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池田精子さんが亡くなりました。

被団協副理事長の池田精子さんが21日、お亡くなりになりました。以前からお具合が悪かったので、おそらく被団協がノーベル平和賞を授与されたことは、ご存じないままだろうと思います。

私たちは、「8.6広島平和の夕べ」2010年と2016年の二回来て頂きました。

2010年は、私は司会をしていたので、ちゃんと写真が撮れなくって残念なのですが、その時のことはここに書いています。


http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-291c.html

2010年には主に被爆体験を話していただきました。

『広島女子商業学校1年生12歳の時、学徒動員として、立ち退き疎開家屋の片付け作業中に被爆、光と熱線で大やけどを負い生死をさまようも、ご両親の懸命な看病で命を取りとめました。

でも、少女の肌は一瞬で変化し、その後の肉体的・精神的苦痛は言葉では表現しつくせないほどひどいものでした。お顔のケロイドは、外に出ると赤鬼が来たと言われ、だんだんと心も荒んできたと。そんなある日、学校をさぼって家に帰ったとき、お父さんが近所の人と話ているのをこっそりと聞いたのだと。そのお父様の深い愛に心打たれて、徐々に立ち直っていかれたのだと。

その後、17回にも及ぶ顔の手術を受けられました。

精子さんは日本ではもとよりアメリカやイタリアなど海外での証言活動も多数行ない、人間の滅亡につながる核兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さについて強く訴え続けていらっしゃいます。

池田さんは、被爆直後、国や自治体からの援助もなく、被爆者の多くが、経済的にも、身体的にも苦闘を強いられ、次々と亡くなっていく、そんな時から、被爆者運動の原点でもある活動を始められました。』

2016年には、被団協の立ち上げに至る初期の被爆者運動についてしていただきました。


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その予告を2016年4月28日のブログに書いております。その一部を。

『池田さんは、被爆直後、国や自治体からの援助もなく、被爆者の多くが、経済的にも、身体的にも苦闘を強いられ、次々と亡くなっていく、そんな時から、被爆者運動の原点でもある活動を始められました。

その一部を2013年4月11日からの私のブログに何回かに渡って書いております。「核兵器のない明日を願って-広島県被団協の歩み-原爆被害者団体協議会」に収録されている座談会です。さらにその一部を、ここにコピーします。

池田さんたちは、のちに原爆一号と言われた吉川清さんの家に集まり、つらい立場を話し合いました。それが唯一の慰めだったと言われます。その集まりも「アカの集まり」だと、公安に付け回されます。その集まりが、やがて次の被爆者大会につながっていきます。

 池田 初めての原爆被害者大会が千田小学校(広島市立)で開かれたのが、1956年(昭和31年)3月18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集まったように親近感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚したら「ようあんな者をもらってから」と言われ、子どもがいても「離婚して帰らせ、帰らせ」とというようなひどい仕打ちを受けて、ただ我慢して我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった被爆者たちはお互い手を取り合って泣き合いました。私も当時まだ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢してきたね。よう生きたね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウォンウォン泣きじゃくりました。

 この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に45人で白いタスキをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と阿部さんも着物を着て、下駄を履いて参加しました。東京では鳩山首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつものように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだったか船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この原爆で焼かれた姿を見ちゃって下さい」と切々と訴えていました。

その後、県出身の池田隼人さんの私邸も訪ね陳情しました。この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もできん」という話になりまして。それで私も早速、当時住んでいた畑賀の役場で被爆者の名簿をもらい、四十何人かの被爆者がいたんですが、一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまして、四十人近くが集まってくれて、被害者の会をつくることができました。』

『藤川 
だから被爆者援護を求める請願行動は熱心にやりましたよ。請願のための上京費用は全部自持ちでね。それで、ほとんどの者が宿泊代節約のために夜行列車を利用して上京したもんですよ。汽車の中で寝て、東京駅で顔を洗って、食事はむすびですませて、そして、そのまま手分けして議員会館に行ったり走り回り、頑張ったもんですよ。

池田 そうでしたね。広島を午後二時発の急行「安芸」というのがあって、翌朝八時に東京に着くんです。駅で顔を洗って、国会に行きましたよね。

池田 私たちは街頭募金にも立ち、カンパのお願いにも回りました。選挙の応援をした町長に助成を頼みに行ったこともあります。この時は苦い思いをしましてね。私は町からちゃんとした助成金を出してもらいたかったのに、町長は「じゃー、わしのポケットから出そう」と財布からいくらか出したんです。その時は情けなくて、頼みに来なければよかったと思いましたよ。助成金を出してもらうことに意味があったのに。』


鳩山首相の音羽御殿で。
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このあたりの池田さんのことについては、この度のノーベル平和賞についての私の記事にも書いております。

まさに、池田さんたちの血のにじむような頑張りがあったからこその被団協でした。池田さんには、心からのお礼を言うほかありません。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお休みくださいませ。


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