかもしれない。
 待望論があった東久邇宮は日記に「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ、開戦論者の東条を後継内閣の首班に推薦し、また陛下がなぜこれを御採用になったか、その理由が私にはわからない」などと記している。東條らは、九月六日の天皇による異例の発言から、天皇が開戦に消極的なことを知った。しかし東條を含む軍人、官僚はその意思を無視した。

もともと明治憲法が、天皇を最高位に位置付けながら、責任を負わせないつくりになっていたから、天皇としては、自分の置かれた立場で何が最重要かを考えれば、とにかく皇統をつなぐことという考えに至ったのであろう。
ここには等身大の人間としての天皇の姿が見えると私は思う。

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