「猫の世界史」
ロジャーズ,キャサリン・M.(著)、渡辺智(訳)「猫の世界史」に
ついて。
米国大統領選でハリス支持を表明したテイラー・スウィフト氏、“子なしの猫好き女(Childless Cat Lady)”と署名したそうだ。
これはトランプ側のヴァンス副大統領候補が「民主党の将来は子無し猫好き女が率いている」と言ったことへのお返しだそうだ。
それはともかく、女性に限らず、猫好きの人はかなり多いらしい。
日本国では、犬、猫の飼育数は、ながく犬が優勢だったが、2017年の調査では猫が上回ったという。
これは日本だけではなく、本書によると、イギリスでは1995年に猫が犬を40万匹上回り、2002年には猫750万匹、犬610万匹になったそうだし、アメリカでも1991年には猫4458万匹、犬5383万匹だったのが、2003年には猫7804万匹、犬6128万匹となったという。著者は、猫は犬より手がかからないというのを理由にあげている。
であるけれど猫がこんなに人気になったのはまだ新しいことだそうだ。
エジプトで猫が大事にされたという話は聞いたことがあって、古代からずっと人間に愛されていたように思っていたが、本書によるとそうでもないらしい。
犬は狩猟や牧羊など、実用的な目的で飼育されていたが、猫の実用性はせいぜいネズミをとるぐらいで、それも猫は人間のために捕るのではなく、自分のためにとっているにすぎない。猫などどうでもよい存在だったというわけだ。
むしろ身近なところでどうでも良い存在だった猫だから、随分苛めの対象となっていたという。
そのおぞましい人間の所業を本書から引用しよう。
ただしどの世界でもこんな残酷なことをしていたわけではない。上の引用文には次の続きがある。
キリスト教には残酷な話がついてまわるようだ。
本書によると、聖書(旧約、新約とも?)には猫は一度も現れないという。つまり愛せよとも苛めよともキリストは言っていないわけだが、聖書になかったら何をしてもよい→殺しても良いというのが野蛮なキリスト教徒の思考回路らしい。
ただし、もし聖書が猫のことに触れていたとしたら、キリストは猫を愛したと書かれていたにちがいないと考えるグループもいるそうだが。
西欧キリスト教社会で猫が堂々と愛されるようになるのは18世紀以降のことらしい。もちろんそれまでも猫好きはいたにちがいないけれど、猫を身近なペットとして公然と可愛がっても変人扱いされないのが18世紀以降という意味である。
そしてそうした転換に寄与したのが、多くの文人・芸術家だと指摘し、多くの文学作品、絵画などが紹介される。
本書では欧米だけでなく、中国、日本の猫関連作品を広くとりあげている。とくに日本のそれについては多くが紹介されている。
『源氏物語』からは女三宮の猫を柏木が取り込んで溺愛する話が紹介される。
浮世絵も歌麿、国芳をはじめ多くの作品が紹介されている。
本書はネコの特徴を切りだして6つの章を立てているが、それにあった史料、とくに文学作品や絵画などをとりあげているので、どの章をとっても同じような作家・作品が紹介されることになった。なので全体としてはエッセイ的な仕上がりである。
本書は「人間はなぜ猫に惹かれるのか」という節で閉じられる。猫というものが簡潔にまとめられていると思うので、最後にそこから引用しておこう。
ついて。
米国大統領選でハリス支持を表明したテイラー・スウィフト氏、“子なしの猫好き女(Childless Cat Lady)”と署名したそうだ。
これはトランプ側のヴァンス副大統領候補が「民主党の将来は子無し猫好き女が率いている」と言ったことへのお返しだそうだ。
一方でトランプ氏は「移民がペットの猫を食べている」と発言して、そのような事実はないと名指しされた市の市長から抗議されている。
それはともかく、女性に限らず、猫好きの人はかなり多いらしい。
日本国では、犬、猫の飼育数は、ながく犬が優勢だったが、2017年の調査では猫が上回ったという。
これは日本だけではなく、本書によると、イギリスでは1995年に猫が犬を40万匹上回り、2002年には猫750万匹、犬610万匹になったそうだし、アメリカでも1991年には猫4458万匹、犬5383万匹だったのが、2003年には猫7804万匹、犬6128万匹となったという。著者は、猫は犬より手がかからないというのを理由にあげている。
それで気になったので他の国についてネットで調べてみた。
フランスは、本書でフランスの芸術家は猫好きが多いように書いているのだが、2020年の調査によると、猫1490万、犬760万で、猫のほうが倍近く多い。
ドイツは、街の様子を伝えるテレビ番組などで犬を散歩させている人が良く見られるので、犬が好まれているように思ったのだが、2021年の調査では、猫1670万、犬1030万だという。
であるけれど猫がこんなに人気になったのはまだ新しいことだそうだ。
エジプトで猫が大事にされたという話は聞いたことがあって、古代からずっと人間に愛されていたように思っていたが、本書によるとそうでもないらしい。
犬は狩猟や牧羊など、実用的な目的で飼育されていたが、猫の実用性はせいぜいネズミをとるぐらいで、それも猫は人間のために捕るのではなく、自分のためにとっているにすぎない。猫などどうでもよい存在だったというわけだ。
むしろ身近なところでどうでも良い存在だった猫だから、随分苛めの対象となっていたという。
そのおぞましい人間の所業を本書から引用しよう。
苛められる猫、愛される猫
かつての猫は、良く言っても、「役には立つ」「害はない」というのがせいぜいのところで、悪く言えば金銭的価値のないありふれた動物に過ぎなかったので、何かを苛めようと思えば格好の対象となった。簡単に手に入るうえ、苦痛をはっきりと表出することも、苛め甲斐の点では、ちょうど良かった。エリザベス一世の戴冠式の際(一五五九年)、市内を練り歩く行列に法王をかたどった人形があったが、それには猫が詰め込まれていた。燃やしたとき、大変に盛大な効果音を生み出したという。
パリでは、聖ヨハネの祝日の前夜祭として、グレーヴ広場[かつてセーヌ川沿いにあった広場]で猫をじわじわと焼く行事が行われた。人々は残った灰を幸運のお守りとして持ち帰った。この催しは一六四八年、ルイ一四世の時代まで続いた。ピューリタン革命時のイギリスでは、一六三八年に英国国教会への侮蔑を表明しようと、ピューリタンたちが、猟犬を使って猫狩りをしながら、リッチフィールド大聖堂[イングランド中西部スタッフォード県にある、英国国教会の主教座聖堂]を通り抜け、それをイーリー大聖堂 [イングランド東部ケンブリッジシャーにある]で串に刺して焼いたという。この出来事を記録した役人は大いにショックを受けたが、それは残酷さに対してではなく、神聖な場所が破壊され、穢されたことに対するものだった。
動物への虐待は、近世初期になっても特に抵抗なく行われたが、これはキリスト教会がとがめることをしなかったことに原因がある。一三世紀の神学者トマス・アクィナスは、『神学大全』の中で、人間に対するような慈悲の心を動物にまで向ける必要はないとした。動物には、理性も自由意志もないのだから、社会の一員とは見なせず、キリスト教の説く「永遠の命」を得ることもない。さらには、神は人間に、世の支配権を与えたのだから、動物をどう扱おうが人間の自由であると言うのだった。一七世紀にフランスの哲学者デカルト [一五九六~一六五〇年]はさらに進んで、合理的にものを考える心があるからこそ、意識や感情、自由意志があるのだと説いた。魂を持つのは人間のみであり、動物は機械と同じで、感情はなく、よって苦痛を感じることもないと考えた。これが正しいとすると、虐待された動物があげる叫び声は何なのだろう。これも機械のような自動的反応であるとするならば、人間の場合も同様に考えねばならないはずだ。
かつての猫は、良く言っても、「役には立つ」「害はない」というのがせいぜいのところで、悪く言えば金銭的価値のないありふれた動物に過ぎなかったので、何かを苛めようと思えば格好の対象となった。簡単に手に入るうえ、苦痛をはっきりと表出することも、苛め甲斐の点では、ちょうど良かった。エリザベス一世の戴冠式の際(一五五九年)、市内を練り歩く行列に法王をかたどった人形があったが、それには猫が詰め込まれていた。燃やしたとき、大変に盛大な効果音を生み出したという。
パリでは、聖ヨハネの祝日の前夜祭として、グレーヴ広場[かつてセーヌ川沿いにあった広場]で猫をじわじわと焼く行事が行われた。人々は残った灰を幸運のお守りとして持ち帰った。この催しは一六四八年、ルイ一四世の時代まで続いた。ピューリタン革命時のイギリスでは、一六三八年に英国国教会への侮蔑を表明しようと、ピューリタンたちが、猟犬を使って猫狩りをしながら、リッチフィールド大聖堂[イングランド中西部スタッフォード県にある、英国国教会の主教座聖堂]を通り抜け、それをイーリー大聖堂 [イングランド東部ケンブリッジシャーにある]で串に刺して焼いたという。この出来事を記録した役人は大いにショックを受けたが、それは残酷さに対してではなく、神聖な場所が破壊され、穢されたことに対するものだった。
動物への虐待は、近世初期になっても特に抵抗なく行われたが、これはキリスト教会がとがめることをしなかったことに原因がある。一三世紀の神学者トマス・アクィナスは、『神学大全』の中で、人間に対するような慈悲の心を動物にまで向ける必要はないとした。動物には、理性も自由意志もないのだから、社会の一員とは見なせず、キリスト教の説く「永遠の命」を得ることもない。さらには、神は人間に、世の支配権を与えたのだから、動物をどう扱おうが人間の自由であると言うのだった。一七世紀にフランスの哲学者デカルト [一五九六~一六五〇年]はさらに進んで、合理的にものを考える心があるからこそ、意識や感情、自由意志があるのだと説いた。魂を持つのは人間のみであり、動物は機械と同じで、感情はなく、よって苦痛を感じることもないと考えた。これが正しいとすると、虐待された動物があげる叫び声は何なのだろう。これも機械のような自動的反応であるとするならば、人間の場合も同様に考えねばならないはずだ。
そういえば、日本国にも「そこで猫をかんぶくろに押し込んで ポンと蹴りゃニャンとなく…」という話があったなぁ。これは和尚さんがすることだ。キリスト教徒ほどではないが、仏教徒もちょっと残酷。そしてこの歌を歌って喜んでる子供も…
ただしどの世界でもこんな残酷なことをしていたわけではない。上の引用文には次の続きがある。
ムハンマドはもっと開かれた考えを持っていた。アラーの神の求める慈悲は、人だけではなく、「創り賜われたすべてのもの」に向けるべきだと説いたのだ。ロバの焼印は痛みを感じやすい部分にしてはならないなど、あらゆる動物を対象にムハンマドは虐待を禁止したが、その中でも猫を特に大事にしていた。飼っている猫がマントの上で寝ていたら、祈りの時間になると、猫をどかせるのではなくマントを脱いで行ったという逸話がある。また、ある女性が猫を幽閉し、餌もやらずに放置して殺したと聞いたときには大変憤り、彼女が地獄で猫に苛まれるさまが目に浮かぶと後に何度も語ったという。アラビア世界では犬は不浄と見なされていたが、猫はそうではなく、人間の食器で餌を食べてもよく、猫が清め水を飲んだとしても汚いとは見なされなかった。ムハンマドも、猫は人間とともにいるものだから不浄ではないと述べていた。犬と違って、猫は自由に家に入ることができた(犬は狩猟などの実用にのみに使われた)。 ムハンマドの側近に「アブー・フライラ(猫の父」と呼ばれる者がいたが、これは彼が猫に対して特に愛情を注いだからだ。ある日、ムハンマドがヘビに襲われそうになったとき、すかさずヘビを退治したのがアブー・フライラの猫だった。感謝したムハンマドはその背と額を撫でてやった。そのときから、猫はどんな体勢から落ちても背中を打たず、足で着地できるようになり、ぶち猫の額には四本の縞ができたという。
イスラム世界では犬より猫が厚遇され、飼い主が口づけをしたり、一緒に寝たりしていた。九世紀のイブヌル・ムッターズという詩人の猫は、ある日、隣家の鳩小屋に入り込んでしまい、殺されてしまった。彼は墓をつくり、墓碑に「息子のようだった」と記したのだ。一三世紀のスルタン[イスラム王朝の君主の称号]は、カイロに「猫の庭」をつくり、世話をできるようにした。今でも人々は猫に餌をやりにそこにやって来るという。
イスラム世界では犬より猫が厚遇され、飼い主が口づけをしたり、一緒に寝たりしていた。九世紀のイブヌル・ムッターズという詩人の猫は、ある日、隣家の鳩小屋に入り込んでしまい、殺されてしまった。彼は墓をつくり、墓碑に「息子のようだった」と記したのだ。一三世紀のスルタン[イスラム王朝の君主の称号]は、カイロに「猫の庭」をつくり、世話をできるようにした。今でも人々は猫に餌をやりにそこにやって来るという。
キリスト教には残酷な話がついてまわるようだ。
本書によると、聖書(旧約、新約とも?)には猫は一度も現れないという。つまり愛せよとも苛めよともキリストは言っていないわけだが、聖書になかったら何をしてもよい→殺しても良いというのが野蛮なキリスト教徒の思考回路らしい。
ただし、もし聖書が猫のことに触れていたとしたら、キリストは猫を愛したと書かれていたにちがいないと考えるグループもいるそうだが。
西欧キリスト教社会で猫が堂々と愛されるようになるのは18世紀以降のことらしい。もちろんそれまでも猫好きはいたにちがいないけれど、猫を身近なペットとして公然と可愛がっても変人扱いされないのが18世紀以降という意味である。
そしてそうした転換に寄与したのが、多くの文人・芸術家だと指摘し、多くの文学作品、絵画などが紹介される。
本書では欧米だけでなく、中国、日本の猫関連作品を広くとりあげている。とくに日本のそれについては多くが紹介されている。
『源氏物語』からは女三宮の猫を柏木が取り込んで溺愛する話が紹介される。
紫式部は猫に注目したのではなく、猫を女三宮のかわりに溺愛する柏木が描きたかっただけだろうが。なお、『枕草子』に出てくる命婦の御許には触れられていなかった。五位の官位を持つ猫なのだけど。
浮世絵も歌麿、国芳をはじめ多くの作品が紹介されている。
1章 ヤマネコからイエネコへ |
2章 災いをもたらす猫、幸運を呼ぶ猫 |
3章 ペットとしての猫 |
4章 女性は猫、あるいは猫は女性 |
5章 猫には、猫なりの権利がある |
6章 矛盾こそ魅力 |
本書は「人間はなぜ猫に惹かれるのか」という節で閉じられる。猫というものが簡潔にまとめられていると思うので、最後にそこから引用しておこう。
猫がお行儀よくしていると、ワンワンと騒がしい犬よりもずっと静かでちゃんとした動物のように思われる。しかし実際は、人間が決めたルールにはまったく関心がなく、人間も犬も入り込むことができない世界で自由を謳歌している。ときどきその世界から降りてきて、愛想よく可愛いらしい仕草で私たちとつき合ってくれるが、そうかと思うとまた人知の及ばぬ領域へと戻っていく。同じ家に住み、一緒に過ごし一緒にくつろいでも、猫はもとの野生を決して失うことはない。それがほかの身近な動物とは異なるところだ。
マイケル・ハンバーガー[一九二四~二〇〇七年、イギリスの詩人、批評家]が、ペットの「繊細にして大胆な都会猫」のことを書いたとき、彼は「猫がさまざまな家具の間をうろつきまわるのを見ていると、アパートの一室が木の密生したジャングルであるかのように思ってしまう」と言っている。
猫は私たちの身近にいながらも、よそよそしく遠い存在でもある。このことも含め、猫はさまざまな、そして逆説的なイメージを人々に持たせる。それが古今の画家や作家の想像力を刺激し、多くの作品を生み出す原動力となってきた。同じく身近な動物である犬が猫と異なるのは、感情を隠すことなく表に晒して、人間にできるだけ近づこうとすることだ。我々が犬に抱くイメージは、猫のようなあだっぽさとは無縁だ。そのため、犬は文学に登場するときも、幻想的、象徴的というより、現実的な存在として描かれることが多い。その点、猫の扱われ方は実にバリエーション豊かと言える。
穏やかなペットから(『フロイライン・シュバルツ』の猫)、優雅な貴族(オーノワ夫人の『白猫』)、小賢しいトリックスター(長靴をはいた猫)、たくましい男の同志(『夏への扉』のピート)、冷酷な殺し屋(スタージョン『ふわふわちゃん』)、享楽的な太っちょ(ガーフィールド)、冷徹な自信家(『トバモリー』の雄猫)、楽しい冒険をもたらすもの(スース博士『帽子をかぶった猫』)、人間の罪を裁く復讐者 (ポーの『黒猫』)まで、多種多様なのである。
マイケル・ハンバーガー[一九二四~二〇〇七年、イギリスの詩人、批評家]が、ペットの「繊細にして大胆な都会猫」のことを書いたとき、彼は「猫がさまざまな家具の間をうろつきまわるのを見ていると、アパートの一室が木の密生したジャングルであるかのように思ってしまう」と言っている。
猫は私たちの身近にいながらも、よそよそしく遠い存在でもある。このことも含め、猫はさまざまな、そして逆説的なイメージを人々に持たせる。それが古今の画家や作家の想像力を刺激し、多くの作品を生み出す原動力となってきた。同じく身近な動物である犬が猫と異なるのは、感情を隠すことなく表に晒して、人間にできるだけ近づこうとすることだ。我々が犬に抱くイメージは、猫のようなあだっぽさとは無縁だ。そのため、犬は文学に登場するときも、幻想的、象徴的というより、現実的な存在として描かれることが多い。その点、猫の扱われ方は実にバリエーション豊かと言える。
穏やかなペットから(『フロイライン・シュバルツ』の猫)、優雅な貴族(オーノワ夫人の『白猫』)、小賢しいトリックスター(長靴をはいた猫)、たくましい男の同志(『夏への扉』のピート)、冷酷な殺し屋(スタージョン『ふわふわちゃん』)、享楽的な太っちょ(ガーフィールド)、冷徹な自信家(『トバモリー』の雄猫)、楽しい冒険をもたらすもの(スース博士『帽子をかぶった猫』)、人間の罪を裁く復讐者 (ポーの『黒猫』)まで、多種多様なのである。