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April 21, 2015

『天下泰平の時代』

Tenkataihei

『天下泰平の時代』高埜利彦、岩波新書

 岩波のシリーズ日本近世史も3巻目となりました。

 『天下泰平の時代』のはじめにをアレンジすると、日本史というのは東アジアの歴史の中でみるべきだということで、日本国内が天下泰平になったのは、中国大陸での明清交替が落ち着き、安定した秩序がもたらされた1660年代からだった、と。少し長いスパンでみると、応仁の乱から中国における清王朝の成立まで続いた約200年間の動乱の後、綱吉から家治までの130年間は太平の世が続き、その後、ロシアの根室来航から始まる明治維新から太平洋戦争の敗北から中共の成立まではまた動乱の歴史となります。《したがって、戦後から現在に続く平和もまた歴史上貴重なものである》というのは団塊の世代らしいひとこと、

 ぼくが学生だった頃は「生類憐れみの令で庶民を苦しめた犬公方」「賄賂をもらう柳沢吉保」というイメージですが、最近、綱吉の再評価が進んでいます。生類憐みの令が日本から犬食の風習をなくしたというのは知っていましたが、野犬が管理されることで捨て子が襲われるような殺伐とした風景も無くしたという効果もあったとは驚きです。綱吉の発した服忌礼(ぶっきれい)でも、今の世に、葬式帰りには清めの塩を自分の身体に撒いたりするなど穢れの意識を高め、身近なところです年賀状を遠慮する喪中葉書として残っているとか…犬公方恐るべし。経済政策もいまでいうインフレ政策をとっており、それで元禄時代は大いに栄えたのかもしれません。

 逆に質実剛健への復帰を目指して亨保の改革を進めた吉宗は善人というイメージでしたが、デフレ政策でその後の幕府の衰退を招いたのかもしれません。その象徴が芝居所、名古屋を築いた尾張藩主徳川宗春の譴責処分でしょう。

 いまは引き続き岡本隆司先生の『李鴻章』『袁世凱』を読んでいるんですが、明清交替の背景には東アジアの交易を制限しようとした明への反発があったというんです。マルクスの下部構造という概念を持ち出さなくても、経済面からも日本と東アジアの歴史はリンクしているんだな、と。

 それにしても元禄の栄華を極めた五代綱吉ですが、大量に幕臣を増やしたことが幕府の財政を悪化させていきました。そのため大名に対しては参勤交代の代わりに米=カネを要求し、農民には年貢増微策で臨んだのですが、そうした折も折、元禄16年(1703年)には関東大震災と同タイプの元禄地震が関東地方を襲い、4年後の宝永四年十月には南海トラフのほぼ全域にわたってプレートが動いた巨大地震が東南海が発生、さらには十一月には富士山噴火が起こるなど自然災害に見舞われるという不幸が続きます。こうしたことから《「悪政」批判が起こった》のだろうとしています(p.102)。

 それにしても、シリーズ日本近世史を通して読むと、豊臣秀吉の偉大さがよくわかります。織豊政権、特に秀吉は侍階級を土地から切り離し、今の会社の総合職のような人事異動=領地入れ替えを行いました。刀狩りによって農民から武器を取り上げると同時に、世襲的な支配層も地域から切り離すことで脅威を減じさせようとした、と。にしても、武士階級を官僚として使おうと発想して、土地から切り離した上で各地を統治させたのは秀吉の慧眼。日本の王朝が中国のように科挙によって地方の優秀な人材をリクルートするというシステムを持てなかったことや、公家が遊んでばかりのアホばかりだったということにも助けられたとはいえ流石です。農民出身の天下人を持てたことは、日本の庶民にとって、生きやすさを生んだのではないでしょうか。

 そうした土地から切り離された官僚システムのネットワークによって統治することは、中央集権を実現するためで、その職務を本来は武装集団だった武士階級を、土地と切り離した上でやらせたというのが、日本人の『お上は結構真面目』『お上は質素』みたいな意識を生んだのだろうか、なんてことも考えました。それと同時に自堕落な公家というイメージも定着したとか。

 それにしても、家康でも完遂できなかったというか、一部では残さざるを得なかった世襲的な地域支配層を一掃したのも綱吉だったんですよ。

 あとは箇条書きで。

 琉球政府は、明朝と薩摩藩・江戸幕府と二元的な外交体制をとりながら、自立した独自の風俗や政治体制を維持してきましたが、こうした場合、外交は二元論的でとりあえず長引かせるというスタイルになります。それは朝鮮も同じだと思うのですが、沖縄県と韓国・北朝鮮もあまり変わらないな、と思わざるをえません(p.16-)。

 それにしても薩摩藩は好戦的なんですよ。鄭成功や唐王の使者が明朝支援の派兵を求めた際に積極的な姿勢を見せるとか、清が冊封の使節を琉球に送ると通知してきた際には、もし辮髪を強要されたらどうするか?と幕府にお伺いを立てたりして。幸い琉球王国に辮髪が強要されることはありませんでしたが、もしそうなっていたら一戦交えたかったのかも。

 『李鴻章』『袁世凱』で何回も語られる中国にとっての日本は、永遠の大患だという認識がよくわかりますw

商業の発達をざっくりおさらいしますと、新田開発がひと段落→金肥利用などによる単位あたりの生産性向上→年貢以外の作物の生産余地拡大→納屋物と呼ばれる様々な産品の生産拡大→大阪の問屋も商品ごとに専業化→海難事故に備えるための共同化で十組問屋の結成、と江戸時代はシステマチックな発展が続いたというんですが、本当に見事な展開。こうした江戸中期の生産力の上昇で、浮遊労働力が都市周辺に集まり、それまで農民が夫役として駆り立てられた仕事を、町人が浮遊労働力を編成して請け負い、幕府や大名が利用する形が広がります。同時代の世界を見ると、例えば当時の北欧が軍役にも駆り立てられた農奴だったと比べると経済の発展ぶりは凄いと思います(p.170)。

 夷狄である女真族=満洲民族が明朝を滅ぼしたので、本朝ではないという主張が、林家からなされて、日本が中華=本朝とみなされたのが、攘夷意識を生んだ、という指摘にはハッとしました(p.133)。

 吉宗は幕府の財政悪化に対して、参勤交代の日数を半減させる代わりに1%の米上納を求めたんですが、これによって短期的には財政は救われたけど、将軍と大名の主従関係を揺るがした、と(p.160-)。

 宗教関係では神道が面白かった。幕府は神仏習合でない吉田神道を重んじ、神祇管領長上職に吉田家を任じたんですが、出雲、鹿島、香取、諏訪、熱田、日前、熊野、宇佐、阿蘇の大社はこうした統制に反発し、吉田家の執奏から外すよう願い出て認められたそうで、まあ「なんでもカネやねw」と思いました(p.61-)。また、甲子革命説によって60年に一回の改元がなされていたんですが、宇佐と香椎宮に奉幣使を送ることを幕府が復活させ、一行が通る道筋では僧の徘徊や寺の鐘を鳴らすことを禁止したんですが、これが廃仏棄釈につながった可能性も、と(p.184)。

 五島列島に流れ着いた大村藩からのキリシタンは暖かく迎えられ、小舟では黒潮を超えられぬ八丈島への流人を島人は同化して、墓も保たれている。明治政府の四民平等で身分制度は改められたが、その背景には経済発展による内なる改革と、こうした暖かさがあった、というあたりはなかなかいいな、と(あとがき)。

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