被団協のノーベル平和賞の受賞について⑦
被爆で体中焼かれ、放射能にむしばまれながら、反核運動を頑張って来た方が次々とがんで亡くなります。昨日、親しい方が亡くなったお顔を拝見していて、森瀧市郎先生がお亡くなりになった時のことを思いました。どうしてもお通夜に間に合わず、でも、お会いしたくて、お通夜の後に行って、会わせて頂きました。あの人を魅了する風貌そのままのお顔で休まれていました。
私の世代は、初期に頑張った被爆者の方たちにお会いできた世代でもあります。森瀧市郎さん、吉川清さん、川本一郎さん、高橋昭博さん、四国五郎さん、中沢啓治さん、石田明さん、李実根さん、近藤幸四郎さん、沼田鈴子さん、伊藤サカエさん、栗原貞子さん、小西信子さん、坪井直さん、李鐘根さん、小野瑛子さん、松原美代子さん・・。この方たちに直接お会いして、お話しをうかがうことができたことは、今も私自身の血となり肉となっています。本当にありがたいことでした。
さて、森瀧市郎さんの座り込みについての日記を続けます。フランス核実験に抗議して座り込みをはじめた、その前史の事です。
「前史」のもう一つの大きな事例は昭和三七年四月の慰霊碑前一ニ日間の座り込み行動である。
世界世論の高まりの中で米ソとも実験を停止していた時があったが、いつ再開されるかもしれぬという不安があったので、昭和三六年夏の原水禁世界大会の決議では「今日最初に実験を開始する政府は平和の敵・人類の敵として糾弾されるべきである」とうたいあげた。
ところが、それから幾何もたたない八月末に、ソ連が実験再開の声明を出した。その再開声明には再開の理由が情理をつくして述べられていた。そのためか、当然反対し抗議するはずであった日本国民の中にも、再開声明を指示する党派も現れて、原水禁運動に大きな混乱が起こった。それ以来「同列視せず」の論理と」「いかなる」の論理との激しい論争がつづき、遂には運動分裂の大きな契機ともなった。
その翌年昭和三七年一月、米国も太平洋上空で四月中旬から開始する大規模の実験計画を発表した。私たちは絶望的な核実験競争時代の到来を実感した。
広島では原爆慰霊碑前で四月二〇日から核実験計画を中止せよと要求して座り込み行動がはじめられた。通して座り込むのは吉川清君と私とであったが、私は大学に辞表を退出して背水の陣の決意で座り込んだ。夜はテント内で仮眠するが原則として昼夜連続無期限の座り込みであった。私は三日目位に日射病でたおれ、平和会館に帰り一両日の静養をしたことはあるが、ともかく座り込みを続けた。
その座り込みの輪は日々急速にひろがって行った。被爆者、労働者、宗教者、学生、一般市民老若男女、参加者の数は日々に増した。全国のあちこちでも座り込みが起こり、東京数寄屋橋公園では広島から上京した被爆者代表竹内美代子さん母子を包んで安井郁・平野義太郎両氏をはじめかなりの数の人々が参加して座り込んだ。(以上で引用終わります。)
森瀧先生がいらっしゃらなくなっても、被団協の座り込みは続いています。
国内、さまざまなところに行き、対話、演説をいとわなかった森瀧先生が、世界の一体どれだけの国に行かれたのかと見てみました。
1957年8月 イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア平和行脚
1962年6月 ガーナ「原爆のない世界のためのアクラ会議」(シュバイツァー博士に会う)
1964年10月 オーストラリア 「国際会議と軍縮のためのオーストラリア会議」(アボリジニの差別と核被害)
1965年4月 ソ連(ソ連平和委員会・被爆者平和使節団)
1971年4月~ アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを反核・平和行脚
1974年5月 フランス、イギリス、イタリア、フランスの核実験抗議)
1975年4月 フィジー(非核太平洋会議)
1978年5月 ニューヨーク・国連本部(第一回国連軍縮特別総会)
1980年5月 ハワイ(非核独立太平洋会議)
1981年11月 西ドイツ。ドルトムント市平和集会
1982年6月 ニューヨーク第二回国連軍縮特別総会(ニューヨーク・反核100万人集会)
1985年6月 中国(南京市内で南京大虐殺事件の生存らと、戦争被害者交流会)
1987年9月 ニューヨーク(第一回核被害者世界大会)
なお、外国ではありませんが、1985年8月には、沖縄での国際連帯会議に出席。1989年4月には青森県六ケ所村での反核燃全国集会であいさつ、人間の鎖の先頭に立つ
本当に体に鞭打って、全世界に核廃絶を訴えて回られました。
森瀧先生は、どんな人のいうことにも耳を傾けられ、真剣に聞いて下さいました。たとえ、私たちのような学生の若造でも。私たちが1971年、被爆者青年同盟を作って、平和公園で座り込みをしていた時、まさかまさか、森瀧先生が来て下さったのです。しゃがみ込んで激励して下さいました・・。私たちにたいしても敬語でした!!どれだけうれしかったか、胸が熱くなりました。その時の座り込みの写真です。こちらを向いているのが私。一番手前は、私たちで病院を作ろうと(今もあります高揚第一診療所)したとき、土地を提供して下さった〇内さんです。
森瀧市郎先生が亡くなった時、大江健三郎氏は、「ここに哲学者がいる」と投稿されました。「核実験に抗議する人々の輪の中に、いつも哲学者森瀧市郎先生がいられたことはまことに大きい意味があるだろう。私はあらかじめその意味を受けとめる心において、あのようにいつも、ここに哲学者がいる、と感じ取って来たのだ。これからも森瀧先生の著作を通じて、ここに哲学者がいる、と思いつづけるだろう。そして自分がひとり二十世紀末の核状況について心重く考える時にも、その脇に確かな幻の様にして・・・。」
長々と書いてしまいましたが、読んで戴いた方、どうもありがとうございました。被団協のノーベル平和賞受賞というおめでたい出来事をどうとらえればいいのか、私自身のもやもやから始めたことです。はっきり言えることは、森瀧先生がいらっしゃらなければ、被爆者の運動はこうは行かなかったでしょうし、その陰には、名もなき被爆者の方たちの地道な働きももちろん、数多くあったということだと思います。
実は、この件について、私には今新たな課題が出てきています。もう少しまとまったら、また、もう一度書きたいと思います。
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コメント
感動しました。
投稿: helen | 2024年10月28日 (月) 04時45分
被爆79年:願平和 点滴穿石。「被団協のノーベル平和賞受賞について①~⑦」を読んで。森滝市郎先生を初めとし名もなき多くの被爆者達との出会い、これが河野先生の「血となり肉となった」のですね、森滝先生の「日記」を転写する姿も想像でき胸が暑くなりました。また慰霊碑前に座り込む森滝先生の真っすぐ伸びた背筋とその姿に「哲学者」森滝市郎を想像させます。この企画、いつか「平和の夕べ」にて語られることを希望します。それと今回の受賞報道に一言、「50年前には佐藤栄作首相も非核三原則でノーベル平和賞を」と、これに違和感を持ったのは私だけでしょうか。先生の「新たな課題」を待っています、お忙しいと思いますが。
お元気で!
投稿: 小倉っこ | 2024年11月 2日 (土) 11時56分