『摂関政治 シリーズ日本古代史6』
『摂関政治 シリーズ日本古代史6』古瀬奈津子、岩波新書
『農耕社会の成立』から始まったシリーズ日本古代史も本巻で完結。日本史をやっている先生方は、キッチリしている方が多いのか、ほとんど予定から遅れなかったのは素晴らしいと思います。
そして「古代史」の終わりらしく、本巻のモチーフは、摂関家の成立によって《ヤマト王権を形成していた諸大夫(まえつきみ、豪族)》が終焉を迎え、天皇制は消滅しないで存続していくものの、実権は摂関家、院、幕府が把握するという《その後の日本における政治の仕組み》が出来上がった、ということだと思います(p.215-の「おわりに」)。
他の貴族を圧倒する力を得た藤原道長が、こうした新しい政治システムをつくりだし、古代貴族や在地首長が没落したのは、唐帝国の滅亡によって白村江の敗北以降の危機対応の中央集権的なシステムが不要となったことを背景にしており、これ以降、日本では権力の分散化傾向が続くと同時に、国風文化が栄えるようになります。実に今も日本に残る年中行事が整えられたのも摂関期だったといいます(p.82)。
858年に清和天皇が九歳で即位したことは、幼帝でも天皇制が機能するようになったことを意味し、応天門の変を契機に外戚である藤原良房が摂政として登場。その後、外戚である藤原氏が摂政、関白として補佐する体制ができあがり、摂関期にはイニシアチブが握るようになります。
では、道長はどのように他の貴族とは隔絶する権力を握っていったかというと、それは政務における「奏事」を成立させたことにある、といいます(p.45-)。これは公卿以下の太政官による組織的な文書審査なしに、天皇へ直接奏聞されるもので、これによって、摂関や「内覧」が目通しして奏上することで、太政官を排除することが可能になりました。実に道長は摂関であることよりも内覧である時期の方が圧倒的に長く、政治権力とは何かを熟知していたんだと思います。
また、この頃は通い婚が普通だと思っていましたが、最近の研究によると摂関期には正妻とは居をともにし、妾妻のところへは通うという結婚形式が多いそうです(p.34)。
中流貴族は地方の受領となって税を収奪するぐらいしかやることがなくなってきますが、これは古代的な在地首長の崩壊と、中世的な在地領主の成長過程というこの摂関期の短い期間しか成立しませんでした。
また、平明な白氏文集の受容によって《自らの周囲にある事物や生活における勘定を詠むことができるようになった》というのも、なるほどな、と(p.160)。遣唐使は廃止されましたが、朝廷上層部に有力な後援者を持つ僧侶たちによる、事実上の"遣宋使"は続いており、皇帝たちは代々《日本はなぜ宋に朝貢してこないのかという質問》を発していたそうです(p.176)。
入内した頼通の娘に男子が生まれなかったことから、1068年には摂関家の娘を母としない後三条天皇が即位し、摂関家に代わる「院政」が始まるわけですが、院政は道長によってつくられた政務システムを基本にしている、というのが著者の結論です(p.214)。
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