「近代日本の地下水脈 I」
保阪正康「近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇」について。
歴史は繰り返すというが、繰り返すにはその動因みたいなものもあるのだろう。
それが著者が言う「地下水脈」ということらしい。歴史の表から影を潜めているが、あるときそれが力を得て表へ出てくることがあるというわけだ。
本書ではその動因になるものを5つ挙げている。「はじめに」から引用しよう。
上の引用では五つの国家像とされているが、私が思うに、これらの国家像はそれほど明確に意識されていたとも思えない。そういう感じのものと言う程度で、そのそれぞれを支持・主張する勢力があるのだと思う。
それは措いて、本書がとりあげる近代日本の時代は先の大戦での敗戦に至るまでで、この間、日本国を支配した国家像は①の帝国主義国家である。
この帝国主義国家は大失敗したわけだが、日本国民はそれ一色だったわけではなく、②~④を宜しとする人たちもいたとする。
たとえば②道義的帝国主義国家については、孫文が主導した辛亥革命に協力した多数の日本人がいた。
③民権国家については、歴史の授業でも習う自由民権運動である。ただ私は、中央での権力争いに敗れて下野した人たちが運動の中心となっているのは、なんだか純粋な自由・民主とは評価しがたいが。
④連邦制国家については、そもそも江戸時代の幕藩体制は、連邦制国家のようなものであり、その遺風は脈々と続いているとする。そしてそれは国家体制とはレベルの違う、会社組織のような形で現出する場合もあるという。興味深い例として大原孫三郎が挙げられている。
⑤小日本国家は、江戸幕府時代がそうだったかもしれないが、この小国家を目指す人たちは、鎖国ではなく貿易を軸にする。身の丈にあった国家像を求めたといえるのだろう。
しかし②~④は、すでに動き出した①に対抗しうるものとはならなかった。いわずとしれた軍事最優先国家体制が確固としたものとなり、一般国民もそのための教育で「洗脳」されてしまっては、②~④の主張は広く受け入れられなかったのだろう。まして日中戦争が始まると、それらは軍に非協力的なものとして排斥されることとなる。
本書がもっともページ数を充てるのは、やはり軍事国家がどうやって作られ、どんなものだったかである。
自分たちは正義である、だから自分たちがやりたいようにやれる体制が最善であると信じていたのだろう。
軍事国家という方向性は、萌芽的には征韓論の頃からあったとも言われるが、決定的になったのは日清戦争だとする。
戦争に勝って賠償金をせしめたら、国民も少しラクができて喜び、軍はエラいということになり、何をやっているか国民にはわからない役人より人気がでる、そういうことだ。ここにも民主主義はない。
そして日露戦争の辛勝が決定的だ。軍が頑張ったのに政府役人は何をしてくれるんだ、というわけである。
そうやって軍事国家を固めたのだけれど、指導者の質は感心できないものだった。
この「平和克復、ソレガ戦時ノ終リデアリマス」という答弁があったと聞くと、2004年のイラク特措法について非戦闘地域はどこかという質問に対する小泉首相答弁「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」を思い出す。
近代日本の地下水脈のうち、①帝国主義(軍事)国家という国家像は、今でもしっかり流れている。
歴史は繰り返すというが、繰り返すにはその動因みたいなものもあるのだろう。
それが著者が言う「地下水脈」ということらしい。歴史の表から影を潜めているが、あるときそれが力を得て表へ出てくることがあるというわけだ。
歴史は繰り返す、それは人間が歴史から学ばず、同じ過ちを繰り返すという違う意味もあるけど。
本書ではその動因になるものを5つ挙げている。「はじめに」から引用しよう。
徳川幕府が倒れて明治新政府が誕生したものの、新政府内の指導者には、日本が進むべき「国家ビジョン」が明確にあったわけではない。明治二十二(一八八九)年に大日本帝国憲法ができるまでのほぼ二十年間は、「日本という国をこれからどのように作り変えていくか?」をめぐって、さまざまな勢力の〝主導権争い〟がおこなわれた時期だった。
私はこの間に、次の五つの国家像が模索されたと考えている。
私はこの間に、次の五つの国家像が模索されたと考えている。
①欧米列強にならう帝国主義国家
②欧米とは異なる道義的帝国主義国家
③自由民権を軸にした民権国家
④アメリカにならう連邦制国家
⑤攘夷を貫く小日本国家
はじめに 失敗の本質は軍事主導」にあった | |
「人命軽視」の答えを探す旅/戦争が「ビジネス」であった戦前の日本/日本が模索した「五つの国家像」/「地下水脈化」した国家像/西南戦争と民権運動 | |
第1章 日本にありえた「五つの国家像」 | |
「歴史の地下水脈」とはなにか?/司馬遼太郎が指摘した「攘夷の地下水脈」/五つの国家像/暴力によって成立した体制は暴力でしか守れない/山縣有朋の「主権線」と「利益線」/戦争を「ビジネス」にした日本軍エリート/日本は帝国主義の「実験国家」/人身売買有罪と「芸娼妓解放令」/「道義」を掲げ中国で戦った日本人/不平士族と民権運動/藩をもとにしたアメリカ型の連邦制国家/攘夷と「小日本主義」/無自覚的帝国主義からの出発/日本が植民地化を免れた要因/不平等条約という重荷/日本人乗客だけが全員死亡/プロイセンに理想の国家像を見る/征韓論の台頭/征韓論は「帝国主義」の萌芽か/天皇に武力を与える | |
第2章 武装する天皇制 | |
天皇の武装化はなぜ必要だったのか?/武士と農民の不満/「軍人勅諭」で神話を国家原理に/政治への関与を厳しく戒める/「統帥権」と「輔弼」で軍人がやりたい放題/「明治政府にとって都合のよい天皇」に仕立てる/「これは朕の戦争ではない」/涙を流した明治天皇/伊藤博文の「説得」/大正天皇の文学的才能/御製に託した厭戦気分/昭和天皇の帝王学/「しかし、よくやった」/統帥権を行使できなかった昭和天皇/勝手に作られた「天皇のイメージ」/皇族が首相になるのには反対/昭和天皇の独り言/ポツダム宣言受諾を決めた理由/昭和天皇の涙の意味/昭和天皇に戦争責任はあるか?/戦争責任は「言葉のアヤ」/平成の天皇と「民主主義」 | |
第3章 「軍事哲学」なき軍の暴走 | |
軍事哲学とはなにか?/「海主陸従」の逆転/フランス陸軍をモデルにする/プロイセン方式へ乗り換える/アメリカの軍制を採用しなかった理由/戦術を学んでも「軍事哲学」は学ばず/シビリアン・コントロールなき日本/丸暗記とゴマスリのエリートたち/朝鮮半島進出への野望/「主権線」と「利益線」/清を仮想敵国に設定/民権派から国権派に転じた徳富蘇峰/清を騙した西欧列強/三国干渉の屈辱と「臥薪嘗胆」/戦争の「蜜の味」/閔妃暗殺事件の謀略/森鷗外が翻訳したクラウゼヴィッツ/中国を「面」で支配する無謀/東條英機のお粗末な答弁/石原莞爾の軍事哲学/「世界最終戦論」/アメリカを知らなかった軍人たち/「親米保守」の空虚な思想/自壊する日本のナショナリズム/いまだ軍事哲学なき日本 | |
第4章 戦争が「営利事業」だった日本型資本主義 | |
日本型資本主義の歪みの元凶!/「藩士」から「サラリーマン」へ/経済秩序は「藩」から「国家」へ/藩士たちの大リストラ時代/「政商」五代友厚/三菱と三井の台頭/渋沢栄一vs.岩崎弥太郎/古河市兵衛と足尾銅山/「戦争に勝てばカネが儲かる」と学習/欲望むき出しの帝国主義/「生産性」と「利益配当」への理解が歪む/安田善次郎の禁欲的労働観/大原孫三郎が目指した理想の企業/「資本家は民衆の敵」となる/金融恐慌と財閥の支配強化/「金解禁」という選択/昭和財閥に向けられた凶弾/中国侵略というビジネス/満州に進出した新興財閥 | |
第5章 なぜ日本に民主主義は根付かなかったのか? | |
日本型民主主義とはなにか?/昭和天皇が引用した「五箇条の御誓文」/日本型民主主義の原点は聖徳太子「十七条憲法」/自由民権運動に与えた影響/天皇と国民の間の回路がふさがれる/黒田清隆の脅え/御雇外国人たちの提案を拒否/いきなり過半数割れした「吏党」/予算の通過が困難に/薩長至上主義を丸出し/政党政治のはじまり/「憲政の常道」の成立/五・一五事件の異様な法廷/軍人が政治家を「黙れ」と一喝/「皇紀二六〇〇年」という転回点/攘夷の地下水脈が噴出/神話を国家のルーツに制定/日本人差別への憤り/共産主義への恐怖/仕掛けられた「神話ブーム」/「不要不急」の贅沢品がやり玉に/閉塞感の中で迎えた祝祭/蘇生した尊王攘夷/反軍部の闘士が掲げた御誓文/昭和天皇の「人間宣言」/「民主主義というものは決して輸入のものではない」/天皇が要求した御誓文の挿入/天皇側近との暗闘/天皇の「自己批判」/石橋湛山の「わが五つの誓い」/「与えられた権利」の空虚さ | |
おわりに |
それは措いて、本書がとりあげる近代日本の時代は先の大戦での敗戦に至るまでで、この間、日本国を支配した国家像は①の帝国主義国家である。
この帝国主義国家は大失敗したわけだが、日本国民はそれ一色だったわけではなく、②~④を宜しとする人たちもいたとする。
たとえば②道義的帝国主義国家については、孫文が主導した辛亥革命に協力した多数の日本人がいた。
「道義」を掲げ中国で戦った日本人
もう一つ、興味深い事例がある。中国の革命家・孫文が主導した辛亥革命に、多数の日本人が協力していたことだ。著名な人物としては、宮崎滔天、山田良政、弟の山田純三郎、玄洋社の頭山満などがいる。
孫文は清朝帝政を打倒するためなら「百回でも二百回でも革命をやって、最後に一回成功すればいい」との発想の持ち主だった。そして十一回目となる革命が、明治四十四(一九一一年)、ようやく成功した。当然、失敗の過程では多数の同志が死んだが、五百人もの日本人が死んだという記録がある。 しかし、名前が残っていない。彼らはなぜ、生命をしてまで他国の革命に参加したのか。
山田良政は津軽藩士の子として生まれ、青森師範学校を退学後、同郷の先輩だった反骨の新聞記者、陸羯南を頼って上京した。 水産伝習所(後の東京海洋大学)を卒業して上海に渡り、日清戦争では陸軍の情報将校として従軍した。のちに来日した孫文の思想に共鳴し、明治三十三年、孫文が仕掛けた恵州蜂起に参加した。
山田はこのとき、清朝政府に捕らえられ、厳しい尋問を受けた。 中国語が堪能だったが、日本人と見破られ、「日本人であると認めれば釈放する」と言われた。日本人を処刑したら国際問題になる、と清朝政府側は恐れていたからだ。ところが山田は命乞いをすることもなく、「私は中国人だ。 お前らを倒すのが目的だ」と言い続け、結局、処刑されてしま った。
山田たちを動かしたのは、中国の庶民が置かれている悲惨な状況をどうにかしたいという、道義にもとづく情熱であった。
もう一つ、興味深い事例がある。中国の革命家・孫文が主導した辛亥革命に、多数の日本人が協力していたことだ。著名な人物としては、宮崎滔天、山田良政、弟の山田純三郎、玄洋社の頭山満などがいる。
孫文は清朝帝政を打倒するためなら「百回でも二百回でも革命をやって、最後に一回成功すればいい」との発想の持ち主だった。そして十一回目となる革命が、明治四十四(一九一一年)、ようやく成功した。当然、失敗の過程では多数の同志が死んだが、五百人もの日本人が死んだという記録がある。 しかし、名前が残っていない。彼らはなぜ、生命をしてまで他国の革命に参加したのか。
山田良政は津軽藩士の子として生まれ、青森師範学校を退学後、同郷の先輩だった反骨の新聞記者、陸羯南を頼って上京した。 水産伝習所(後の東京海洋大学)を卒業して上海に渡り、日清戦争では陸軍の情報将校として従軍した。のちに来日した孫文の思想に共鳴し、明治三十三年、孫文が仕掛けた恵州蜂起に参加した。
山田はこのとき、清朝政府に捕らえられ、厳しい尋問を受けた。 中国語が堪能だったが、日本人と見破られ、「日本人であると認めれば釈放する」と言われた。日本人を処刑したら国際問題になる、と清朝政府側は恐れていたからだ。ところが山田は命乞いをすることもなく、「私は中国人だ。 お前らを倒すのが目的だ」と言い続け、結局、処刑されてしま った。
山田たちを動かしたのは、中国の庶民が置かれている悲惨な状況をどうにかしたいという、道義にもとづく情熱であった。
③民権国家については、歴史の授業でも習う自由民権運動である。ただ私は、中央での権力争いに敗れて下野した人たちが運動の中心となっているのは、なんだか純粋な自由・民主とは評価しがたいが。
④連邦制国家については、そもそも江戸時代の幕藩体制は、連邦制国家のようなものであり、その遺風は脈々と続いているとする。そしてそれは国家体制とはレベルの違う、会社組織のような形で現出する場合もあるという。興味深い例として大原孫三郎が挙げられている。
大原孫三郎が目指した理想の企業
安田善次郎よりやや時代は下るが、同じ明治期に独自の企業経営をし、社会貢献にも力を入れたユニークな企業があった。岡山藩士の血筋をひく大原孝四郎らが立ち上げた倉敷紡績所(現・クラボウ)である。
同社もいわゆる政商とは一線を画す存在であったが、経営理念に「藩」の地下水脈が見て取れるという点においても、注目に値する。
二代目社長の大原孫三郎は東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業して明治三十九(一九〇六)年、父孝四郎の跡を継いだ。二十六歳の青年社長となった孫三郎は、事業の多角化を進め、倉敷毛織、倉敷絹織(現・クラレ)、中国合同銀行(現・中国銀行)、中国水力電気会社(現・中国電力)などを設立。その一方で、従業員とその家族たちの教育に惜しみなく財をつぎ込み、職場環境の改善を進めた。
当時の紡績工場の主力は農村から出稼ぎに来ていた女工たちだったが、長時間労働や劣悪な作業環境で体を壊すことが多かった。「女工哀史」の世界である。そうした中、孫三郎は大正十(一九二一)年、倉敷労働科学研究所を設立した。心身の病気や衣食住のあり方などを研究させ、女工たちの待遇改善に役立てた。
さらに大正十二年には、倉紡中央病院を開院した。このころ同社グループの従業員は一万人近くになっていたが、従業員の健康管理と診察を十分に行うため、最先端の設備を整えた総合病院を設けることにしたのである。同病院はのちに従業員だけでなく一般にも開放された。これらに先立つ大正八年には、大原社会問題研究所(現・法政大学大原社会問題研究所)を設立し、社会科学研究の拠点を作った。昭和五(一九三〇)年には日本最初の西洋美術館となる大原美術館も開館させている。
「資本も経済も産業も技術も、すべて人間のため」というのが孫三郎の信念であった。本業だけでなく、医療や福祉・慈善、教育、文化など各方面に投資をおこなった。重役らは強く反対したが、孫三郎は「事業に冒険はつきもの、儂の眼には十年先が見える」と、一顧だにしなかった。
孫三郎の経営理念を見てみると、ひとつの企業グループが、従業員やその家族を養い、人材育成や文化発展までを担うことを理想としている。これは維新後の近代日本が取りえた国家像のうち、「連邦制国家」と親和性のある発想である。企業グループという小国家の中で従業員の生活すべてが成り立つという理念は、江戸時代の「藩」の地下水脈につながるとみることもできる。
であるけれどこの会社関係者以外にしてみれば、これも悪辣な資本と政商らと等し並みに断罪される世の中になっていくのである。安田善次郎よりやや時代は下るが、同じ明治期に独自の企業経営をし、社会貢献にも力を入れたユニークな企業があった。岡山藩士の血筋をひく大原孝四郎らが立ち上げた倉敷紡績所(現・クラボウ)である。
同社もいわゆる政商とは一線を画す存在であったが、経営理念に「藩」の地下水脈が見て取れるという点においても、注目に値する。
二代目社長の大原孫三郎は東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業して明治三十九(一九〇六)年、父孝四郎の跡を継いだ。二十六歳の青年社長となった孫三郎は、事業の多角化を進め、倉敷毛織、倉敷絹織(現・クラレ)、中国合同銀行(現・中国銀行)、中国水力電気会社(現・中国電力)などを設立。その一方で、従業員とその家族たちの教育に惜しみなく財をつぎ込み、職場環境の改善を進めた。
当時の紡績工場の主力は農村から出稼ぎに来ていた女工たちだったが、長時間労働や劣悪な作業環境で体を壊すことが多かった。「女工哀史」の世界である。そうした中、孫三郎は大正十(一九二一)年、倉敷労働科学研究所を設立した。心身の病気や衣食住のあり方などを研究させ、女工たちの待遇改善に役立てた。
さらに大正十二年には、倉紡中央病院を開院した。このころ同社グループの従業員は一万人近くになっていたが、従業員の健康管理と診察を十分に行うため、最先端の設備を整えた総合病院を設けることにしたのである。同病院はのちに従業員だけでなく一般にも開放された。これらに先立つ大正八年には、大原社会問題研究所(現・法政大学大原社会問題研究所)を設立し、社会科学研究の拠点を作った。昭和五(一九三〇)年には日本最初の西洋美術館となる大原美術館も開館させている。
「資本も経済も産業も技術も、すべて人間のため」というのが孫三郎の信念であった。本業だけでなく、医療や福祉・慈善、教育、文化など各方面に投資をおこなった。重役らは強く反対したが、孫三郎は「事業に冒険はつきもの、儂の眼には十年先が見える」と、一顧だにしなかった。
孫三郎の経営理念を見てみると、ひとつの企業グループが、従業員やその家族を養い、人材育成や文化発展までを担うことを理想としている。これは維新後の近代日本が取りえた国家像のうち、「連邦制国家」と親和性のある発想である。企業グループという小国家の中で従業員の生活すべてが成り立つという理念は、江戸時代の「藩」の地下水脈につながるとみることもできる。
⑤小日本国家は、江戸幕府時代がそうだったかもしれないが、この小国家を目指す人たちは、鎖国ではなく貿易を軸にする。身の丈にあった国家像を求めたといえるのだろう。
しかし②~④は、すでに動き出した①に対抗しうるものとはならなかった。いわずとしれた軍事最優先国家体制が確固としたものとなり、一般国民もそのための教育で「洗脳」されてしまっては、②~④の主張は広く受け入れられなかったのだろう。まして日中戦争が始まると、それらは軍に非協力的なものとして排斥されることとなる。
本書がもっともページ数を充てるのは、やはり軍事国家がどうやって作られ、どんなものだったかである。
「統帥権」と「輔弼」で軍人がやりたい放題
軍人勅諭の最大のポイントは、「統帥権」の確立にあった。天皇はすべての軍を統帥する最高責任者である。また、軍は天皇に直属し、国民や議会のコントロールは受けないということである。この構図は明治憲法第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」で完成した。天皇は「大元帥」となったのである。第十二条では「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」、第十三条では「天皇は戦を宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とし、天皇が絶対的な権限を持つことになった。
一方で、大日本帝国憲法は天皇を国家の最高権力者と規定しつつも、直接的に権力をふるうものではないと規定した。 第五十五条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」としている。権力の行使は天皇の名においておこなわれるが、臣下の国務大臣が輔弼(助言君)するのであり、実際の責任は国務大臣が負う、ということである。
この「輔弼」という言葉は、近代天皇制の本質を理解するうえで極めて重要である。
天皇は最高権力者といえども森羅万象をすべて理解できるわけではないため、権力行使それぞれの臣下の者に任せるのは合理的でもある。だが別の面から見れば、臣下の者が天皇の名の下に好き放題できる仕組みとも言える。とくに軍部としては、外部からの介入を防ぎたい。そこで軍部はは統帥権を盾に、そうした介入を排除しようとしたわけである。輔弼者である政治家や軍幹部らは、天皇の命という虚構をもとに自らのふるう権力を正当化し、やりたい放題できる。なおかつ責任を回避できる。
根本的に民主主義という概念自体がなかった。たしかに軍人の中には、たとえば二・二六を起こしたような、国民の悲惨な状況をなんとか改善したい、国民を守りたいと考える人もいただろうが、彼ら軍人は、決して国民の意思というものを認めていたとは思えない。軍人勅諭の最大のポイントは、「統帥権」の確立にあった。天皇はすべての軍を統帥する最高責任者である。また、軍は天皇に直属し、国民や議会のコントロールは受けないということである。この構図は明治憲法第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」で完成した。天皇は「大元帥」となったのである。第十二条では「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」、第十三条では「天皇は戦を宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とし、天皇が絶対的な権限を持つことになった。
一方で、大日本帝国憲法は天皇を国家の最高権力者と規定しつつも、直接的に権力をふるうものではないと規定した。 第五十五条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」としている。権力の行使は天皇の名においておこなわれるが、臣下の国務大臣が輔弼(助言君)するのであり、実際の責任は国務大臣が負う、ということである。
この「輔弼」という言葉は、近代天皇制の本質を理解するうえで極めて重要である。
天皇は最高権力者といえども森羅万象をすべて理解できるわけではないため、権力行使それぞれの臣下の者に任せるのは合理的でもある。だが別の面から見れば、臣下の者が天皇の名の下に好き放題できる仕組みとも言える。とくに軍部としては、外部からの介入を防ぎたい。そこで軍部はは統帥権を盾に、そうした介入を排除しようとしたわけである。輔弼者である政治家や軍幹部らは、天皇の命という虚構をもとに自らのふるう権力を正当化し、やりたい放題できる。なおかつ責任を回避できる。
自分たちは正義である、だから自分たちがやりたいようにやれる体制が最善であると信じていたのだろう。
犯罪の摘発において証拠が乏しく逮捕・告訴に至らない状況で、証拠を捏造する正義と同様である。最近、そんな設定のテレビドラマがあるが、私は不快である。
軍事国家という方向性は、萌芽的には征韓論の頃からあったとも言われるが、決定的になったのは日清戦争だとする。
戦争の「蜜の味」
三国干渉の経験は、大きな意味で日本社会の構造を変容させた。政治や軍事においても、伊藤博文や山縣らは主体的に日本を帝国主義国家にしようという意思を固めてゆく。
その動きを後押ししたのが、清から得た多額の賠償金だ。遼東半島返還の代償を含めた二億三千万両は、当時の邦貨で約三億六千万円にのぼり、日清戦争の戦費約二億円を遥かに上回った。これは開戦前の日本の一般会計歳出額の四倍に相当する。国家としての基盤を固める時に、この賠償金は非常に大きな役割を果たした。軍備を拡大し、官営八幡製鉄所もつくられた。官僚や軍人、研究者は欧州に留学した。日本の軍人たちは戦争の蜜の味を覚えてしまったのである。
列強は、大航海時代から産業革命を経て、市場と安い労働力を求めてアジアやアフリカの植民地に進出した。そして、自国の権益を守るために武力を用いた。これが先進帝国主義国家の発展モデルである。
しかし日本は、まず軍が周辺国に進出し、領土と賠償金をせしめることで権益を確保するモデルをとった。そして、軍が主導するかたちで産業が発展していった。つまり、産業の発展よりも軍事のほうが先行していたのである。まさにこの部分に、後発帝国主義国家としての特徴がよくあらわれている。
三国干渉の経験は、大きな意味で日本社会の構造を変容させた。政治や軍事においても、伊藤博文や山縣らは主体的に日本を帝国主義国家にしようという意思を固めてゆく。
その動きを後押ししたのが、清から得た多額の賠償金だ。遼東半島返還の代償を含めた二億三千万両は、当時の邦貨で約三億六千万円にのぼり、日清戦争の戦費約二億円を遥かに上回った。これは開戦前の日本の一般会計歳出額の四倍に相当する。国家としての基盤を固める時に、この賠償金は非常に大きな役割を果たした。軍備を拡大し、官営八幡製鉄所もつくられた。官僚や軍人、研究者は欧州に留学した。日本の軍人たちは戦争の蜜の味を覚えてしまったのである。
列強は、大航海時代から産業革命を経て、市場と安い労働力を求めてアジアやアフリカの植民地に進出した。そして、自国の権益を守るために武力を用いた。これが先進帝国主義国家の発展モデルである。
しかし日本は、まず軍が周辺国に進出し、領土と賠償金をせしめることで権益を確保するモデルをとった。そして、軍が主導するかたちで産業が発展していった。つまり、産業の発展よりも軍事のほうが先行していたのである。まさにこの部分に、後発帝国主義国家としての特徴がよくあらわれている。
戦争に勝って賠償金をせしめたら、国民も少しラクができて喜び、軍はエラいということになり、何をやっているか国民にはわからない役人より人気がでる、そういうことだ。ここにも民主主義はない。
そして日露戦争の辛勝が決定的だ。軍が頑張ったのに政府役人は何をしてくれるんだ、というわけである。
そうやって軍事国家を固めたのだけれど、指導者の質は感心できないものだった。
東條英機のお粗末な答弁
結局、近衛は内閣を投げ出し、対米強硬派の東條英機が首相となった。東條は陸大出身の軍官僚だったが、政治と軍事の関係性についてはまったく理解していなかった。
開戦八日後の昭和十六(一九四一)年十二月十六日、衆議院の委員会で「言論、出版、集会、結社等臨時取締法案」の審議がおこなわれた。届け出制であった結社などを許可制にするもので、戦時下という非常時をたてに、国民の権利を奪う法案であった。
このとき、弁護士でもある勝田永吉議員が質問に立ち、この法案でいう「戦時の終わり」とはどういう意味かと質した。明治憲法下でも国民の権利は一定程度認められていた。同法案はそこに抵触する可能性もはらんでいた。勝田は「いつ国民の権利は回復するのか」を確認しておきたかったのだろう。
東條の答弁は、驚くべきものだった。
「平和克復、ソレガ戦時ノ終リデアリマス」
これはただの循環論法で、答弁になっていない。「講和条約が発効したときが戦時の終わり」とでも答弁すべきだが、東條はまともな「戦時」の定義すらできなかったのだ。これが陸軍きっての俊才とされた人物の正体である。さらにこの答弁は、軍部が現実的な終戦構想を持たなかったことを示唆している。
もっとも、政府にも一応の終戦構想はあった。開戦一ヶ月前の昭和十六年十一月十五日、大本営政府連絡会議がまとめた「対英米蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」である。同会議には首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長らが参加した。
案の骨子は、以下の通りである。①東アジア等からアメリカ、イギリス、オランダを排除して重要資源を確保し、長期自給自足体制を整備する。②中国の蒋介石政権を屈服させる。③独伊と連携し、イギリスを屈服させる。④それによってアメリカの戦意を失わせて講和に持ち込む。
このうち①は、資源を入手しても日本への輸送のシーレーンを確保できなかった。②は、四年間の戦争で降伏させられなかった中国を二正面作戦で打ち破るのは難しい。さらに問題は③と④である。ドイツの貧弱な海軍力では、イギリス本土に上陸し補給を続けるのは困難であった。仮にイギリスが敗れたとしても、同盟国であるアメリカが戦意を喪失する 保証はなかった。つまり軍事エリートたちの〝願望〟を置き換えただけの戦略である。
どれだけ国土が荒廃し、国民が死んでもかまわない。とにかく勝つまで戦う――それが当時の日本の軍事指導者の軍事哲学だった。これはクラウゼヴィッツの軍事哲学の対極に位置する。
結局、近衛は内閣を投げ出し、対米強硬派の東條英機が首相となった。東條は陸大出身の軍官僚だったが、政治と軍事の関係性についてはまったく理解していなかった。
開戦八日後の昭和十六(一九四一)年十二月十六日、衆議院の委員会で「言論、出版、集会、結社等臨時取締法案」の審議がおこなわれた。届け出制であった結社などを許可制にするもので、戦時下という非常時をたてに、国民の権利を奪う法案であった。
このとき、弁護士でもある勝田永吉議員が質問に立ち、この法案でいう「戦時の終わり」とはどういう意味かと質した。明治憲法下でも国民の権利は一定程度認められていた。同法案はそこに抵触する可能性もはらんでいた。勝田は「いつ国民の権利は回復するのか」を確認しておきたかったのだろう。
東條の答弁は、驚くべきものだった。
「平和克復、ソレガ戦時ノ終リデアリマス」
これはただの循環論法で、答弁になっていない。「講和条約が発効したときが戦時の終わり」とでも答弁すべきだが、東條はまともな「戦時」の定義すらできなかったのだ。これが陸軍きっての俊才とされた人物の正体である。さらにこの答弁は、軍部が現実的な終戦構想を持たなかったことを示唆している。
もっとも、政府にも一応の終戦構想はあった。開戦一ヶ月前の昭和十六年十一月十五日、大本営政府連絡会議がまとめた「対英米蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」である。同会議には首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長らが参加した。
案の骨子は、以下の通りである。①東アジア等からアメリカ、イギリス、オランダを排除して重要資源を確保し、長期自給自足体制を整備する。②中国の蒋介石政権を屈服させる。③独伊と連携し、イギリスを屈服させる。④それによってアメリカの戦意を失わせて講和に持ち込む。
このうち①は、資源を入手しても日本への輸送のシーレーンを確保できなかった。②は、四年間の戦争で降伏させられなかった中国を二正面作戦で打ち破るのは難しい。さらに問題は③と④である。ドイツの貧弱な海軍力では、イギリス本土に上陸し補給を続けるのは困難であった。仮にイギリスが敗れたとしても、同盟国であるアメリカが戦意を喪失する 保証はなかった。つまり軍事エリートたちの〝願望〟を置き換えただけの戦略である。
どれだけ国土が荒廃し、国民が死んでもかまわない。とにかく勝つまで戦う――それが当時の日本の軍事指導者の軍事哲学だった。これはクラウゼヴィッツの軍事哲学の対極に位置する。
この「平和克復、ソレガ戦時ノ終リデアリマス」という答弁があったと聞くと、2004年のイラク特措法について非戦闘地域はどこかという質問に対する小泉首相答弁「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」を思い出す。
この答弁の前は「どこが戦闘地域で、どこが非戦闘地域か、日本の首相にわかる方がおかしい」と言っていた。大進歩である。
近代日本の地下水脈のうち、①帝国主義(軍事)国家という国家像は、今でもしっかり流れている。