書籍・雑誌

December 30, 2024

2024年の今年の1冊は『わが投資術』清原達郎

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 ずっと細々と選んできた今年の1冊は『わが投資術 市場は誰に微笑むか』清原達郎、講談社とします。

 「最後の長者番付」で1位となった伝説のサラリーマン投資家・清原達郎さんが、咽頭がんで声帯を失い、引退を決め「私には後継者がいない」ということで株式投資のノウハウと、バブル期以降の市場の動きを公開したのが本書。過去に類書がなく、面白さを味わうためには、ある程度の知識と経験は必要ですが、こんな本が読めるとは思いもしませんでした。

 個人的には小型株をやるつもりはないんですけど、「ネットキャッシュ比率」などの考え方は本当に参考になりましたし、ベイズの定理を使った分散投資の仕方などは唸りました。また、野村證券社員による放火殺人、検察の不当逮捕など今年話題になったトピックについて生々しい記録が書かれている点も見逃せません。

 清原さんは過去の野村証券について「準詐欺組織」と書いていて、こんなエピソードを紹介してくれています。
《「素晴らしい。野村證券は人材の宝庫なのかもしれない」と思いましたねえ。
支店長が大損している顧客を見つけて担当セールスを呼びつけ、
「お前の客これだけ損してクレームにならないか?」
「大丈夫ですよ。このババア完全にボケてますから。ほら、私このババアのハンコ持ってるんですよ。手数料足らない時は私に声 かけてください。いつでもペロ切りますから(売買手数料稼ぎま すから)」
「頼もしいなあ。よくぞ言ってくれた! 期待してるぞ!」》(p.91-92)

 「検察なめんなよ」と不当逮捕されたプレサンスの山岸忍元社長の件などもどんな報道よりも分かりやすい。さすが、バリバリの経済人だと思いました。

 8月の大暴落の時、800億円の自己資金のうち200億円超で三菱UFJを買われた清原さんに何も差し上げるものなどありませんが、いつものようにパチパチと拍手を。

 今年は清原さんの『わが投資術』の他にも、『経済評論家の父から息子への手紙』山崎元、『100兆円の不良債権をビジネスにした男』川島敦など現役を引いたビジネスマンというか投資家の良書が目立ちました。

 山崎元さんの『経済評論家の父から息子への手紙』の、資本主義とは生産手段(≒資本)の私有が許されることであり、優秀な社員の叡智を集めた企業が利益を上げた株式を買うことで資産を増やすことが新しい時代の稼ぎ方のコツだというのは分かりやすい。

 『100兆円の不良債権をビジネスにした男』川島敦では、バブル期までの自称経営者たちはデューデリジェンスもやらずに不動産取引をし、バリュエーションも分からずに株式投資して大失敗したのは当然で、戦後復興から高度成長時代にかけては朝鮮戦争とベトナム戦争の地政学で儲けていただけなんだな、と改めて実感できましたし、仕事が出来ず威張ってばかりいた長銀がバブル紳士に骨抜きにされたのも頷けます。《東京には違法物件はそれほど多くないが、大阪にはものすごい量がある》なんてあたりも面白かった。

 このほか、経済関係では『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人、ハヤカワ新書も面白かったです。

 残念ながら人類の歴史の中でカネほど平等なものはなかったし、いまのところ自由で恣意的な規制のない社会で資本家たちが利潤を求める中でしか社会の持続的経済的発展は望めそうにありません。吉本隆明さんの言葉を借りれば、資本主義は無意識の最高の発明なのかな、と。

 政治関係では『冷戦後の日本外交』高村正彦が面白かった。石破首相に関して、自衛隊のヘリ部隊をアフガンに出すことは「やれないことはない」と無責任な発言したり、集団的自衛権の問題でも、無理筋な芦田修正を根拠にしようとしたり、自分では専門知識があるように振る舞っているのが危ういな、と感じました。

 『一片冰心 谷垣禎一回顧録』での「安倍派はある意味で、派閥がなくなった自民党の姿の走りだったのかもしれません。それだけ、集団のガバナンスは難しいということです」という言葉は示唆的だな、と。

 『国家はなぜ存在するのか ヘーゲル「法哲学」入門』大河内泰樹、NHKでは《ヘーゲルが生きていたのも感染症の時代であり、彼はその時代にパンデミックを引き起こしたコレラで死んだと考えられています。まさしく、感染症やその予防接種に対して社会がどう向き合うか、その際の国家の役割とは何かが議論されていた時代に、ヘーゲルは自分の社会哲学・国家哲学を練り上げようとしていました》というのが面白かった。

 『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙 あたらしい宇宙138億年の歴史』アンドリュー・ポンチェン、竹内 薫、ダイヤモンド社ではダークマター、ダークエネルギーなど未知の物質がなければ宇宙は現在あるような形にはなっていないし、実は質量の95%を占めているというのがコンピュータによるシミュレーションによって明らかにされてきたということを知りました。

 以上が2023年12月から24年12月の書評年度に出版された新刊書の中でお勧めする本です。冬休みの読書計画の参考にしていただければ幸いです。

 新刊書ではありませんが、『遺伝子 親密なる人類史 上下』シッダールタ・ムカジー、早川書房と『がん 4000年の歴史 上』シッダールタ・ムカジー、『NOISE 組織はなぜ判断を誤るのか? 上下』カーネマンほか、『自由の命運 国家、社会、そして狭い回廊 上下』アセモグルほかも凄かった…。人文書の翻訳はすっかり早川書房が中心となりましたね。

 あと、今年は個人的に『光る君へ』にハマった年となりましたが、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス日本の古典シリーズで『風土記』橋本雅之編、『権記』藤原行成、倉本一宏(編)、『小右記』藤原実資、倉本一宏(編)、『紫式部日記』山本淳子(訳)、『御堂関白記』繁田信一(編)、角川ソフィア文庫を読めたのは感謝でした。

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『がん 4000年の歴史 上』シッダールタ・ムカジー

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『がん 4000年の歴史 上』シッダールタ・ムカジー、早川書房

 『遺伝子』があまりにも面白かったので、ムカジーのデビュー作もジムの有酸素運動の際に「聴く」ことにしました。

 読んでいて圧倒されるのは、がん患者の苦しみ。20世紀後半では不治の病だったと思いますが、治る込みがない絶望に加えて、それでも治癒を目指した研究者が進めた暗中模索のがん治療が、患者の苦しみと犠牲の上に成り立っていること。想像を絶する副作用を予告された上で藁にもすがる気持ちで臨床試験を受けた人々の犠牲的精神の上で現代の医療が成り立っているんだな…と。標準治療の凄さというか、まやかしの多い代替「療法」には怒りさえ感じます。

 個人的な話しですが、数年前、親友をがんで失いました。その友人は再発した後、バカ高いビタミンC療法みたいなものにすがり、亡くなりました。しかも、彼は医者の息子だったんです。もし、この本を読んでいたら説得できたかもしれません。現在、受けられる手術や抗がん剤、放射線による標準治療は「並みの治療」ではなく、チャンピオン中のチャンピオン、パウンドフォーパウンド(PfP)の井上尚弥みたいな治療方法だ、と。

 がんは原題(The Emperor of All Maladies)のように「すべての病気の皇帝」ですが、それを克服しようとする人間の執拗さ、敗北と希望の不安の克服、普遍的な解決策を求める衝動と傲慢さは、人間の本質そのものかもしれません。

 白血病からスタートしたのは、初めて化学物質がいったんは寛解に導いたからなのか…と知らないことばかり。

 抗がん剤は細胞毒性抗がん剤であり、化学療法が転移した固形がんに対して上手く効いたのは1960年ぐらいが初めてというのには驚きました。ガンを殺すか患者を殺すギリギリの攻防で進められた化学療法とはなんと凄惨な歴史なのかと驚かされます。

 しかし、それまで転移したら対処もできなかったわけで、化学療法はありがたい話しなんだな、と。考えてみれば20世紀末ぐらいまでは、ほぼオワと考えられていたわけですから、凄い進歩です。ちゃんと早期発見の健診も受けて、これまでの研究の成果に感謝しなければ、と思います。小児白血病など、かつては致命的だったがんのいくつかは、今ではかなり治癒可能になっていますし。

 また、薬剤投与群とプラセボ投与群とに無作為に分けて、バイアスのない中立な方法で検証できる方法を考案したのはブラッドフォード・ヒルという名のイギリスの統計学者ですが、がん治療には医療関係者だけでなく、人類の叡智を結集したものだな、と。

 麻酔も消毒もない時代から、乳がんの拡大根治手術が必ずしも有効でなかったことにも驚かされます。

 がんの症状について《これは隆起するしこりの病である》と初めて記したのは、紀元前2625年前後に活躍した偉大なエジプト人医師、イムホテブでした。ただし、治療は行われないとも書いています。

 乳がんは割と「見える」がんであったため、ウィリアム・S・ハルステッドによって19世紀後半には根治的乳房切除術が実施されます。しかし、それは乳房だけでなくリンパ節や肩甲骨まで切除するものになっていくというエスカレーションは恐怖でした。

 全ての方に一読をお勧めします。

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『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』平山優

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『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』平山優、角川新書

 小牧・長久手の戦いについては、高校生ぐらいの時から判然としない印象があり、司馬遼太郎の『新史 太閤記』でも、小牧城から出てこない家康に対して怒った秀吉がお尻ペンペンして挑発したなんていうエピソードぐらいしか印象に残っておらず、池田恒興らの発案による尾張中入りは失敗したけど、秀吉による圧倒的なパワーは変わらず、なんとなく和睦した…みたいなイメージでした。対立軸は秀吉vs家康。

 しかし、本当の対立軸は秀吉vs織田信雄であり、織田家の家督を継いだ信雄が秀吉に屈したことで、主従関係が逆転し、秀吉政権の成立につながったというのが歴史の流れだ、と本書は記します。

 そうした認識が広がらないのは一般の読書人が手にすることのできる概説書がほとんどないこと。また、そうした概説書が書かれなかったのは《本能寺の変から家康上洛と秀吉への臣従に至る、およそ四年間の複雑な「織田体制」内部の政治・軍事動向、広域に及ぶ戦国大名との外交や、地域争乱との関わりなどを総括しつつ、合戦の背景、原因、経過、結果を叙述することの困難さにあるだろう》(k.51、kはkindle番号)。

 当時は越後上杉景勝も織田氏に敵対していた時期から時間はたっていませんし、武田勝頼も滅亡したばかりでした。

《本能寺の変により、最も混乱した織田領国は、旧武田領国(甲斐・信濃・上野・駿河)であった。河尻秀隆、毛利長秀、森長可、滝川一益、木曾義昌は、信長横死を知った各地の国衆、一揆の蜂起や、上杉景勝、北条氏直の攻勢に直面した》(k.416)わけです。

 本書の特徴はこうした地方の戦いとの連動が描かれていることであり、特に信州については中入りの原因にもなっていると深く分析していますが、信雄の領地となった旧伊勢北畠家も信長の粛清などもあって難治の地であり、長久手の敗戦後、秀吉が狙いを定めて攻撃し、信雄は和議を申し出る=主従逆転するしかありませんでした。

[発端]

 小牧・長久手の戦いの対立軸は秀吉vs信雄です。清洲会議の後《信雄と信孝、秀吉と信孝・勝家という対立が始まり、「織田体制」の内部抗争は激しくなった。当時、これは「上方忩劇」と呼ばれ、この結果「織田体制」は、総力を挙げて北条氏と戦う家康に、援軍を送ることが出来なくなった》(k.546)というのが当時の情勢でした。

《織田家家督信雄と宿老秀吉・長秀・恒興により、「織田体制」が再編されたが、結果として、柴田勝家、織田信孝、滝川一益は排除され》(k.606)、賤ヶ岳の戦いなどで柴田勝家は滅びましたが《柴田らの遺跡を接収し、それらを織田家臣に配分(知行宛行、加増)や安堵などをする行為は、主従制の根幹であるので、当然、当主信雄が執行すべきものであった。ところが、これを秀吉が勝手に行ってしまったわけである。当然、両者の関係は、これを契機に冷え込んでいった》(k.714)です。

 さらに秀吉は、将軍足利義昭の帰洛の実現に向けて調整を図り、主家信雄と、将軍義昭を従属させることで秀吉権力を成立させようしますが、ことここに至って信雄は秀吉に融和的な三家老を粛清し、家康とともに織田体制を再構築するため立ち上がるわけです。

[小牧・長久手の戦いの勃発]

 《秀吉は、信雄が、自身との取次役をつとめる岡田・津川らを誅殺したとの情報を、大坂城で知ると、ただちに軍勢の招集と派遣を決断した。秀吉にとって、主君である織田家督信雄が、自身を攻め滅ぼそうと動き出したのであるから、これに対抗することは謀叛ではないと充分に主張できるものであったといえる》(k.1046)ものであり好都合だったかもしれません。《やはり秀吉にも、自身が織田の「天下」の簒奪者とみられている自覚があり、それに対する後ろめたさがあったと思われる。しかし、信雄が先に拳を振り上げてくれたことで、彼は謀叛人の烙印を押される危険性から解放され、自らの身を守るためにやむなく軍勢を尾張・伊勢・伊賀に差し向ける構図を作り上げることに成功した》(k.1091)わけです。

 一方、清須城にいた信雄と家康は小牧山に急行、尾張の要所を確保します。両軍の動きは素早いものがありましたが、これによって、戦いは膠着状態に陥ります。それは両軍を隔てていたのは湿地帯だったから。秀吉が大軍を擁しながら動けなかったのはこうした地理的な要因が大きいと考えられる、と。

[日本全国を巻き込む戦いに]

 両軍がにらみ合いを続けている間に、戦火は全国に波及します。《小牧・長久手合戦が、天下をめぐる「織田体制」と秀吉との抗争であったという事情から、それまで「織田体制」の枠内(和睦、従属、同盟)にいたか、もしくはその枠外(敵対関係)にあった戦国大名や国衆、一揆などは、各自の利害にもとづき、双方に味方して地域での戦いを繰り広げた。その範囲は、東北と九州を除く、本州・四国に及んだ》(k.1231)というのですから驚きです。

 長年、織田は対立してきた上杉が秀吉方となり、同じく家康と対峙してきた北条氏が家康側になっていたのはいかに権力が流動的だったかが実感できます。

 特に複雑で活発な動きを示したのは信州。《遠山一族は、隣接する信濃を支配する武田信玄と、尾張から美濃へ勢力を拡大しつつあった織田信長の両者と友好関係を結び、両属の国衆として生き残りを図っていた》(k.2777)が、森長可(蘭丸の兄)領となり、遠山一族は家康を頼りに落ちます。その後も不安定な情勢が続きますが、小牧・長久手の前哨戦となった羽黒合戦で森長可が敗退したことで遠山方が東美濃で蜂起。《尾張に在陣する森長可は、これに対応できず、座視せざるをえなかった。この地域での劣勢を挽回するためにも、長可は尾張の戦局を優位とし、秀吉の許可を得て、金山城に転じて対応したいと考えていたとしてもおかしくはなかろう。長可の焦りが、長久手合戦の開戦に、大きく影響していたのではないだろうか》(k.2942)というのは納得的です。

[長久手の戦いの敗北後の秀吉の巻き返し]

 尾張中入りは池田恒興らの発案とされていますが《これほどの規模の作戦は、やはり秀吉が発案したと考えたほうが自然であろう。結局それが長久手合戦で失敗したため、敗戦の屈辱を糊塗すべく恒興の献策ということにしたのではないだろうか》(k.3277)というのはなるほどな、と。

 長久手の合戦で敗北した後、秀吉はどうやら体調を崩し、有馬温泉で湯治をします。その後、秀吉は近衛前久の猶子として関白となりますが、「豊臣」改姓を勅許され、五摂家に並ぶ豊臣氏を創設し、権力基盤を圧倒的なものとしていき、信雄領を徐々に浸蝕し、有利な和議に持ち込みます。

[評価]

《小牧・長久手合戦は、「織田体制」の二派それぞれが、関東・北陸・畿内・西国・四国の戦国大名、国衆、一揆などを巻き込みながら展開した抗争であった。そして、その勝者こそが天下を掌握する天下人となることが明確に予想されていた、まさに「天下分け目の戦い」だったといえるだろう》(k.4963)というのが著者の評価です。

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December 19, 2024

『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人

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『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人、ハヤカワ新書

 アメリカ主導のドルの基軸通貨体制がどう構築され、維持されてきたかを、独立直後のアナーキーな通貨システムから説明してくれます。日本の維新政府が藩札の整理をした上で通貨システムを構築するにあたり、米国の各州が勝手に発行していた通貨を統一する過程を参考にしたということも、実感として理解できました。

 「おわりに」で《筆者は1971年のニクソン・ショックで新聞やテレビが大騒ぎしているのを眺め、「何が問題なんだろう?」と理解できなかったことを覚えています。その後大蔵省・財務省、BIS、IMFなどでの職歴を含め、ほぼ40年間にわたり通貨問題や金融危機に向き合って、少しは問題の理解が進んだかな、と願っています》(k.3062、kはkindle番号)と書いていますが、ニクソン・ショックが金というアンカーから通貨が解き放たれたことが、いかに凄いことだったか、ということが改めてよくわかります。

[アナーキーな初期の米国の通貨制度]

 米国の通貨は、こんな風に始まります。

《植民地内で流通する貨幣(コイン)は数が圧倒的に不足していたため、日常の取引は物々交換か、あるいは特定の商品(小麦、タバコ、ビーバーの毛皮等)を通貨のように用いて行われていました。また、現地に先住していた人々(ネイティブ・アメリカン)が用いていた、貝殻を数珠つなぎにしたもの(ワンプン)を、入植者間でも貨幣代用品として活用していました(図1‐2)。当然不便ですし、商品価値が上下すれば通貨の価値も不安定となったでしょう(k.413)》。

 《1775年の大陸会議(コンチネンタル・コングレス Continental Congress:13植民地の代表者が集まる事実上の最高意思決定機関)で、金銀や商品の裏付けのない証券の発行を決定します。第二次世界大戦中に日本軍が占領地域で発行した軍票のようなものですが、最初のドル紙幣と呼んでよいでしょう(k.453)》

 1783年に合衆国の独立が正式に認められると《ドルの価値は当時流通していたスペイン・ドル硬貨と同一と定めます。そのため市場のスペイン・ドル硬貨を無作為抽出して平均を取り、1ドルは銀371グレイン(約24グラム)と決定します。また、当時の金と銀の交換比率(1:15)から、1ドルは金24グレイン(約1・6グラム)とも定められました。つまり、金と銀の双方によってドルの価値を定める「複本位制」を採用したわけです》(k.484)。

 そしてリパブリカンが各州で州法に基づき民間銀行(州法銀行)が設立できるようにしたのですが、当然、不安定。《商店主などが受け取った紙幣を急いで発行元の銀行に持ち込んだことは想像に難くありません。一方銀行の側では、なるべく銀行券の償還に応じないために、わざわざ人里離れた山の中に本店を置くなどしてあえて不便にした》(k.517)というほぼ詐欺的な状況でした。

 この結果《1811年の紙幣発行残高は、第一合衆国銀行と州法銀行を合わせても2810万ドルだったのが、1816年には州法銀行だけで6800万ドルも発行していました。州法銀行が次々と設立され、偽造紙幣や更には全く存在しない銀行の銀行券まで流通しますので、何が何だか分からない、という状態》(k.545)になります。さらに《1860年時点で、州法銀行券は2億700万ドル流通していましたが、銀行数は1572行で、銀行券の種類は7000種に上り、そのうち4000種が偽造ないし変造だった》(k.575)というアナーキーさ。

 その後《信用力のある公認の紙幣を導入できたので、連邦は州法銀行券の排除に乗り出します。1864年の法律で、州法銀行券への税率を10%に引き上げた結果、州法銀行券の残高は1867年に400万ドルまで減少し、ようやく州法銀行券問題が事実上解消するに至りました》(k.594)というあたりは、日本の維新政府が参考にしたハズです。

[金本位制からブレトンウッズ体制]

 第一次世界大戦後、疲弊した英国の経済を見た海外投資家は、ポンド資金を金に交換してイギリスから引き揚げました。金の流出に直面したイングランド銀行は、1931年9月21日に金本位制を停止します。一方、アメリカは1900年頃、世界最大の経済国となり、第二次世界大戦前夜には金の保有量は約8000トンと4倍に増加。大戦後には2万トンを超える量まで激増させますが、金本位制はとりませんでした。ブレトン・ウッズ体制は各国通貨を直接金と結びつけるのではなく、ドルを通じて間接的に金と結びつける=各国は自ら金を保有するのではなく、金と結びついたドルを外貨準備として保有するようにしました。

 同時に《アメリカの考えに沿って作られたIMFの枠組みでは、経常赤字国は、外貨準備が不足する場合、一時的に外貨(ドル)をIMFから借り入れて経常赤字を埋め合わせ、同時に輸入縮小・輸出振興のための経済政策を採って、経常収支黒字化を目指すことが求められました。一方の黒字国(アメリカ)は、IMFが他国に貸し出したドルに対する利子を受け取ります》(k.1154)。

 《アメリカは、貿易収支こそまだ小幅の黒字でしたが、多額の民間及び政府資金が国外に流出しており、国際収支は赤字でした。しかし、他国と違って唯一アメリカだけは、外貨獲得の努力をする必要がありません。引締め政策を採ることなく自国通貨(ドル)を刷り増すことで国際収支の赤字を穴埋めできるからです》(k.1251)

[ブレトン・ウッズ体制の崩壊]

 1971年のニクソン・ショックでドルと金とのリンクが断ち切られブレトン・ウッズ体制は創設後25年強で崩壊します。戦後の混乱から回復した主要国通貨が交換可能性回復してブレトン・ウッズ体制が想定通りの機能を果たすようになってからではたった15年も持ちませんでした。これは泥沼化したベトナムで出費がかさみ、金との交換ができなくなったためですが、崩壊したとはいっても、ブレトン・ウッズ体制は金本位制よりも優れていました。金本位制下では、為替レートに下落圧力がかかると国内の景気を無視して金利が引き上げられて恐慌が起こりました。しかし第二次大戦後は、国民生活の向上や完全雇用の実現が民主主義国家の優先事項となったりして、金融政策は国内に目を向けたのになったわけです。

 ブレトン・ウッズ体制崩壊直後、当コナリー財務長官は国際会議で「ドルは我々の通貨だが、お前たちの問題だ」とドルが不安定だと困るのはアメリカ以外の国だと言い放ったそうです(k.1427)。アメリカが経常収支赤字の削減に進んだら世界同時不況に陥ると困るだろう、と。

 《ブレトン・ウッズ体制後の国際通貨秩序が極めて柔軟なもの(変動相場制)だったからです。ポンドは、硬直的な「現場」(金本位制)に斃れましたが、ドルは「現場」を柔軟にすることで生き延びたのです》(k.373)。

 そして《アメリカが規律にとらわれない政策を行い、黒字国にも内需拡大を求めたことが、種々の歪みやバブル(及びその崩壊)を伴いながらも現在の空前の豊かさを生み出す源泉となったという意味で、これはドル秩序の特徴》(k.1567)だと。

[ユーロ、円、元は基軸通貨にはなれない]

 英語で「一世代(onegeneration)」と言うと概ね25年のことを示すそうで、次の25年となる2050年までを想定しても筆者はユーロ、円、元は基軸通貨にはなれないことを説明していきますが、興味のある方はご自身でまとめてください。

[目次]
序章   鷲は舞い降りた 国際通貨覇権の淵源
第1章  幼年期の終り ドルの誕生
第2章  死にゆく者への祈り 最初の基軸通貨英ポンドの凋落
第3章  黄金三角 短命に終わった基軸通貨としてのドル
第4章  ゴッドファーザー 生き延びたドル秩序
第5章  大いなる幻影 ユーロの挑戦
第6章  ¥の悲劇 地盤沈下する円
第7章  レッド・ドラゴン 人民元の興隆
第8章  電気羊の夢 デジタル・カレンシーの登場
第9章  アクロイド殺し ドルを殺す者は誰か?
第10章  そして誰もいなくなった? 国際通貨覇権の行方
おわりに 世界はどこへ向かうのか

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November 26, 2024

『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』

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『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』仁藤敦史、中公新書

 あまり、深くは考えないようにしていたヤマト王権の任那問題ですが、新書でまとまった本が出たという読書界の話しだったので購入、読了しました。これまで、あいまいなままにしていた広開土王碑やいわゆる「任那日本府」の問題について、納得感のある説明の背景を得られたと感じましたし、実は日本国内の磐井の乱が、朝鮮半島情勢を深い関わりを持っていたという視点も得られました。

[広開土王碑と磐井の乱]

 まず広開土王碑に関してですが、旧帝国陸軍による改竄があるのではないかという問題に関しては《石灰塗布以前の「原石拓本」がいくつか中国で発見され、編年研究も深化し、改竄の可能性は低くなった(徐建新二〇〇六、武田幸男一九八八・二〇〇九)》(k.653、kはkindle番号)とのこと。なんで改竄の話しが出てきたかというと、広開土王碑には倭軍が強大な軍だったことが書かれていて、そんなことわざわざ書くか…ということからだと思いますが、広開土王の立場に立てば、そんな強大な軍を打ち破ったんだ、というマウントが取れるわけです。

 《史料批判を行えば「広開土王碑」は客観的な記述ではない。高句麗中心の世界観や守墓役体制(王墓を守る労役を負担させる制度)の維持を主張するための碑である。そこでは倭の活動が誇張されている》(k.624)が、《百済に主導された九州勢力を中心とする出兵の可能性》(k.698)はある、と。

 著者によると1)百済の近肖古王の時代に倭と百済が交渉を開始したという「百済記」の記述2)百済と倭の良好な関係がうかがえる七支刀が存在すること3)「広開土王碑」に記された三九九年、百済が倭と和通しとあり、百済からの働きかけによる出兵が想定されるが、その内実は少数の九州の軍士が中心だったと考えられる、とのこと。

[朝鮮半島の前方後円墳]

 百済への援軍は、筑紫国造を中心とする筑紫の兵で(日本書記の欽明紀一五年一二月条)、馬韓では筑紫の人びとが土着していたであろう、と。統制を強めるヤマト王権は五二八年の国造磐井の乱後、筑紫の軍事拠点としてヤマト王権は那津官家を設置。那津官家は朝鮮半島に対する兵站基地の役割を持っており、これ以降、九州の軍勢のヤマト王権への従属は強くなる、という流れだったろう、と。

 そして百済が加耶諸国この地域を併合しようとしたときに、独立を維持するため倭系の移住民らが反対勢力として百済と敵対した、という事実もあるようです。

 馬韓と称された朝鮮半島南部西端に位置し、百済の領域支配を受けていなかった栄山江流域には五〇〇年前後の一時期だけ造られた倭系の前方後円墳が存在し、その埋葬者たちは筑紫出身の倭系であり、その一部がその後、倭系百済官僚になったと考えられる(k.1983)。しかし、それはヤマト王権による領域支配とは直接の関係がない、と。

[百済三書]

日本書記の朝鮮半島との外交記事には「百済三書」と総称される「百済記」「百済新撰」「百済本記」という百済系史料が多く用いられ、特に本文に付された注(分注)に引用されることが多く《これらは、日本国内にいた百済系の人々によって編纂されたと考えられている》(k.252)とのこと。

 《百済三書の時代順は、まず亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」。つぎに百済と倭の交通および「任那」支配の歴史的正当性を描いた「百済記」。最後に傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめた「百済新撰」となる。ただし、百済三書は順次編纂されたが、共通の目的により統合され、まとめられたと考えられる》(k.713)。

 また、「百済記」には干支を記載した項目があり、このことから《『日本書紀』神功紀は「百済記」記載の干支について、干支の周期六〇年の倍数である一二〇年、場合によっては一八〇年遡らせて、卑弥呼が登場する三世紀の中国史書に合わせようとしている》とのこと(k.1268)。

[任那日本府とは]

 著者によると、任那日本府は百済の加耶侵攻に対して、独立を維持し抵抗する倭系の人々の総称と考えるべきで、その背景には雄略天皇時代に、倭の有力豪族が王権の統率を離れて独自に朝鮮半島南部で活動するようになったことがある、と。たとえば、四六三年に吉備上道臣田狭が「任那国司」に任じられたものの、雄略天皇の意向に背いたとの記載がある、とのこと(k.1879)。

 こうしたことから、当時の半島にはヤマト王権から相対的に独立した旧倭臣勢力と、百済に敵対する在地勢力の連合が存在した。加耶で土着化した旧倭臣は五世紀後半における雄略天皇の時代から連続する勢力であり、先祖が管理した兵馬船を継承し軍事力を持っていた、と。

 《「任那」滅亡後も百済・新羅は「任那」の使者を倭に派遣していた。それは百済・新羅が仕立てた虚構の「任那」の使者である。彼らは倭へ共同入貢していた。倭は定期的に貢納してくれれば満足だった》(k.2685)というあたりも、なるほどな、と。

 そして著者は《両属的、あるいはボーダーレスな立場の人々がいたことを、史料から実証・解釈し強調》しています(k.2910)。

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November 14, 2024

『遺伝子 親密なる人類史 下』シッダールタ・ムカジー

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『遺伝子 親密なる人類史 下』シッダールタ・ムカジー、田中文 (訳)、早川書房

 ギリシア哲学の時代から始まった遺伝子に関する編年体による説明は2000年代初頭の人間の全遺伝情報=ヒトゲノム解読、山中伸弥教授らによるiPS細胞の作製に成功、ジェニファー・ダウドナらが開発した新技術「CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)」によるゲノム編集と進みますが、下巻の後半からは近未来におけるヒトの遺伝子編集の是非について多くの頁を割いていす。

 時代はゲノム解析からゲノム編集へ、解読から書き換えへと進むわけです。メンデルの発見から150年といいますか、その再発見からわずか100年の間に,人類はかつて想像もできなかったような「技術」を手に入れたことになります。

 ヒトゲノム計画は、遺伝性疾患によって起こる病気の原因を突き止めるための、遺伝子の解明にありました。その解読が完結すると、まず単一遺伝子の異常が引き起こす遺伝病の原因遺伝子探しが始まります。

 しかし、上下巻を通奏低音のように流れる血友病のように単一遺伝子の異常によるものは意外と少なく、環境を含む複数の要因がからむ事例が多いとのこと。

 1999年にペンシルバニア大学の遺伝子研究に被験者として参加していたジョン・ゲルシンガー(18歳)が重篤な感染症を併発し、死亡した事件など、まだまだ課題は多く、遺伝子を改変するより、環境を変えた方が治療効果は高い場合もあるというのはホッとしました。

 また、出生前診断も拡大していきます。これは、障害者にかかる経費を減らそうとする社会的な欲求が背景にあるのですが、例えばアイスランドでは出生前診断によってダウン症の新生児がゼロになっているとのこと。

 ヒトが自分の仕様書とも言うべき遺伝子を読み解き、書き換えるようになった未来では、病気、悲しみ、変異、弱さ、偶然は少なくなるが、個性、やさしさ、多様性、傷つきやすさ、選択の自由は失われるかもしれないという著者の言い方には、なるほどな、と思うと同時に「自分をよりよくするために」操作したいという欲望は変わらないだろうな、とも感じます。

 個人的にはエピジェネティクスがルイセンコの環境因子が形質の変化を引き起こしと獲得形質が遺伝するという学説に似ているというあたりが印象的でした。日本でも1960年代までは、ルイセンコ学説が幅を効かしていて、ウィルス学がプラウダに載った記事に大きな影響を受けていたという中井久夫さんが書いていたようなことは、本当にあったんだ、と改めて驚かされます。

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November 04, 2024

『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙 あたらしい宇宙138億年の歴史』

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『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙 あたらしい宇宙138億年の歴史』アンドリュー・ポンチェン、竹内 薫、ダイヤモンド社

 この本はダークマター、ダークエネルギーなど未知の物質がなければ宇宙は現在あるような形にはなっていないし、実は質量の95%を占めているというのがコンピュータによるシミュレーションによって明らかにされてきたという内容です。というかシミュレーションによってしか納得的な説明はできないし、ヒッグス粒子の観測もシミュレーションを重ねた後の実験で明らかになったほど、宇宙論とシミュレーションは切っても切れない関係ということが理解できました。そもそも《科学とは、その核心において、正しい説明ではなく、検証可能な説明を与えることである》(k.1888)というあたりはうなりました。

 こうしたシミュレーションはまず気象予報から始まります。クリミア戦争時に襲った嵐によって各軍は大きな損害を受けますが、そうした災害を防ぐには予想しかない、と。そして、天気予報は流体力学を基にしており、それは素粒子や星やガスの雲など、あらゆるものの「集団的なふるまい」を理解することにもつながる、と。それは《コンピュータ内に収めるために、無数の個々の構成要素一つひとつに触れることなく、膨大な数の分子を「ひとまとめ」にして、それらがどのように「集団」で動くか、互いに影響しあい、エネルギーをやりとりし、光や放射線に反応するかを説明することで、天候や銀河、あるいは宇宙全体を描き出さなければならないのだ》(k.222)と。

 最初は予測はグリッドが大きすぎて予想は使い物になりなかったのですが、コンピュータの発達とともに徐々にグリッドを小さくして予想精度が高まり、さらにはコンピュータが考慮すべき詳細を特徴づける適切なサブグリッドのルールを与えることで、さらに精度が高まっていきます。ちなみに訳者あとがきの解説によりますと《世界を四角形で分割したのがグリッドだ。三次元であれば立方体で分割する。これは要するに、微分方程式をデジタル化(=離散化)するという意味である》とのこと(k.4215)。

 そして《地球、惑星、星、銀河系、宇宙全体。それが何であれ、シミュレーションのテンプレートはよく似ている。シミュレーションは、初期状態(今日の天気、太陽系を形成するために合体する物質の雲、ビッグバンの余波など)》からの変化を予想することなのだ、と(k.900)。

 《今日、宇宙を押し広げているものはすべて「ダークエネルギー」と呼ばれ、銀河を引き寄せている「ダークマター」と対をなしている》(k.1372)、《もっと重要なのは、ダークマターの引力とダークエネルギーの斥力が共謀して、私たちの宇宙の包括的な構造、つまり宇宙の網の目を作り出す方法だ(訳注:物理学的な力には二種類ある。引力と斥力=反発力である)》(k.1419)というあたりはワクワクします。

 日経の書評で《戦後、ENIACの巨大なコストをかけてでもシミュレーション技術を発展させる原動力になったのは、核実験禁止条約という政治的課題に向けた超新星爆発の解明だった》というのは、どういうことなんだろうと思いながら読んでいたのですが、例の歯磨き粉の一族の研究者が《コルゲートは条約顧問の立場から、水爆実験を禁止するためには監視と強制力が必要だと考えていた。しかし、太陽系のはるか彼方で死にかけた星々が爆発すれば、大気圏上層部に、爆弾とよく似た放射線の閃光が発生するかもしれない。このような宇宙の閃光は、本来は爆弾よりもはるかに明るいが、遠大な距離のために暗くなり、宇宙空間で兵器と誤認され、誤った警報が発せられるかもしれない》(k.2160)ということから始まったんだな、と。

 この後《量子力学、重力、ダークマター、宇宙マイクロ波背景放射、宇宙の網の目、そして、私たち自身の存在。これらすべてが、インフレーションというビジョンの中で見事に結びついている》という流れは本当にスリリングでした(k.2986)。

 AIの未来に関し《科学者の直感は、ベイズ型の世界と機械学習の世界の「中間」にあるからだ。それは、一方で、既存の知識に関わるため、ベイズ型のアプローチが必要なように見える。他方で、「未知の未知」の問題、つまり事前に予想されていなかった実験の問題点にも関係するため、かなりの柔軟な思考が要求される》というのは明るい見通しだな、と(k.3644)。

 万物の理論が完成していないのは《重力が他のすべての力と大きく異なるふるまいをするから》というのは知らなかったな(k.4055)。

 とにかくセンス・オブ・ワンダーの塊みたいな本でした。

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October 10, 2024

『冷戦後の日本外交』高村正彦

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『冷戦後の日本外交』高村正彦、兼原信克、川島真、竹中治堅、細谷雄一、新潮選書

 石破茂新首相はそれほど防衛、外交に詳しくないというか、なんとなく危うく感じているんですが、そのわけがわかったような気がしました。
福田内閣の高村外務大臣に「アフガニスタンに輸送用ヘリを送ってくれ」という要請が届いたことがあったそうです。そのきっかけは石破氏が防衛大臣の時のゲーツ国防長官から「ヘリ部隊を出せないか」と聞かれ、「自衛隊の能力としてやってやれないことはない」と答えたこと。その結果、米側は「日本は自衛隊を出す用意がある」と期待が高まり、ブッシュ大統領から直接要請する寸前だった、と。

 《石破(茂)防衛大臣とゲーツ国防長官が会談した際、ゲーツ長官が「ヘリ部隊を出せないか」と聞いたら、石破さんが「自衛隊の能力としてやってやれないことはない」と答えたことです。石破さんは、自衛隊としてやろうと思えば能力的には可能、と返答したに過ぎなかったと思いますが、アメリカ側は「日本は自衛隊を出す用意がある」と受け止めてしまった》というのが本文(k.2010、kはkindle番号)。

 安倍内閣の幹事長時代、石破首相は芦田修正を採って集団的自衛権論議を進めようとしていたのですが、それは無理筋で、高村副総裁は1959年の砂川事件最高裁判決を根拠にしようと進言したそうです。立憲主義は憲法の条文と最高裁判決に基づくべきだ、と。

 芦田修正とは1946年に衆議院憲法改正小委員会の委員長だった芦田による憲法9条2項への文言挿入を指し、これにより第9条について「自衛のためなら何でもできる」と解釈できる余地が生じたものですが、最高裁や政府も一度も採用したことのない解釈。

 これに対し、砂川事件の最高裁判決は集団的自衛権の一部容認の論理を15人一致で出しています。その後、ベトナム戦争の激化によって、自衛隊が巻き込まれる恐れが出たことによって、慎重な解釈を示すことになっていったというのが流れだった、と。しかし、60年代には指揮権が国連にある限り自衛隊も国連軍に参加できるというのが内閣法制局の立場だったといいます。その後、内閣法制局に防衛庁、防衛省からの官僚が長らくいなかったことなどから、集団的自衛権については全否定になっていった、と。

 砂川事件の最高裁判決と佐藤政権による集団的自衛権の抑制についての本文は以下の通り。

 《1959年の砂川事件に関する最高裁判決を踏まえてこう言いました。最高裁は国の存立を全うするための自衛の措置は認められるという一般法理を明らかにしている。従来の政府見解はこの判決の一般法理を引き継いでいる。ただし、当時の安全保障環境に当てはめて「個別的自衛権は必要だが集団的自衛権は必要ない」ということで通してきた。安全保障環境が変わって、国の存立を全うするために必要な自衛の措置に、国際法上、集団的自衛権と言わざるを得ないものがあれば、その限りで集団的自衛権は認められる、と》(k.2345)

 《砂川判決を書いた田中耕太郎長官は、条約優位論、国際法優位論で全裁判官を説得しようとしたけれど、おそらく説得しきれなかった。私の推測では、ですよ。だから、将来私が利用することになる集団的自衛権の一部容認の論理を15人一致で出したんですよ。最高裁の民主的な仕組みでそういう結論になっているなら、これに従うよりしょうがないじゃないですか。学者は何でも言えるんですよ》(k.2401)

 《ベトナム戦争、さらに第二次朝鮮戦争が起こったら、自衛隊が派遣させられるんじゃないかという懸念が、60年代半ばの佐藤栄作政権の時に出てきた。それまでは内閣法制局の中でも、現行憲法下で自衛隊の国連軍への派遣もできると言っているんですね。実は60年代前半に内閣法制局の中での検討では、指揮権が国連にある限り自衛隊も国連軍に参加できる、としています。それが佐藤栄作政権になって、私が見た限りは、予算を通すために野党と妥協した》(k.2566)

 それにしても自衛隊のヘリ部隊をアフガンに出すことは「やれないことはない」と無責任な発言したり、集団的自衛権の問題でも、無理筋な芦田修正を根拠にしようとしたり、自分では専門知識があるように振る舞っていますが、ちょっと危ういな、と感じます。

 大物政治家のオーラルヒストリーは単行本として出されるのが普通ですが、この本が選書という形になったのは、高村氏だけでなく元外務官僚の兼原信克氏も進行役の枠を超えて重要な発言を繰り返しているからだと思います。ちなみに《兼原さんは平和安全法制の論議が続いていた間ずっと、私と安倍総理の間をつないでいてくれた》とのこと。

 高村氏《私は英語でこんにちはも言えない人なんですが、本当に大事にしていた通訳が死んじゃったんですよ、リンガバンク社長の横田(謙)さん。彼が死んじゃったって聞いて、もう俺は外務大臣できないなと思った》とのことで、政務次官1回を含む三度の外務大臣時代は、通訳と官僚に支えられていたんだな、と(k.1466)。しかし、当時は英語が喋れない外務大臣も通用していた時代だったんですね。

 あと、中東情勢が緊迫する中、ゴルダ・メイア首相の「イスラエルは世界の人に同情されながら死んでいくより、嫌われながら生きていく道を選ぶ」という言葉の引用も改めて考えさせてくれました(k.825)。

 福島第1原子力発電所1号機への海水の注入が東日本大震災翌日の3月12日に一時中断した際、再臨界が起こるのではないかと問われた班目春樹・原子力安全委員長が「可能性はゼロではない」と緊急時に無責任に答えたことが大事故につながったとも言われていますが、防衛庁長官時代にゲーツ国防長官からアフガンに自衛隊のヘリ部隊を出してほしいと要請された時に「自衛隊の能力としてやってやれないことはない」と答えたゲル、内閣も最高裁も採って考え方なのに芦田修正で集団的自衛権はいけると考えていた幹事長時代のゲルは、本当の専門家じゃないのに専門家ぶってる危うさを感じました…地方創生とか毒にも薬にもならないことを言ってる分にはいいんでしょうが、具体的な政治の世界で「アジア版NATO」とか深く考えもしないで語るのは勘弁してほしいと思いますw

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October 05, 2024

『遺伝子 親密なる人類史 上』シッダールタ・ムカジー

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『遺伝子 親密なる人類史 上』シッダールタ・ムカジー、早川書房

 ジムで運動しながらAudibleで聴いた本。

 メンデルがヨーロッパの片隅で発見し、一時期は忘れ去られていた遺伝の法則と、ダーウィンの進化論が出会って遺伝学は歩み始めたのですが、そのダーウィンの従兄弟が心酔した優生学をナチス・ドイツが悪用、いきなり民族浄化に使われるという負の遺産を背負いながらの研究史となります。しかし、第二次世界大戦後のワトソンとクリックによるDNA二重らせん構造の発見をへて、遺伝学はクローニングなどの技法も加わり、生命科学というより人間社会をも変貌えていく壮大なストーリーが前半。

 血友病のロシア皇帝家系の悲劇が通奏低音になっているのも、よく考えられた構成だと思いました。

 メンデル~ダーウィン~DNA発見までは割と書評で書かれているので、第三部「遺伝学者の夢」の後半を中心に書いてみたいと思います。

 ここでは、1970年から2001年にかけての遺伝子解読と遺伝子の「乗り換え」や「組み合わせ」、クローニングの進展が描かれています。

 その中で大きな影響を与えたのがアシロマ会議。「浜辺のアインシュタインたち」では、1975年に開催されたアシロマ会議で、遺伝子操作の安全性と倫理について議論され、遺伝子操作技術の適切なガイドラインが策定されました。1970年代初頭、遺伝子組み換え技術が急速に発展し、科学者たちはその潜在的なリスクについて懸念を抱き始めました。抗生物質が効かない毒物を精製しようとしたり、遺伝子操作が健康に与える影響が問題視されました。特に人間の遺伝子操作に関する倫理的なガイドラインが求められ、それ以降、これに基づいて研究が進めることになりました(そうでなければ研究費が支給されないので)。

 こうした時代に、創業4年で史上最大級のIPOを実現したジェノテック(Genentech=genetic engineering technology、遺伝子工学技術)が研究者とベンチャーキャピタルの2人によって誕生します。創業者の1人である研究者ボイヤーはインスリンの製造に的を絞ります。当時、先進国では糖尿病が増える中、インスリンはブタやウシの膵臓から直接、つくるしかなく、慢性的に不足だったのです。アシロマ会議では人間の遺伝子操作はほぼ禁止されましたが、遺伝子操作によって生産されるインスリンはグレーゾーンながらかろうじて対象外だったので、DNA操作によってまず人工的なインスリンづくりが始まります。

 ジェノテック社は51個のアミノ酸で出来たインスリンづくりに成功したのですが、動物由来のインスリンよりも安全性の面で優れていることも後で判明します。当時、AIDSの蔓延によって血友病患者向けの液凝固因子製剤が問題になっていたのですが、遺伝子操作によって生産するため輸血を必要としない治療薬が開発でき、安全に多くの命を救ったのです。

 当時、ジェネティック社の中には「クローニングか、死か」というTシャツを着ていた研究者がいました。最初は遺伝子をクローニングできなければ会社は死ぬという意味だったのが、AIDSの流行で、人間由来の血液製剤が使えなくなる中で、文字通り人工的にクローニングできなければ患者が死ぬという問題に変わっていく過程がスリリング。

 遺伝子組換えをまだ問題視するヒトがいますが、こうした歴史は知らないんでしょうね。

 下巻も楽しみです。

[目次]

この時期の研究は、遺伝学の未来を大きく変えるものであり、現代の遺伝子研究の基盤を築いた重要な時代です。

プロローグ 家族

第一部 「遺伝といういまだ存在しない 科学」
遺伝子の発見と再発見(一八六五〜一九三五)

壁に囲まれた庭
「謎の中の謎」
「とても広い空白」
「彼が愛した花」
「メンデルとかいう人」
優生学
「痴愚は三代でたくさんだ」


第二部 「部分の総和の中には部分しかない」
遺伝のメカニズムを解読する(一九三〇〜一九七〇)
「目に見えないもの」
真実と統合
形質転換
生きるに値しない命
「愚かな分子」
「重要な生物学的物体は対になっている」
「あのいまいましい、とらえどころのない紅はこべ」
調節、複製、組み換え
遺伝子から発生へ


第三部 「遺伝学者の夢」
遺伝子の解読とクローニング(一九七○〜二○○一)
「乗り換え」
新しい音楽
浜辺のアインシュタインたち
「クローニングか、死か」

用語解説(五十音順)
〈監修にあたって〉
原注
索引にかえて

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September 28, 2024

『100兆円の不良債権をビジネスにした男』川島敦

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『100兆円の不良債権をビジネスにした男』川島敦、プレジデント社

 

 ぼくは不動産は自宅しか買ったことがないし、ビジネスにしようとは思っていませんが、以下の東洋経済書評欄を読んですぐ発注しました。清原本に続いて、個人でいろいろやっている方なら読むべき本なんじゃないでしょうか

 

 《当時、日本の不動産市場に利回りなんて概念はなかった。買い手は主に転売目的の不動産会社や自社ビルが欲しい事業会社で、テナントはむしろ邪魔。バブル期の取引には土地の値上がり期待こそあれど、賃料収入を見る人はほぼいない。米国流の投資手法に衝撃を受け、自分も経験したいと思った》というのは、バブル期、PERなんてことも考えずに株をやっていた、自分を含む日本人の姿を思い浮かべます。

 自ら特定目的会社をつくってボロ儲けして、資金が足りなくなったから上場したけど《上場によって資金を調達「しすぎた」ことは確か。潤沢な資金を元手に、自己勘定での投資を拡大するようにな》り、そこにリーマン危機が襲ってきて、一転窮地にというあたりは、ライブ感に溢れる。

 楽観しすぎていたわけではないけど、BSを広げすぎると、あるタイミングで急な暴落に巻き込まれるというのは自戒しなければ

 

 特定目的会社(SPC)をつくった後は借り手の返済義務の範囲を限定した融資ノンリコースローン(非遡及型融資)を引いてもらう、と。《出資金(エクイティ)SPC(当時は有限会社=YK)に匿名組合出資(TK)や劣後ローン(高い金利収入を得られる代わりに返済順位が低いローン)を出す。以上、何を言っているのかよくわからなかったが、とにかく言う通りにする。これが、後々ファンド業界のスタンダードになるYK-TKスキームだった。この他にも税効率(Tax Efficiency)などを考慮していくつかのスキームが生まれた。

 こうやっていわゆる倒産隔離をする。スポンサー企業(本件の場合、ケネディクスのこと)が倒産しても、このSPCには他の債権者は近寄れないようにする。米国の考え方はすごい。その後、合同会社(GK)法の改正があり、有限会社は廃止になったので、現在はGK-TKスキームが主流になっている。米国は個人の住宅ローンもノンリコースローンになっていて、仮に借り手が失業して、住宅ローンが返済できなくなったら、自宅の鍵を銀行に届ければそれで一切終了》というアメリカの考え方はすごいな、と。《日本であれば、トラブルになった時には「信義誠実の原則に則り誠意をもって協議しましょう」という慣習だが、米国は想定しうるトラブルを契約書に落とし込むという文化の違い》を実感しました。

 

 あと、90年代末になってもデューデリジェンスという発想がなかったという証言も貴重。バカな世代論者が「今の60代の人間は高度経済成長でも頑張らなかったし、バブルに乗っただけ。7080代の人間には年金手厚くしてもいいけど、それより若いのはタダノリ」とかアホなこと言っているが、デューデリジェンスもやらずに不動産取引をし、バリュエーションも分からずに株式投資して大失敗したのは、戦後復興やったり、高度成長時代にアメリカの真似していただけの奴らなんだよな、というのがよくわかります。

 

 さらに、個人的に経験してきた日本経済の歴史について、苦手というかあまり関係してこなかった不動産という視点からも振り返らせてもらってます。例えば初期の大手テナントだった東京テレメッセージが潰れたあたり。東京テレメッセージは日本テレコム(JR系)と東電などでつくった会社なんですが、リストラを進めていた新日鐵からJR系に出向した人が、東京テレメッセージに再出向、そこで倒産して、今度はどっかの新日鐵の子会社に飛ばされたというのを思い出しました。バブル崩壊では、こんな無駄を無駄な時間をかけて処理していくプロセスが続くんですよね…。《最大のテナントであった東京テレメッセージというポケベルを運営する通信会社が倒産したのだ。社会インフラだったはずの通信会社が倒産するなんて……。全くのノーマークだった。しかし考えてみれば当然だった。通信、ITは変化が激しい。コンピューターの大きさが3年で3分の1にダウンサイズされる時代に、ポケベルだけが例外であるはずはない。かつては高校生中心に流行っていたが、もはや高校生はピッチを持ち歩き、ポケベル人口は減少の一途。時代の流れだった》と(k.434)

 

 個人的な話しを続ければ、銀行からの天下りはいろいろみてきましたが、長銀からのが一番酷かった。天下り先でも不況下でコスト削減が叫ばれていたのに「海外出張ではファーストクラスしか乗ったことがない」と言い張って部下を困らせていたりして…「こいつら最低だな」と思ったら潰れたけど、そいつはしぶとく生き残っていろんなところを渡り歩いて驚きました。コネなんですかね。でも、能力はなさそうだったから、そんなのが集まっていた長銀はバブル紳士に潰されます。《雑貨商といってもいい程度の会社だったが1983年、高橋治則は38歳の時にEIEの社長となると、これを受け皿に日本長期信用銀行(以下長銀)から融資を引き出して事業を急拡大させる。日本やアジアの不動産を次々に買収し、膨れ上がった総資産の額は1兆円超》《戦後日本の産業育成を担い高度成長をけん引してきた長期信用銀行の一画にあった名門、長銀が一介のバブル紳士によってあっけなく破綻》するわけです(k.533)

 

 こうしたバブル紳士たちとは違いケネディクスは《土地から上がる収益をもとに土地の値段は決まる。土地の上に立っているオフィスの賃料は坪(3・3平方メートル)あたりいくら、延べ床面積はどのくらい、共用部分を除いた賃貸面積がどのくらいで、年間いくらのお金が入るから、このビルの価値はいくら、あるいはこの土地の価値はいくら、と算定される。それが普通だ。不動産から上がった収益は不動産に投資した投資家とアセットマネジャーに約定通り分配される。ケネディクスのような不動産のアセットマネジャーがバブルが崩壊した後に、米国から学び、取り入れた》と(k.584)

 

 それにしても、大蔵省を初めとする霞が関のバブルへの対処もオソマツですした。《1991年も1992年も1000社以上の中小不動産会社が倒産した。もちろんその後も倒産は続々。しかも倒産1件あたりの負債総額が巨大化していった。政府も慌てて公定歩合の引き下げを始めた。1990年には6%だった公定歩合を段階的に1995年にかけて0・5%まで下げた》けど焼き石に水(k.786)。《結果的に2000年代まで引きずって最終的に金融機関が処理した不良債権の処理額は、100兆円を超えたといわれている》(k.795)

 

 グローバルで見ると「持つ経営」「持たざる経営」どちらが優位かは、不動産の商慣習による、というのも面白い視点だと思いました。土地神話が生きていた時代までの日本ではダイエーのような「持つ経営」が強かったのですが、バブル崩壊後はヨーカ堂の「持たざる経営」が勝ちます(現状は別な要因で苦戦していますが)。一方《香港では不動産のオーナーの権限がとても強く、景気動向次第で家賃を30%、40%も値上げ要求できる。一等地に出店していた日本のデパートは利幅が薄いので賃料負担に耐えられず次々に撤退していった。持たざる経営の弱さである》ということもある、と。

 

 日本国内でも商習慣がこれほど違ったのかと驚いたのが大阪。《東京には違法物件はそれほど多くないが、大阪にはものすごい量がある。地元の不動産会社何社かに「違法物件でも売買されるのですか? 流動性はどれくらいありますか?」などとヒアリングして回った。その結果、違法の程度によっては融資する金融機関がいくつかあることがわかった。例えば、容積率が法定の20%オーバーまでの違法物件なら融資可能、など。東京ではあり得ない商習慣なので非常に興味がわく》(k.1062)

 

 《日本の不動産を買い占めようと米国マネーが日本市場に乗り込んできたのは、1997年頃から。最初の頃は水面下だったが実に活発だった。米国は不動産ファンドをテコに参入してきた》(k.881)あたりからのライブ感も凄かった。《買い進めたのが海外の不動産ファンドだった。当時隆盛を極めたファンドはゴールドマン・サックス、リーマン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、メリルリンチ、サーベラス、ローンスターなど。米系の錚々たるメンバーで》《日本全体で見るとAUM*1は2000年頃から急拡大が始まった。2007年には20兆円超に成長、2023年現在は50兆円以上にもなっている》(k.948-)

 

 タワー投資顧問を率いる清原さんが2回もケネディクスの経営に大きく関わっていたことも驚きでした。大証上場の頃は60%以上を保有していた米国親会社が全株をタワー投資顧問に売却した、と。《ケネディクスの60%の株主になった清原氏が運営する日本株式ファンドの投資家は、日本中の中小年金基金だった。清原氏はその投資家たちをケネディクスにも紹介してくれた。年金基金も従来の株や債券だけでなく、不動産ファンドのようなオルタナティブ投資もすべきだと言ってくれたのだ》(k.1242)。清原氏は新株発行での資金調達にも参加し《株式投資家なので社債は保有していなかったが、「ケネディクスが新株を発行して、生存者利益を貪るのなら大口で買ってもいいよ」と大量発注してくれた》そうです(k.2511)

 

 金融庁と銀行の生々しいやり取りも印象的。《ケネディクスのリートに融資をしてくれていた、ある銀行が同様に「今回はいったん返済してください」と言ってきた。しかしこれは銀行としての〝ポジショントーク〟だったのだ。同日、その銀行の担当者が再びやって来て「申し訳ありません」と言いながら、こう教えてくれた。「川島さん、よろしければ金融庁に電話してみてください。もしかしたら道が開けるかもしれません」 そこで、すぐに金融庁に電話して事情を話し、その銀行を止めてくれるようお願いしたところ、2日後に本当に止まったのだ。ほっとして胸をなでおろした。日本の金融秩序を維持するため、金融庁はあらゆる手を尽くしてくれていたことがわかった》(k.2373)というのには驚きました。

 

 リーマンショック後は資金調達の話しが中心になってくるのですが《大阪でSPC(特別目的会社)を使って小林製薬の本社が入居予定のビルを開発し、竹中工務店により完成しつつあったが、残工事代金を払えないという事態が発生していた。そこで、残工事代金相当額を竹中工務店からSPCに出資する形にし、将来売却した時に返済するという技を開発担当の社員が考えてくれた。これはすごいと思った》(k.2471)

 

最後のあたりの《昨今、中国の大手不動産会社のデフォルトが取り沙汰されている。これが日本の金融市場とか不動産市場にネガティブなインパクトがあるのか、ないのか、頭の体操が必要》というのは気にかかりました(k.2770)

 

*1受託資産残高

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