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May 29, 2016

『室町幕府と地方の社会』#1

Muromachi_iwanami

『室町幕府と地方の社会』〈シリーズ日本中世史 3〉、榎原雅治、岩波新書

 全25巻で完結する岩波新書の日本史シリーズの掉尾を飾る中世史シリーズの3巻目『室町幕府と地方の社会』は、思っていたより、遥かに印象的な一冊でした。

 室町時代について、一般的に考えられている1)意外と知られていない2)資料が少ない3)足利幕府の将軍に印象的な人物がいない4)「応仁の乱」は始まりも途中経過も終わりもわからない5)なのに今に残る日本の伝統文化はだいたいが室町時代から続いている理由がわからない―という疑問に全て答えてくれたと感じています。

 足利幕府に対するネガティブなイメージは、明治政府が庶民に天皇制の絶対性をマインドコントロールさせたためですが、将軍が暗殺されたり、両立したりする混乱は、二度目の武士政権(農民政権)である室町幕府の統治能力が高められなかったからであり、織豊政権を経て250年の泰平の世をまがりなりにも実現した徳川幕藩体制というのは、当時の技術・社会基盤の許す限りにおいて、そうした失敗から学んで精緻な支配体制を整えた結果なのかな、なんてことを思いました。丸山眞男が江戸時代について「江戸幕藩体制の成立=荘園の完全な消滅」とクリアカットすぎる説明をしていることも思い出しました。

 だいた義満の皇室への接近も、南北朝の混乱の中で即位した後光厳天皇が、蹴鞠しているところを周りで見物されたり、延暦寺と興福寺の僧侶たちの喧嘩が紫宸殿にも及んで食事に血が飛ぶなど権威がガタ落ちとなったことが遠因。摂関家の二条良基が義満への接近を考え出し、義満側も幕府の対立者たちが南朝の名を借りるのに困っていたので渡りに船とばかりに乗ったというのが見取り図でしょう。

 シリーズ日本中世史では「鎌倉時代に耕地開発の飽和期を迎えた」という基本認識が共有されています。そうしたゼロサム社会の中で、荘園の実質的な所有者として武士(武装農民)が公家や寺社に対して一定の権益を確保することで安定したわけですが、著者が〈おわりに〉で書いているように、地方の武士たちの所領確保の欲求は低減するわけはありません。また、飽和段階にあった耕地開発もさらに進められたわけですが、それは災害への脆弱性もはらみ、社会の不安定さを増します。

 しかし、この時代に形づくられた土地台帳は、現在でもほぼ確認できるそうです。フィールドワークを行うと40年ぐらい前までは《七百年間、同じような用水が使われ、変わらぬ形をした田んぼが耕され、変わらぬ名前で呼ばれていた》ことがよくわったそうです。

 しかし、そうした土地も宅地化、道路建設、圃場整備事業などで形は変わっただけでなく、少子化によって七百年間続いてきた農村、漁村の存続自体も危うくなってきています。また、畳や襖、障子に囲まれた日本家屋での生活も当たり前ではなくなり、お茶やお花なども日常生活から縁遠くなってきています。著者にかわってさらに付け加えれば、能・狂言も国が補助金を出さなければ存続できない状況です。

 《そのように考えれば、今、私たちは十四、五世紀くらいに産声をあげた長い、一つの時代の終焉に立ち合っているといえるかもしれない》という言葉は印象に残ります(p.224)。

 以下は箇条書きで後から面白かったところを追加していきます。


「第1章 建武政権と南北朝の内乱」

 『室町幕府と地方の社会』は鎌倉幕府の滅亡から始まります。モンゴル襲来後も各地で所領紛争が続き、得宗が強権化を図って御家人たちと対立し、朝廷でも大覚寺統と持明院統という二つの皇統が争い、鎌倉幕府の意向がなければ次の天皇も決められない状態の中で後醍醐は倒幕を画策。二度目の時には隠岐に配流となりますが、壱岐を脱出すると山陰の武士たちが集結した、と。1333年、幕府は足利尊氏(当時は高氏)に攻撃を命じますが、自分自身の目で京都の現状を見た結果、逆に倒幕を決断するに至った、と。

 幕府の京都出先機関である六波羅探題の仲時は5月7日から始まった尊氏の攻撃により一族とともに自害、新田義貞が22日に鎌倉を総攻撃すると得宗の高時は数百人の郎党とともに自害してあっけなく滅亡。六波羅、鎌倉に続き、九州の鎮西探題である英時も大友氏らの攻撃で25日に自害し、半月あまりで建武政権が成立します。

 後醍醐は皇子や側近の公家を関東や奥州に送り込む遠隔地統治を構想しますが、武士たちは一連の戦いによる軍功の認定を尊氏に求めます。倒幕の功労者は自分であると勘違いする後醍醐の子・護良親王は尊氏と対立、捕らえられ、鎌倉に送られます。

 そこで発生したのが高時の子時行による挙兵。尊氏の弟、直義は鎌倉脱出の際に護良親王を殺害します。勅許を得ないまま鎌倉に向けて出発し、これ落とした尊氏に驚いた後醍醐は尊氏に征夷大将軍の名を与えます。そして弟の直義は尊氏に鎌倉で幕府を開くことを勧めたので、尊氏もとどまる、と。

 尊氏は新田義貞の所領を武士たちに与えます。これに怒った後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じますが、京都で敗走。後醍醐は比叡山に逃げ、尊氏は京都に入ります。

 しかし、後醍醐から奥州の支配を任されていた北畠顕家の軍が京都に迫り、これに僧兵や楠木正成が加わった攻撃で尊氏は京都を脱出、海路九州に向かいます。そこで大友氏らを従えて立て直し、湊川で義貞・正成を破り、後醍醐は再度、比叡山にという目まぐるしい動きが1336年まで続きます。尊氏は1336年に建武式目を定めて事実上の幕府を成立させますが、このあと半世紀も混乱は収まらなかった、と。

 最初、室町幕府は尊氏と直義の兄弟が政権を主導しますが、そこに足利家の家宰をつとめていた高師直が割って入り、直義と師直の関係は悪化します。

 1349年~52年の「観応の擾乱」では、師直が直義排除を求めて幕府を軍勢で取り囲んだことで、尊氏は要求を受け入れます。直義派の有力武将も殺害され、直義も出家を決意しますが、政治生命が終わったかと思われた時に子の直冬が太宰府に入り、九州で一大勢力を打ち立てる、と。これを討つべく師直・尊氏は進撃しますが、その留守中に直義は南朝に接近して尊氏追討の宣旨を受け、摂津打出浜で師直・師泰兄弟を破り、高一門は滅亡。

 高一門の滅亡で直義の執政が再開されますが、彼はなぜか公家や寺社の荘園領主たちを擁護。こうした直義の方針は不安定さを増し、反発する武士たちを制御できなくなって京都を出奔。ここで尊氏はすかさず南朝と講和。京都を子の義詮(よしあきら)にまかせて出陣し、薩田山で勝利。捕縛された直義は翌日、急死(毒殺と推定)。

 しかし、九州に残っていた直冬は南朝から義詮追討の綸旨を得て、再起を図る、と。この勢いに義詮はいったん京都を脱出するも、尊氏・義詮が再び京都を奪回して足利家内部の争いはようやく収まる、という訳の分からない戦いが続きます。

 なんで、南北朝が続いたというか、南朝が続いたのか、という疑問について、著者は、その原因を北朝を擁する幕府内部の争いで劣勢となった勢力が南朝を呼び起こしたからだ、と説明しています(p.25)。また、足利家は鎌倉幕府の最有力の御家人ではあったが、一門の中では宗家としての隔絶した権威を確立できておらず、後醍醐の倒幕計画という外的要因によって政治の表舞台に出たのも要因だった、と。

 とにかく、こうした動乱によって《南北朝時代というのは、数万、数十万もの人々が列島を東西に移動した時代でもあった》と(p.29)。

 武士たちが戦場に向かったのは軍功を立て、恩賞としての所領が欲しいから。すでに当時の技術では耕作可能地はほぼなくなり、そうなると新たな所領を得るためには勝ち馬に乗ることが重要で、そうしたダイナミックな動きが根底にある中で鎌倉幕府は半月で滅亡した、と。数々の困難に遭っても尊氏が復活したのは、こうした武士の意志があったからだ、と(p.33)。

 こうした抗争の中で足利一門も淘汰され、斯波義将と細川賴之が勝ち残りますが、三代将軍義満の育ての親でもあった賴之は、幕府を取り囲んだ兵から罷免を要求されて守護国である讃岐に去り、結果的に22歳となっていた義満の自立が促され、ようやく政局も落ち着きます。

 室町幕府が複雑なのは、関東には鎌倉府、東北には奥州探題が置かれていたほか、九州の九州探題は南朝側の勢力が盛んで斯波氏は九州に入ることもできませんでした。島津氏も暴れ、ようやく帰順したはの1381年、というのが第1章。

 凄い歴史ですよねw

 しかし、鎌倉幕府の得宗家も、足利直義も、所領安堵の訴えがあまりにも多く、それに対して矛盾しない一定の方針を出して処理しようとしたのが裏目に出て滅亡させられ、という印象です。「昔に返れ」ということは、荘園制度を認めることにり、そうなると直義のように武士から反発を喰らいます。家康が1世紀以上の戦乱をへて幕藩体制を確立できたのは、荘園制度の崩壊過程にとどめを刺すことができたから、なんて感じでしょうか。鎌倉、室町の時代は、そうした下部構造から来る矛盾を解決できる手法をまだ持ち合わせていなかった、みたいな。

「第2章 建武政権と南北朝の内乱」

 足利直義の敗北と死は大きな影響を残しましたが、尊氏と南朝との講和が崩れたため、南朝軍は京都から引上る際に、光厳・光明・崇光の三上皇と前東宮の直仁親王を吉野に連れ去ってしまいました。窮した幕府と北朝が引っ張り出してきたのが15歳の少年で、三種の神器もないまま即位して後光厳天皇となります。北朝の公家たちは継体天皇の例を出して自らを納得させたとか。

 しかし、代役感はいなめず、蹴鞠を見物されたり、延暦寺と興福寺の僧侶たちの喧嘩が紫宸殿にも及ぶなど権威はガタ落ち。在位中、三度に渡って京都を侵される始末。後光厳天皇は退位して子の緒仁親王が後円融天皇に即位しますが、帰京していた上皇たちは自分の子が天皇となれず反発を強めます。

 こうした事態に摂関家の二条良基が考え出したのが義満への接近。将軍を公卿として宮廷に呼び込み、資金難で滞っていた神事などへの支援も頼もうという一石二鳥の考え。これには、対立者たちがことあるごとに南朝の名を借りて挙兵するのに困っていた義満側も渡りに船と応じた、と。こうした義満の公家化は、かつて「王権簒奪」と呼ばれたこともありましたが、公家と武家の意図が《一致したところで実行されたというのが実際であろう》と(p.55)。

 義満はまだ若い頃、大名たちの兵に囲まれて信頼する細川頼之を罷免せざるを得なくなったことから、数ヵ国の守護を兼ねるような土岐、山名、大内など大名の淘汰に乗り出します。

 また、南朝に対しては、二代目の義詮の時代から将軍の代始めにともない、セレモニー的に攻撃を仕掛けることが行われていきます。山名を討った1392年には後亀山が帰京して南朝を接収しますが、待遇の悪さに出奔。規模は縮小しつつも、不満分子が南朝を担ぐことはなくならなかったけれども、義満は武家に対してだけでなく公家や大寺社の荘園の安堵を与えるようにもなり《従来の治天の君に相当する機能を獲得した》と(p.64)。

 尊氏も権威のなさに悩んでいたみたいだけど、室町幕府の将軍たちは、諸大名から同格と見られていたんだろうな、と。で、同格だと思っていたから、応仁の乱であれほど京都をメチャクチャにできたんだろうし、最後は自らも潰れてしまい、戦国時代を生き延びた守護大名は少数ほとんどいない状態にまでなったのかも。
 シリーズ日本中世史の1巻『中世社会のはじまり』では、荘園など所有物に価値が高まり、それを子孫に間違いなく残すため氏から家への変化が生まれ、院政も天皇が自分の子供に位を譲るために始まり王家となっていくことが描かれていましたが、公家でもイエが成立して、上級の公家と下級の公家の間には主従関係が結ばれるようになります。こうした中で、義満は公家たち家礼として登用するようにもなりますし(p.65)、武家も公家と婚姻関係を結ぶようになります(p.83)。

 一方、武家たちは九州と東国除き、守護の在京制がとられました。大きな権力を持った義満亡き後、在京の大名たちは、義持の諮問に応じて審議を開くようになる、と。

 また、この時代は「郷に入っては郷に従い」とか「師の影を踏むべからず」などの典拠となった『童子教』が成立したほか(p.87)、猿楽によって庶民が歴史を学ぶことが多くなります(p.91)。義政は《賤民出身とされる庭師善阿弥を重用》したりします(p.96)。

「第3章 南北朝・室町時代の地方社会」

 鎌倉幕府の守護は《同一国での世襲は顕著でなく、官吏としての性格の強いものであった》が、内乱状態が続く中、室町幕府は《守護に内乱に立ち向かう軍事統率者としての役割を発揮》することを期待し、刈田狼藉の取締権限と、使節遵行(所領紛争の強制執行)の権限が付与されたほか、恩賞として与えられる土地の処分権限も委ねられるようになった、というんですね(p.118-)。

 日本の封建制は、鎌倉幕府の時には官吏に近く、それが室町から戦国時代にかけて一国一城の主となって国を治めるようになり、織豊政権、特に秀吉によって再び官吏化が志向され、家康から綱吉にかけて幕藩体制(幕府と藩による統治)という日本的な封建制といいますか、契約によって成立する封主(ヘル)と封臣関係としてのレーエン封建制は幕府と旗本、外様はそれまでの既得権=私物化された官職「プフリュンデ」を持つもの官吏が地方を治めるという体制で落ち着いた、ということなんでしょうか。

 とにかく、幕府の権力が及ばないために、守護と武士たちとの間に主従関係が結ばれていく契機となった、と(p.120)。さらに守護たちは流通、宗教の拠点も掌握するよにうになった、と。

《近年の研究でとりわけ重視されているのは、室町時代には、武家領荘園を支配している守護、奉行衆などの有力な武家が在京していた点》で、武家領を内包した荘園制の新たな段階としてとらえられる、というのはなるほどな、と(p.129)。

 中世は神仏習合の時代であり、鎮守の社は寺院と一体化しており、大般若経は雨乞いなどの祈祷に用いられるために保管された、というのは面白いな、と(p.135)。

「第4章 室町公方の理想と現実」

 義満が没し、義持は「仁政」という言葉で、寺社領保護の方針を打ち出しますが、義持が後継者を決めないまま没した後、籤にによって選出された義教は訴訟に対して公正な態度で臨む方針を明らかにしますが、いささか専横がすぎた、ようです。

 室町幕府は、東国武士たちをおさえるために鎌倉公方を置いていました。たびたび叛乱を起こされた鎌倉公方持氏に対して室町幕府は恩を売りますが、そうなるとかえって鎌倉公方である持氏は関東管領である上杉氏の補佐から脱し、関東の武士たちを主導する体制を志向するようになるのは人の世の常なんでしょうか。これに対して、義教は富士見旅行を兼ねた示威行動をとり、いったんは大人しくなります。しかし、鎌倉との関係が小康状態となった後、比叡山で問題が起き、義教の管領細川持之が月輪院らを斬首したことで、怒った山徒たちは根本中堂に籠もって火を放ち、堂もとろも自害して抗議する事件が発生。

 これに動揺した義教を見透かすように鎌倉公方の持氏が動き始めますが、これは討伐されます。しかし、義教はささいなことで大名を取りつぶして殺害するようなことを続け、こうした義教に恐怖した赤松満祐によって暗殺されてしまう、と。

 義教の死後、嫡子が公方になりますが、弟なども含めて早死にが相次ぎ、13年も幼君の時代が続きます。こうした中、管領家の後継問題や、関東の動揺(古河公方の成立)で軍事行動が活発化して、兵糧を確保するための略奪が横行するなど幕府の根幹は大きくきしむ、と。

「第5章 動乱の始まり」

 鎌倉時代も含めて中世の「徳政」はあるべき秩序の回復を意味していましたし、改革が常に古の善政に戻ろうとするのは洋の東西を問わないようです。中世は荘園など所有物に価値が高まり、それを子孫に間違いなく残すため氏から家への変化が生まれ、院政も天皇が自分の子供に位を譲るために始まり王家となっていく、というのは〈シリーズ日本中世史 1〉の『中世社会のはじまり』から、繰り返し語られてきましたが、それでも当時は《本来の持ち主の強い権利を求める観念があり、売却すら仮の姿であって、為政者の代替わりや大きな天災のような変事があれば、元の持ち主に戻って当然とする期待があった》そうで、義教が籤によって公方となった正長元年(1428年)にも、徳政を求めて一揆参加者が土蔵や酒屋を襲って略奪を行う「私徳政」が発生したそうです。そして義教が暗殺された1441年には大規模な徳政一揆が発生、幕府が初めて徳政を発布します。

 この後、徳政一揆は連年化していきますが、応仁の乱中にはほとんど蜂起がなく、《徳政一揆参加者と応仁の乱における足軽たちは、実はおなじ人々だったのではないか、彼らは生きていくために都に流入してきた飢民》ではなかった、という研究もあるそうです(p.193)。このため、大将の統制もきかずに11年も応仁の乱が続いたのではないか、と。

 また、飢えた人々の京都への流入は、畿内では常時、戦闘が行われて、軍勢によって荘園の田畠が刈り取られてしまい、非常用の粟・稗も奪われてしまったことが原因でした。最悪の飢饉となった寛正の飢饉(1461年)には、京都は数万の乞食があふれるようになっていたそうですか、広汎な天候不順というよりも人災の側面が大きかった、と。

 関東では鎌倉公方が古河に逃げて古河公方となっていましたが、義政がその追討を目指す足元で、《内紛で沈む斯波・畠山両家を後目に、細川勝元と山名持豊(宗全)の発言力が高まって》いき、この二大勢力を斯波・畠山両管領家などが頼っていくことによって応仁の乱は発生した、と。

 政治に倦んだ義政は一貫性のない対応を行い、応仁元年の1467年に応仁の乱が始まる、と。西軍、東軍とも幕府の体裁を整えるに至り、東幕府と西幕府と呼ぶ研究者もいるそうです(p.204)。

 だらだらと戦闘が続く中で参加者たちの分国では国人たちの争いが始まり、放置できなくなった大名たちは京都を離れ、室町幕府の基本体制だった守護在京の原則も崩れた、と(p.209)。

 義政は政治に倦んで、将軍の座を弟の義視に譲りますが、富子との間に子(義尚)が生まれて跡目争いが生じます。義視は山名、富子と義尚は細川につきます。義尚も当初は善政を目指したと言われていますが、愛人関係にあった結城尚豊を近江守護に任じたりして一貫性はなく、将軍の威光を示そうとした六角攻めが長引き病死。その後、明応の政変など将軍の跡継ぎ問題も起きますが、北条早雲など戦国大名が台頭してくる、と。

 室町幕府は、建武年間の戦乱で荒廃した京都から始まったが、応仁の乱で荒廃した京都は都市城を縮小させるも町人の力で祇園祭の山鉾巡業が明応九年に復活するなど、新たな時代への動きも出てきた、というところで、本書は終わります。

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