岩波版『新約聖書(改訂新版)』の使徒行伝(その2)
(その1)からの続き。『新約聖書(改訂新版)』(2013年、岩波書店)に関して、ここではミスの修正以外の論点を少し述べる。
今回、4:5の冒頭、「さて」という訳のあとに「〔以下のようなことが〕生じた。〔すなわち〕」という説明的敷衍が入った。一体、何か? これは9:37や9:43等も同じで、両者共通の「ἐγένετο」「Ἐγένετο」という語をあえて訳出したものだろう。「ヘブライ語法による冗語的表現」あるいは「重要な場面を描き出す際にルカが好んで用いるLXX的用語法」と言われている(いずれも荒井献『使徒行伝 中巻』現代新約注解全書、p.89)。荒井氏の訳では、2014年発行のこの注解書から改まったものなのだが、実は同じシリーズの『使徒行伝 上巻』(1979年2版、2004年復刊)では、まだ4:5ではこの表現を採用していない。ただ2004年発行の「合本版」では、「ルカ福音書」の訳を担当した佐藤研氏が、ルカ1:8で同じ「Ἐγένετο」の訳に「さて、〔以下のようなことが〕生じた、〔すなわち〕」とし、「旧約聖書的な語法を、荘重さの故に擬古文風に真似たもの。普通は訳出しないが、あえて直訳する。以下、同様の場合多し。」との注をつけている。なので、おそらく今回2023年発行の『新約聖書(改訂新版)』では、荒井氏と佐藤氏が話し合ったか、荒井氏が佐藤氏の訳に合わせ、表現を統一した可能性が高いだろう(注1)。ただし、9:32については、『使徒行伝 中巻』では「さて,〔以下のようなことが〕生じた、〔すなわち〕」を付加していたが、今回の『新約聖書(改訂新版)』では、これを採用せず元に戻している。直し忘れ?(注2)
逆に、荒井氏は、9:3についても「ところが、〔以下のようなことが〕生じた。〔すなわち〕行ってダマスコスの近くまで来ると、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。」とするが、この箇所の原文を見ると、句の頭に「Ἐγένετο」と持ってきて、「以下のようなことが起きた」と<宣言>しているわけではない。なので、「近づくということが起こった,近づいた」(岩隈直『希和対訳脚注つき 新約聖書』5a 「使徒行伝・上」)」と解する人が多い。田川建三氏も『新約聖書 訳と註 2下 使徒行伝』の中で、「行く途中で、ダマスカスに近づいたのであったが、」と訳し、「「のであった」と訳したのは、例の「……ことが生じた」という表現」」という解説をつけている。両人とも「以下のようなこと」=「近くまできて、光が彼を照らした」という全体が「生じた」とは解釈していないようだ。このように「ἐγένετο」「Ἐγένετο」問題は、なかなか一筋縄には行かないところもある。なので、またあらためて調べてみたいが、荒井氏&佐藤氏の「あえて」のチャレンジは大いに歓迎したい。
ほかに通常の訳とは変わっている箇所として挙げるなら、7:9-10はどうか。9「この族長たちは、ヨセフを妬んで、エジプトに売ってしまいました。しかし、神は彼と共におられ、」10「あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられました。そこで、ファラオは彼をエジプトと王家全体とをつかさどる宰相に任じたのです。」とあった箇所で、最後の「彼をエジプトと王家全体とをつかさどる宰相に任じたのです。」の主語を、特に注記もなく「神」に変え、「神は彼をエジプトと王家全体とをつかさどる宰相にしたのです。」と修正している。原語では、「(彼は)彼を・・・任命した」というように明示されていないが、この語の元になっている「創世記」を見るまでもなく、ヨセフを指導者に任じたのはファラオである。が、荒井氏は上記『使徒行伝 中巻』で、その解釈の可能性があるとしながらも、「この文章のギリシア語構成からみても,また歴史を導く主体としての「神」を強調するルカの救済史観から判断しても,「神」ととるべきであろう(真山,バレット。創 45:8 をも参照。岩波版の私訳修正)。」とすでに修正の意思を表していた。その意図はわからないではないが、注解書より広範な読者が手に取るであろう今回の改訂版では、少なくとも注記は入れるべきではなかったか。
あと今回、修正された箇所ではないが、土岐健治氏から「8:7 では,「霊が大声で叫びながら出て行き」と訳されているが,底本によれば「出て行った」のは,「多くの人々」である。」と指摘された部分があった。ここは原文もかなり交錯していて、「ここでは悪霊につかれた人と悪霊とが混同された表現になっている。」(岩隈直『希和対訳脚注つき 新約聖書』)。なので、土岐氏が言うほど簡単ではない。田川氏も上記本の註で、「「出て行った」は定動詞だから、形式文法的な主語は「大勢」のはずだが、ここはもちろん、汚れた霊が出て行ったのである。」と解釈し、「汚れた霊につかれた者が大勢、霊が大声で叫んで、出て行ったからである。」と、「出て行った」の主体をあえて?曖昧にしたまま訳しているくらいだ。確かに、原文が曖昧・意味が取りにくい箇所は、そのまま日本語にするくらいの方が僕は良いと思う。が、もし荒井氏の訳を生かすとしたら、岩隈訳のように「多くの人々は、(霊が)大声で叫びながら出て行き」と括弧で敷衍してもよかったかもしれない。
以上の2つの記事で触れた部分のほかにもいろいろ論点はあるが、今回の改訂新版により、単なる「訳しもれ」「ミス」等は初版に比べかなり減ってきた。無論、これは一般の読者にとってはありがたい。その一方で、「事実上これが『岩波版新約聖書」の最終決定版となる」(佐藤研氏)とのことだが、もし今後の刷りで一部改正があるとしたら、その分はぜひHPで公開して欲しい旨、要望しておきたい。
(注1)土岐健治氏から「1:13 で,「熱心党」と訳されている,ゼーローテースは,ルカ福音書 6:15 では,「熱心党員」と訳されている。訳語の統一が望まれる。」と指摘されていた部分については、佐藤研氏の方が今回の改訂新版で、「ルカ福音書」の方を「熱心党員」>>「熱心党」に改めた。
(注2)以前、「Editio Critica Maior(Mark・その2)」という記事でも、マルコ1:4の箇所について、この「Ἐγένετο」という語について少し書いた。佐藤研氏の担当分だが、今回の『新約聖書(改訂新版)』では、この語を「生じた」と訳し、「原語(egeneto, 原形は ginomai)は主として事柄やものが「発生する、生起する」、人間なら「生まれる」の意味。人が「現れる」の意味は元来ない。ヨハネの登場をヘブライ語的な「事件、出来事」とする感覚が働いていると思われる。」との注記がついた。
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