自己紹介文

 はじめまして。私は、河野美代子と申します。広島の地にて、産婦人科医35年。まずは自己紹介から。
 生まれは広島市郊外の可部町。原爆で南観音の我が家は大きな石が落ちてきて、焼けてしまったと。だから、焼け野原の北、可部に移ったそうだ。
 父は、当時広島二中の教師をしていて、教え子を原爆で失ってしまった。父は、他の学年が学徒動員されている三菱の軍需工場に自転車で伝令を持って行っていて、偶然にも助かった。教師に取って教え子は、自分のこどもと同じようにかわいく、大切だと。その教え子達を全滅させて、父は価値観が180度変わったと言った。子育ての中で、父は、私たちにたたき込んでくれた。戦争はいかん。核は三度使ってはならない、と。
 生後半年で観音に戻って来て、だから、私は観音小学校、観音中学校、観音高校、広島大学の医学部と進んだ。根っからの広島人だ。中学校では、生徒会の活動をがんばった。なんと、その当時の生徒会目標は「差別をなくそう」だった。ここで私は、部落差別や在日の方達への差別があるということ、それは、人間として、あってはならないことをしっかりとたたき込まれた。当時の教師達は情熱的にそれらを私たちに教えてくれた。私の人生の基礎は、きっとこの中学時代に作られたと思う。
 高校では、部活は演劇部。朝から晩まで演劇にあけくれた。当時、観音高校の演劇部は後に広島テレビの名アナウンサー、そして報道部長となって、一昨年胃ガンで亡くなってしまった脇田義信さんが先輩として、まるで顧問教師のように頑張っていた。私たちは、彼から演劇の1から教えていただいた。当時の仲間は今も昔のままの楽しい仲間として続いている。その時代の演劇は、すべて反戦もの。一年生の時は戦争中に殺された動物たちと獣医の物がたり「像の死」。二年生の時は中国に侵略して行った日本軍の若き将校と中国の娘との話の「広い黄色い土地」。一年生の時も二年生の時も地区大会、県大会で優勝し、中四国大会、全国大会へと遠征して行った。これらの演劇を通して、また、私は人間を考えること、議論することの楽しさ等を学んだと思う。
 大学に行くと、私たち団塊の世代の宿命とも言われる全共闘運動。これについては、またの機会にしっかり語りたいと思う。
 ともかく、何だかんだとありながら、医師となった私は、産婦人科に入局し、研修。大学病院に9年半、土谷病院に9年半、そして現在の河野産婦人科クリニックを開業して16年近くなる。
 子どもたちが巣立った今、私は、医療の傍ら、性教育だの、エイズのボランティアや、男女共同参画などの活動を行っている。裁判もしているし。
で、今は選挙。広島市長選について、また、明日報告しますね。
 とりあえず、私の生い立ちと自己紹介でした。!!これからも、どうぞ、よろしく。!!