『分裂から天下統一へ〈シリーズ日本中世史4〉』
『分裂から天下統一へ〈シリーズ日本中世史4〉』村井章介、岩波新書
これで岩波新書の日本史シリーズが25冊目の『分裂から天下統一へ』で完結しました。日本史の中でもダイナミズム溢れる戦国時代から織豊政権、そして徳川幕府の成立までを描きます。
丸山眞男によると、応仁の乱を生き残った守護大名はほとんどなく、下克上で戦国大名にとって代わられました。それは荘園制に寄生した存在だった武士が、最初はその支配を京都と距離をとって進めるとともに政権運営能力を高め、元はといえば農民だった自分たちの「武士のエートス(行動様式)」を磨きながら、荘園制を最終的に浸食する過程で起きたことです。
室町時代の守護大名は在京が原則でしたが、地元を離れているうちに、さらに土着的だけれども農民の生活に気を配るような層に下克上で取って代わられ、そうした中から長宗我部、島津、北条、伊達などのように四国、九州、関東、東北ではそれぞれの地域国家の王のように君臨する戦国大名まで現れます。織田信長の改革が頓挫し、分裂がさらに進むかと見えた瞬間に、秀吉の軍隊が現れ、彼らの前に立ちはだかり、あっという間に屈服させ、魔法のように天下統一が達成されてしまいます。
これをもう少し大きな視点でみると、15世紀、中国大陸中央部で目覚ましく経済が拡大し、その結果、周辺の豊臣秀吉やヌルハチの辺境軍事勢力が活性化されたと見ることができる、というのが本書で得られた最大の知見です。
《1572年から始まる張居正の財政改革で、さまざまな租税・徭役を一本化・銀納化して土地に賦課する一条鞭法が、全国に拡大された。こうなると全国の土地所有者は、納税のために毎年銀を入手しなければならない。こうして膨大な銀需要が生じたが、国内生産ではまったく足りず、海外からの巨大な銀の流れを呼び起こした(p.92)》のですが、そうした中国の銀需要に応えたのが石見などの日本の銀山とスペインからもたらされるボリビア銀山からの銀でした。
こうした経済のダイナミクスが東シナ海と南シナ海と中国沿岸部を中心に巻き起こり、それが秀吉やヌルハチの台頭の背景ともなるんですが、彼らは二人とも夷に甘んじず華を飲み込み、自身が世界の中心になろうとします。そして、国内を統一した秀吉は全く躊躇することなく中国とインドを征服しようと構想し、まず朝鮮に出兵して失敗します。しかし秀吉が蒔いた種は、やがて1644年の明清交替で華夷変態をもたらすことになります。
その遠因となったが、中国内部の経済発展によって台頭した郷紳勢力からの納税を確実にし、複雑になりすぎていた両税法を実態にあわせて簡素化して銀納に一本化した張居正の改革かな、と。しかし、張居正が幼い頃から仕えた万暦帝は、経済発展とともに豊かになった国庫の銀を寵姫鄭貴のために使い込んで25年も後宮に籠もっているうちに秀吉の朝鮮出兵などを招いてしまうんですから、なんとも盛者必滅の感を強くします。
また、丸山眞男が強調するように、ポルトガル人が日本に来て西洋と東洋の両端の文化が出会ったことは、本当の意味での世界史がそこから始まったともいえるわけですが、こうしたポルトガル人はザビエルも含めて中国人主体の密貿易集団=倭寇の一員に加えてもらい、ジャンク舟に乗って日本にやって来たというのは知りませんでした。そして、ポルトガルによって開発されたマラッカ~マカオ~平戸の定期航路は日本の銀が中国に流れ込むルートとなり、ボリビアの銀はスペイン人がメキシコ~マニラルートで中国に流れ込むことになります。
圧倒的な軍事力と経済力を背景にあっという間に実現された「秀吉の平和」ですが、秀吉はその平和に地理的限界を意識しておらず、唐,天竺までも日本の「国割」感覚で押し通そうとしました。本書では、明朝=中華の世界秩序をひっくり返し、自分が世界の中心に座るというビジョンで朝鮮侵略は遂行されたことが何回も強調されます。実際、秀吉の朝鮮出兵は世界的に見ても十六世紀最大の戦争だといいます。しかし動員された武将は撤兵を望み、そうした日本軍の最大の障害は清正で、行長は朝鮮側と図って謀殺しようとしたが、李舜臣が躊躇して失敗というのは知りませんでした。しかも李舜臣は罷免されたとは。そして、漁夫の利を得て明を倒したヌルハチは明との接触経験が豊富だったのがよかったとか。
初期の江戸幕府の政策は明清交替による広範な華夷変態のインパクトに対応したもの、という説をよく読んでいましたが、明清交替のキッカケは秀吉で、さらにいえば、海禁を国是としていた明の経済政策失敗=東南アジアを中心とした経済発展を取り込めなかったからなのかとも感じます
ということで、以下はいつものように印象に残ったところを箇条書きで。
[第1章 戦国]
対馬の対岸の朝鮮半島には、三浦(さんぽ)と呼ばれる倭人の居留地があったが(釜山など)、1510年に倭人が海賊と誤認されて斬られた事件を発端に倭人たちが騒擾を起こしたのが制圧され、長年にわたって築いてきた居留地を失ったとか(p.6)。
日本と中国の勘合貿易は細川氏と大内氏が交互に船を出し合っていたが、1521に寧波で両者が衝突するという事件が起きます。これは柵封体制が機能不全を起こししていることを示し、倭寇などの海上勢力が主役となる時代の起点となった、と(p.12)。また、この頃から対中国の外交は朝鮮、琉球が仲立ちとなっていた、と。
当時の戦国大名の分国法をみると、領国支配は当主個人を離れて非人格化されはじめ、超越的な国家権力へと上昇をとげつつあることが見てとれますが、そうした近世へとつながる支配の質を備えていたのは東国大名だった、と(p.16)。
自己完結的な発給文書体系と国法・法度を持ち、検地を行い、全住民を動員しうる名分(大途)と体制を備えていた大名は中世ドイツの「領邦国家」になぞらえて「地域国家」と呼べる、と(p.26)。
琉球は朝貢の見返りとして賜った中国の産物を東南アジア諸国にもたらし、代価として受け取った東南アジアの産物を明に朝貢品として捧げた。明はこの物流システムを維持するために、朝貢用の船を与えたり、琉球人の子弟を国立大学である国子監に受け入れるなどの手厚い助成措置をほどこした(p.28-)。しかし、当時から琉球の公用文字は「ひらがな」だったし、国家事業として集成された歌謡集『おもしろさうし』もひらがな表記の琉球語で書かれていた。また、肥後の相良氏を臣下として扱うなど南九州をも影響下に収めていたそうです(p.37-)。
鎌倉幕府は十三世紀初頭から蝦夷地を流刑地として利用しており、アイヌと混血することで「渡党集団」が形成されていったとも(p.42)。
[第2章 銀と鉄砲とキリスト教]
この章が本書の白眉。世界経済システムと日本の結びつきが見事に描かれています。
最初の倭寇の棟梁は福建のトウリョウという脱獄囚。次いで許棟、王直と続き、王直は博多の倭人とネットワークをつくります。明は海禁を国是としていたが、中国人、日本人、東南アジア人、ポルトガル以下のヨーロッパ勢も含む多種多様な民族が加わって後期倭寇となっていく、と。
ポルトガル人の乗った王直のジャンク船が嵐に遭って種子島に漂着したことは偶然の事件だったが、種子島は良質な砂鉄資源と熱源となる木材に恵まれ、高度な技術を持つ刀鍛冶もいるなど、鉄砲の生産基地となったことは必然だったとのこと(p.76)。
火薬と弾丸の原料である硝石と鉛は輸入に頼らざるをえなかったこともあり、貿易の盛んだった九州勢がいちはやく鉄砲を導入。
ザビエルを日本の運んだのも、東南アジアと東アジアを繋ぐ密貿易ルートを行き交うジャンク船(p.80)。
カトリック勢は「商教分離」を認容しなかったので、キリシタン弾圧の後はそれを受け入れたプロテスタント国に貿易が許可される。
キリシタン弾圧を招いたのはイエズス会の「わが身を不利にしてまで安息日を守る必要はない」「利子徴収も仕方ない」などの適応主義を、托鉢系のドメニコ、フランシスコ会が原理主義的に批判したことも原因とか(p.84)。もちろん、ポルトガルvsスペインの問題もあるでしょうが。
石見銀山は博多の商人、神谷寿禎が1526年に海上から光輝く山(仙ノ山)を見て銀鉱脈の存在を確信して採掘を開始。寿禎は宋丹と桂寿(一説には朝鮮人)を呼んで灰吹法で純銀に近いものを取り出せるようになりました。銀の搬出は朝鮮半島経由から、東シナ海の横断ルートが主流になり、ポルトガル人、イスラム教徒、中国人密貿易商が入り乱れての争奪戦も繰り広げられます(p.90)。
日本国内でも大内、尼子、毛利が石見銀山の争奪戦となり、毛利が勝利したあと、豊臣、徳川の統一権力のものとなります。Fibuk(灰吹銀)と呼ばれた日本の銀は世界通貨だったスペインのレアル銀貨よりも品位が高かったとか(p.90-)。
[第3章 天下統一から世界制覇へ]
フロイスは『日本史』で信長が「毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を子息たちに分け与える考えであった」と伝えています(p.107)。信長は銀と銭との交換レートを定めるなど統一政権として通交貿易を公的支配下に置こうとしましたが、畿内ではかえって通貨が銭から米に替わってしまい、功を奏しなかった(p.110)。
信長の跡を継いだ秀吉は、四国統一の勢いを示した長宗我部に対して三方から攻め込み、元親には土佐一国を安堵。九州統一を目指す島津が大友に領土を返還しないことを受けて、秀吉は自ら出陣して薩摩にいたり義久を屈服させ、さらに北条は半年以上の籠城戦で全滅させました。東北をうかがっていた伊達政宗は北条攻めに遅れて参陣することで屈服し、征服した会津を蒲生氏郷に与えられることになります。秀吉は、相手を軍事的に叩きつぶすよりは、圧倒的な軍事力と経済力を背景に「秀吉の平和」を強制した、と。そして、国の内外をほとんど自覚していなかった秀吉は、この論理を唐・天竺までおよぼそうとした、と(p.115-)。
秀吉の朝鮮出兵は《圧倒的な軍事力に対する強烈な自負を原動力として、明朝=中華を中心とする世界秩序をひっくり返して、自分こそが世界の中心に座るのだ、というビジョンに基づいて遂行された》(p.117-)。ちなみに天正長大判は通貨としては世界最大級だった。また、宣教師追放令は出したものの、商教分離の曖昧さを残したままポルトガル船の来航は奨励したとのこと。
秀吉の朝鮮出兵は琉球政府からも明に伝えられていたが、朝鮮側はやや規模の大きい倭寇ぐらいにしか考えておらず、十六万の秀吉軍は釜山から二週間でソウルに到達した。また、秀吉は琉球は薩摩に、朝鮮は対馬に従属していると認識していた。また、蝦夷の向こうにいる韃靼=女真族を警戒し、蠣崎氏(のちの松前氏)の臣従を歓迎した。秀吉の「日輪受胎」説話は、中国の歴代王朝、とくに遊牧系の北方民族王朝に類例があるそうです。
[第4章 16世紀末の「大東亜戦争」]
秀吉は「高麗国」を、北条氏支配下の関東と同様の、かつて征服してきた国内諸地域とまったく同じ感覚で捉えており、禁制を地元民に伝える文書の内容も同じだった。九州が手に入ればすぐに「高麗」に手を伸ばすという感覚にためらいはなかった(p.135-)。唐津の名護屋城は豊臣政権の権力配置の小宇宙で、秀吉滞在中は首都そのものだった(p.138-)。短期間に整備できたのは、中世末からの国内産業の急成長と生産力の向上、物流ネットワークがあったから。
「日本弓箭きびしき国が大明の長袖国に負けるはずがない」というのが秀吉の口ぐせだったが、講和条件には明皇帝と日本国王との家族ぐるみの関係を国際関係のなかに定着しようとする指向もうかがえた(p.147)。
小西行長は平壌に進駐してきた明軍に敗れたが、ソウルに撤退した日本軍を追った明軍はソウル郊外の碧蹄館で破れ、戦意を喪失、講和の話しが持ち上がります(ちなみに、碧蹄館の戦いは戦国武将の中で、個人的に最も戦術的力量に長けていたと思う立花宗茂が大活躍します)。また、朝鮮軍は交渉当事者の席は与えられませんでした。
この講和の動きに反対したのは加藤清正で、いったん蟄居の身となりますが、小西行長はさらに朝鮮側と共謀して暗殺を図ろうとします。しかし、なんと李舜臣が躊躇して失敗。舜臣は罷免されます。
また、鼻削ぎは日本軍の残虐行為として喧伝されていますが、切り落とした首数で戦功をカウントするのは世界の慣習で、鼻に代えたのはかさばるから。李舜臣も左耳の切り落としを行っているそうです(p.157)。
講和の失敗の後、ふたたび慶長の役となって泥沼化したものの、秀吉の病死で諸将は帰国。秀吉の野望は女真族ヌルハチに受け継がれます。ヌルハチは毛皮の交易を通じて明の辺境官僚と接触する経験を積み、八旗など民族固有の制度と中華帝国の制度を組み合わせる支配体制をとります。対する秀吉は、国内の「国割」を持ち出したにすぎず、そもそも異文化の中で戦うという感覚が欠如していた、と。
ヌルハチが後金を建てたのは1616年。配下の兵力は五万人、人口は数十万人だったが、1619年にはサルフで10万の明軍を大敗させて明に動揺を与えます。1636年太宗ホンタイジは後金の国号を大清に改め、朝鮮に宗主国として仰ぐよう求めた。朝鮮はこれを黙殺したが、13万の侵入を招き、臣下の礼をとらさるをえなくなった。
[江戸開府と国際関係の再建]
秀吉の朝鮮出兵は十六世紀を通じて世界的にも最大の戦争だったが、全力を注ぎ込んだ対外戦争がなんの成果もなく終結したことで、豊臣政権は弱体化。家康がなし崩し的に天下人に上りつめたが、戦争が突然終わったことで、経済が一気に不況に陥った。
民間貿易は回復したものの、家康は日明関係の修復を目指したが、相手の警戒は緩められず、清の成立後、1682年に日本でも呼称が「韃靼」から「大清」に改められ、共存の相手となった。
中国人商人が日本に求めたものは銀で、もたらしたものは生糸だった。
朝鮮通信使に対する日本からの外交使節は釜山の倭館から一歩も外に出ることは許されず、釜山からソウルへの快進撃は善隣外交でも払拭できなかった(p.211)
統一政権によって鉱山の開発、耕地の造成、治水や利水などが進み、権力の分散した中世には考えられなかった増産が日本にもたらされ、国際的にも自立できる条件がつくられた。しかし、十七世紀末~十八世紀に生産力は飽和状態となり、以後はそれを食いつぶしていった。
《最終的に鉄砲はを有効に使い切ったのは、織田・豊臣・徳川の「天下人」だった》。
最も効率の良い物流システムも戦争とともに発展した(P.195)。
南米の銀が中国に殺到したことで、日本への銅銭搬出基地だった福建地方が銀経済圏となり、銅銭供給が途絶。日本では私鋳銭が大量に出回ったことから、取引が米遣いになった。日本に残る銀もほとんどなくなり、海禁によって流出は止められたが、江戸幕府が寛永十三年から発行した寛永通宝は、自国鋳貨不足の中世的状況に終止符を打つ画期的事業だった(P.197)。
薩摩の三千の兵による琉球侵攻に対して抵抗の規模が小さかったのは、大交易時代の繁栄を謳歌していたのは琉球王家を中心とする支配層と中国系商人に限られ、農村社会は厳しい生産条件に束縛されていたから(p.212)。
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