2024/07/11

岩波版『新約聖書(改訂新版)』の使徒行伝(その2)

 (その1)からの続き。『新約聖書(改訂新版)』(2013年、岩波書店)に関して、ここではミスの修正以外の論点を少し述べる。

 今回、4:5の冒頭、「さて」という訳のあとに「〔以下のようなことが〕生じた。〔すなわち〕」という説明的敷衍が入った。一体、何か? これは9:37や9:43等も同じで、両者共通の「ἐγένετο」「Ἐγένετο」という語をあえて訳出したものだろう。「ヘブライ語法による冗語的表現」あるいは「重要な場面を描き出す際にルカが好んで用いるLXX的用語法」と言われている(いずれも荒井献『使徒行伝 中巻』現代新約注解全書、p.89)。荒井氏の訳では、2014年発行のこの注解書から改まったものなのだが、実は同じシリーズの『使徒行伝 上巻』(1979年2版、2004年復刊)では、まだ4:5ではこの表現を採用していない。ただ2004年発行の「合本版」では、「ルカ福音書」の訳を担当した佐藤研氏が、ルカ1:8で同じ「Ἐγένετο」の訳に「さて、〔以下のようなことが〕生じた、〔すなわち〕」とし、「旧約聖書的な語法を、荘重さの故に擬古文風に真似たもの。普通は訳出しないが、あえて直訳する。以下、同様の場合多し。」との注をつけている。なので、おそらく今回2023年発行の『新約聖書(改訂新版)』では、荒井氏と佐藤氏が話し合ったか、荒井氏が佐藤氏の訳に合わせ、表現を統一した可能性が高いだろう(注1)。ただし、9:32については、『使徒行伝 中巻』では「さて,〔以下のようなことが〕生じた、〔すなわち〕」を付加していたが、今回の『新約聖書(改訂新版)』では、これを採用せず元に戻している。直し忘れ?(注2)

 逆に、荒井氏は、9:3についても「ところが、〔以下のようなことが〕生じた。〔すなわち〕行ってダマスコスの近くまで来ると、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。」とするが、この箇所の原文を見ると、句の頭に「Ἐγένετο」と持ってきて、「以下のようなことが起きた」と<宣言>しているわけではない。なので、「近づくということが起こった,近づいた」(岩隈直『希和対訳脚注つき 新約聖書』5a 「使徒行伝・上」)」と解する人が多い。田川建三氏も『新約聖書 訳と註 2下 使徒行伝』の中で、「行く途中で、ダマスカスに近づいたのであったが、」と訳し、「「のであった」と訳したのは、例の「……ことが生じた」という表現」」という解説をつけている。両人とも「以下のようなこと」=「近くまできて、光が彼を照らした」という全体が「生じた」とは解釈していないようだ。このように「ἐγένετο」「Ἐγένετο」問題は、なかなか一筋縄には行かないところもある。なので、またあらためて調べてみたいが、荒井氏&佐藤氏の「あえて」のチャレンジは大いに歓迎したい。

 ほかに通常の訳とは変わっている箇所として挙げるなら、7:9-10はどうか。9「この族長たちは、ヨセフを妬んで、エジプトに売ってしまいました。しかし、神は彼と共におられ、」10「あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられました。そこで、ファラオは彼をエジプトと王家全体とをつかさどる宰相に任じたのです。」とあった箇所で、最後の「彼をエジプトと王家全体とをつかさどる宰相に任じたのです。」の主語を、特に注記もなく「神」に変え、「神は彼をエジプトと王家全体とをつかさどる宰相にしたのです。」と修正している。原語では、「(彼は)彼を・・・任命した」というように明示されていないが、この語の元になっている「創世記」を見るまでもなく、ヨセフを指導者に任じたのはファラオである。が、荒井氏は上記『使徒行伝 中巻』で、その解釈の可能性があるとしながらも、「この文章のギリシア語構成からみても,また歴史を導く主体としての「神」を強調するルカの救済史観から判断しても,「神」ととるべきであろう(真山,バレット。創 45:8 をも参照。岩波版の私訳修正)。」とすでに修正の意思を表していた。その意図はわからないではないが、注解書より広範な読者が手に取るであろう今回の改訂版では、少なくとも注記は入れるべきではなかったか。

 あと今回、修正された箇所ではないが、土岐健治氏から「8:7 では,「霊が大声で叫びながら出て行き」と訳されているが,底本によれば「出て行った」のは,「多くの人々」である。」と指摘された部分があった。ここは原文もかなり交錯していて、「ここでは悪霊につかれた人と悪霊とが混同された表現になっている。」(岩隈直『希和対訳脚注つき 新約聖書』)。なので、土岐氏が言うほど簡単ではない。田川氏も上記本の註で、「「出て行った」は定動詞だから、形式文法的な主語は「大勢」のはずだが、ここはもちろん、汚れた霊が出て行ったのである。」と解釈し、「汚れた霊につかれた者が大勢、霊が大声で叫んで、出て行ったからである。」と、「出て行った」の主体をあえて?曖昧にしたまま訳しているくらいだ。確かに、原文が曖昧・意味が取りにくい箇所は、そのまま日本語にするくらいの方が僕は良いと思う。が、もし荒井氏の訳を生かすとしたら、岩隈訳のように「多くの人々は、(霊が)大声で叫びながら出て行き」と括弧で敷衍してもよかったかもしれない。

 以上の2つの記事で触れた部分のほかにもいろいろ論点はあるが、今回の改訂新版により、単なる「訳しもれ」「ミス」等は初版に比べかなり減ってきた。無論、これは一般の読者にとってはありがたい。その一方で、「事実上これが『岩波版新約聖書」の最終決定版となる」(佐藤研氏)とのことだが、もし今後の刷りで一部改正があるとしたら、その分はぜひHPで公開して欲しい旨、要望しておきたい。

(注1)土岐健治氏から「1:13 で,「熱心党」と訳されている,ゼーローテースは,ルカ福音書 6:15 では,「熱心党員」と訳されている。訳語の統一が望まれる。」と指摘されていた部分については、佐藤研氏の方が今回の改訂新版で、「ルカ福音書」の方を「熱心党員」>>「熱心党」に改めた。
(注2)以前、「Editio Critica Maior(Mark・その2)」という記事でも、マルコ1:4の箇所について、この「Ἐγένετο」という語について少し書いた。佐藤研氏の担当分だが、今回の『新約聖書(改訂新版)』では、この語を「生じた」と訳し、「原語(egeneto, 原形は ginomai)は主として事柄やものが「発生する、生起する」、人間なら「生まれる」の意味。人が「現れる」の意味は元来ない。ヨハネの登場をヘブライ語的な「事件、出来事」とする感覚が働いていると思われる。」との注記がついた。

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2024/07/10

岩波版『新約聖書(改訂新版)』の使徒行伝(その1)

 岩波版『新約聖書』で荒井献氏が翻訳を担当している「使徒行伝」については、以前、岩波訳「使徒行伝」への土岐氏の批評(その1)(その2)という記事で触れておいた。今回、『新約聖書(改訂新版)』(2013年、岩波書店)において、どう変わったかについて見ておこう。

 上記記事は、土岐健治氏の論文「荒井献訳『使徒行伝』について」「言語文化 Vol.45」一橋大学言語研究所、2008年 )を受けたもの。このうち(その1)で紹介した初版『ルカ文書』における文章の変更箇所(訳しもれ)や、節番号のずれについては、すでにのちに出された再版(僕が所有しているのは第6刷、2001年)や『荒井献著作集 別巻』(岩波書店、2002年)、岩波版の「合本版(2004年)」でも修正されている。なので、今回も当然直っている(ただし、15:18および27:10 はあえて修正していない模様)。

 また、おそらく誤植の一つ、14:25 の「ベルゲ」は「ペルゲ」に直された。(その1)の注で触れた小さな「訳しもれ」、25:17も「翌日、裁判の席に着いて」と「翌日」であることが加えられた。だが、27:16の「カウダ」は、今回も底本を離れて「クラウダ」という異読を採用している(注記もなし)。

 一方、22:28では、「私は生まれながらのローマ〔帝国の〕 市民です」が、「しかし私は、ローマ市民として生まれたのです」と変わっている。個人的には、前記事で僕が土岐氏の指摘を敷衍して提案した「私は、生まれながら〔ローマ市民〕です」の訳の方が原文に近いと思うのだが。

 また、以前の記事では触れていないが、土岐氏は3:20について以下のように書いていた。

 3:20 に付された註の中に「バルク書」とあるが,「バルク書」は旧約聖書外典の「バルク書」を指して用いられる言葉であり,ここで言われているのは,「シリア語バルク黙示録」(あるいは,「第 2 バルク書」)のことなので,そのように表記すべきである。

 実は、この「バルク書」 問題については、田川建三氏も『新約聖書 訳と註 2下 使徒行伝』で指摘しているが、ここは直っていない。

 さて、底本本文中に条件付きで採用されたとも言える「角括弧」内の語句の扱いについてだが、(その2)で触れた7:43の[お前たちの]、15:24の[そちらに行き、]、14:13 の[神殿の]は、底本どおり(土岐氏の指摘どおり)角括弧に入った。

 以下、すべての箇所を見たわけではないが、土岐氏の指摘とは別に、今回、変更があった箇所をいくつか挙げておきたい。(その2)の記事の中で僕が「底本が使っている「角括弧」の扱いとしては、以下のような箇所に言及すべきではなかったか。」として挙げておいた箇所は、何と!すべてきちんと直されている(このサイトを見てくださっている?w)。

3:13「アブラハムの神、イサク[の神]、ヤコブ[の神]」
6:13「[この]聖なる場所」
9:12「[幻で]見たのだ」
13:31の後段、「そして、彼らは[今や]民に対して、彼の証人になっています。」(「イエスの」>>「彼の」)

 また、3:6では、旧版では「「ナゾラ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と。」となっていたが、「「ナゾラ人イエス・キリストの名によって[起きなさい、そして]歩きなさい」と。」と括弧内の訳文が追加された。ここも異読による差異で、底本ではネストレ26版から括弧つきで採用されていた。11:22の「[行くように]」の追加も同様。その意味で4:4の「五千人[ばかり]」は事情が逆で、ネストレ26版から「ばかり」に括弧がついていたのだが、今回直されるまでは括弧なしであった。4:28および4:30の「[あなたの]」、7:43の「[お前たちの]」、15:24の「[そちらに行き]、」、27:41の「激[浪]で」における括弧の追加も、4:4と同様。

 一方また、6:13の「「この男は[この]聖なる場所と律法とに」に加えられた「[この]」=「[τούτου] 」は、ネストレ25〜28版まで共通だが、今回初めて訳出されたようだ(注1)。細かい修正では、13:38の「〔また〕」は、底本どおり「[また]」に修正された。ただ、23:23も細かく言えば「[ある]二名の百人隊長」とするのが底本どおり。田川建三氏によれば、「ある」という不定代名詞と数詞、ここでは「2」を併用するのは、「普通はしない。ここもルカ的杜撰構文。」と言う。証拠写本的には、田川氏の解説どおり「ある二人の」の方が有力。

 以上見たように、本文の異動に関わる「角括弧」の扱いは、かなり細かく修正されていて、訳としての信頼度がはっきり増した。以下(その2)に続く。

(注1)7:25の荒井訳「モーセは、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えたもうたことを、彼らは悟るものと思っていました。」となっている。が、ここはギリシャ語原文では、訳の「兄弟たち」が原文では「彼ら」に、訳の「彼ら」が原文では「兄弟たち」になっている。その「兄弟たち」についていた「[彼の]」=「[αὐτοῦ] 」は、ネストレ26版から括弧つきで採用されていたが、荒井訳では新旧いずれも訳出されておらず、他の日本語訳も同様。「彼」「彼ら」が多用されているだけに、訳出しにくい箇所だろう。底本には、8:33や9:33、10:19にも人称代名詞絡みの角括弧があるが、これらも日本語訳としていちいち訳しにくいようだ(いずれも訳文には変更なし)。

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2024/03/07

岩波版『新約聖書(改訂新版)』の公同書簡(その5)

 第1ヨハネに続き、第2ヨハネを見て行こう。 ●(1:)5 婦人よ、私はいま改めてあなたにお願いするが、それは新しい誡め...

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2024/03/06

岩波版『新約聖書(改訂新版)』の公同書簡(その4)

 この連続記事もそろそろ後半に入る。第2ペテロに続いては、第1ヨハネ書。 ●1:7 反対に、彼が光の中におられるように、...

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2024/03/05

岩波版『新約聖書(改訂新版)』の公同書簡(その3)

 第2ペトロの続き、第3章から。 ●3:5 これを主張しようとする時、彼らは次のことに気づかない。神のことばによって、天...

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2024/03/04

岩波版『新約聖書(改訂新版)』の公同書簡(その2)

 続けて、(その1)のヤコブ書に続いて、岩波版『新約聖書(改訂新版)』の第1ペトロを読んでいく。 ●4:16 だが、キリ...

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2024/03/03

岩波版『新約聖書(改訂新版)』の公同書簡(その1)

 昨年末、岩波書店から出ていた『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会 訳)の改訂新版が出版された。  前回は分冊(1995-...

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2023/07/24

ユダは光る雲に入ったか?(その4)

 前回の記事では、チャコス写本所収の「ユダの福音書」で、75ページ目冒頭部分におけるフラグメント解読について紹介した。この項の最後に、次ページにあたる58ページ目冒頭の部分の新たな解読箇所について書いておく。パピルス紙片は基本両面書きであり、表面が修復できれば必然的に裏面も読むことができるという訳である。またこの部分は、(その1)(その2)で紹介した「ユダの変容」あるいは「イエスの変容」の続きにあたり、その解釈にも影響がある箇所になっている。例によって、荒井献氏の訳を示そう(これに上記の修正をあてはめた私訳を載せておく(ピンクの小数字は引用者が追加した元写本の行数で、原文の改行に合わせてこちらも改行した)。 ) 。

【58】
1[    ±14    ]大いなる
2種族[    ±10    ]像(エイコーン)
3[    ±14    ]そして
4[  

          以下約5行分欠損
そして、彼らの祭司長たちは
10呟いた。・・・

 これに上記フラグメントからの復刻部分を追加して、荒井訳をなるべく活かして作ってみたのが、以下の試訳である(修正部分ばピンクの文字で示す )。

【58】
1[    ±14    ]大いなる
2種[   ±10    ]像(エイコーン)
3[    ±14    ]そし
4て[   ±14    ]上を
5そしてユダはやめた
6イエスを見るのを。すぐに
7騒ぎがあった
8ユダヤ人たちの間で、これ[以上の・・・] 。
9[・・・]
彼らの祭司長たちは[・・・]
10
呟いた。・・・

 ところでこの新たな解読部分で重要なのは、この58ページの4〜6行目における「そしてユダはイエスを見るのをやめた。」という箇所。これはこの前段で以下のように書かれていたうち、イエスから「目を上げなさい。そして、雲とその中にある光を、またそれを取り巻く光を見るように。」とユダが言われていたことを受けているのは明らかだ。

 【57】(前略)
 15見よ、あなたにすべてが語られた。目を上げなさい。そして、雲とその中にある光を、またそれを取り巻く光を見るように。そして、導く星が20あなたの星なのだ」。
 そして、彼(イエス)ユダは目を上げて、光り輝く雲を見つめた。そして彼は、その中に入って行った。地上に立っていた者たちは、雲の中から出てくる声を聞いた、【58】
(以上、訳文は荒井献氏による『ナグ・ハマディ文書抄(岩波文庫)』。ただし、原文に合わせ「彼(イエス)」を「ユダ」に変更した。この点についてはこちらの記事を参照>>「ユダは天に昇ったか?(その2)

 この点について、新潟大学大学院 現代社会文化研究科 青木祐一郎氏による「『ユダの福音書』再考 ――新たな救世主像とユダ像の提示による考察――」(2014)という論文にこうある。

「 この Wurst の追加修復分を採用するならば、ユダはイエスを見ていることになる。つまり光の雲に入ったのはイエスであり、ユダはその様子を地上から見ていたと考えるべきである。つまり福音書本文から判断する限り、ユダが光の雲の中に入り、尊厳を回復すると言う解釈は本文が意図するところには合致してはいないということになる。」(「新潟大学学術リポジトリ」から)

 以前、この項の(その2)の記事で、僕は「僕個人はこのエピソードについて、「ユダの福音書」の作者が正典の福音書(の伝承等)を踏まえて後年書いたものであり、ユダに対しイエスに比する権威づけをするために書いたものではないか、つまりユダが光る雲に入ったと考えても良いとずっと考えていた。」 と書いていた。しかし、この復元部分も踏まえて考えると、上記、青木氏の「光の雲に入ったのはイエスであり、ユダはその様子を地上から見ていたと考えるべきである。」という指摘はなかなかに重い。

 以上、今回の『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』(岩波文庫)の出版を機に、当サイトなりの新情報を数回にわたって記載した。これを読んだ方が、もう一度、チャコス写本所収の「ユダの福音書」に光が当ててくださることを期待したい。

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2023/07/23

ユダは光る雲に入ったか?(その3)

 前回の記事の(注1)で、荒井献氏の「ユダの福音書」訳の底本(コプト語)である『The Gospels of Judas...

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2023/07/16

ユダは光る雲に入ったか?(その2)

 ところで前回の記事で取り上げた「ユダ(イエス)の変容」の議論は、光る雲の中に入っていった人物が誰であるか、を問題にして...

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2023/07/14

ユダは光る雲に入ったか?(その1)

 今年初めに、珍しく本格的な聖書学関係の文庫本が出た。書名は『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』(岩波文庫)。元々、同...

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聖書翻訳の訂正について(その6)

 以下、簡単な訂正だが、初版に付箋でも貼っておいた方が良さそうな箇所を、いくつかまとめて。 6)ルカ 10:39  妹>...

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2023/07/12

聖書翻訳の訂正について(その5)

 前回の続き。 5)マタイ 22:10  その僕たち>>家来たち この訂正は、基本的には「婚礼の祝宴」のたとえ話で、3節...

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2023/07/09

聖書翻訳の訂正について(その4)

 2019年に聖書協会共同訳の初版発行後に生じた変更・訂正箇所をまとめた「聖書語句訂正一覧」について紹介した。その後、毎...

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2023/07/06

Editio Critica Maior(Mark・その6)

マルコ7章35節「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。(聖書協会共同訳)」 4)7:...

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2023/07/05

Editio Critica Maior(Mark・その5)

マルコ7章9節「また、言われた。「あなたがたは、自分の言い伝えを重んじて、よくも神の戒めをないがしろにしたものだ。 (聖...

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2023/07/03

Editio Critica Maior(Mark・その4)

マルコ6章23節「さらに、「お前が願うなら、私の国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。(聖書協会共同訳)」 3)6:...

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2023/07/01

Editio Critica Maior(Mark・その3)

 今回はマルコ4章16節「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、(...

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2023/06/30

Editio Critica Maior(Mark・その2)

 Editio Critica Maior(ECM)のマルコの巻で、Inicial Text 上に大きな変化があった箇所...

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2023/06/24

Editio Critica Maior(Mark・その1)

 いつもながら情報更新の遅れをお詫びしなければならないのだが、2021年に出ていた大型批評版(Editio Critic...

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2019/09/22

聖書翻訳の訂正について(その3)

 前回の続き。 3)1ヨハネ 3:7 子たちよ >> 子どもたちよ※ここは以前、USB5=ネストレ28版で本文変更があっ...

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2019/09/21

聖書翻訳の訂正について(その2)

 前回、「聖書協会共同訳」の変更・訂正について触れた。そのほとんどがルビの訂正や表記の統一なのだが、本文解釈に関わる修正...

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2019/09/17

聖書翻訳の訂正について(その1)

 最近、Twitter 上で話題になっていたが、昨年末に出た「聖書協会共同訳」の「聖書語句訂正一覧」が一般財団法人日本聖...

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2018/12/27

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その5)

 第1ヨハネに続き、第2ヨハネ5節。 ●(1:)5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい...

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2018/12/20

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その4)

 第2ペテロに続き、第1ヨハネ書について見て行く。 ●1:7 しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むな...

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2018/12/17

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その3)

 第2ペトロの続き、第3章から。 ●3:5 こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。すなわち、天は大昔から存在し、...

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2018/12/16

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その2)

 続けて、『聖書協会共同訳』の第1ペトロを読んでいく。 ●4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じて...

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2018/12/14

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その1)

 昨日、書店から『聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き』(日本聖書協会・刊)が届いた。本文は二段組。脚注...

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2018/12/09

『新改訳2017』の公同書簡(その6)

 補遺編の続き。 ●1ヨハネ5:10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神...

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2018/12/08

『新改訳2017』の公同書簡(その5)

 夏前から『新改訳2017』において新版の異同を考慮したと思われる翻訳箇所を追ってきた。来週出る予定のネストレ28/US...

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