長谷川宏訳ヘーゲル読書日記

November 14, 2007

『精神現象学』読書日記#13

[C.(AA)理性][B.理性的な自己意識の自己実現]

 [A.観察する理性]は『精神現象学』の中で、最も読みにくく、ヘーゲル自身もなんでこんなところにドライブがかかっているのにわからないままに紙幅を増やし続けた箇所だと思います。

 しかしもそんな後にくる[B.理性的な自己意識の自己実現]は中盤の大きな山場といいますか、『精神現象学』全体を見晴らす大きな展望台ともよべるようなところです。

 これまでの議論を総括して《自己意識は物が自己であり、自己が物であることを発見した》《したがって、意識が積極的に関係する対象は自己意識である》(p.236)とまとめるところが有無を言わさぬ強引さ。そして、ここから『精神現象学』の奥の細道とも言うべき、精神の旅論にもっていくわけです。

 さらに《個々人は、自分の個別性を放棄し、共同体精神を自分の本当の魂とすることによつて、個として自立した生活を送ることができるのを意識している。が、一方また、この共同体は個々人の行為によってなりたつものであり、個々人によって作りあげられたものである》《ここには一方的なものはなにもなく、個人が自分の自立性を解体され、自分を否定されるようなに見えることが、その裏に、個人を自立させるという積極的な意味をかならず備えている》《万人がわたしをふくむ他人の力によって生かされているのがわかる。万人がわたしであり、ほたしが万人なのだ》(p.238-239)というヘーゲル先生ならでは主題に強引にもっていきます。

 《孤立した自分こそが本体だと感じられる。自己意志が個としてるあるというこのありさまは、むろん、共同体精神の一側面ではあるが、全体からするとごく一部分をなすにすぎず、あらわれたかと思うとすぐに消えさる体(てい)のもので、自分への信頼として意識されるにすぎない》(p.240)。個人の限界についての厳しい言葉です。

 西研さんが『ヘーゲル・大人のなり方』を書いたのも、こうしたモチーフだと思います。

 《見方を変えれば、自己意識は、社会生活の本体たる共同体精神を体現する幸福に、いまだ到達していないともいえる。観察の仕事から自分に還ってきた精神は、さしあたりまだ精神として自己を実現していないので内面的で抽象的な存在にとどまっている》(p.240)というのも厳しい言葉です。

 逆にいえば「外に向かって開かれている具体的な存在」こそが精神だ、といっているわけですから。

 こうした観点に立てば《道徳の要素は、失われた共同性に対立して目的にかかげられるというところまでは行ってないから、その素朴な内容そのままに肯定され、そのめざす目標として共同体精神がかかげられるのである》(p.242)というのは合理的。

 ぼくが個人的にヘーゲルの求め続けてきたのは、こうしたクリアカットさだと思っています。

 そして、その精神が《精神の可能性を予感しているにすぎない自己意識は、個としての精神こそ共同体の本質をなすと確信して社会へとむかうので、その目的たるや、個としての自己を実現し、その実現を個としても楽しむというところに置かれる》(p.242)という今でも通じるような言い方につながっていくんじゃないか、と思っています。

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November 01, 2007

『精神現象学』読書日記#12

[C.(AA)理性][A.観察する理性][c.自己意識と身体の関係 人相学と頭蓋論]

 ここは、ヘーゲル先生が生き返って著書を書き直すことができたとしたら、一括削除したくなるようなところではないでしょうか。「なんで人相学と頭蓋論なんだ」と誰でも思います。なんか、いきあたりばったり。

 といいますか、ここの[A.観察する理性]は全体に退屈です。次の[B.理性的な自己意識の自己実現]からは調子も戻ってくるんですが、とにかく[C.(AA)理性]に入ってからペースは乱れまくっている感じ。しかも、そのワケがなんとなく理解できるのが、この後の[B.理性的な自己意識の自己実現]で、ヘーゲルは誰もやったことがない抽象的な絶対知を探る"旅"を続けているんだ、という説明で分るというんですから、後の祭り。長い本って、どうしても中だるみがありますが、ここはまさにその極北のような感じです。訳者である長谷川宏さんも、自身で書いたコンメンタールともいうべき『ヘーゲル『精神現象学』入門』でスルーしているぐらい。

 出だしは悪くないんです。《個人は外にむかっても内にむかっても存在する》(p.209)、《個人は同時に行為の積みかさねとしてしか存在しえないから、個人の肉体は個人のうみだした自己表現だともいえる》(p.210)。いいじゃないですか。この硬質な感じ。

 しかし《この特殊な現実が個人の特殊な体形としてあらわれている》(p.210)あたりから「うーん」と思うようになり、p.212で人相学を一通り説明したあと《想定された精神の状態についてあれこれ思いこむのは、形をちょっと見ただけで、その内面の性質や性格を性急に判断するという、しろうと人相学によく見られるものである》(p.216)あたりになると、そんなこと最初からわかってるんだから書くなよ…という感じ。

 さらにプラトンが怒りは肝臓の働きだと言っているとか横道にそれた後(p.220)、《当面する知の探求に当たって、頭蓋骨だけに話を限定しても、まずそんなに不都合は起こるまい》(p.221)とさらにしょうもない深みに入っていきます。《脊髄を精神の住処と考えたり、背骨を精神の反映する場と考えるのは行きすぎである》(p.221)とか、《脳が生きた頭であるのにたいして、頭蓋は「死んだ頭」だとしうことだけははっきりいっておこう》(p.211)とか…。

 ここらあたりに自分で以前書いた古い書き込みを見つけたんですが「読者を想定できない。誰に対して説得しているのか?」みたいな感じで、ひとりで勝手に深みにはまってしまっています。

 後は、さすがに弁証法好きというか、両極端を対比させるのが好きなんだな、ということで《ユダヤ民族を評して、救いの門の直前に立っているがゆえに、もっとも神から見放されている、といわれることがあるが、実際、ユダヤ民族は自分の絶対のありさま-自己の本質-を自分のものとはせず、手のとどかぬ彼岸に置いている》(p.230)とか、《精神が深みに至ろうとしてイメージまでしか至りえず、そこに踏みとどまっている状態と、イメージに埋没した意識が自分のいっていることを理解できない状態との共存は、まさしく、高いものと低いものとの結合といってよく、自然の生物において、最高度に完成した生殖の器官と放尿の器官とが素朴に結びつくのと好対照をなす事柄といえる》(p.235)あたりは、「ヘーゲル先生、またやっちゃってる…」という感じで面白かったですが…。

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October 28, 2007

『精神現象学』読書日記#11

[C.(AA)理性][A.観察する理性][b.純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察]

[a.自然の観察]に続く[b.純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察]も退屈の極みみたいなところなのですが、《ここでは、いわゆる思考法則のいい加減さを一般的に指摘しておくだけで十分である。思考法則の具体的な展開は純理の哲学たる論理学の仕事であって、そこでは思考法則の真のすがたが-一つ一つの法則は消えうせていき、真理は思考運動の全体たる知としてあらわれることが-あきらかにされるのである》(p.206)というところには、後年の『大論理学』『小論理学』の構想をかいま見させてくれているんじゃないかと思います。

 『大論理学』は岩波の全集で文字を追っただけで何もわからず、『小論理学』も岩波文庫でまったく理解できませんでしたが、長谷川さんの『論理学』を読んで、個人的に「もしかして…」と思ったことがあるのです。

 あまり、ヘーゲルのことでは、ぶっちゃけたことを書いている方をみかけないので、勘違いしていたら恥ずかしのですが、それは「『論理学』って全く論理学じゃなくって、弁証法の動きを説明しているだけだな」ということでした。ヘーゲルの哲学が孤立しているといいますか、あれは哲学じゃないともいわれるのは『論理学』の論理学らいからぬところといいますか、この『精神現象学』も文学臭がするようなといいますか、抽象的な絶対知を探るとはいってもヘーゲル個人の歴史を辿っているという側面がみえるからかもしれません。

 無機的自然の観察で得られる概念は自分に還って単一な存在になれないとか(p.204)、やがて行動する現実的な意識という新しい観察領域が開けてくるとか(p.206)、球面をなす個人の世界は、そのまま二重の意味を-それ自体で存在する世界であるとともに、個人にとっての境遇(世界)であるという二重の意味を-もっているとか(p.208)、いわれても他人の夢の話を聞いているようで、《個人こそは世界の実体をなす主人公である。世界とは個人の行為の作りだす輪のことであって、そのなかで個人は現実の存在としてあらわれ、既存の存在と作りだされた存在とを統一する》(p.209)という『精神現象学』で何回も語られているような話に還っていくだけ、という印象がぬぐえません。

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October 25, 2007

『精神現象学』読書日記#10

 あまりにも新刊書に面白いのが見あたりませんので、約1年振りに復活いたします。とはいっても、リスタートが[C (AA)理性]からというのは正直、辛いんです。長谷川訳のp.160-235は、おそらく『精神現象学』の中でも、もっとも退屈な箇所です。読んでいてありがたみがないといいますか、こんなこといっちゃっていいのかね…といいたくなるような記述が続きます。ちょうど200年前の自然科学の知識の限界がかいま見えるといいますか、何も専門外なのに、こんなことを言わなければいいのに…と思わせるような有機体と無機物に関する考察が延々と続いたり。

[C.(AA)理性][A.観察する理性][a.自然の観察]

 《理性とは、物の世界すべてに行きわたっているという意識の確信である。理性ををそういうもにとしてとらえるのが、観念論の立場である》として、それを端的にあらわしているのが《「わたしはわたしだ」という命題である》(p.161)といいます。そのわたしは《現実にある物の世界すべてに行きわたった唯一の代謝たるわたし》(p.162)であり《「わたしの大将と本質をなすのはわたしだ」》(p.163)というのです。

 ここでいう観念論とは《物の世界に理性が行きわたっていることを認識する立場》(『入門』p.138)です。

 ここまでは、いい感じなのですが、ここから後がいけません。[C.(AA)理性]は「A.観察する理性」「B.理性的な自己意識の自己実現」「C.絶対的な現実性を獲得した個人」と進んでいくわけですが、特に「A.観察する理性」は退屈の極み。

 《以前には。、物のもとでのさまざまな知覚や経験が、おもいがけず意識に生じてきたのだったが、ここでは、意識みずからが観察や経験に乗り出していく》(p.168)と出だしは好調そうに見えるのですが、有機体の分析(反応力と感受性が有機体の質的な対立項をなす云々、p.188)は、ヘーゲル先生が批判した《感性のポテンツ化(増進)ー「ポテンツ化」などという用語を持ちだすのは、感覚的なものを概念的にとらえないまま、ラテン語に、しかも不適切なラテン語に移しかえるやり口》(p.193)に似ているんじゃなのいか、と考えてしまいます。

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August 08, 2006

『精神現象学』読書日記#9

意外と再読すると感動が少ないというか、やっぱ新刊書も読みたいということで『精神現象学』の読書日記は停滞しているのですが、ちょうど停滞していたところを『西洋哲学史 古代から中世へ』の中で取り上げられていたヘーゲルのストア派に対する低い評価みたいなところを意識して読むと、[B.自己意識][IV.自己確信の真理][A.自己意識の自由][ストア主義、懐疑主義、不幸な意識]もより分かりやすくなるんだ、ということを教えられたと思うので、チラッと再開してみます。

 しかし、やっぱりプロの哲学研究家の方は違いますね。ぼくみたいな素人の本好きは、『哲学史講義』の中巻「独断主義と懐疑主義」で≪ストア派とエピクロス派にはじつは本来の哲学的思索が見いだされず、一面的で制約された原理の適用があるだけです≫(長谷川宏訳、p.215)なんて書かれていたところを読んだ記憶はあるんですが、それの応用がききません。『精神現象学』のこの場所でそういったストア派などへの低い評価(もちろんヘーゲルの個人的な評価)がヘーゲルの考える絶対知へと向かう意識の経験の旅で、どのように位置づけられるのか、なんてことを考えずに文字だけ追っていたという感じで、本当に情けない。

 主人と奴隷の話のところで『自分が自主・独立の存在であることが自覚され、こうして、自主・独立の過不足ないすがたが意識にあらわれ』た奴隷は、自己意識の自由を獲得するに至るのですが、≪こうした自己意識の自由が、明確な理念として精神史上にあらわれたものが、周知のように、「ストア主義」と呼ばれる思想である≫(p.140)のです。

 しかし、ヘーゲルはあまりストア主義に対する評価は高くありません。≪ストア主義は物への隷属関係をきっぱりと断ちきり、純粋に普遍的な思考の世界へと立ちもどることによって自由を獲得≫しているだけであって≪生活臭のない単一な思考の世界に引きこも≫って≪自由といっても、頭のなかの自由であって、生きた自由がそこにあるわけでない≫として、≪なにが善であり真であるか、という内容を問う問いに、ストア主義は内容なき思考をもって答えようするほかない≫≪ストア主義がたえず口にする真と善、知恵と徳、といった一般的なことばは、全体として人の精神を高揚されるものではない≫とまで書きます(pp.141-2)。

 そして懐疑主義についても≪「懐疑主義」はストア主義が頭のなかだけで考えていたことを実行に移し、思考の自由とはどういうことかを現実に経験する≫(p.142)だけのものだ、と醒めた書き方をします。ただし≪懐疑主義において、意識は、本当は自分が内部に矛盾を抱えた意識であることを経験する≫(p.145)わけですが。

 ヘーゲルが主人と奴隷の後に[ストア主義、懐疑主義、不幸な意識]をもってきたのは≪ストア主義の自己意識は自分の自由を守る単一の意識であった。懐疑主義では自由が現実世界に乗りだして、明確な輪郭を持つものを否定していくが、ために意識が二重化し、二つの意識となっている。こうして、以前は二人の個人-主人と奴隷-に割りあてられていたものが一つにまとめられる≫(p.146)という流れだったんですね。そして、これは≪不動者(神)のありかたとして示されているのは、分裂した自己意識が不幸な思いつきをいだきつみずから経験したところのものである≫(p.148)と。

 そして、この後に考察されるのが≪個の意識でありながらすべての物に絶対的に即応している、という意識の確信≫(p.158)である理性なわけです。

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July 02, 2006

『精神現象学』読書日記#8

『精神現象学』読書日記#8

[B.自己意識][IV.自己確信の真理][A.自己意識の自立性と非自立性-支配と隷属] 

 「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレトの言葉 1:9)なんて感じで、どうも読書にも身が入りません。でも、これだけはやっつけたいと思います。

 今回は有名な主人と奴隷のところですね。もちろん、関係の絶対性というか、自己というものは、他人にとっての自分という関係性の中でしか存在しないということを重点に見ていってもいいし、あるいは「他者を喰う」という相手を否定することでしか自分を証明できなかった欲望だけが先行する人間のあり方から、労働によって自然を加工することで自由になる、という新しい段階に入った自己というようにも読めます。やっぱり若書きなんでしょうか。後の著作からの後付で、どんなようにも読めてしまうんです。

 まあ、そうなんではありますけど、最初の『自己意識とは承認されたものとしてしか存在しないのだ』(p.129)という言葉は、ここの[A.自己意識の自立性と非自立性-支配と隷属]を決定づける言葉です。

 さて、自己意識は他をすべて排除することによって自己同一性を保っています。こうした個の他者が向き合うと生死をかけた戦いが繰り広げられることになるのですが、互いに生命を否定して戦っては意味がないわけで、こうした戦いは主人と奴隷という関係を生み出しします。それは『生死のたかかいのなかで、奴隷は物の束縛からのがれることができず、物なしで独立できない従属的なすがたを示したのである。主人は、物の存在など消極的な意味しかもたないことをたかかいのなかで示し、もって物への支配力を確立している』という関係である、と。物は奴隷に対して独立の存在だから、奴隷は物をなくしてしまうわけにはいかず、加工するにどどまるのに対し、主人は満足を持って消費するという違いが生じます。主人は物との間には奴隷を媒介として挿入することによって、≪物の非独立性という事態を手中にし、物を純粋に消費する。独立した物は奴隷の手にゆだねられ、奴隷がそれを加工するのである≫(p.135)というわけです。これは『一方的な、対等ならざる承認の関係』です。

 しかし、『欲望を抑制し、物の消滅まで突きすすまず、物の形成へとむかう』労働を行う奴隷は、『自分が自主・独立の存在であることが自覚され、こうして、自主・独立の過不足ないすがたが意識にあらわれ』てくるようになります。こうして一見他律的にしか見えない労働のなかで、意識は自分自身を発見するのです。

 ヘーゲルはそこまで書いていませんが、多くの人間は主人と奴隷という風に二分して考えれば、奴隷でしょう。しかし、その奴隷であっても、物に中に自分を対象化するというか、物に対する自由な関係を確立するのです。これは救いなわけですね。

 そして、そうした関係のキッカケとなるものとしてヘーゲルが重要視するのが恐怖です。≪主人に隷属しているとき、自主・自立の意識は他者として自分のむこうにある。恐怖のなかで、自主・自立の存在がわが身に感じれる≫(p.137)、≪最初の絶対の恐怖なしに意識が物を形成するとすれば、意識はただ自分の虚栄心を満足させるだけおわってしまう≫(p.138)と恐怖を強調します。ここはとても重要だと思うのですが、いまの自分では、これ以上のことは語れません。

 とにかく、こうしたダイナミックな運動によって獲得された自由を知的に拡大していったのがストア主義であり、懐疑の自由でもある、というのが次のテーマとなります。

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June 25, 2006

『精神現象学』読書日記#7

 日本代表はワールドカップの一次リーグで負けてしまいました。残念です。4年前、22歳だった黄金世代が脂の乗り切った06年になったらどんな凄いことをやってくれるのかと期待していただけに、脱力感は二倍になってしまいした。長い間の低迷期を抜け出し、アトランタ五輪の出場権を獲得した前園、川口らの世代は、ずっと日本代表を見てきたサッカー好きにとって、久々に現れた希望の星でした。ところが、彼らのひとつ下の世代が、それを遥かに上回るようなポテンシャルを持っていると知り、実際、その片鱗を99年のワールドユース準優勝という結果で見せてくれた時「この先、日本サッカーはどこまで進歩するんだ…」と思わせてくれました。でも、ヘーゲルの云うように、現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的なのでしょう。3戦して1分2敗。もちろん1勝2分ぐらいまではあったかもしれませんが、やはりこれが実力なんだ、と思って見守っていかなければならないと思います。

 ということで、またヨタとお付き合いいただます。

[A.意識][III.力と科学的思考]はパスします。読んでて面白くないですし、なんで、ヘーゲルはこんなにも当時の物理学や数学に対して対抗心を燃やすのかわかりません。ただ、もしかして、ニュートン的な物理学の限界性を感じていたとしても、専門外のことについて、よくもここまで否定して、しかも間違ってしまうのか、よくわからないところです。ヘーゲルは、物理学や数学の限界性を言うのですが、ものすごくファンとして暖かく見守ってあげるとしたら、量子論を知ったら、ヘーゲル先生は興奮するんじゃないかな、なんてつまらぬことを考えたぐらいです。

 ということで、いきなり[B.自己意識]に。ここに有名な支配と隷属の論理も出てきますが、今日は、その前まで。

[B.自己意識][IV.自己確信の真理]

 直前の[III.力と科学的思考]で≪純粋な内面世界という一方の極と、純粋な内面世界を透視する内面的思考というもう一方の極が合体し、両極が極をなさなくなるとともに、両極とはちがう中間項も消滅している。内面世界をおおっていたカーテンがあけられ、内面的思考が内面世界を正視できる状態にある≫≪それこそが自己意識というもののありようなのだ≫としてますが、その自己意識について、もっと云えば≪意識が自己を意識するとき、その意識の内容かどんなものなのか≫を解き明かすのが、この章です。

 ヘーゲルは≪自己意識は、感覚世界や知覚世界にある他なる存在から目を転じて、自分のうちへと還ることを本質とするもので、それが自己意識としての運動である≫と書きますが、これでは同語反復のようだとして、すぐに生命の話にもっていきます。 ≪生命の本質は、すべての区別を克服していく無限の、純粋な回転運動 - 静止しつつたえまなく変化する無限の運動 - にある≫≪流動体としての生命≫であるとします。そして、≪まわりの生命界から栄養を奪い取って自己を保存し、自己統一の感情に浸る個体≫はやがて≪類としての統一を自覚する意識ーの登場を準備≫します。

 そして自己意識とは≪類そのものの存在を自覚し、みずから類としてあるようなもう一つの生命≫なのでもあるとして、≪自然のなかにあって絶対的な否定の力を行使する一般的で自立した存在を求めると、生命を超えた類そのもの - 自己意識 - の登場を待たねばならない≫として高く評価します。

 ヘーゲルにとって動物と人間の違いは≪ただ生きているというだけのさまざまな生命体は、生命界の運動過程のなかでその自立性を失い、形態上の区別がつかなくなって生物としての存在を失うが、自己意識の対象は、自己を否定しつつ自立するような存在なのだ。つまり、自分が類であることを自覚し、自分独自の個としての存在を確保しつつ、生命界全体の流れに身を浸すような存在≫であることらしいのです。

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June 18, 2006

『精神現象学』読書日記#6

[A.意識][II.知覚]

思わず、サッカーに関する書き込みでも一部を引用してしまいましたが、出だしの《目の前のものをただ受けとるだけの確信が真理をわがものにできないのは、その真理が一般的なものであるのに、意識は「このもの」をとらえようとするからである。これにたいして、知覚は、自分にたいしてあるものを一般的なものとしてとらえる。一般性がその原理となっているから、そこにただちに区別されてあらわれる二つの要素-自我と対象-も一般的なものである》(p.78)は好きな言葉でもあり、[II.知覚]の内容をよくあらわしていると思います。

 ヘーゲルは立体的にものを見る重要性について語っていくのですが、その前に、お得意の止揚についてひとくさり説明しています。《「アウフヘーベン(Aufheven)というドイツ語は否定の作用の真理をなす二重の意味を-つまり「否定する」とともに「保存する」という意味を-見事に表現する」》と。

 そして、例えば塩を認識する過程について81頁以降、顕微鏡的に考察していくのですが、《(α)多くの性質がたがいに無関係に受動的に「…も」というかたちで一般的に重ねあわされる場面-物質ないし素材が問題となる場面(β)否定の力によって単一性が確保される場面。いいかえれば、対立する性質を排除することによって、一つの物がなりたつ場面。(γ)上の二つを関係づけるところに生じる、物が多くの性質をもつという場面。ここでは、否定の力は、ばらばらの性質をそのまま受けいれるという方向と、内部でさまざまな性質を展開していく方向との二方向に働き、単一な点として安定した存在となった媒体が、外にむかってさまざまな性質の光を放射する》という三点が区別されなければならない、とします。

 ヘーゲルの考え方の特徴というのは、この後、塩を塩として知覚する場合に、いろんな要素を持ち合わせつつ、他と区別され、しかも自己同一を保つものとして知覚するのだ、ということなんですが、とにかく、ここでも重要なのが否定の力。

 塩は白く、しょっぱく、重さももっているけど、それだけでは塩とはいえず、甘くなく、三角形でもないという他の性質と対立し、他を排除する特定の性質として知覚されることが、重要だ、というわけです。

 《物はまさしく他と対立することによって一つのものなのである》(p.85)

 これなんか、なんつうか、ヨーロッパの精神のあり方のマニフェストのような気がしますね。もちろん直後に《物は一つのものであることによって他を排除するのではなく、特定の性質をもつことによって他を排除する》なんてこともフォローしているというか、やや言い訳めいたことも書いているのですが、最初のモチベーションというかドライブする原動力は《他と対立することによって一つのもの》になるという考え方ではないかと思います。

 この後は、浄土系の往相還相のような話になっていくんです。《知覚とはただ単純になにかをとらえることではなく、なにかをとらえつつ、同時に、心理の外に出て自分自身へと還っていく運動である》(p.84)とか。単なる感想で、もしかしたら、まったくトンチンカンなことを云っているかもしれませんが、個人的には、認識する過程のところで引用した《単一な点として安定した存在となった媒体が、外にむかってさまざまな性質の光を放射する》というところに「光」という言葉が使われているので、「無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ光明智相」なんてことも思い出しました。

 ヘーゲルは、『精神現象学』でもそうですが、後の『歴史哲学講義』でもペルシアの宗教にふれつつ、ゾロアスター教の「光」の概念を人類史上の精神のジャンプとして高く評価します。個人的には、アフリカ的段階、アジア的段階に加えて、ペルシア的段階というのも想定できたら面白いな、と思うのですが、この中央アジアで成立した終末の段階で降り注がれる救いとしての「光」という考え方が、東に行ったドンツキでは浄土系の思想となり、地中海にぶつかるとユダヤ・キリスト教の「人の子」になったのではないか、なんて吉本さんが昔語っていたことも思い出しました。もっとも、トンチンカンなことを云っているという気分もするのですが、間違えたらお許しを。

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June 16, 2006

『精神現象学』読書日記#5

 「まえがき」「はじめに」を終えて、いよいよ「A 意識」です。

 『精神現象学』は「A 意識」「B 自己意識」「C 理性」の三部構成として構想されたと思うのですが、長谷川訳でも「A」はpp.66-118、「B」はpp.120-158と比較的コンパンクトなのに対して「C」はpp.160-549とベラボーに長くなっています。これは、明らかな構成ミス。ぼくが編集者だったら、書き直しを命じるかもしれません。しかも、「Ⅰ 感覚的確信」「Ⅱ 知覚」「Ⅲ 力と科学的思考」で構成される「A 意識」のうち、「Ⅲ 力と科学的思考」は読むに絶えないほどのヒドイ出来なんです。

 『精神現象学』は長い間、書評もされなかったといいますが、原文の読みにくさに加え、構成的な失敗、いきなりの不出来な章ということが加われば、さもありなん、という気もします。長谷川さんは『ヘーゲル『精神現象学』入門』の中で、もしヘーゲルが夭折して、『精神現象学』しか著作が残っていなかったとしたら、果たして、後世にヘーゲルの思想は伝わったのだろうか、と述懐しています。確かに、大学での講義、そして、この後、ぼくたちも読んでいくエンチクロペディがなかったとしたら、『精神現象学』は世紀の奇書として扱われていたかもしれません。もっとも、日本においても、何回も書きますが、はたして、この本が、正しく読まれたのかというのは疑問です。だから、『精神現象学』を読むという行為は、今でも、十分、目新しいことなのだと思います。

[A 意識][Ⅰ 感覚的確信]

ヘーゲルは《感覚的確信が真理だと称するものは、もっとも抽象的で、もっともまずしいものである》という逆説めいた書き方で、裸の意識としての感覚の貧しさを強調します。

 印象的な言葉を引用します。《いまあることが真理なのではなく、いまであったことが真理なのだ。いまであったものは、実のところ、いまの本質ではない。それはもうないものなのだが、「いま」の本質は「あることにあるのだから」》。

 長谷川宏さんによると、「いま」とは様々な要素を含む運動なのです。「ここ」と示されても、前後左右のある「ここ」に対しての「ここ」であり、差異でしかないわけですから。

 そして《それを目の前にするとき、わたしは、直接そこにあるものを知るという段階を超えて、「知覚」の段階に入っているのである》。

 長谷川さんは、こう解説しています。《意識は感覚から知覚へと上昇し、対象は「このもの」(目の前のこれ)から、一定の性質を備えた物へと高度化する》《知覚は目の前のものに目をとめ、それを立体的なものして見る方向へと足を踏み出しているのです》(『ヘーゲル『精神現象学』入門』、p.104-)。

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June 09, 2006

『精神現象学』読書日記#4

これまで書いてきたのはヘーゲルの「まえがき」。今日はp.51からの「はじめに」を一緒に読んでいきたいと思います。

 ヘーゲルの「まえがき」をひとことで語ってしまえば、分裂と対立と否定の向こうに世界の発展がある、という確信ではないでしょうか。でも、こうした見方は、「高見」から見下ろしている感じで、なんか今は流行らないような気もします。しかも、ヘーゲルの結論は、知にかかわる意識なら、遠くを展望できるのだ、というクリアカットすぎるものです。

 まず前提がこれ。

 《意識は自分自身を超えていくといえる。意識にとっては、個としての存在とともに彼岸が、たとえそれが限定つきの存在の横に空間的に設定されているにすぎないとしても、ともあれ彼岸が設定されているのだ》(p.57)

カッコ良いですねぇ。そして!

《まず、意識のむこうに意識とは区別されるなにかがあって、意識は同時にそれに関係している。いいかえれば、意識にたいしてなにかがあって、そこでの関係という側面、つまり、なにかが意識にたいしてある側面が「知」である。が、なにかが他にたいしてあるのとは別に、それ自体であるという側面が考えられる。つまり、知に関係するものは、関係すると同時に知から区別され、この関係の外に存在するものと考えられのであって、この「それ自体(本体)」が「真理」と名づけられる》(p.58)

 ちょっと難しいですが、ヘーゲルはここら辺の呼吸をこう説明します。

 《意識のうちで、あるもので他のものにたいしてある、という関係がなりたっている。つまり、意識そのものが知であるという性質をもち、同時にまた、他のものが意識にたいしてあるとともに、この関係の外にそれ自体としてもあって、それが真理の要素である》からだ、と(p.59)。もっとかみ砕くと《意識は対象を意識するとともに、自分自身をも意識しているのであり、いいかえれば、真理の意識であるとともに、真理の知の意識でもあるのだから。真理と知の両方が同じ意識にたいしてあるがゆえに、両者の比較も可能となるのであり、同じ意識に、対象の知が対象と一致しているかが見えてくるのである》(p.60)と。

 ヘーゲルはこうした動きを《意識が知のものとでも対象のもとでもおこなうこの弁証法》(p.61)と生硬く語っていますが、長谷川宏さんの要約の方がわかりやすい。長谷川さんはこうまとめます。《そこにもまた、自己を超えて、自己とのあいだに一定の距離をとりうる力 - 自己否定の力 - が働いているのだ》と。

 「まえがき」の最後は『精神現象学』のラストまでを見すえています。ヘーゲルは混沌とした「はじめに」と「まえがき」を書く中で、ようやく希望を見いだしたのでしょうか。

 《意識が自分にかんしておこなう経験は、その本質からして、意識の全系統を、あるいは、精神の真理の全領域を、掛値なしに内にふくむから、独自の形をとってあらわれる一つ一つの精神の真理は、抽象的で純粋な真理としてあらわれることはない。意識と真理との具体的なつながりのなかで、全体を構成する一つ一つの要素がまさしく意識の形態としてあらわれるのである》《このようにしてついに意識がみずから自分の本質をとらえるに至ったとき、絶対知の本当のすがたが見えてくるのである》(pp.62-63)

 いろいろ批判はあるでしょう。学部の学生さんだって簡単に批判はできそうです。しかも、お好みの立場で。でも、『法哲学講義』のどこかで語っていたように、批判することは、積極的な価値を認めるより、はるかにたやすいことなのです。

ということで、そろそろ入り江を離れ、困難な絶対知への航海にでてみましょうか。

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