年賀状が出来上がらなかった!!

今日木曜の休診日は、朝からクリニックで年賀状作りをしました。もうやめようかとも考えましたが、やっぱり仕事を続けている以上は年賀状も出さなければと思い直して。年賀状も買いに行って。高ーい。三万円を超えました。

で、パソコンで写真を入れてせっせと作って、まあまあのが出来上がって印刷。調子よくできて、今度は宛名。一覧から喪中の方を除いたりして、これも調子よくプリントしていて。ああっ!!途中から宛名をさかさまに印刷していました。がっかりして。今度は慎重にしたつもりなのに、うわっ、今度は裏面に宛名をプリントして。情けない。失敗は計85枚。仕方ない、失敗を郵便局にもって行って、一枚6円で新しい葉書きを購入しました。ところが、時間の有効活用で、郵便局に行っている間、残りをプリントしながら行ったのですが、局がものすごく込んでいて、時間がかかりました。すっかり出き上がっているはずと思ってクリニックに帰ったら、ストップしていました。パソコンがスリープになってプリントが止まったみたいです。

続きを印刷しようとしたら、なんと、今度はすでに印刷した初めっからまた印刷しています。わあ、とあわてて止めたのですが。

 そしたら、それっきりプリンターが動かなくなってしまったのです。いろいろしてみたけれど、まったく動きません。まいったなあ。

今日は、6時半から全日空ホテルで新井監督兄弟のディナーショーです。遅れないように行かなければ。仕方ないので、途中で置いておいて、ディナショーがすんでもう一回トライしてみましょうと。

 いったん家に帰って、着替えをして、ディナーショーに行きました。わたし、このディナーショーのために何を着ていこうかと、昨日あれこれ着替えて鏡を見て決めていたのです。そして、決めた藍のワンピースを着てブーツも履いて、毛皮のコートを着て、きらきらのバッグを持っていったのですが(それも自転車で)、あら、びっくり。多くの方が赤いカープの新井さんのユニフォームで来ていたのです。そうか。カープのユニフォームで来るものなんだ。今日は姪夫妻と一緒なのですが、姪たちもそうでした。仕事の帰りに来るということだったのですが、ちゃんとバッグにユニフォームを入れて来て、ホテルで着替えたのだそうです。まあ、昨日からの私の努力は一体何だったのよ、です。

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ディナーショーについては、明日書きます。それがすんでまたクリニックに行って、何とかプリントしようとしたのですが、動きません。ジョブもゼロにしたし、パソコンを再起動もしたし。何とか今日中に終えてしまいたいと焦ったのですが、なぜなのか不明にてギブアップです。まだあと135枚作らないといけません。明日、パソコンの先生に直してもらいます。あの、さかさまのプリントの失敗がなければ、とっくに易々と出来上がっていたものを。まあ、悔しいことでした。

 

 

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高校生の妊娠、出産

今日、うれしい患者さんの来院がありました。22年ぶりの来院です。

初めて来院されたときは高校生でした。妊娠していて、周囲の反対を押し切って、なんとしても生むと。わたしの所で、高校はやめて出産するといいました。わたしは、カルテに「やめるな!」と書いています。わたしがやめるなと言って、彼女は思い直して。その後も通学しながら私のところに妊婦健診に通っています。そして、三月に無事卒業。今回彼女と話していて、学校は「多分気づいていたと思う。でも、何にも言われないままに卒業したよ。」知らんぷりしてくれていたようです。そして、5月に無事出産。

相手の男とは結婚したけれど、暴力男、DVで、時間がかかったけれど離婚。その頃のゴタゴタについても、私もカルテに記載しています。

 今、子どもはどうした?と聞くと、無事大学も卒業して就職して、社会人をしていると。

大学にも行かせたの?よく頑張ったねえ!!と言うと、彼女は「先生のおかげ」といいます。そんなことはないわ。あなたが頑張って育てたからよ。

それであなたは今どうしているの?と聞くと、なんと。彼女は、その後専門学校に行き、准看護師になり、働きながら通信教育を受けて、正看護師になって、いま大きな病院で働いていると。それも初耳です。ええっ?あなたナースになったの。そうなん。ますますすごいねえ。よく頑張ったねえ。私は本当にうれしかったのです。彼女が行った高校が、知らんぷりしてくれたから、そして、彼女が血のにじむような苦労をしながら頑張ったから。今の彼女とその子がいます。

 実は、この前にも少しここに書きましたが、私が「さらば悲しみの性」を出版した後、NHKが病院に三か月間張り付いて、1986年「少女たちの産婦人科診察室」というNHK特集を放送しました。先日、39年ぶりにその番組を観ました。その中で、私が高校の先生たちとしゃべっています。

「私だって、生徒のことで、先生たちと手を組みたいと思うことはあります。でも、もし彼女が人工中絶をしたということがばれると、首を切られます。私は、全力で彼女たちを守らないといけません」と、淡々と話しています。そのころは、中絶したことがばれただけで、高校は退学でした。さすがに今はそうではありませんが、出産はまずだめですね。今でも。

先日来大人の方たちに話している中に、こんなスライドがあります。

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一人ぼっちであの痛い陣痛を耐え、一人ぼっちで赤ちゃんを産んで、その子を殺め、女性だけが罪に問われる事件が後を絶ちません。これは政治の責任と思います。

 今日久しぶりに来院した彼女は私に明るい灯を灯してくれました。何十年たってもちっとも変わらない性教育の世界。若い人たちか胸を張って出産できるときが来ないものなのでしょうか。

 

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池田精子さんが亡くなりました。

被団協副理事長の池田精子さんが21日、お亡くなりになりました。以前からお具合が悪かったので、おそらく被団協がノーベル平和賞を授与されたことは、ご存じないままだろうと思います。

私たちは、「8.6広島平和の夕べ」2010年と2016年の二回来て頂きました。

2010年は、私は司会をしていたので、ちゃんと写真が撮れなくって残念なのですが、その時のことはここに書いています。


http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-291c.html

2010年には主に被爆体験を話していただきました。

『広島女子商業学校1年生12歳の時、学徒動員として、立ち退き疎開家屋の片付け作業中に被爆、光と熱線で大やけどを負い生死をさまようも、ご両親の懸命な看病で命を取りとめました。

でも、少女の肌は一瞬で変化し、その後の肉体的・精神的苦痛は言葉では表現しつくせないほどひどいものでした。お顔のケロイドは、外に出ると赤鬼が来たと言われ、だんだんと心も荒んできたと。そんなある日、学校をさぼって家に帰ったとき、お父さんが近所の人と話ているのをこっそりと聞いたのだと。そのお父様の深い愛に心打たれて、徐々に立ち直っていかれたのだと。

その後、17回にも及ぶ顔の手術を受けられました。

精子さんは日本ではもとよりアメリカやイタリアなど海外での証言活動も多数行ない、人間の滅亡につながる核兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さについて強く訴え続けていらっしゃいます。

池田さんは、被爆直後、国や自治体からの援助もなく、被爆者の多くが、経済的にも、身体的にも苦闘を強いられ、次々と亡くなっていく、そんな時から、被爆者運動の原点でもある活動を始められました。』

2016年には、被団協の立ち上げに至る初期の被爆者運動についてしていただきました。


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その予告を2016年4月28日のブログに書いております。その一部を。

『池田さんは、被爆直後、国や自治体からの援助もなく、被爆者の多くが、経済的にも、身体的にも苦闘を強いられ、次々と亡くなっていく、そんな時から、被爆者運動の原点でもある活動を始められました。

その一部を2013年4月11日からの私のブログに何回かに渡って書いております。「核兵器のない明日を願って-広島県被団協の歩み-原爆被害者団体協議会」に収録されている座談会です。さらにその一部を、ここにコピーします。

池田さんたちは、のちに原爆一号と言われた吉川清さんの家に集まり、つらい立場を話し合いました。それが唯一の慰めだったと言われます。その集まりも「アカの集まり」だと、公安に付け回されます。その集まりが、やがて次の被爆者大会につながっていきます。

 池田 初めての原爆被害者大会が千田小学校(広島市立)で開かれたのが、1956年(昭和31年)3月18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集まったように親近感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚したら「ようあんな者をもらってから」と言われ、子どもがいても「離婚して帰らせ、帰らせ」とというようなひどい仕打ちを受けて、ただ我慢して我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった被爆者たちはお互い手を取り合って泣き合いました。私も当時まだ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢してきたね。よう生きたね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウォンウォン泣きじゃくりました。

 この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に45人で白いタスキをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と阿部さんも着物を着て、下駄を履いて参加しました。東京では鳩山首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつものように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだったか船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この原爆で焼かれた姿を見ちゃって下さい」と切々と訴えていました。

その後、県出身の池田隼人さんの私邸も訪ね陳情しました。この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もできん」という話になりまして。それで私も早速、当時住んでいた畑賀の役場で被爆者の名簿をもらい、四十何人かの被爆者がいたんですが、一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまして、四十人近くが集まってくれて、被害者の会をつくることができました。』

『藤川 
だから被爆者援護を求める請願行動は熱心にやりましたよ。請願のための上京費用は全部自持ちでね。それで、ほとんどの者が宿泊代節約のために夜行列車を利用して上京したもんですよ。汽車の中で寝て、東京駅で顔を洗って、食事はむすびですませて、そして、そのまま手分けして議員会館に行ったり走り回り、頑張ったもんですよ。

池田 そうでしたね。広島を午後二時発の急行「安芸」というのがあって、翌朝八時に東京に着くんです。駅で顔を洗って、国会に行きましたよね。

池田 私たちは街頭募金にも立ち、カンパのお願いにも回りました。選挙の応援をした町長に助成を頼みに行ったこともあります。この時は苦い思いをしましてね。私は町からちゃんとした助成金を出してもらいたかったのに、町長は「じゃー、わしのポケットから出そう」と財布からいくらか出したんです。その時は情けなくて、頼みに来なければよかったと思いましたよ。助成金を出してもらうことに意味があったのに。』


鳩山首相の音羽御殿で。
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このあたりの池田さんのことについては、この度のノーベル平和賞についての私の記事にも書いております。

まさに、池田さんたちの血のにじむような頑張りがあったからこその被団協でした。池田さんには、心からのお礼を言うほかありません。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお休みくださいませ。


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谷龍介のデビュー20周年記念コンサート・続き

谷龍介のコンサートでびっくりしたこと。龍ちゃんがものすごく歌がうまくなっていたこと。前から上手だったけど、深み、すごみがでて、かつ色気もあって、胸がほろほろしました。

はじめは、広島だからと、カープの色で、真っ赤で登場。

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これで、自分の歌、デビュー曲からメロディー次々と歌いながら、すべてのお客さんと握手をして回りました。写真を撮る人、抱きつく人。

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私は、握手する時に顔をじっと見て、「お久しぶりです。」と言われてしまいました。わかってる!!

沢山歌って、全員と握手をして、そして、そのあとはあの山本リンダさんの登場。「こまっちゃうなー」と舌足らずで歌う、あのイメージしかなかったのだけれど・・。これまたびっくりです。

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今、シャンソンを歌っていると。シャンソンの賞ももらったと。そして、なによりおどろいたのが、「インシャラー」、反戦歌を歌い上げました。これが素晴らしかったです。今のイスラエルとアラブを彷彿とさせて、すごかった。これからも反戦歌、平和のための歌を歌いたいと言ってました。

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そして、奥に引っ込んだら、すぐに変身して、こう。これでね、うらら、うららと歌うのですよ。くるくる踊りながら。

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だって、彼女来年デビュー60周年なのですって。いま74歳?それで、このスタイルと激しい踊り。うーん。感心してしまいました。しかし、山本リンダという人を私は知らなかったなあ、あのインシャラーには、すっかり魅せられてしまって。

それから、また谷龍介です。今度は生バンドで。やっぱり生演奏はいいですね。

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新曲は吉幾三のプロデュース、作詞作曲とも吉幾三で「呉にかえろうかの...」。

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 以前のコンサートには姿があったお母さまも亡くなり、今はお父さまが一人暮らしと。そのお父さまと、ふるさとの望郷の歌。お父様も今回のコントにいらっしてました。新曲のCDとお酒はみんなにプレゼント。

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別に、抽選による沢山のプレゼントもあったり。私には、カープのカレンダーが当たりましたよ。

 そうそう、もう一つのびっくりしたこと。それは女性ばかりでなく、男性のファンがとても多かったということです。わたしのテーブルは、9名のうち4名が男性でした。全体がそんな比率で、男性に好かれる男性は素敵です。それから、ずっとファンクラブのお世話をなさっている末岡さん、私は、2007年、恥ずかしながら立候補したときに末岡さんのご縁で谷龍介氏を知ったのですが。その後もずっとずっとお世話をなさっていて、頭が下がります。谷さんもずっと8月6日には、平和コンサートを続けていて、その収益を寄付し続けています。続けるということは、ほんとうに貴重なことですね。

長丁場でしたが、楽しい時間を過ごさせてもらいました。お世話になった皆様、ありがとうございました。

 

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谷龍介のデビュー20周年記念コンサート

今日は、プリンスホテルで谷龍介ディナーショーでした。というか、ランチ付きの20周年記念コンサートでした。午前11時過ぎに到着。11時半から開場、12時から4時までという長いコンサートでした。

プリンスホテル。二つのツリーの間にサミットの国旗が飾ってあったので、横から国旗が見えないショットを。

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会場は、たくさんの人。もともと全国に谷君のファンがいることは知ってますが、私の席は、隣は東京からのご夫婦。その向こうは、山梨からのご家族。午前4時に出発してこられたと。とくにお父さんが谷君の熱烈ファンだと。他にも、大阪組、京都組、岐阜組などいろいろでした。計350人越えです。10人のテーブル36個びっしり。これは開会前の写真です。

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谷君のコンサートは、私は久しぶりです。5年は行ってないのではないかなあ。久しぶりでびっくりしたことが四つ。

1.プリンスホテルの料理にびっくり。細かく、手が込んでいて、かわいくて美味で。こんなのを350も作るのは、本当に大変でしょう。谷君のコンサートなのに、料理から書いてすみません。シェフのご挨拶がありました。シェフは、2023年に広島グランドプリンスに赴任。サミットの料理を担当した人。サミットとは材料というか、経費が違うので、同じではないけれど、それでも、いろんなところでいろいろ食べている私も、唸りました。落合シェフのあいさつ。料理の説明。写真だけですが。

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まず前菜。サーモンマリネスモーククリームの飾り"庭園風"フィヨルドルビーのアクセント。かわいくて食べるのが惜しいような。サーモンがすごくおいしいし。

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スープはジンジャー風味のコンソメロワイヤル(卵とブイヨンを合わせて卵豆腐のように固めたもの)底にこれがあって、上がコンソメスープ、海老添え

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メインがチキンハーブマリネのスチームブルーチーズソース。美味しいけれど、これはちょっとチキンが多過ぎ。半分しか食べられませんでした。

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パンはクリスマスなので赤と緑で、トマトフォカッチャとほうれん草のパン。

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そして、いよいよデザート。またまたかわいくて美しい。よくこんなのを沢山作れるねと、そう思いました。フランボワーズムース(赤とピンクのムース) クリスマスツリータルト ピスタチオのアングレーズソース。チョコレートの細工、mがトナカイになっています。


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これに珈琲でした。

びっくりの2。谷君の歌がまたまたうまくなっていたこと。もともとうまい人でしたが、声量ももっとアップ、また歌に深みがでで、さらに素敵になってました。写真も出したいのですが、今、緊急の患者さんが来ることになったので、また明日にします。

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被爆者の患者さんと。

今日、92歳の方が来院されました。カルテの上には、原を〇で囲んだ印が押してあります。原爆医療のことです。症状を聞いて、ひと段落したときに
「何歳の時に被爆されましたか?」と尋ねました。本当は、年齢からわかるのですが、話のきっかけにするために。そしたら、

「12歳です。女学校の一年生でした。」そこから続きます。

「建物疎開で、中島町に行くことになってたんです。その日、私は学校を休んだんです。行ってたら、死んでました。友達はみんな亡くなりました。」

「中島町なら、二中の一年生と同じですね。爆心地ですもの、助かりませんね。」

「前の日、私は目に砂が入って。十日市の眼科の先生が、明日は学校に行かない方がいいよ。と言って、証明を書いてくださったんです。だから休みました。」

「お宅はどこだったのですか?」

「三篠北町です。家も焼けました。でも、命は助かりました」

「ほんとに偶然ですねえ。その前の日に目に砂が入って命が助かったのですね。偶然で助かった人と、偶然に亡くなった人もいるでしょうね」

こんな話が、広島では、日常的にできます。患者さんとして来られる被爆者の方には、できるだけ話を聞いて置きたいと思います。それぞれの被爆体験を。「8.6広島平和の夕べ」でもそうであるように、年々自らの被爆体験を話して下さる方が少なくなっています。

 先日友人に聞きました。広島でないところに住んでいる人は、被爆していることは話すことできないと。奇異の目で見られたり、明らかな差別をされたりで、つらい、いやな思いをすることもあるからと。そうでしょうね。広島に育っている私たちは、日常的に被爆者と接しています。近所でお好み焼きを焼いてくれていたお姉さんは、腕にひどいケロイドがありました。大学の先輩にも、顔や腕にケロイドのある人は何人もいましたし。そんな中であたり前のように生活をしていましたから。

 でも、時がたつにつれて、そんな状況も段々と薄れて来ています。そしたら、被爆者差別もなくなるのでしょうか。二世や三世への差別もなくなるのでしょうか。

今日のお昼時間にバスセンターにジャンボを買いに行きました。最終日に買えました。残り物に福があるかな?その次いでに、ばすまちでラーメンを食べました。つい美味しそうに見えたので、うま辛ラーメンを頼みました。それはそれはおいしいラーメンでした。が、辛すぎて。涙と鼻水で、途中でギブアップ。今度は味噌ラーメンを食べます。

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特別養子縁組について病院でのカンファレンス

 木曜日、山口県の大きな公的病院の研修に行きました。研修というか、広島で私が診ていて、その病院で出産するある妊婦さんをめぐってのカンファレンスといった方がいいかもしれません。本人が一人で育てることに不安があり、特別養子縁組を望んでいると。でも、まだ完全に望んでいるのではなく、自分が生んだ後、かわいいと思ったら自分が育てる可能性もあります。その病院では、これまで特別養子縁組の経験がないので、その研修をしたい。スタッフの皆さんが尋ねたいこともたくさんあるからと。産婦人科のドクター、小児科のドクター、両方のナース、助産師、NICUのナース、病院の相談室の相談員、それに、行政の市の子ども家庭課の職員、保健師さんなどなど。善意の皆さんが一人の女性と赤ちゃんのために一生けん命に考えて下さいました。私は、配布する資料とともに、パワーポイントを作って、それを写しながらお話をしました。

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これらに、具体的な事例や写真を交えてお話しました。

もし、本人が自分で育てると言われたら、その時点で私は引きます。もし、特別養子縁組をということでしたら、私は全力でそのあっせんをします。何回かその病院に通うことになるでしょう。距離があるので大変ですが、その女性と赤ちゃんの幸せのために頑張りましょう。

 本人には、養子縁組をするにしろ、自分で育てるにしろ、無事に産んであげること、それが何よりもあなたが赤ちゃんにしてあげる最大のことだからねとお話ししています。

 声が出なくなっていた風邪は、必死で喉のための麦門冬湯と咳止めのリン酸コデインをのんで、何とか声が出るところまで回復しました。ハスキーな声でしたが、皆さんにはちゃんと届いたことと思います。

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クリニックの忘年会でした。

患者様が折り紙で作ったリースを持って来て下さいました。こういうプレゼント、うれしいです。早速クリニックに飾りました。

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昨日は、クリニックの忘年会でした。34年目にして初めての焼肉。

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若い人たちがどんどん焼いて、お皿に入れてくれて、楽でした。若い人たちの食欲はいいなあ。わたしは、とても食べきれず手伝ってもらいました。

みんな恒例のくじ引きによるプレゼント交換。みんなが写ってなくてごめんなさい。

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もうあと少しで今年も終わりです。つつがなく新年を迎えられますように。

忘年会の後は、私はまたクリニックに戻って、今日の研修の準備というか仕上げ。深夜までかかりました。配布する資料もたくさん。これで万端整いました。今年最後の講演になります。声はだいぶ出るようになりました。しわがれ声ですが。特別養子縁組について理解を頂けるよう、頑張って話してきます。

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吉野家のすき鍋膳

東方神起のコンサートの翌日、韓国語教室でコンサートはどうだった?と皆さんに聞かれました。それは、最高だった。歌もダンスも、バンドも、なにもかもすごかったと答えて、「でもね、くたびれて、くたびれて」と言ったら、ぶっはっはと皆さんに爆笑されました。立ってたの?うん、三時間近くずっと立ってた。もう帰りはよろよろしてた。で、また皆さんが大笑い。「コンサートは体力勝負だからね」と。これまで、まったくそんなしんどい思いをしたことがなかったので、本当に初めてのことだったので、まいりました。

 で、帰り。なぜか私はすき焼きが食べたかったのです。そこで、芸州本店に連絡しました。そしたら日曜は、お昼だけの影響だと。びっくり。では、とみやだと、行くと、今空いているのはカウンターだけだと。カウンターでもいいけど、すき焼きは食べれる?と聞くと、カウンターはすき焼きは無理ですと。あらまあ。ではと失礼して、どうしよう。でも、頭はもうすき焼き脳になってるし。ふと、どなたかがフェイスブックで吉野家のすき焼き膳がなかなかだと書いてあったのを思い出して、本通りの吉野家に行ってみました。

すると、出てきました。正式にはすき鍋膳だと。

わたしの写真はよくなくって、漬物が後ろに隠れていたし、でも、すき焼きはぐつぐつと煮えながら出てきて、とてもおいしそう。

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ネットの写真をお借りします。

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とてもおいしかったですよ。味は、ちょうど私の好み。お肉は、そもそも薄く切ってあるのでやわらかいし。お野菜たっぷり、うどんまで入っていて。満足しました。何よりお安い。芸州やトミヤに比べれば、五分の一、一人877円でした。病みつきになりそう。

 その夜、ゆーぽっぼに行って、私は大風邪を引きました。突然咳が出て出て、止まらなくなって、朝になると、すっかり声がつぶれていました。なんと、いろいろです。東方神起に行って、吉野家ですき焼きを食べて、ゆーぽっぼに行って、最後は風邪です。声が出ないので、患者さんにひそひそ話をすると、患者さんまでひそひその声で話されます。そして最後には、先生、お大事にと言われます。明日は、山口で研修の講師を務めます。どうしよう、声が戻るでしょうか。

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東方神起のコンサートで、ちょっとしょんぼり。

 昨日は、東方神起のコンサートでした。早めに行って、グッズの購入。会場の県立体育館、グリーンアリーナのそばの公園で。そこにはたくさんの東方神起のトラックが停まっています。しっかり写したいけれど、逆光で、きれいに映りません。


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グッズは、買おうと思っていた大きなトートバッグが売り切れで、残念。小さいのだけ買いました。それにペンライト他。


座席は、行くまでわからず。行ってみると、なんとすごく上で、上がるのに最後の頃は、よろよろしました。

始まる大分前の会場です。始まるとすべて撮影禁止になるので。少し、赤のペンライトをつけている人がいます。

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始まると、真っ暗な会場に赤のペンライトだけが揺れます。わたしもその点の一人となって、いえ、私の持っているライトが点になって。わたしもみんなも人は黒に沈んでいます。

コンサートはそれは素晴らしかったです。ほぼ三時間、歌いっぱなし、踊りっぱなし。もちろん、時々トークとバンドの演奏がありますが、その間は、彼らは着替えです。歌もダンスも、それはそれは素敵でした。若い人たちの掛け声も、みんなよく知っていて、うまくマッチします。

 私はと言えば、ずっと立ちっぱなしで足が痛くて。まだ治っていない左の股関節から太ももにかけて、それはつらくて。どうにかなりそう。でも、私一人座るわけにもいかず。頑張って立ったままペンライトを振り続けて。相当くたびれました。周りは若い人だらけ。

 もう、これが最後かもしれません。残念ながら。体力的に無理かも。考えてみれば、2年前の前回はたまたま「立つのは禁止」のシートで、それは助かったのです。わたし、東方神起だけは、5人の時から2人になっても、広島だけでなく名古屋ドームも福岡ドームも行って来たのですが、もうやめたほうがいいかなあと、帰りは足を引きずりながら少ししょんぼりでした。

 でも、あの素晴らしい歌声は、いつまでも私の心に残ります。これからは、CDですね。

ちなみに、私が振り続けたTのペンライトです。後ろは買ったバッグです。

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«パソコン、あらたに復活です。