『ポスト戦後社会 シリーズ日本近現代史 9』
『ポスト戦後社会 シリーズ日本近現代史 9』吉見俊哉、岩波新書
ようやく発売されました。
出版不況で岩波もヤバいんじゃないかとか思ったけど、とりあえず大丈夫そうなので一安心。
ということですが、このシリーズの中では『満州事変から日中戦争へ シリーズ日本近現代史5』加藤陽子、以来のイイ出来ですねぇ。
文章が上手い。
人文系でこれだけ上手いと感じたのは橋川文三さん以来かも。
「はじめに」のこんなところなんかいいなぁ。
「夢」の時代が内包する自己否定の契機を極限まで推し進めたが一九七一年から七二年にかけての連合赤軍事件であったなら、九〇年代、「虚構」の時代のリアリティ感覚を極限まで推し進めていったところで生じたのは、オウム真理教事件であった。見田や大澤真幸の議論を受けて本書も論じるように、これらの事件の対照には、「戦後」と「ポスト戦後」の間でのリアリティの位相の転換が、集約的なかたちで示されている。
全体を通じている「フィクションとしての日本史」という考え方もカッコ良いなぁ。後書きのこんところとか。
近代のいずれかの段階で、国民国家や帝国、植民地、資本主義と、諸々の巨大なシステムが地響きを立てて蠢いていくなかで、たとえば日本史という、連続的な時間制としての歴史が浮上してきたのだと思う。だから日本史は、その存立の根底にある種の虚構性というか、抽象を抱え込んでいる
もうひとつは写真の良さ。
第一章で、新左翼の運動が観念的な「解放」の実現のために自己否定が求められたという時代が描かれた後、第二章の扉には「竹の子族」の踊り狂う姿が使われています。個人的に、ぼくも「竹の子族」をテレビで見たときに「終わったな」という感じがしたんです。その感じとピッタリきました。なんともカッコ悪いその姿と、でも青空のもとで踊り狂う姿は、現状の肯定というよりも、自己否定の否定というか、ネガティブなやけっぱちの明るさといいますか、もう深刻な問題では悩めなくなった時代をあらわしていると思います。
さらに著者は、こうした感覚の広がりを「未来からの解放」だととらえるんですね(p.87)。
ポスト戦後社会が直面する一方の現実が、家族の変容や自己の閉塞であるとするならば、もう一方の現実は、農村の崩壊と自然の荒廃である。前者を内的自然の、後者を外的自然の衰退と考えるならば、日本の近代化、とりわけ高度経済成長がもたらしていった物質的な「豊かさ」の裏面をなしてきた。
なんてあたりもいいです。
あと、自民党政治を池田内閣から田中内閣までの高度経済成長路線と、中曽根内閣から小泉内閣までの新自由主義路線、そしてブレーン・トラストの組織化などでそれを準備した大平政権という大づかみな姿というのも、個人的にはわりと新鮮。
さらに昭和天皇の死去を、国民共同体を祖父(家族の片隅で存在感を消しながら受入れてもらっている祖父、p.114)としてつなぎ止めていたものの終わり、という見方もよかったですね。
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