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February 28, 2010

『日本の近現代史をどう見るか シリーズ 日本近現代史 10』

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『日本の近現代史をどう見るか シリーズ 日本近現代史 10』岩波新書編集部編

 06年11月から刊行が開始された岩波の「シリーズ 日本近現代史」も最後の10巻が出ました。最初の予定では「宮地正人編」という案内でしたが、最終的には「岩波新書編集部編」となり、1巻から9巻までの筆者が、それぞれ読者などから寄せられた反応などに答える形で「日本が歩んだ150年とは何だったのか?これからどこへ行く?」という腰巻きの文句に沿ったような雰囲気+書き足りなかったあたりを補強する感じで、書いています。

 ということで、改めて、それぞれのコメントを紹介しながら一冊ずつ振り返ってみますかね。

 『幕末・維新』井上勝生、岩波新書

 ああ、そういえばと思い出したのですが合衆国大統領は宣戦布告の権限を持っていないんですね(宣戦権は議会が持っています)。ペリーに託された大統領書簡によると、当時のフィルモアは「貴国領土の平安を乱すべきあらゆる行動をなさざるよう」指令したと書いてありますが、ペリーは最初から「断固たる態度」を執ることを決めていたと遠征記で書いています。しかし、ハリスも含めての脅しに対して幕府方は、ことさらいぶかることもなく、日本と合衆国は和親条約で永世の友好を結んだではないかと対応し、応えられない要求については「日本には日本の国法これあり」と主張して避けた姿勢はなかなか見事だった、と評価します。特に、外国人の旅行権を制限したことは、日本の商人たちが横浜に「蝟集」するようになったことで日本の産業を守った、と指摘。《外交努力のできる幕臣を生みだした日本の政治の内的な成熟、そして売り込み商の蝟集をもたらした江戸後期日本の経済の成熟が、日本の民族的自立の広大な基盤となり、それらが明治維新全体の基幹となる地下水脈であったことに変りないのです》というまとめは感動的(p.26)。

 『民権と憲法』牧原憲夫
 この巻を読んだ時には、あまり論議にシャープさが感じられないというかフォーカスされていない印象だったのですが、これでスッキリしました。《客分として仁政を求める民衆と、国家を主体的に担おうとする民権運動とのあいだには基本的なズレがありながら、両者は反政府の一点で共振し、政府に大きな脅威を与えたのです》(p.35)。また、天皇も大災害が起こると義援金を下賜することで、弱者の不満を和らげるとともに、五箇条の誓文なども仁君のイメージづくりに寄与しました。つまり、天皇と政府を切り離した方が実は統治には好都合だった、というわけです(民衆が頼るのは仁君の天皇なのですから)。しかし《政府側のみならず反政府側も天皇を利用すれば、天皇の権威はせり上がっていきます。昭和期に政党政治が自滅する要因のひとつはここにありました》(p.50)というあたりも見事だな、と。それにしても、明治天皇は1892年の総選挙で、民党派議員を落とすために選挙干渉の資金まで提供した、というのには驚きました(p.49)

 『日清・日露戦争』原田敬一
 前の巻との関連で書けば《日清戦争の報道により日本全国に「戦争熱」が生み出され、ひとつの「戦争」状況に参加することによって一体感が醸し出されました。そして「客分」としての意識しかなかった民衆が、「国民」という意識をもつようになったのです》(p.60)。あと、Soccietyの新造語として福沢諭吉なども悩みながら「社会」を使い始め、《貿易などで使うピジン言語(使用を目的に原型の崩れた言語)としての英語の流通ではなく、文章英語(欧米語)を漢字熟語に苦労して翻訳したことにより、東アジアの近代が形づくられたと言えるのです》というのはなるほどな、と。(p.58)。また、10年間に三度行われた戦争(日清戦争、義和団事件、日露戦争)によって疲弊した日本経済を救ったのは第一次世界大戦でしたが、その後も第二次大戦を除けば、朝鮮戦争、ベトナム戦争によって日本経済は助けられ続けたなぁ、と改めて思います。

 『大正デモクラシー』成田龍一
 『大菩薩峠』の机竜之介には、民本主義の時代の知識人たちの、閉塞感を抱え込みながらニヒルな心情に浸っていた姿がうかがえるというあたりは新鮮でした(p.85)。

 『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子

 個人的な発見だった加藤陽子さんのこの巻はシリーズの中でも最も印象に残っています。今回も、昨年上梓された『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で強調していた憲法、法律問題に関して、より深めた議論を読ませてもらいました。それは、ニュルンベルグや東京裁判でも問題になった侵略戦争を国際犯罪とみなす必要性は《アメリカが主張してきた「無条件降伏」という戦争終結方式をドイツや日本に対して採る時、国民責任論のままでは「戦争に敗北すれば国民は奴隷とされていまう」と説く、敵国プロパガンダの格好の材料になってしまい、かえって絶望的な定項を招くので、国民と指導者とを明確に分断する必要があった》からだ、というんですね(p.113)。加藤さんは《私が第5巻で描いたのは、これまで述べてきたような、新しい国際規範がアメリカ主導で創出されつつあった三〇年代、「概念や用語」の定義者となってゆくアメリカに対し、「概念や用語」の解釈をめぐり、日本がいかに自らの行為を正当化しようと図ったのか、その全過程についてでした》(p.128)というのはうなりました。

 『アジア・太平洋戦争』吉田裕

 《そもそも単独で日中戦争に勝利できなかった日本が、新たに米英との戦いを開始しながら、どうして中国を屈服させることがでるのでしょうか》(p.134)という指摘はなるほどな、と。吉田さんは「なぜ開戦を回避できなかったのか」をテーマに掲げ、それを日本的無責任の体制といいますか、深刻な路線対立が生じた場合に両論併記的な政策決定を行ってきた結果、それが新たな抗争の出発点となり、次第に後戻りできない地点まで日本は追い込まれていったのではないか、という点に求めます。それとともに、『アジア・太平洋戦争』の出発点は、『餓死した英霊たち』青木書店、藤原彰(陸士五五期)の先駆的研究だった、と明かしています。

 『占領と改革』雨宮昭一
 ここら辺から2ヵ月に1冊というペースがだんだんと崩れ初めていったんですよね。『アジア・太平洋戦争』は07年8月、この『占領と改革』は08年1月の発刊でした。ちなみに、『占領と改革』は、これまで持っていた歴史イメージを最も変更させられた巻でした。それは日本側が軍部の企てていた本土決戦を《阻止できたのは反東条連合による勝利による統一性をもった政治指導部がすでに形成され存在していたから》(p.21)だという指摘です。また、片山、芦田内閣への高い評価というものも、個人的には驚きでした。群是製糸(グンゼ)はCSRという言葉ができる前から、そうしたとこに熱心な会社だと思っていたんですが、戦時中は芦田均が社長をやっていたんですね。知りませんでした。

 『高度成長』武田晴人
 もしかしたら、20年後に同じようなシリーズが刊行された場合、高度成長というテーマは一冊を割くことにはならないと思います。日本史の中で高度成長が重要な意味を与えられていたのは、アジア諸国の中で唯ひとり高度な資本主義社会にテイクオフできたのはなぜか、という問題意識があったからだと思いますが、韓国、台湾、中国に続きインドまでもテイクオフしてグローバル経済の中で存在感を増している中で、その問いは重要性を失いつつあるからです。むしろ、産業革命が始まる前までは中国とインドで世界のGDPの七割を生み出していたということを出発点にした、世界経済の栄枯盛衰の歴史といいますかコンドラチョフの波よりももっと大きな振幅のなかで語ることになるのかな、と思います。

 『ポスト戦後社会』吉見俊哉
 ここら辺はもう半年に一冊に刊行ペースが落ちていましたね。出版不況で「買い取り制」を導入したということも聞いていましたから、本当にシリーズが完成するのか、とかいらぬ心配をしていました。あまりにも近い歴史を一冊として残す必要があるのか、ということも思いましたが、著者の問題意識は《私たちの時代のリアリティの虚構性は、単にテレビなどの視聴覚メディアの遍在化で世界が疑似イベント化したからではなく、国民国家がゆるやかに崩れていく中で、そのもののリアリティの留め金としての自我があやふやなものになってきていることと関係している》(p.211-)というのはよくわかりました。
 
 最後の終章「なぜ近現代日本の通史を学ぶのか」は再び成田龍一先生が書いていて、加藤陽子さんの五巻のあとがきを引用しながら、このシリーズの「通」は家族、軍隊、植民地だ、とまとめます。

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