「神聖ローマ帝国」

81uXZteMN-L_SL1500_.jpg 山本文彦〝神聖ローマ帝国 「弱体なる大国」の実像〟
について。

神聖ローマ帝国は、名前は知っているものの、世界史の授業でもちゃんと教えられた記憶がない(だけかもしれない)。
ヨーロッパの歴史というと、西ローマ帝国滅亡後、中世の「暗黒時代」、絶対王制、市民革命、そして産業革命から資本主義という流れで習ったような記憶がある。神聖ローマ帝国は中世から近世まで存在したが、こうした歴史の区切り方ではフィーチャーされないのではないだろうか。

日本国の場合は、その国土は概ね古代から変わらず画然としている上、天皇が続いているためか、一貫性を疑うこともないのだけれど、神聖ローマ帝国は、だいたいドイツあたりに重なるにしても、権力体としての統一性みたいなものがあったのか、判然としない。もし統一体としての実体性があれば、歴史のプレイヤーとしてもっとうかびあがったのではないだろうか。

というわけで、あまり神聖ローマ帝国に注目した歴史というのは知らなかった。そしてそういう人が多いだろうということは、本書の「はじめに」でも指摘されるところだ。

はじめに
 
序 章 神聖ローマ帝国の輪郭
カール大帝とローマ帝国/帝国の名称/皇帝と国王/帝国と領邦/二つの視点
 
第1章 ローマ帝国の継承者
  ―神権政治の時代(九六二~一一二二年)
 1 オットー一世の戴冠
アーヘンでの国王戴冠式/国王と五人の大公/ローマでの皇帝戴冠/皇帝戴冠の後日談
 2 オットー三世の二つの印璽
オットー三世の国王戴冠/オットー三世の誘拐/オットー三世の皇帝戴冠/ローマの反乱
 3 帝国教会政策
「官職大公」「輸入大公」/皇帝と帝国教会/帝国教会政策/ハインリヒ二世とバンベルク
 
 4 叙任権闘争
ハインリヒ三世と教会改革/ハインリヒ四世とグレゴリウス七世/カノッサ事件/カノッサ事件の後日談/カノッサ事件の読み替え/ヴォルムス協約
コラム① 旅する王
 
第2章 金印勅書と七選帝侯
  ―皇帝と教皇の対立の時代(一一二二~一三五六年)
 1 シュタウフェン朝の「神聖帝国」
諸侯による自由な国王選挙/ヴェンデ十字軍/シュタウフェン朝/フリードリヒ一世とハインリヒ獅子公/ハインリヒ獅子公のその後/帝国諸侯身分の成立/フリードリヒ一世のイタリア政策/フリードリヒ二世の登場/シュタウフェン朝の終わり
 2 金印勅書
大空位時代と跳躍選挙時代/選帝侯の誕生/分割相続と投票権/レンス判告と帝国法リケット・ユーリス/金印勅書/国王選挙の方法
コラム② ハプスブルクの大特許状
 
第3章 両ハプスブルク家の黄金期
  ―帝国国制の制度化の時代(一三五六~一五五五年)
 1 ハプスブルク家の登場
既存秩序の動揺/アルブレヒト二世/フリードリヒ三世/マクシミリアン一世/ 「オーストリアよ。 汝は結婚せよ」
 2 帝国改造
不安定な政治情勢/帝国会議の整備/「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」/改革をめぐるさまざまな議論/一四九五年ヴォルムス帝国議会/帝国統治院/帝国クライス/「皇帝と帝国」
 3 カール五世の苦闘
カール五世の国王選挙/二つのハプスブルク家の始まり/一五二一年ヴォルムス帝国議会/宗教改革の展開/イタリア戦争/一五五五年アウクスブルク帝国議会/「プルス・ウルトラ」
コラム③ 郵便の発見
 
第4章 宗教対立と三十年戦争
  ―宗派の時代(一五五五~一六四八年)
 1 十六世紀後半のドイツ社会
宗派をめぐる宥和的な態度/領邦国家の誕生/帝国執行令が残した問題/ウィーンとマドリッド
 2 三十年戦争とウェストファリア条約
ドナウヴェルト事件/ハプスブルク家の兄弟争い/三十年戦争/平和を求めて/ウェストファリア条約の歴史的評価/オスナブリュック条約①―平和秩序/オスナブリュック条約②―復旧と補償の問題/オスナブリュック条約③─宗派問題/オスナブリュック条約④―帝国国制/ミュンスター条約/ウェストファリア講和会議
コラム④ 社会の新しい秩序
 
第5章 ウェストファリア体制
  ―皇帝権の復興の時代(一六四八~一七四〇年)
 1 ウェストファリア条約のその後
講和条約の批准/平和の達成/補償金の支払い/宗派紛争の防止
 2 新たな帝国政治の形
レオポルト一世の国王選挙/ライン同盟/永久帝国議会/帝国軍制/第二次ウィーン包囲/フランスの拡張政策/スペイン継承戦争
 3 皇帝権の復興
平和の守護者/帝国最高裁判所/皇帝使節/ウィーン宮廷/神に選ばれたハプスブルク家/バロックの輝き
 4 領邦国家
さまざまな帝国等族/聖界領邦/司教と貴族/世俗領邦/帝国都市
コラム⑤ 気候と歴史
 
第6章 帝国の終焉
  ―多極化の時代(一七四〇~一八〇六年)
 1 女帝マリア・テレジア
一七四〇年、二人の主役の登場/ハプスブルク家の男系男子の断絶/オーストリア継承戦争/カール七世の皇帝選出/カール七世の限界/フランツ一世/ハプスブルク君主国の改革/マリア・テレジアと一六人の子供たち/七年戦争
 2 十八世紀の帝国
ホーエンツォレルン家とブランデンブルク辺境伯/ブランデンブルク=プロイセンの所領の拡大/ブランデンブルク=プロイセンの台頭/帝国議会と宗派問題/二元主義/ポーランド分割とバイエルン継承戦争/諸侯同盟
 3 フランス革命と帝国の終焉
ハプスブルク家の相次ぐ死/フランス革命の余波/帝国議会と皇帝空位/レオポルト二世/干渉戦争/帝国代表者会議主要決議/帝国の滅亡
コラム⑥ 郵便馬車と舗装道路
 
終 章 神聖ローマ帝国とは何だったのか
アーヘン大聖堂/皇帝と教皇の関係/教会改革の帰結/中世帝国の政治構造/近世帝国の政治構造/統合的要素としての皇帝/法共同体としての帝国/神聖ローマ帝国の残照
 
あとがき
   はじめに

 神聖ローマ帝国、その名称からして、不思議というか奇妙だが、九六二年から一八〇六年まで、およそ八五〇年間(足掛け八四五年)にわたり存在し続けた。日本史に当てはめると、平安時代の村上天皇から江戸時代の徳川家斉(十一代将軍)までである。
 さらにこの帝国が存在した場所は、時代により伸び縮みはあるが、現在のドイツを中心に、スイス、オーストリア、チェコ、スロヴァキア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに及んでいた。ヨーロッパのほぼ中央に広大な版図を持つ帝国だった。
 今では神聖ローマ帝国という名称がよく使われるが、時代によって異なっていた。成立当初はローマ人の帝国、ローマ帝国、十二世紀後半以降に神聖帝国、十三世紀半ば以降に神聖ローマ帝国、さらに十五世紀後半から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」が加わり、十七世紀後半以降はドイツ帝国となった。しかし八五〇年の歴史全体を通して、一貫して「ローマ帝国」と呼ばれていた。
 その意味では、神聖ローマ帝国は、古代ローマ帝国の後継国家であり、カール大帝まで遡る一〇〇〇年の歴史を持つ帝国である。
 しかしその歴史的評価は、前半はまだしも、特に十五世紀以降については、お世辞にも良いとは言えなかった。有名なところでは、十八世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは、「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国でもない」と帝国を評した。当時フランスとは敵対関係にあったからそのように見えたと言うわけではなく、帝国内部でも似たような評価があった。ヴォルテールの九〇年ほど前、ドイツの法学者プーフェンドルフが「妖怪に似たるもの」と帝国を断じたこともよく知られている。
 ドイツの文豪ゲーテは、一七六四年、フランクフルトで挙行されたヨーゼフ二世の国王戴冠式を目の当たりにして、その壮麗さに魅了された。しかしそれから四〇年ほど経ち、帝国が滅亡した翌日の日記には、帝国の分裂の話よりも従者と御者の喧嘩の方が興奮すると記している。
 そもそも、「帝国の死亡診断書」と評価された一六四八年のウェストファリア条約以降、帝国は有名無実化したと世界史の授業で習った人も少なくないのではないだろうか。
 これらの評価は、その時代からも想像できるように、十七世紀以降の近代国民国家的な視点に基づく評価と言える。国王を中心とした中央集権的な国民国家を基準に帝国を眺めると、それは妖怪のように見えたのかもしれない。しかし歴史の評価は必ずしも絶対不変ではなく、その時代や社会に応じて変化するものでもある。
 欧州連合(EU)の統合が進展する中で、国民国家の象徴の一つとも言える国境を撤廃し、人々は自由にヨーロッパの中を移動できるようになった。その際、統合の新たな基礎的理念として、共通の歴史的経験が探し求められた。それが二〇〇年ほど前まで存在していた神聖ローマ帝国である。神聖ローマ帝国は、国民を持たないが多くの民族を統合し、中央集権的ではないが紛争解決能力を有し、異なる文化を包摂する連邦的な政治組織体だったと評価されるに至った。
 本書ではこの新たな帝国評価を基礎として、神聖ローマ帝国の八五〇年の歴史を書いてみたいと思う。歴史学でも専門領域の細分化が進んでおり、こうした通史を書くにはかなりの勇気が要る。もちろん神聖ローマ帝国の歴史を全て語れるわけもなく、その一部を切り取って語るに過ぎない。その限界をわきまえながらも、新しい神聖ローマ帝国像を読者に提示できればと願っている。

まず反省だが、神聖ローマ帝国というのは、ローマ教皇から皇帝を授けられるから神聖というのかと思っていたのだが、そうではなくて、むしろ教皇に対抗して、神から直接皇帝位を受けたと主張するところから神聖を名乗ったのだという。このよくわからない帝国がはじめから神聖と名乗ったわけではない。

カノッサの屈辱でいわれるように、教皇が上位にあったような印象があるが、この事件も皇帝をとりまく権力関係の複雑さが背景にあって、単純に教皇が上位というわけではないようだ。実際、その後すぐにハインリヒ四世は諸侯を鎮圧するとローマを包囲し、教皇はローマ脱出を余儀なくされる。
また、ドイツを震源としてヨーロッパを覆う宗教改革を考えれば、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の関係が単純なはずもない。


また神聖ローマ皇帝というのは単なる称号のようなものとも思っていたが、本書によると時代によって違うにしても、一応、権威としての力は持ち続けてもいたようだし、少なくとも一国の王ではあったわけで、そのあたりは日本国天皇とは違う。

本書は、この神聖ローマ帝国の変遷を丁寧に追いかける。
それはあまりにややこしいので、この記事で細かいことはとりあげないが、大雑把にいって、この領域における各国(領邦)の王位と皇帝位の継承が、さまざまな力学のもとで行き来する。

ここにはハプスブルク帝国も現れるのだが、私が習った歴史では神聖ローマ帝国よりハプスブルク帝国のほうが歴史上重要な感じになる。


フランスは中央集権国家(今でも)だが、神聖ローマ帝国の領域ではそうした中央集権国家は表れない。

神聖ローマ帝国の領域では、後に第三帝国を標榜するナチスドイツも出るが、ナチスといえども国家運営としては必ずしも中央集権とは言えないような気もする。そして今でもドイツは連邦制だ。


神聖ローマ帝国がたどった歴史には、本書を読んでも、というか読めばさらに、一貫性が感じられないわけだが、考えてみれば日本国も、古代から近代まで、随分と国家体制が変遷している。それでも国に連綿とした歴史を感じるのは、その領域が劃然としていること、天皇家が存在しそれを常に権威として立てたこと、そして近代直前には幕藩体制という組織ができていたことが大きいと思う。

それにしても神聖ローマ帝国の末裔たるドイツ、オーストリア、スイス、チェコなどの国々の人たちは、かつての帝国に対して、どのような評価と感情をもっているのだろうか。

最後に「あとがき」の一部を転載しておこう。
   あとがき

 冒頭で述べたように、本書では、新たな帝国評価を基礎として、八五〇年の神聖ローマ帝国の歴史を辿り、新しい帝国像を提示することを目指した。
 中央集権的・国民国家的な視点では、神聖ローマ帝国は有名無実化した存在とみなされ、プロイセンやオーストリアという、のちに近代国家へと成長した領邦に目が向けられていた。また十五世紀以降、ハプスブルク家が皇帝位をほぼ独占していたため、ハプスブルク帝国あるいはハプスブルク家の歴史と重ねられ、同一視される場合も多い。
 このような歴史理解が間違っているとは言わないが、見落としている部分が多くあるような気がする。「歴史は勝者によって作られる」。このよく知られた言葉は、イギリス首相を務めたウィストン・チャーチルによるものである。神聖ローマ帝国の歴史もまさにその通りで、長い間あるいは今も、プロイセンという勝者によって作られた歴史が語られている。
 だが、チャーチルの言葉には続きがある。「しかし勝者は事実によって裁かれる」。これまでの歴史理解を神聖ローマ帝国の観点から裁くつもりは毛頭ない。しかしこれまで見落とされていた、あるいは否定的に評価されていた神聖ローマ帝国の事実を拾い集めてみたのが本書である。サブタイトルの「「弱体なる大国」の実像」にはそんな意味が込められている。
 これもまた冒頭で触れたように、欧州連合(EU)の統合の進展と神聖ローマ帝国の再評価は密接に関係している。神聖ローマ帝国をEUの前史と単純に考えてはいないが、連邦制的な政治組織体として、神聖ローマ帝国と近似した部分が多くあるのは確かであろう。
 そもそも人々が安心して平和に生活するために、どのような政治組織体が相応しいのだろうか。現在も世界各地で戦争が起き、多くの人々が犠牲になっている。歴史を振り返ってみても、人類の歴史は戦争の歴史と言って過言ではない。このまま私たちは、戦争の歴史の中で生きていかなければならないのだろうか。過去に二度の世界大戦を引き起こした反省から、新たな平和秩序を求めてEUは生まれた。しかしEUは現在も多くの課題を抱えており、先行きは不透明な部分が多い。

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