『ヤマト王権 シリーズ日本古代史2』
『ヤマト王権 シリーズ日本古代史2』吉村武彦、岩波新書
「あとがき」によると、日本の古代史は考古学との共同研究に続き、新羅・百済・伽耶・耽羅(済州島)地域や中国との関連を踏まえた国際的研究が進められるようになってきているそうです。
そんな視点が新鮮な本書ですが、途中でサマリーみたいに述べられているのところが、全体の構想を表していると思います(p.102)。
《本書では、倭国としての政治的統合の最終段階として前方後円墳の成立を考え、その結果、次の新しい段階にヤマト王権が成立したという論を展開した。この見解は、前方後円墳の成立をもってヤマト王権の形成を考える、従来の見解の再検討を迫るものである。前方後円墳の形成から終末までの歴史が、ヤマト王権の成立から律令制国家成立までの課程とパラレルに合わないだけではない。どうしてもヤマト王権の諸画期と、関連づけることが原理的に難しいのである。したがって、国家形成に重要な役割を果たした、六世紀における伴造制(部民制)・国造制などの政治的システムを、前方後円墳論として取り込んでいくことは、学問の性格上、容易ではない》。
新しく得られた知見としては《韓国の考古学研究者朴天秀は朝鮮半島と日本列島の双方向の移動と相互間の影響を重視することを説いている》そうですが(p.106)、朝鮮半島との関係では栄山江流域の前方後円墳の被葬者は、石室や貝釧(かいくしろ=貝製の腕輪)などから北部九州ないし佐賀平野出身の倭人とみられているほか、ここからもたらされた土器が福岡の番塚古墳や梅林古墳から出土しているそうです。
中国の皇帝が東夷の蕃国に求めたのは、有徳の天子に対する朝貢だったのに対し、ヤマト王権が朝鮮半島に求めたのは鉄資源や技術を持つ人間という実利だった、というのは、なんとなく実に分かるなぁ、という気がします(p.105)。
そしてヤマト王権からの要請で百済から送られてきた人々の姓が「段・王・馬・藩・丁」であるのは、中国南朝の梁の文化人だった、というあたりも初めて知りました(p.172)。646年に新羅から人質として来た金春秋は654年に新羅王となる、というのも知らなかったなぁ(p.178)。大八島の概念が「アメ-アヅマ-ヒナ(都-東国-夷狄)」というのも新鮮(p.184)。
ヤマト王権の権力争いというのは、兄弟間の殺し合いで決着がついていましたが、やがて直系がいなくなり、ご存じの通りホムダワケ(応神)の五世孫のヲホド(継体)を迎えますが、彼の根拠地は近江とも越ともいわれています。そして畿外から大和地方に入ったヲホドは、大兄制度という安定的な王位継承の枠組みをつくります(p.133)。
ヲホド期には伽耶問題とも関係する磐井の乱が生じますが、この時期には九州の大豪族が新羅などと政治的に結びついて中央に対抗できていた、という指摘は新鮮(p.141)。また、国譲というりは、地方の豪族が「領土」をヤマト王権に献上する代りに国造に任命されていったこと、というのも、なるほどな、と(p.148)。
蘇我馬子によるハツセベノワカサザキ(崇峻)暗殺の後に推挙されたトヨミケカシキヤヒメが漢風諡号として推古(いにしえを推して考える)を与えられたように、古事記も推古で幕を閉じますが、これによって、古代貴族にとっても古代が終わる、という感じで本書も3巻に著述を譲ります(p.186)。
ここらあたりは『歴史のなかの天皇』吉田孝、岩波新書もぜひ。
それは前方後円墳よりも仏教の寺をつくるようになった時代が到来したことを意味するのですが、あとがきでも書かれているように《五世紀に手工業生産の技術革新が展開したばかりか、六世紀になると日本語順による言語表記の基礎ができ、さらに仏教が伝来した》というのは、古いヤマト王権が日本列島の文明化にとって大きな役割を果たした、ということなのかもしれません。
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