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離婚後に生まれた子の戸籍について

10月24日の木曜日は、広島県立広島北特別支援学校のPTAに話しに行きました。


 「障害があってもなくても、すべての子どもたちが豊かな性教育を受けて豊かな大人になる権利がある」という事を大人の方たちが実践していかなくては、と思っています。それにつき、具体的に困っている方もおありで、それらの対応なども含めてお話ししてきました。今、保護者の方たちの感想文を集約されているそうですので、それが私の手元に来てから、またこれについては、お話ししますね。

 その3日後の27日の日曜日は、性教協広島サークルの例会で皆なが持ち寄りのテーマで話しました。

 まんが「あの子の子ども」について。テレビドラマ化されたけれど、その元になったまんがについて。高校生が妊娠して、そのことをとても丁寧に描いてあると。私は、ドラマは全部ではありませんが、見ていました。やはり丁寧に描かれていました。まんが、これは読まなければ。買わなければ。

 それから、学校内での性加害、被害について。日本でどんなケースがあってどう対応されたのか。とてもたくさんのケースがあることに愕然とします。それについて、学校現場がちゃんと対応できるようにならなければ。

 私は、「離婚後の出産の子どもの戸籍について」話しました。これまで、離婚後300日以内に子どもが生まれた場合、その子の戸籍は、離婚した夫の子になっていました。この縛りがあって、無戸籍の子がいるようになっていたのですね。それが、今年の4月から法律が変わりました。

 離婚後妻が再婚した場合は、児はその再婚した新しい夫の戸籍に入ると。だから、女性の再婚禁止期間もなくなりました。

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ですので、生まれた子は、前の夫の子ではなくなるので、再婚しなければ、妻、すなわち子の母の戸籍に入るものと思っていました。いわゆる非嫡出子と同じ扱いです。ところが、そうではありませんでした。離婚から300日以内に子が生まれた場合、これまでの法律と同じように、母の戸籍ではなく、元夫、子の父の戸籍に入るのです。もし、母の戸籍にいれたければ、父の戸籍に入った上で、今度は家庭裁判所に子の氏の変更の申し立てをしなければならないのです。それが許可されて初めて父の戸籍から母と同じ名前で、母の戸籍に入ることになります。

 そこで、DVなどで、夫から身を隠している場合。接近禁止にしてあるし、居場所も夫に分からないように、住民票の閲覧も禁止してあっても。さらにDVでけがをしながら命からがら逃げている場合、そのごたごたや元々の生理不順などで、ハッと気づいた時には、もう中絶が不可能。夫にも妊娠は知らせていないし、知られたくない。そんなケースがあり得ます。そんな時でも、生まれた子は夫の戸籍にいれなければならないのです。

 要するに、子は「男」の戸籍に入れるもの。男が死亡している場合や、どこのだれが分からないというような時は、非嫡出子として母の戸籍に入るのですが。男が分かっている場合は、何がなんでも男の戸籍に入れなければならないのです。たとえDV男であっても。「再婚した場合は再婚した男。再婚しなければ前の男」の戸籍に子どもを入れるのですよ。母の戸籍に入れればいいのに。そうはいかないのです。法律がそうなっているのです。日本の戸籍はまだまだ男中心で作られている事を痛感しました。

 そして、なんと、しんどいのは、特別養子縁組は、父母両方の同意がいるのです。非嫡出子はそうではありませんが、両親そろっている場合は、両方の意志が一致することが原則なのです。DVの男性がこのことを知ったらどうなるか、身震いするほど怖いことです。

 ここでは、事例を示すことはできませんが、例会では、具体的に例を挙げて話しました。そして、皆さんのお知恵拝借。国連に申し出て、勧告してもらったらどうかという意見も出ました。なるほど。選択的夫婦別姓などは、国連がなんども日本に対して勧告しているのですね。それは日本の女性からの国連への訴えによって、勧告が実現しているのだそうです・・。

明日の木曜日は、福山の中学生に話しに行きます。

 

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原爆小頭症児のドキュメント

フェィスブックのお友だちの平尾直政様の記事を転載させていただきます。原爆小頭症のドキュメントと言えば、もっぱら平尾さんの番組が圧倒的でした。テレビもラジオも。以前、車の中で平尾さんのラジオ番組を聴いていて、大泣きしたことがあります。他には、一つだけ山口の民放が作ったのを見たことがありますが。

 このNHKの番組は全く知りませんでした。報せて頂いてありがとうございます。皆さまにも、ぜひ広くお知らせしたいので、転載させていただきました。今週の土曜日です。私は、出先の予定ですが、ホテルで見ます。

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退職者連合で話しました。

被団協の事を書いている内に、いろいろと講演に行ったことなどを全然書かないままでいました。少し、どんな事があったのか、書いておきますね。

10月の17日、今回の選挙の始まりの時に、広島県の連合、それも退職者連合の女性部の方たちに話しに行きました。退職者連合、女性部の第一回の集いだと。そこで「ジェンダーについて話をして」ということでした。連合???ウーン、私は、以前選挙をめぐって連合とはいろいろいと在って・・・。私でいいのかな?と思いながら、出席者はおもに女性ではあるけれど、男性の役員の方たちも出席されるということでした。

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連合傘下のさまざまな職場を退職された方たちが沢山集まっていらっしゃいました。「ジェンダー」についてということですので、考えて、結局このようなタイトルにしました。

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 夫婦の会話の大切な事、黙っていても分かるはず、ではなく具体的に表現すること、話してこそ、初めて実感をもって伝わる・・おいしいよ、とか。それから二人での子育てのことなど、いろいろと楽しくお話しをして、その後、会場全体での質疑応答などがありました。そしたらお一人の方が、役員の男性の方々、今の河野の話を聞いてどう思われたか、一人ずつお話しください、というのがあったのです。女性陣は大笑い、男性たちは皆さん、困ったなあという表情で。男性の皆さん、仕事と組合運動を頑張ってこられた方たちです。その方たちが、順番に立ち上がってお話しをされました。皆さん、「家の事は彼女に任せっぱなしで。子育ても彼女に・・」と。本当にそうなのですね。それらを聞いて、私は申し上げました。

 おそらく、男性の皆様は、平均寿命を考えてもどうしても男性の方が先にくたばってしまう。動けなくなっておむつをしなければならなくなった時に、妻に世話をしてもらいたい、妻はきっと自分を優しく介護をしてくれるだろう・・とは・・限りませんよ。(会場の女性たち、爆笑)・・そうしてもらえるかどうかは、二人の人間関係がどうであるかにかかってきます。今からでも、いま直ぐから、妻との関係をより良いものにすべく努力が必要でしょう、などと話しました。

 この後、皆さんで懇親会。この会がとっても楽しかったのです。

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 同じテーブルの方が、「政治の話をしましょうよ」と言われたのですね。ちょうど選挙に突入していた時です。「え?政治の話をしてもいいのですか?」「いいですよー。選挙の話とか、昔の事を良く知っていますよ。」「だって、原発の事とか・・」「原発の話、いいじゃないですか。」「え?まずいのではないのですか?だって、中電とか・・」

 私は、かつて、選挙に絡んでいろいろと連合とはまずかったことがあったので、気を使っていました。でもよく考えると、これは退職者の会。以前の連合は、今とは違って、社会党系の人たちも沢山いらっしたのでした。私は、気を使いすぎていました。それが分かってからの会話は、楽しかったです。国労のJRの運転手さんの話、列車が鹿や熊にぶつかる話、抜群に面白かったです。エンジンの横に水のタンクがあって、そこに鹿の角が刺さると、水がこぼれて運転できなくなるとか、まだ学習能力のないバンビとかは列車が近づいても逃げない、だから、顔を横から出して、「コラーッ」と叫ぶと逃げるとか。人によっては、石をいくつも持っていて、それを投げるとか・・。私はこういう異業種の方の現場の話が大好きです。

 私の講演の依頼は、どうしても教育現場が多くなるのですが、こんな会も楽しいなあと思った次第です。あ、ビンゴもありました。私は、さっぱりダメでした。いつもです。

 皆様大変お世話になりました。私に声を掛けて頂いてありがとうございました。

 

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性教協広島サークル例会です。

ハッと気づいたら、お知らせしていませんでした。なんと。今になってですが・・。


本日、性教協広島サークルの例会です。今回は、それぞれのテーマの持ちよりです。

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今、いろいろと話題になっている「学校内での性暴力」、具体的に対応に当たっている方からの報告。まだいろいろなテーマが集まっています。私は、離婚後に生まれた子どもの特別養子縁組について、戸籍の対応が困難だった例を挙げて、皆様のお知恵も頂きたいと。昨日、夜中までかかって、資料を作りました。今年の4月に、離婚後の子どもの戸籍の扱いについて、法律が変わりました。無戸籍の子を減らそうという試みのようですが、それでも、まだ戸籍上は、男性優位がみえみえです。

 また根ご報告しますね。今からですが、すみません。多くの方にお会いできればうれしいです。

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被団協のノーベル平和賞の受賞について⑦

 被爆で体中焼かれ、放射能にむしばまれながら、反核運動を頑張って来た方が次々とがんで亡くなります。昨日、親しい方が亡くなったお顔を拝見していて、森瀧市郎先生がお亡くなりになった時のことを思いました。どうしてもお通夜に間に合わず、でも、お会いしたくて、お通夜の後に行って、会わせて頂きました。あの人を魅了する風貌そのままのお顔で休まれていました。

 私の世代は、初期に頑張った被爆者の方たちにお会いできた世代でもあります。森瀧市郎さん、吉川清さん、川本一郎さん、高橋昭博さん、四国五郎さん、中沢啓治さん、石田明さん、李実根さん、近藤幸四郎さん、沼田鈴子さん、伊藤サカエさん、栗原貞子さん、小西信子さん、坪井直さん、李鐘根さん、小野瑛子さん、松原美代子さん・・。この方たちに直接お会いして、お話しをうかがうことができたことは、今も私自身の血となり肉となっています。本当にありがたいことでした。


 さて、森瀧市郎さんの座り込みについての日記を続けます。フランス核実験に抗議して座り込みをはじめた、その前史の事です。

「前史」のもう一つの大きな事例は昭和三七年四月の慰霊碑前一ニ日間の座り込み行動である。
 世界世論の高まりの中で米ソとも実験を停止していた時があったが、いつ再開されるかもしれぬという不安があったので、昭和三六年夏の原水禁世界大会の決議では「今日最初に実験を開始する政府は平和の敵・人類の敵として糾弾されるべきである」とうたいあげた。

 ところが、それから幾何もたたない八月末に、ソ連が実験再開の声明を出した。その再開声明には再開の理由が情理をつくして述べられていた。そのためか、当然反対し抗議するはずであった日本国民の中にも、再開声明を指示する党派も現れて、原水禁運動に大きな混乱が起こった。それ以来「同列視せず」の論理と」「いかなる」の論理との激しい論争がつづき、遂には運動分裂の大きな契機ともなった。
 その翌年昭和三七年一月、米国も太平洋上空で四月中旬から開始する大規模の実験計画を発表した。私たちは絶望的な核実験競争時代の到来を実感した。

 広島では原爆慰霊碑前で四月二〇日から核実験計画を中止せよと要求して座り込み行動がはじめられた。通して座り込むのは吉川清君と私とであったが、私は大学に辞表を退出して背水の陣の決意で座り込んだ。夜はテント内で仮眠するが原則として昼夜連続無期限の座り込みであった。私は三日目位に日射病でたおれ、平和会館に帰り一両日の静養をしたことはあるが、ともかく座り込みを続けた。

 その座り込みの輪は日々急速にひろがって行った。被爆者、労働者、宗教者、学生、一般市民老若男女、参加者の数は日々に増した。全国のあちこちでも座り込みが起こり、東京数寄屋橋公園では広島から上京した被爆者代表竹内美代子さん母子を包んで安井郁・平野義太郎両氏をはじめかなりの数の人々が参加して座り込んだ。(以上で引用終わります。)


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森瀧先生がいらっしゃらなくなっても、被団協の座り込みは続いています。

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 国内、さまざまなところに行き、対話、演説をいとわなかった森瀧先生が、世界の一体どれだけの国に行かれたのかと見てみました。

1957年8月 イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア平和行脚
1962年6月 ガーナ「原爆のない世界のためのアクラ会議」(シュバイツァー博士に会う)
1964年10月 オーストラリア 「国際会議と軍縮のためのオーストラリア会議」(アボリジニの差別と核被害)
1965年4月 ソ連(ソ連平和委員会・被爆者平和使節団)
1971年4月~ アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを反核・平和行脚
1974年5月 フランス、イギリス、イタリア、フランスの核実験抗議)
1975年4月 フィジー(非核太平洋会議)
1978年5月 ニューヨーク・国連本部(第一回国連軍縮特別総会)
1980年5月 ハワイ(非核独立太平洋会議)
1981年11月 西ドイツ。ドルトムント市平和集会
1982年6月 ニューヨーク第二回国連軍縮特別総会(ニューヨーク・反核100万人集会)
1985年6月 中国(南京市内で南京大虐殺事件の生存らと、戦争被害者交流会)
1987年9月 ニューヨーク(第一回核被害者世界大会)
なお、外国ではありませんが、1985年8月には、沖縄での国際連帯会議に出席。1989年4月には青森県六ケ所村での反核燃全国集会であいさつ、人間の鎖の先頭に立つ

本当に体に鞭打って、全世界に核廃絶を訴えて回られました。

森瀧先生は、どんな人のいうことにも耳を傾けられ、真剣に聞いて下さいました。たとえ、私たちのような学生の若造でも。私たちが1971年、被爆者青年同盟を作って、平和公園で座り込みをしていた時、まさかまさか、森瀧先生が来て下さったのです。しゃがみ込んで激励して下さいました・・。私たちにたいしても敬語でした!!どれだけうれしかったか、胸が熱くなりました。その時の座り込みの写真です。こちらを向いているのが私。一番手前は、私たちで病院を作ろうと(今もあります高揚第一診療所)したとき、土地を提供して下さった〇内さんです。

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 森瀧市郎先生が亡くなった時、大江健三郎氏は、「ここに哲学者がいる」と投稿されました。「核実験に抗議する人々の輪の中に、いつも哲学者森瀧市郎先生がいられたことはまことに大きい意味があるだろう。私はあらかじめその意味を受けとめる心において、あのようにいつも、ここに哲学者がいる、と感じ取って来たのだ。これからも森瀧先生の著作を通じて、ここに哲学者がいる、と思いつづけるだろう。そして自分がひとり二十世紀末の核状況について心重く考える時にも、その脇に確かな幻の様にして・・・。」


長々と書いてしまいましたが、読んで戴いた方、どうもありがとうございました。被団協のノーベル平和賞受賞というおめでたい出来事をどうとらえればいいのか、私自身のもやもやから始めたことです。はっきり言えることは、森瀧先生がいらっしゃらなければ、被爆者の運動はこうは行かなかったでしょうし、その陰には、名もなき被爆者の方たちの地道な働きももちろん、数多くあったということだと思います。


 実は、この件について、私には今新たな課題が出てきています。もう少しまとまったら、また、もう一度書きたいと思います。

 

 

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悲しい日でした。

 今日は、悲しい日でした。浅井昭秋さんがなくなったというお知らせが来ました。夏にお見舞いに行った時には、もうお話しもできなかったので、いつかはとは覚悟していましたが。

 浅井さんは、中国放送の記者で、朝鮮人徴用工などの取材をずいぶんなさっていました。RCCを退職されてからは、日韓親善協会の事務局を一手に引き受けておられました。日韓親善協会の忘年の夕べやフラワーフェスティバルの日韓のブースなどでは、裏方としして大忙しでした。忘年の夕べなどに参加した時には、いつもイベントの方の情報をそっと知らせて下さって、私がブログに書くのを助けて下さいました。

 私が初めてマスコミに登場したのは、浅井さんのラジオ番組でした。それから、「無冠の帝王」という名前で、いつも私のブログにコメントを寄せて下さっていました。ああ、読んで下さっているというのは、私の大きな励ましでもありました。

 年に一回、親しい人たちで平和公園でお花見をしてました。そこに連れていらっしてた小学生のお孫さんが、葬儀場にいらっしてました。もう、大学院を卒業して、就職されていました。ある年のお花見。こちらを向いて立っているのが浅井さん。

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違う年のお花見。右の方にはだしのゲンの中沢啓治さんの隣に座っているのが、小学生の浅井さんのお孫さん。

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お花見に参加していた方の多くも亡くなってしまいました。

 夜になって、浅井さんに会いに行きました。とても穏やかなお顔で休まれていました。お若く見えて、とってもイケメンでした。二人のお嬢様とお孫さんが見守られていました。奥様の浅井まり子さんは、明日のお葬式には来られるそうです。

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 あすの2時からお葬式です。私は、診療があって行かれません・・。
浅井さん、本当にありがとうございました。さようなら。合掌。

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被団協のノーベル平和賞の受賞について⑥

広島で、被爆者は1973年7月20日、フランスの核実験に抗議して原爆慰霊碑前で座り込みを行い、以後核実験の度に座り込みは行われ続けました。

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1990年3月13日、慰霊碑前の座り込みはついに500回となりました。森瀧市郎さんは、93年7月20日、核実験抗議20周年記念座り込みに参加されました。

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その直後の8月4日、被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者を代表して挨拶。8月6日には広島県被団協の原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞を述べられました。そしてすぐに広島日赤、原爆病院に入院。一旦退院、10月18日胃がんのために入院。11月16日、病院から外出許可を得て平和記念公園を最後の散策。94年1月25日に亡くなりました。森瀧先生最後の座り込み、93年7月20日は亡くなる半年前です。

 森瀧市郎さんの「人類は生きねばならぬ」の日記1984年2月15日「座り込み十年・その前史と理念」から。

 昭和四十八年、フランス核実験に抗議して原爆慰霊碑前で触り込み行動をして以来、いかなる国が核実験をやっても、その都度抗議の座り込みを行って来て、昨年はついに一〇周年を迎えた。座り込み行動一〇年の継続は動かしがたい反核の力を培ってきた。「継続は力なり」を実感しないではおれないのである。

 この貴重な一〇年の歴史にはさらにその「前史」というべきものがあり、反核座り込みの精神や理念はその前史の中に躍動していた。それが言わず語らずの裡に受け継がれて座り込み一〇年の歴史を為したのではないか。

 私がここで「前史」と呼ぶのは、具体的には昭和三二年の慰霊碑前座り込みと、昭和三七年四月の慰霊碑前座り込み行動である。

 昭和三二年と言えば、英国がクリスマス島で水爆実験を行い、米・ソに続いて第三の核保有国となった年である。あの年一月七日英国政府がクリスマス島水爆実験計画を発表し危険水域を設定した時、日本では俄然強い抗議行動が起こり、実現されなかったとはいえ「抗議船団」派遣が熱心に討議されたり、米英ソ核保有参加国に抗議のための国民平和使節団が送りだされたりしたのであった。

 その時広島では三月下旬から四月中旬にかけて被爆者数名が原爆慰霊碑前で「祈りと抗議の座り込み」を続けた。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎などの諸君であった。三月下旬の夜はまだ寒いときであった。その頃慰霊碑のまわりに堀を巡らす工事で土が掘り上げられて塹壕のようになっていた。寒い夜風を避けるために、その塹壕のような窪みに降りて、蝋燭を付けて座り込んでいた被爆者有志の姿は今も眼底に焼きついている。
 この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを包んで「祈りと抗議の座り込み」をおこない、その場で被団協の抗議大会を開いた。
 しかしこの数名の被爆者の座り込みは猶もつづけられ、遂に四月二〇日の実験抗議広島大会にこぎつけて座り込み行動を打切った。そしてその大会の抗議決議文を引っ提げて上京し、米英ソ三国の大使館に乗り込んだのであった。
(略)
 四月二〇日の実験抗議広島集会で私は「世界への質問」という打出しで次のように訴えた。

「きょう私は二〇数万の原爆犠牲者が眠るこの慰霊碑の前で一個の倫理学者として全世界に向かって一つの質問を厳粛に提出します。
『今日世界で最も強い国というのは最も大きな罪悪を犯さなければならない国のことであろうか。』」

 私たちは今日もこの質問を以て全世界に問いつづけ核大国に迫りつづけているのである。この問いの根底には核絶対否定の理念が強く働いているのである。

「前史」のもう一つの大きな事例は昭和三六年四月の慰霊碑前一ニ日間の座り込み行動である。

(長くなりました。もう少し、明日に続きます。後一回で終わります。)

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そごうの北海道展

広島そごうの北海道展、本日終了。最後だから、買おうと急いでお昼に行ったら目的の「じゃがバタ」が売り切れていて、がっかり。で、きたあかりのコロッケとミンチカツ、鮭の切り身とルイベを買いました。コロッケ、最高においしかったです。早く買えばよかった。

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朝から胃腸の調子が悪く、お昼は小さなお結び二個だけにしていたので、飲むヨーグルトを買って、イートインの机で飲みました。皆さん、ソフトクリームやパフェらしきのを食べていらっしてちょっとうらやましかったです。私もお腹の調子が良かったらそうしていたたでしょう。

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今回の北海道展では、前半も後半もラーメンを食べることができて、それも両方とも味はマイルドで、塩っ辛くなく、うんと美味でした。前半は原、(ゲンテン)の味噌コーンバタラーメン。後半は信玄の味噌ラーメン。信玄は、土曜日の朝TBSで札幌で行列のラーメン屋さんとやっていたので、絶対食べようと日曜日のお昼早めに行きました。そしたら、ものすごい行列で、とても集会に間に合いそうになかったので、やめて月曜日に出直ししました。今度は行列ではありましたが、30分くらいで入ることができました。麺は、その昔、広島大学の正門の側にあった「ていね」の麺そっくりで、懐かしかったです。

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それから、二週間のうち、三つのお弁当を買って夕飯に食べましたよ。

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いつも診療を終えて買いに行くものだから、割引してもらえました。どのお弁当もよかったです。

そして、カニ屋さんで、キンメダイを買って煮ました。猛烈に美味でした。高かったけれど。

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他には、鮭とばやハッカ飴も買いました。やっぱり北海道展いいですね。もう終わって寂しくなりました・・。

明日には、被団協の座り込みについて書きます。

 

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被団協のノーベル平和賞の受賞について⑤

昨日は、弁護士会館にて「被爆地ヒロシマが被曝を拒否するー過去は変えられないが未来は変えられるー伊方原発ひろしま裁判いよいよ高裁へ~ノーモア・ヒバクシャひろしま集会~」がありました。小出先生をはじめとして、いろいろな方からの発言、提言があり、とっても勉強になりました。現地参加者90人以上、ズームでの参加者54人。これは始まる前の会場です。これについては、また、お知らせしますね。

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その前に、被団協の座談会について、いつまでも引きずっているので、どうしても分裂の事について、先に済ませておきます。すでに保守系の人たちが抜けていった後のことです。

坪井  (略)1964年に被団協が分裂してしまいましたが、これは大変な事だっんでしょう。
近藤  あの分裂は大きかったですね。ソ連の核実験をめぐって分裂したんですよ。
池田  「いかなる」問題ですよね。
近藤  そうです、そうです。「いかなる」問題です。当時は職場にいたんですが、すさまじかったですよ。会議では怒鳴り合いをやるわ、物を投げるわ・・・。
藤川  平和記念式典にもどーと押しかけて来てね。右翼までバケツに糊を入れてやって来て、バーと書けるんですわ。うまいことを考えたもので、糊をかぶったら取れなくて大変なんです。右翼は三年くらい続けましたが、そのうちに学生も入ってきましたね。
坪井  学生もすごかったですね。
藤川  ああゆう騒動がなければ、国会議員さんもうまくやってくれたんですがね。庄原出身の永山(忠則)という国会議員がいて、十八人の国会議員を集めて被爆者懇談会を作ったんです。これがいい具合にいってくれたらと期待していたんですが、分裂するやら騒ぎになるやらで国会議員さんに頼めるような状態ではなくなってしまって。どうにも物事はうまくいかんものです。国会議員さんがやっと歩調をそろえてくれたかと思うと、あんなことになってしまって・・・。
坪井  分裂する前は請願なども一緒にやっていたんでしょう。
近藤  そうですよ。一緒でした。
池田  そうでしたよね。
藤川  東京では一泊三百五十円ほどの安宿で一緒に寝起きしてね、やりましたよ。
坪井  当時は、原水禁、原水協というようなことは全くなかったんですね。
藤川  そうです。
坪井  阿部さんも請願行動には参加されていたんでしょう。
阿部  ええ、最初のうちは動いていました。でも途中、年寄りの世話と子育てで動けない時期もありました。
坪井  それでも証言活動では国内のあちこち回られたのでしょう。
阿部  ええ、回りました。あちこち行きました。


坪井  それらの活動もすべて分裂前のことですよね。当時はそういう状況ですから国会議員のかかわりも幅広かったのではないですか。
藤川  そうですよ。陳情行動は全ての政党に行きましたよ。
近藤  当然ですよ。
坪井  そうなると、あの分裂の影響は本当に大きかったんですね。うまくいっていたのが「ガバー」ですからね。
近藤  本当に大きかったですね。
坪井  その当時も国会請願には毎年行っていたんですか。
藤川  そうです。それも春に行き、夏に行き、秋に行きですよ。
坪井  請願は主として被爆者援護法だったんですか。
藤川  そうです。
近藤  もちろん援護法ですよ。
坪井  核兵器廃絶の問題はまだそれほどではなかったんですか。
藤川  核兵器廃絶も最初から当然ありましたよ。
坪井  当時から二本柱だったわけですね。
藤川  当時の請願行動は今と大分違っていましたね。理解のある県会議員さんがいて、東部の県会議員さんなんですが、私たちの請願に同行してくれ、段取りも議員さんの方で「きょうは厚生省に行きましょう」とやってくれました。厚生省に行くと職員に、「被爆者の話を真剣に聞きなさい」と迫るんです。だから厚生省の職員も私たちの話を本気で聞いてくれましたよ。ありがたかったですよ。
坪井  厚生省も当時は真面目だったんですね。今の厚生省には被爆者の声に耳を傾けてくれるような熱心さはないですよ。「はいはい承っておきます」という感じで・・・。
藤川  当時は、熱心に聞いてくれましたよ。被爆者健康手帳の一本化の時も、「特別と一般の二種類の手帳があることは被爆者の差別を招く、差別しないようにしてほしい」と要望したら、翌年には一本化されましたから。差別という言葉を受け止めてくれたと思うんです。
坪井  そういう時代もあったんですね。
池田  私たちの国会請願も必死でしたからね。当時だって、こちらが黙っていてやってくれたわけじゃありません。何度も何度も頼みに行かなければ、動きませんでした。国の方からしてあげようなんてことは一度もありませんでしたよ。
坪井  こっちの熱意も今と違っていたんですね。
近藤  今池田さんや藤川さんの話されたのは、県被団協の請願行動ですが、私は当時、職域でしてね。県労被爆連です。カネがなかったという状況は私らも待全く同様で、夜行列車で行き、ホテルは一人分の宿泊費で四、五人ももぐりこんだりして苦労しましたよ。請願では、厚生省、大蔵省、官邸などを回りましたが、役所は冷たかったですよ。広島出身の国会議員のところへ行けばいいんですが、役所は本当に冷たかったです。
坪井  お話しを聞いていると、当時の請願行動には熱が入っていたんですね。
藤川  そりゃー、命を懸けていましたからね。
(以下略します。)あと、もう一回、座り込みのことについて書いて、終りとしますね。

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本日の集会の案内です。

今日、小出先生の講演があることを昨日のブログでお知らせしました。とても楽しみで、と。

 今日になって、その内容を知り、うろたえています。今朝初めてチラシを見たのです・・。まさか、その内容がこうだとは。あまりに昨日のブログとシンクロするので、なんか、申し訳ないような、その意味が自分でどうしたらいいのか分からないままに、とりあえず、今日の内容のチラシをアップします。失礼な事をしたのではないかと案じています。

 私も、伊方原発広島裁判の原告の一人です。

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被団協のノーベル平和賞の受賞について④

もうずいぶん前になります。ある会、それは広島と原発の事故の後の福島をつなぐ会でした。私は、一参加者でした。そこで、お二人の講演の後、会場から質問が出ました。その方は、被爆者だと名乗られました。

 医療機関で被爆者手帳を使って、医療費を免除してもらっている。でも、そのことを「被爆者だといっても何にもないのに、ただにしてもらっていいね」と言われることがある。とても遠慮なのだけれど、このまま手帳をつかってもいいのでしょうかと。

 それから、もう一人、これは講演の演者でしたが、とんでもないことを言われました。

「広島の運動には「原発」がなかった。誰も核兵器反対とはいっても、原発反対とは言わなかった。元の広島市民球場の後に、廃炉になった原発の炉を置いたら、原爆ドームと原発の炉を並べて、それで広島の運動は完結する。」と。

 びっくり仰天。私は、会場から手を上げました。

「被爆者手帳というのは、お上が、かってにくれたものではないのです。家も焼かれ、体も焼かれ、放射能で体がむしばまれた被爆者たちが、お金もないから、夜行列車で東京に行き、東京駅で顔を洗い、そして国会や厚生省や大臣の自宅や、さまざまな所に陳情に行き、それ何度も繰り返して、やっとやっと成立した被爆者医療法なのです。だから、被爆者の先輩たちに感謝して、堂々と使えばいいのです。やっかみを言う人は、それは恥ずかしい人たちだと無視すればいいのです。

 それから、〇〇さん、広島の運動には原発がなかったと、どしてそんなことを言えるのですか。森瀧さんを初めてして、原発に反対して来た人たちは沢山います。ただ、金と権力をふんだんに使う人たちに対して、運動としては弱かったのかもしれない、だから、いまだに原発も核兵器もなくすことはできないでいます。あなたがその運動を知らないだけです。それを原爆ドームと原発の炉を並べろとなんて、そんなジョークはこんな場でいうべきではないのではありませんか?」

 私は、本当に怒って言いました。彼は、「ジョークではないですよ。森瀧さんね。ふうん」と言いました。もしかして、彼は森瀧市郎さんを知らなかったのかもしれません。森瀧春子さんは知っていたのかも。それで、春子さんと思って、ふうんと言ったのかもしれません。彼は、名前が知られた人で、人気があって、いろいろとあちこち引っ張りだこです。以来、私は彼を大っ嫌いです。

 森瀧さんは、「核と人類は共存できない」と言われました。「核兵器」ではなく、「核」です。初期から核の平和利用に反対し、青森の六ケ所村にも行き、伊方原発の訴訟には、何度も足を運ばれました。「森瀧市郎の歩み―人類は生きねばならぬ」には、1979年4月25日夜、海老園の自宅にてとする日記があります。それは、「四国電力伊方原発訴訟における原告側「準備書面(12)の意味するもの」という長い長い日記です。はじめの部分だけ引用します。

米国ペンシルベニア州スリーマイル島原発で起こった事故の報道は、全世界に大きな衝撃を与えた。私は、三月末から四月初めにかけて、毎日時間のありったけをかけて、この事故の報道に耳を傾けた。
 そして、一年前の四月二十五日、松山地裁が下した「安全判決」にいたるまでの科学的論争を回想しないではおれなかった。科学裁判とよばれた四年余にわたる伊方原発裁判で、原告住民の弁護士・学者が展開した論述・証言の総まとめてもいうべき「準備書面(原告12)」は、その副題の示す如く「伊方原子力発電所の危険性及び違法性のすべて」に渡って体系的に委曲をつくして述べたものである。これは原発論争史上不滅の文献となるであろう。
 それにもかかわらず松山地裁の判決は、被告・国側の言い分を全面的に採用し、原告側の論述証言をいともあっさりとしりぞけてしまった。そして原発の安全性に太鼓判を押してしまったのである。
 私は、悲憤やるかたない気持ちで広島にかえった。その日の日記を見ると、「ガリレオはその地動説の放棄を命じられたが、『それでも地球は動く』とつぶやいた、伊方の人たちも『それでも原発は危険だ』と言い続けるであろう」と書いている。果たして伊方の人たちは高松高裁に上告した。そして進行中である。

(この日記は、ここまでのさらに六倍もの長さです)が、ここでこの引用は終わります。

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また、被爆者の運動には、加害がないと無責任に言う人がいます。1985年、森瀧さんは、被爆者訪中団の団長として、北京、南京、上海などを回り、日本の中国侵略を謝罪するとともに、非核太平洋のための連帯を訴えた。その時の日記です。

「私は南京の謝辞で、虐殺の罪悪を懺悔反省することが反戦・平和運動のもとであること。原爆惨禍の体験が反核のもとであること。反戦・反核の運動にまい進することが償いとなることを訴えた。」この時、森瀧さんは84才。

 89年4月9日には、青森県六ケ所村での「反核燃全国集会」開催であいさつ。核燃基地を包囲する"人間の鎖"の先頭に立ちました。この時、88才。

言うまでもなく、広島には、木原省治さんを中心とする「原発はごめんだヒロシマ市民の会」や、亡くなってしまったけれど、原伸幸さんなど、根強く反原発の運動をつないで来た人もいるし、私たちも「8.6ヒロシマ平和の夕べ」では、福島の事故以前から、反原発の姿勢を貫いてきました。2009年と2011年と2015年には、京都大学原子炉実験所の小林圭二先生、2012年には小出裕章先生にも来て頂いて、原発の危険性などについて、しっかり議論してきました。


〇〇さんが、広島の運動には「原発がなかった」なんて、何を見ているの?と思ったのです。

明日は、小出先生が、広島に来て下さいます。久し振りに先生の講演が聞けます。

しつこいようですが、まだ私は被団協のノーベル平和賞について続けたいと思います。順番が入れ替わってしまいましたが、明日は、被団協の分裂と、被爆者の東京行脚について話します。小出先生のお話しも書かなければ、ですね。忙しいです。 

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被団協のノーベル平和賞の受賞について③

 ブログに書いた座談会で、池田さんと一緒に友の会に参加し、東京に陳情に通われた「阿部さん」が、昨日のクローズアップ現代に出ていらっしゃいました。97才。でも、当時の事をしっかり話されました。森瀧市郎さんの座り込まれている所等の写真も沢山出たし、森瀧春子さんのお父様のお話しも聞くことができました。やっとやっと・・。

 座談会からの転載です。広島県被団協の平和会館の件で、それは今も続くお金の問題ですが。


池田  第一回原水爆禁止世界大会の時に海外から四百五十万円の救援金の寄贈を受け、それで大手町の旧平和会館の土地と建物を買ったんです。それまでは、雑魚場町(現・中区国泰寺町)の教育会館の二階を事務所として借りていたんです。床が板の間でガタガタでしてね・・・。
高橋  その前に、やはり雑魚場町の運送会社の二階に間借りをしていましたよ。当時は分裂前の広島原水協と一緒でしたから。
近藤  平和会館の購入で、やっと自前の事務所を持てたというわけです。
坪井  平和会館の誕生は県被団協の結成より大分後に後になるわけですね。

(略しますが、この後、ソ連の核実験の「いかなる国の核」をめぐって、共産党系の原水協系の人たちが県被団協から出て行き別組織を作って、分裂。その原水協系の人たちから、「平和会館は我々にも権利がある」と裁判の準備を始めたことより、平和会館を県被団協と切り離して財団法人となりました。やがて、平和会館は老朽化で建て替えをしなければならなくなり、そのためにはお金がない。競輪事業からお金を助成してもらおうという話になり、それに森瀧さんは強く反対されます。さらに、平和会館の地下にスポーツジムを貸していたそこから立ち退き料の要求もありました。森瀧先生は直筆の辞任届を近藤さんに預け、火中の栗を拾ってほしいと頭を下げられたと。)

坪井  森瀧先生の考えは「われわれの生き方は崇高でなければならない」ということだったんでしょう。
(略)
坪井  森瀧先生は大変苦労されたようですが、家ではどうでしたか。
森瀧(春子さん)    この問題で直接話を聞いたことはないですが、当時はいつも疲れ切って帰ってきてましたね。疲れてぐったりしているのに、電話が次々かかってきまして。今の皆さんのお話しを聴いていると、おそらく父の考えに反対だった人たちからの電話もだったんだろうと思いますが、一時間でも二時間でも相手をしていました。その後でさらに疲労困憊し、ほとんど眠れない状態だったですね。
近藤  総攻撃を受けていましたからね。みなさん、大手町の旧会館跡に建て替えるということにこだわり、カネの工面に頭を痛めていましたから。私は、募金を集めても旧会館跡での建て替えは無理と判断し、現在の(今の一つ前、中島町の)平和会館を選んだわけです。
藤川  近藤さんのおかげでいい具合になり、カネも残せたし・・。
近藤  ありがとうございます。もちろん私ひとりでなく多くの人たちの強力があってできたことですが、いずれにせよ旧会館の売却と現会館の購入火の差額として、立ち退き料を払ったうえに五千万円の残せましたからね。このカネがいま平和会館の基金になっているわけです。
坪井  おかげで基金の利子を平和会館の維持費にあたることができていますがね、ここ数年の低金利に泣かされていますよ。この低金利はどうにもいけませんね。
近藤  ところで、この会館問題でも森瀧先生に理事長を辞めてもらおうという話が出ましたね。ずっーと圧力があったんですよ。被爆者援護法ができないのは、森瀧先生が大原亨さんら社会党系の人を推薦するからだということですね。地元選出の大物政治家のところに被爆者援護法の陳情に行くと、はっきり言うんですよ。「森瀧の首を取ってこい。そうしたら、考えてやる」と。
藤川  近藤さんが言われてようなことはずっーと重なって来ていたんですよ。以前、私と重松さん、下江さんで、宮沢(喜一)さんに被爆者援護法を制定してもらうにはどうしたらよいかを相談に行ったことがあるんです。その時に宮沢さんから「灘尾さんを頭に国会議員を五人集めなさい。五人いれば、二十四、五人の同志を集めることができる。そうすればやりやすいから」と言われましてね。それで、かつて灘尾さんの秘書だった東城町の藤尾七郎町長に面談の時間を取ってもらうようにお願いし、灘尾さんに会いに行ったんです。町村長でさえ、せいぜい十分ほどしか会えないというのに、何とか三十分会えるようにお願いしましてね。結局、四十五分も会ってもらうことができたんですが、灘尾さんは「そうお願いされても、私は森瀧の『も』の字を聞くのも嫌でねえ。何とかならないかなあ。そうすれば話が進むんだが」というんです。それで、帰ってから、理事長を変えないといけない。誰にするかという話になりましてね。ある自民党県議の名前が上がったので、理事会に諮ったところ、理事会の雰囲気が途端に悪くなったんです。「これはいけん」と慌てて取り下げたんですが、そんなことがありましたよ。
近藤  そういう対立はあっていいと思うんです。きちんと処理さえすれば。藤川さんの場合は引き際がよかったですね。
坪井  聞けば、いろいろあったんですね。
藤川  難儀をしましたよ。森瀧さんと一緒に県北に講演に行った時に、森瀧さんはポロリ「あの人が理事長をやってくれればいいんだが」と話していたもんです。もちろん、この話は一切口外したことはありませんが。

この後、被団協の分裂、なぜ二つの被団協が?について、被爆者の思い、森瀧さんの座り込み、そして、反原発の活動について。お伝えしなければならないことが沢山あります。この際だから。もう少し、書いておきたいと思います。この写真はネットから頂いています。分裂の原因となったソ連の核実験に抗議する座り込みです。

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被団協のノーベル平和賞の受賞について②

「核兵器のない明日を願って」の座談会で、池田さんが畑賀で40人近くが集まって被害者の会を作ることができたと話されています。その池田精子さんには、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に、2010年と2016年の二回、お出でいただいて、お話しして頂いています。2016年の私のブログは、ここにあります。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/86-1282.html

陳情に鳩山邸に行った時の事、前に出さされて焼けた顔を見て、鳩山夫人が涙をこぼされたと。その時の写真です。

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その請願後で組織を作ろうとなったと。それについて、座談会に戻ります。

阿部  参加するのはいたんですが、まだ精神状態が不安定だったので無我夢中でした。阪神大震災の被災者には精神的ケアが必要となどが言われていますが、私ら被爆者は十年以上の間全く放置され、繰り返すようですが、虐げられ虐げられの我慢の連続でしたから、今のように強い人間じゃありませんでした。ですから、会場の暖かい雰囲気に接して、涙が止まらずどうしようもありませんでした。同じ境遇に置かれていた被爆者仲間に囲まれ、涙もろい人間になっていたんでしょうね。
坪井  何か悲壮な感じですね。あの当時、被爆者は本当に悲惨な状況にありましたから同じ被爆者に出会い、溜まっていたものが一気に噴き出したんでしょうね。
池田  本当にそうでした。
坪井  そして、その大会が終わっていよいよ、みんなが集まらなければいけないということで、その年の五月二七日に県被団協の結成となるわけです。この結成には行政も加わったんですよね。
近藤  そうです。県被団協は行政が音頭を取り、全県ぐるみでできました。その後、愛媛県や長野県、福岡県などにも被団協ができ、八月一〇日の日本被団協の結成となったわけです。
池田  被団協の結成は本当にとても嬉しかったですね。被団協に集まるようになって、「生きていて本当によかった」という気持ちになりました。体がだるくてだるくてやり切れなくても、周囲の者からは横着病と言われ、医者に行くと栄養失調だとバカにされて取り合ってもらえない日々でしたから、心を許せる仲間との語らいはほんとうに救いでした。
(少し略します。その被団協が、1960年の日米安保条約をめぐって意見対立が起き、自民系の人たちが飛び出して1961年にいわゆる任都栗(広島市議)被団協を結成してしまいます。保守系の人たちのほとんどがいなくなってしまったのです。)
藤川  そう、こんなことがありましたよ。県被団協が中区大手町の旧平和会館に移って間もないころ、初めて訪ねていこうとした時のことですが、道が分からないので水主町付近の橋の上で通りがかりのおじいさんら三人に尋ねたんです。すると、「あれかい。ありぁ、赤の集まる所よ」と言われて・・・。(略)
池田  本当に「赤」攻撃はすごかったですね、畑賀の被爆者の会は私が作り、会長も務めていたんですが、警察官だった副会長が「池田さんは赤じゃけぇ。あれについていったら、どういうことになるか分からんぞ」と反対運動をおこしましてね。その内に、私が中野に引っ越すことになって、後をその副会長に託したら、さっさと任都栗被団協に入ってしまった。とにかく当時は運動をしていたら「赤」にされてしまいました。実は1988年頃のことですが、あるカルチャーセンターで女性から「あなた、畑賀に住んでおられた池田さんでしょう」と声を掛けられたことがあるんです。全く記憶にない方人なので「どなたでしたかね」と尋ねた所、女性は「昭和32,3年頃、畑賀の駐在所にいたんですよ」と答えるんです。駐在所の警察官の奥さんだったわけですが、三十年近く経っていたのに私の顔をはっきり覚えていたということは、私がマークされていたことの証明です。私のように「赤」攻撃で運動をつぶされたケースは少なくないと思いますよ。
阿部  吉川さんの所に集まっていると、警察官が外をぐるぐる回っていたそうですよ。戸外にあった便所に用足しに行くと、警察官にばったりあったようですよ。
高橋  吉川さんは観光客の前でケロイドの上半身を脱いだりしていましたからね。そして、それがマスコミにバーンと出ましたから。
(略)


藤川  だから被爆者援護を求める請願行動は熱心にやりましたよ。請願のための上京費用は全部自分持ちでね。それで、ほとんどの者が宿泊代節約のために夜行列車を利用して上京したもんですよ。汽車の中で寝て、東京駅で顔を洗って、食事はむすびですませて、そして、そのまま手分けして議員会館に行ったり走り回り、頑張ったもんですよ。
池田  そうでしたね。広島を午後二時発の急行「安芸」というのがあって、翌朝八時に東京に着くんです。駅で顔を洗って、国会に行きましたよね。(略)
池田  私たちは街頭募金にも立ち、カンパのお願いにも回りました。選挙の応援をした町長に助成を頼みに行ったこともあります。私は、町からちゃんと助成金を出してもらいたかったのに、町長は、「じゃー、わしのポケットからだそう」と財布からいくらか出したんです。その時は情けなくて、頼みに来なければよかったと思いましたよ。助成金を出してもらうことに意味があったのに。

実は、「核兵器のない明日を願って」はでかい本です。その本を抱えながら、ここに転写するのは、とても時間がかかります。一気に済ませたいところですが、なかなかです。こうして、私が転写するのは、被団協というのは、一人でにできた物ではありません。結成に苦労された方たちのことを知って頂かないとという思いで。これを一体どれだけの方が読んでくださるだろうかと疑問を持ちながらも、続けますね。ここから、いよいよ森瀧さんを辞めさせろという攻撃になって行きます。また明日・・。

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広島二中1年生の全滅の記録「いしぶみ」の合唱を聴きに行きました。

昨日の午後、広島県立広島観音高等学校音楽部OB合唱団の第21回記念コンサート「レクイエム碑」を聴きに行きました。


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時間に間にあうように行ったのですが、なかなか座れる席がなくって前から二番目に座ると、ピアノに隠れて皆さんの顔が見えないので、休憩時間に後に移りました。第一部は、二中と観音高校の校歌、オランダ民謡「サリマライズ」、アンパンマンのやなせたかしさん作詞の「さびしいカシの木」、坂本九さんの遺作「心の瞳」、嵐の「カイト」、そして原発事故でバラバラになった福島県南相馬市立小高中学校の生徒さんたちの手記から作詞された「群青」が演奏されました。そして、うれしいことに、群青の前に会場の人と一緒に「故郷」を歌いましょうと、その指揮を、一昨年で「レクイエム碑」の指揮を山本康之さんにバトンタッチされた、それまでずっと指揮をなさっていた益田遥先生がなさったのです。万来の拍手でした。

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益田遥先生は、私の高校時代の恩師です。もう90才になられるはず。この後の「群青」も指揮されました。本当にうれしくて来たかいがあったと思いました。

そして第二部。観音高校の前身の広島二中の一年生の全滅の記録の混声合唱「レクイエム碑」です。

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合掌が始まる前に、演劇部の後輩、里博康さんの朗読がありました。当時の広島二中の生徒たちの事、素晴らしい朗読でした。

合掌は、何回聴いても駄目ですね。すぐから涙涙で。マスクの中がぐちょぐちょになりました。一部だけ歌詞を転載します。

1序章  広島の川のほとり/少年の名を刻む/いしぶみの建つ/明日を思い/勉強にいそしみ/校庭をかけ回りし子ら/戦いありて/夢も果たせず/原子の業火に焼かる/石の肌つめたく/深く刻まれし/子らの名三百余/いまも変わらぬ/清い流れみつめ/子らは叫ぶ/広島の悲しみ/はてしなき怒り/警鐘を聞けと

2点呼
3爆発 千の太陽を/一瞬にあつめて/それは現れ/光と化してふいた/巨大な火の球が/空と大地をおおい/風と火が走って/広島を焼いた/音の消えた/しじまの中を/火だけがたけり狂い/風だけが走り荒れる/生けるもの/すべてを焼き/業火は地中すら/深くえぐる/子らは焼け/もえる砂をかきわけ/たぎる川に/追いたてられる

4川の中で 光にめしいた/友達が手を組んで/子らの丸き輪が/地獄の川に浮ぶ/浅瀬にとりつき/石垣をよじのぼる/生徒に手をさしのべる/傷ついた先生/きみは傷が軽い/元気を出して/がんばって/家に帰るんだ/わたしはもう/歩けない/だがきみは元気だ/さあ握手して/焼かれた広島の業火が炎が/川面に吹き付け/流れはわきたつ/傷重く力尽き/疲れた子がひとり/友の手をはなれて/叫びながら流れる/狂気の荒れる/地獄の川で/子らはけなげに/せいいっぱい歌う/日本ばんざい/お母ちゃんばんざい/もう一度あいたいよ/お母ちゃんあいたいよ

5時間割 
6まさちゃんお母さんよ
7船のなかで

8全滅  渋江君は/がん木の石段で/二日目の朝/涙の顔で/朝日を拝んで死んだ/手をとりあって/励ましあって/逃げた羽白君は/南くんと道ばたで/並んで息絶えた/お寺の救護所で/坪木くんはいじらしく/夢で親にあうから/いいよと/静かに息をひきとった/ほかの1年生たちは/家路の途中でたどりついた家で/つぎつぎに死んだ/日がのぼり 落ち/五日目の朝/最後の一人が/桜美くんが死んだ/8月6日が彼の誕生日/13才と5日を/せいいっぱい生きて/桜美くんは死んだ/父の歌う/好きな軍歌を/ききながら/父を見上げて死んだ/三百二十二の/1年生はみんな/原爆の中に死んだ/悲しみと/怒りに母は/身をふるわせて/はげしくうたう/烈し日の/真上にありて八月は/の底より/泣き叫びたき

9終章

泣きながら合唱を聴きながら、そして、思いました。よくもよくもこんなひどいことをしてくれたものだと。中学一年生、まだ12才か13才の子どもたち。すべての子を焼き尽くして。それが戦争というものかと。

 「4川の中で」に出てくる傷ついた教師、山本先生の遺児が存命だと分かって、2017年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に来て頂いてお話しいただきました。小野瑛子さん。(当時は英子さんと使い分けをされていました)それについては、ここから二日間にわたって書いています。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/86-2237.html

この時、小野瑛子さんは肺がんの治療中でした。お父様が亡くなる前の幸せな生活からはじまり、瑛子さんとお母さまはつぶれた家の下敷きになり、何とか這い出して助かったこと。お父様とお姉さまが亡くなった後のお母様との厳しい二人暮らしについて、つぶさに語って頂きました。その後、小野瑛子さんも亡くなりました。

 こんなものすごくひどい目に遭い、そして、何とか生き延びた方たちが「もう三度核兵器は使ってはならない」と本当に命を懸けて訴え続けてこられた、被団協の方々の闘いにも思いを馳せます。昨日のブログの続きは必ず書きます。

 

 

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被団協のノーベル平和賞の受賞について①

 日本被団協のノーベル平和賞受賞おめでとうございます。これについて、多くの報道に接しましたが、驚いたことがあります。

 一つには、受賞の瞬間の日本被団協の代表委員のコメントに何とも違和感がありました。嘘でしょうとほほをつねって、そして、うれしいと涙を流されました。この平和賞は、世界中に存在する多くの被爆者(核実験などによる)の事、核兵器の使用をちらつかせ、今も多くの市民が惨殺されつつあるガザやウクライナについて言及することもなく・・。(これについては、後で話されたようです)さらに、すでに亡くなっているあの困難な状況の中での先輩被爆者の方たちの闘いについての言及・・。国に対して核兵器禁止条約の批准を求めることなどの言及も。一緒にいたのが高校生の平和大使。もっと誰かが、もしも受賞したら、その時のコメントをと書いて渡しておくことぐらいしないといけなかったのでは?


 そして、驚いたこと二つ目。被団協のこれまでの闘いについての報道に、さまざまな被爆者の方たちの名前が出ていますが、どうして森瀧市郎さんの名前が出ないのでしょう。本当にびっくりしました。

 あまりに納得できないので、私はこれらの本を引っ張り出してまた読み返しています。被団協のこれまでの壮絶な闘いについて書かれている本です。

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読み始めたら、あれもこれもで、止まらなくなりました。頭がいっぱいになって、まとまりが尽きません。

「人類は生きねばならぬ」(この装丁は、今や弁当作家として注目されているナンシーさんです)には、数々の森瀧さんの文章や手紙が沢山収録されていて、今読み返してまた、感動しています。

「核兵器のない明日を願って」の最後には、初期のころから被爆者運動を闘い続けた方たちの座談会があります。これが、ものすごく良くって、どんな活動をしてきたか、と同時に森瀧市郎さんがどんなに迫害されてきたかもつぶさに出てきます。みんなこれを読むべきだと思います。

 今まだ混乱していますが、少しずつ書きたいと思います。

まず、核兵器のない明日を願ってから、の県被団協小史から。なぜ私が森瀧市郎さんを報道しないのかと怒っているその根拠です。

1956年5月27日  県被団協結成。代表委員に、藤居平一、井上昇、日野義隆
          各氏を選出。
     8月10日  日本被団協結成。事務局を広島に設置し、代表委員に森瀧
             市郎氏、事務局長に藤居氏が就任。
1959年4月16日  広島平和会館が広島市中区大手町八丁目に会館。県被団協
                          の事務局を同会館内に置き、会館の初代理事長に森瀧氏就任。
1960年8月    日本被団協が代表委員制を廃止して理事長制を取り、初代
            理事長に森瀧氏就任。
1961年5月28日  県被団協が代表委員制を廃止し、初代理事長に森瀧氏、
          事務局長に桧垣益人氏を選出。
1962年1月21日  日本被団協が全国理事会で「原爆被害者援護法獲得国会
          請願行動」を起こすことを決定。
1964年6月3日   原水禁運動の分裂に伴い、日本原水協支持派の被爆者が
          県被団協を脱退し、まったく同名の組織を結成。
1965年6月26日  日本被団協で初の理事長選が行われ、森瀧氏を再選。

このように、森瀧さんは、一貫して被団協の運動をけん引してこられました。

その闘いは壮絶といってもいいと思います。先述の座談会から。座談会の参加者は高橋昭博さん、池田精子さん、近藤幸四郎さんなど、初期の被爆者運動を文字通り闘ってこられた方たちです。なお、この座談会の司会者は坪井直さん。坪井さんが皆さんの運動を訪ねる形で進められています。というか、坪井さんは、これらの一番困難な時期の被爆者運動には関わっていらっしゃいません。

高橋   「原爆一号」と言われた故吉川清さんらが「原爆被害者の会」を結成
      したのが1951年のことでした。
      (会は間もなくして「八・六友の会」などに分裂していきますが、
      高橋さんや池田さん等は、この友の会に参加されます。中略)
池田   初めての原爆被害者大会が千田小学校で開かれたのが、1956年3月
     18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集

     まったような親密感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。

     それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚
     したら「ようあんな者もらってから」と言われ、子どもがいても
     「離婚して帰らせ、帰らせ」というようなひどい仕打ちを受けて、
     ただ我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった
     被爆者たちはお互いに手を取り合って泣き合いました。私も当時ま
     だ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢して
     きたね、よう生きて来たね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウ
     ォンウォン泣きじゃくりました。
      この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に
     45人で白いたすきをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と
     阿部さんも着物を着て、下駄をはいて参加しました。東京では鳩山
     首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつもの
      ように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだった
     か船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」
      と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と
     思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この

      原爆に焼かれた姿を見ちゃってください」と切々と訴えていま

     した。その後、県出身の池田勇人さんの私邸も訪ね陳情しました。
      この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もで
     きん」という話になりまして。それで私も早速、同時住んでいた畑
     賀の役場で被爆者の名簿をもらい、40何人かの被爆者がいたんですが、
    一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまし
    て、40人近くが集まってくれて、被害者の会を作ることができました。

この後、吉川さん、池田さんたちへの猛烈なあか攻撃、森瀧さんを引きずり降ろせという、保守の国会議員などの攻撃が起こります。長くなりました。また、明日に続きます。ノーベル平和賞をもらった今だからこそ、ここに書いておきたいと思います。


         

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講演の録画と研修会の参加

昨日の木曜の休診日、午前中にエソールで、性教育の講演の録画を撮りました。エソールのつながるシリーズの一つです。

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2時間しゃべりましたが、これを約一時間に編集されるそうで、まだどんなものになるか未定です。編集されたものを見て、私もこれならと思えば、また、アップされる時などにお知らせしますね。ただ、後から考えると、まだこんなことを話していないと思うものが沢山あって・・。日頃中学生などに話していることをそのまま再現すれば、と思っていたのですが。それだと、誰でもが観ることができるので、指導要領の関係などでまずいことがあるかもしれないと・・。難しいですね。結局大人向けの話になりました。

 その日の夜は、研修会に行きました。福島県立医大の小川真理子先生のお話しでした。

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せっかく遠方から来て頂いたのですが、他の研修と重なって、聴衆が少なくってお気の毒でした。小川先生は歯切れが良く、お話しが具体的で聞きやすかったし参考になりました。更年期のホルモン補充療法、当院でも沢山の方にしておりますが、これもどんどん進化して、副作用を軽減させるための新しい薬も出ています。どなたにも漫然と同じ治療を続けるのではなく、いろいろに工夫をすることの大切さを学びました。小川先生、ありがとうございました。これからは、若い小川先生たちの活躍の時代です。これからも大いに頑張られますように。

 また、その時にご一緒した先生たちとの情報交換にも、とても役立つことがあつて、やっぱりこのような研修会には参加するといいことが沢山あるものだと感じましたよ。


 

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ローゼル・食用ハイビスカスの実

月曜日、韓国語の李先生から、生徒みんなが「ローゼル」という実を頂きました。食用ハイビスカスの実だそう。これまで、こんな実の存在は知りませんでした。いろいろとネットで調べて大盛り上がり。塩漬けを刻んでおむすびにするといいみたい。ジャムもできる、砂糖漬けも、と。それぞれが作ったのをグループラインで写真を提供。私は、戴いた日の夜はできなかったので、翌日のお昼時間にクリニックで調理というか、それほどのことでもないのですが。頂いた実の一部。白いのは、生で食べた残りの種です。甘酸っぱくて、このままでも行けそう。

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実をむいて、種と別々にしたもの。種は、乾燥させて、あとで中から黒い種がでてくるそうですので、来年ベランダで撒きます。たくさん実がなると、ジャムにいいかも。

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鍋でガラスの容器を煮沸消毒。

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少しづつ一つは塩漬け、一つは砂糖漬けにしました。間違えないようにしないと。

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そして、今日。しんなりして、こんなに少しになりました。

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塩漬けは、明日おむすびにします。砂糖漬け、一旦カップにだして、できるだけ汁けを切って、キッチンペーパーに。

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グラニュー糖をまぶして、少ししてひっくり返してまたグラニュー糖を。このまま乾燥させます。さて、おいしいお菓子になったかな?

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器に残った汁は、お水で薄めて、飲みました。ソーダがあればよかったのですが。きれいなハイビスカスティーです。

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料理というほどでもないのですが、知らなかった食材をあれこれして、少しばかり癒しになりました。

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根岸先生との会話。

昨日の、京都での書き忘れです。根岸先生に「先生、おいくつになりましたか?」と尋ねたら、「81才」と。「で、いつまで続けられますか?」そしたら、「分かりません。まだやりがいがあります。それがある間は続けます。私を必要としているだれかがいる限り」と。「で、河野先生はいくつに?」「77才です。」と言ったら、「わっかいねー」ですって!!私、若いと言われたことなんてないのでびっくりしました。「でもね、先生、おっきな船にのって、外国に行ったりしたいと思いませんか?」というと、なんか、ちょっとね、癒しがあるといいなとは思いますよね。」と。「きっと先生は、死ぬまでされるんでしょうね。」と言ったのですが。多くのHIVの患者さんたちが先生を頼りにされているのだから、先生も、できる限り力になりたいと思われているのでしょうね。素晴らしいです。

 今日から、広島そごうは「秋の北海道展」です。早速今日のお昼にラーメンを食べに行きました。札幌ラーメン「原、」原点、がパソコンで出すのは難しいです。

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1時半ごろに行ったのですが、行列。並んで待ちました。並んでいる時に見つけました。

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もちろん、クーポンをもらいましたよ。ラーメンは味噌ラーメンにするか迷った末、味噌コーンバーターラーメン。

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バターの塩分が加わって塩っ辛くないかと心配したのですが、いいえ、そんなことはなくって、とっても美味でした。コーンの甘さとバターはまろやかで、それはおいしくって。でも、やっぱり全部は入りませんでした。あんまりおいしかったので、もう一回食べに行きたいと思っています。

 明日の木曜日は、午前中は性教育の講演のYouTube用の撮影です。夜は、研修会。二つ重なっているので、どっちにしようかと迷っています。
 

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AIDS文化フォーラムin京都②

すみません。AIDS文化フォーラムin京都での「薬害エイズの和解から学ぶ感染症との向き合い方」を聴いていて、いろいろと思い出してしまって、それはきちんと書いておかなければならないことなのですが、すみません。お話しの中に、沢山の亡くなった方たちの事が出てきて。まとまりがつかなくなってしまっています。

 ごめんなさい。メモリアルキルト・ジャパンのキルトの会場では、何人もの方たちがテディベアを作っていらっしゃいました。その中の最新作をプレゼントして下さいました。ありがとうございます。クリニックに斎藤さんのお母様の絵と共に飾らせていただきます。


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会では、根岸先生の資料が配られました。

「病気を誤解しないための要点」
HIV感染症などの性感染症は誤解を生みやすい病気です。誤解しないようにするには、病気の三つの側面についてのご自分の知識を整理しておくことが大切です。
1.医学的・科学的知識を整理する。
2.医療でできることを整理する
3.社会的イメージ・受け止め方を整理する。

この整理をするための資料として、HIV感染症をめぐるさまざまな出来事を整理した年表を作りました。参考にしてください。と。

ものすごい年表です。ありがとうございます。

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HIV人権情報センターだとか、ライアンホワイト君をめぐる差別、そして、死なども含めての暖かい講演でしたが、何分にも時間がなくって、残念でした。三人で一時間という時間設定がそもそも無理な事だったと思います。

斎藤洋さんのお話しも。今まで、私は斎藤さんがアメリカに行った時に、膨大なキルトを人々が囲んで泣いたり話をしたりしているのを見て・・。そして日本に帰って、メモリアルキルトジャパンを作ったと。乱暴に言えば、その様な私の認識でしたが、それを詳しく話をされて、改めて、これは斎藤さん自身が持っている感性と暖かさがあって、こうなるのは必然であったと思いました。根岸先生がお勤めなさっていた都立駒込病院で初めて亡くなった薬害エイズの患者さんとその妻の方、そのお二人を偲んで、でも、名前は出せないので、イニシャルだけのホワイトキルト。これは駒込病院の看護師の方たちが作られたものです。石田吉明さん、赤瀬範保さん、屋敷恭一さん、後で平田豊さんなどなどのお名前も話の中に出てきました。


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 これらの方たちとの私の思い出にも胸がふさがりそうになりました。広島でのキルト展の後、キルトをもって平和公園を歩いて、その後で資料館の下でキルトを囲んでみんなで話した時。「なんか、人を信じられそうな気がする」との言葉を聞いて、高田先生が涙ぐんだりしたこと。

 広島エイズダイアルでやった様々な研修、全国一斉の電話相談、そして、独自で保健所の匿名検査の調査をしたこと、その発表会が爆笑の数々で、県の役人の方が「大恥をかいた」と汗びっしょりになっていたこと。広島のソープランドで一斉にコンドームを使うように働きかけたこと。ソープランド組合の組合長に会いに行ったこと。市が講演会を開いてくれたこと。講師に私が行ったら、広島市の職員の方が私にこちらに座って下さいと、ソープの人たちの席に案内されたので始まるまでその席に座っていたことまで思い出しました。

会が終わっての閉会式です。ピンクのコンドーム君は、名古屋から来られたそうです。

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開場では、金沢の今井さんにもお会いして、統一教会の話で盛り上がりました。

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会の後で、根岸先生のお泊りのホテルの一階の居酒屋で、食事をしてさらに話が弾みました。


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京都の皆様、大変お世話になりました。ありがとうございました。また、どこでお会いできれば、うれしいです・・。

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AIDS文化フォーラムin京都①

昨日は、AIDS文化フォーラムin京都に参加しました。5日(土)6日(日)の2日間、多彩なプログラムが開催されました。私は、6日の午後のみの参加でしたが、それでも、圧倒的な雰囲気に押されて、打ちのめされたようになって帰ってきました。そして、毎年、これだけのイベントを続けられる皆さんの努力にも、打たれました。

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 斎藤さんに送って頂いたプログラムを眺めていて、アッと気づいたのが、私が聞きたいと思ったそのプログラムの前に、池田裕美枝先生の「わたしのからだだから~SRHRと社会資本~」の講座があるではないの。それにも行こうと思いました。日帰りで少々きついスケジュールではあるけれど、行くからには、有効に時間を使いましょうと。もちろん、一番の目的は、—最後の全大会「薬害エイズ和解から学ぶ感染症との向き合い方」です。根岸昌功先生と、斎藤洋さんのお話し。


 会場の龍谷大学には、京都駅から乗り換え乗り換えしながら、行きます。駅に着いた時、斎藤さんが迎えに来て下さっていて、ありがたくて。そうしないと私、すぐそばなのに、きっと反対方向に行っていたと思います。そして、到着すると、根岸先生がいらっしてました。30年ぶり。先生は、なんと、思いがけなく、ハグして下さいましたよ!!うふふ、昨日あんなブログを書いたばかりなのに。


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 ご挨拶と、少しお話しして、私は、池田先生のSRHRの講座に行こうとしましたが・・すでに講座は始まっていて、入り口が前しかなくって。うしろから、そっと入って、池田先生にみつからないようにしようと思ってたのに。だって、池田先生に何も言ってなくって、突然私が行ったら、きっとうん?なんで河野が?と思われるだろうと。どうしようと思っていたら、スタッフの方が一緒に入りましょうと押して下さって。マスクに眼鏡で分からないように入ったのですが、やっぱりバレバレで。池田先生には申し訳ないことをしました。「どう見ても、河野先生だと、緊張してしまって」と言われました。一人の少女の出産に社会的資源とどう繋いでいったかという、事例に基づいてのお話しです。みんなでグループに分かれて話し会う時、池田先生から一緒に活動している仲間に紹介して頂いて、その人たちと話しをしました。そして、一人ずつ発表をする時に皆さんにわたしも紹介して頂いて、私は少しだけ、若い人が出産する時のさまざまな問題に加えて、特別養子縁組のお話しさせていただきました。池田先生、本当に突然行ってすみませんでした。でも先生のご活躍、うれしいです。講座が終わった後、池田先生とお仲間と一緒に記念写真。

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 広い会場全体に様々な団体の様々な活動の紹介がされていて。

斎藤さんたちのメモリアル・キルト・ジャパンのキルトも沢山。


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 そして、いよいよ全大会。「薬害エイズ和解から学ぶ感染症との向き合い方」です。これについては、私は自分の広島エイズダイアルでの事を色々と思い出しながら、沢山の亡くなった方の事も想いながら、胸が詰まりながら聞いていましたので、冷静ではありませんでした。演者の一人である斎藤さんがフェイスブックにまとめていらっしゃいますので、それを一旦フェイスブックにシェアさせていただいたのですが、このブログにももう一度転写させて戴きます。



AIDS文化フォーラム in 京都 終了しました。
昨日は、東京四ツ谷の、ねぎし内科診療所の根岸昌功先生が、仙台からは「ネットワーク医療と人権・MARS」の和生治友さんが来られ「薬害エイズ和解から学ぶ感染症との向き合い方」というテーマの全体会に、私も加わり語り合いました。
アメリカからの非加熱輸入血液製剤により血友病のある人の1.433人が感染、2023年5月末の統計では、742人が死亡しております。この明らかな薬害に対し国・製薬会社の責任を問う訴訟は、
1996年3月被告が責任を全面的に認め和解が成立。国は被害者救済を図るため原告らと協議をしながら各種の恒久対策を実現させることを約束しました。
その結果、全国の拠点病院の充実、治療法の劇的な進化もあり、HIV/AIDSによる死亡率は減少し、今は慢性疾患の一つのようなコントロールしやすい病となってきています。(ただ同時期に肝炎ウイルスに感染していた人たちもいて、肝炎由来で亡くなる人たちも多くおられます)

私たちMQJ(メモリアル・キルト・ジャパン)に最初に託されたキルトは白い布(がら紡綿布)に御夫婦のイニシャルのみが縫い付けられた、ごくシンプルなものでした。1991年3月末、このキルトを届けてくださったのは、当時、都立駒込病院感染症科医長の根岸昌功先生でした。
HIVにより汚染された血液製剤により感染した夫、2次感染した妻。他界された後、看護士の方たちが決して忘れまいと制作されたものでした。
私たちと共に33年半歩いてきました。
その根岸昌功先生と共にステージにたち、その「ホワイトキルト」の前で話した時間は、言葉に尽くせないものがあります。
🌿メモリアル・キルト・ジャパン↓

 https://mqj.jp/

そして、この会は、すでにユーチューブにもアップされています。

次回、もう少し、続きますね。

 

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ハグ

A子さんは、20代前半。知的障害があります。お母さまから、障害があるのですが、生理がなくなったので診てもらえますか?とお電話が入りました。どうぞ、連れて来てあげて下さいとお答えしました。障がいがあってもなくても、生理がない時には、まず腹式の超音波でおなかから子宮や卵巣を診ます。先ず大切なのは、子宮や卵巣に病気がないかどうかもそうなのですが、妊娠していないかどうかも大切なことです。ご家族が知らないうちに、性被害を受けていることもあり得るからです。でも、障害の程度によっては、ベットに寝るのを嫌がられることもあります。そんな時には、無理強いはしませんが、少し当方に慣れてから、改めと見させてもらうこともあります。そのためにも、生理が来るお薬を飲んでもらって、それが効くかどうかを見ることで、妊娠はクリアです。中には、7年かかって、やっと超音波を見させてもらったこともあります。

 A子さんは、子宮も卵巣も異常はありませんでした。でも、長い間生理がないとなると、何らかのホルモンの異常があります。それには、血液で調べなければなりません。

 血を取らせて下さいねというと、とても悲しそうで。お母さまによると、注射が大っ嫌いとのこと。でも、採血しないと原因が分かりません。検査室で、わーん、わーんと泣き声が聞こえます。でも、ちゃんと採血できました。もう一度診察室に入ってくると、まだなみだ目です。痛かった?と聞くと、痛かった、痛かったと。ごめんなさい。でも、頑張りましたね。もう、これで検査ができますからね、というと、ナースに向かって、

「お姉ちゃん、血を取ってくれてありがとう」

と、なんと可愛いい。今度ホルモン検査の結果を見て治療することにして、また一週間後に来て下さいね。というと、

「先生、ありがとう」と言って、なんと、両手を広げて私にくっついて来て、そして、ハグしてくれました。私もしっかりハグしましたよ。ちょっと太めの体がふわふわして、とてもいい感触でした。

彼女は、お姉ちゃんも、とナースの方に歩いて行って、ハグしています。

 私、しあわせでした。考えてみれば、もう何十年もハグなんてしたことがありません。孫が小さい時に抱っこをしたことはあるだけです。人と人が抱き合うって、ほんと、心地いい事なのですね。胸がほこほこしていました。

 そして思いました。こんなに素直に思いを表現できる彼女は、なんと幸せな人なのでしょう。それだけでなく、人に幸せを分けてあげる素敵な人だと、そう思いました。

久しぶりに青野さんのお花です。すっかり秋の花になっています。

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特別養子縁組

 今年1月に生まれて、特別養子縁組の申請をした二人の赤ちゃんについて、次々と特別養子縁組成立の報せが、各家庭裁判所から来ています。良かったよかった、ても、さあ、これからですね。本当の親子となっての子育てが始まります。

 先日、京都に斎藤道子さんの遺作展に行った後、特別養子縁組を申請している関西の親子さんに会いに行きました。家族の都合と、私の列車の関係で、新幹線の駅での対面となりました。家庭裁判所から来た問い合わせに私が回答をした、そのコピーをお渡しして説明をしたいのと、実母さんから、赤ちゃんにプレゼントをあずかっていたのを直接渡したくって、無理を押して会わせてもらいました。

 久しぶりに会う赤ちゃんは、見違えるほど大きく、しっかりしたお顔になっていました。

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実母さんからのプレゼント。

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私も抱っこ。赤ちゃんの感触はいつも気持ちいいです。

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この間、両親がずっと「かわいい、かわいい」と言っています。もう、本当に可愛くってかわいくってたまらない風です。

先日、100日のお食い初めをしたと写真を送ってもらいました。両親のうれしい笑顔、赤ちゃんの可愛いお顔を見てもらえないのが残念。

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可愛い、可愛いと一日百回は言っているから、100日でもう一万回言ってるね、と笑うお二人。

赤ちゃんはきっと幸せになります。無事申請が通りますように・・。

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三次市塩町中学校でお話ししました。

今日は、三次市の塩町中学校の三年生(男子42名、女子18名、なぜか圧倒的に男子が多いのですが)に話しに行きました。三次市の教育委員会から私を派遣して下さっています。この素晴らしい校舎、見覚えがあります。6年前に一度行ったことがあります。中の作りもすごいのですが。

 9月3日のブログに書いた学校です。

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体育館もおしゃれ。

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玄関に。うれしいです。

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お手紙を下さった先生、今日の司会をして下さった三年生の担任の先生に、きっとこの先生だと思って、お手紙をくださいましたか?と尋ねたら、ずばりそうでした。「ありがとうございました。あんまり素晴らしかったので、ブログに書かせていただきました。」とお礼を言いました。生徒さんたちの後ろには、保護者の方も来て下さっていました。

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 生徒さんたち、食い入るようによく聞いてくれました。終って、質問をと尋ねたら、質問ではなくって感想ですと男子生徒さん。「エイプリルフールの話がよかったです。」と。そうね、みんな知らなかったでしょう。出産の予定日の話です。良かったね知ることができて。感想、ありがとう。と言ったのですが、後で、特別支援学級の生徒さんだと聞いて、よけいうれしかったです。しまったなあ、走って行って、握手すればよかったなあと後悔しました。

生徒さんたちには、皆さんに三次市のデートDVのパンフが配られました。とても良くできたパンフ、これを中学生に配るというのが素晴らしいです。

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例えば、こんなのも。

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終わって、教育委員会の行政さんと校長先生とお話しして。帰り。もうこの事業も20年続いたと。今回でたぶん終わりです。本当にありがとうございました。中学生に話すという、大切な時を過ごさせていただきました。心から感謝申し上げます。

 実は、帰りは世羅に回ってコスモスを観ようと思っていたのに、雨で諦めました。とっても残念。代わりにワイナリーに行って、買い物をして帰りました・・。ワイナリーも、もういつ来れるか分からないなあと。ワインではなく、ぶどうを買って帰りました。

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三次市の皆様、本当にありがとうございました。感謝しきれないけれど、感謝しかありません。

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骨盤底筋を鍛えるマシン

私が年を取って、患者さんもお年の方がずいぶん多くなりました。年取った医師のほうが、若い医師より話し易いのかも。年配の方の中には、尿が近い、漏れるという方、そして、膣が緩んでいる、中から何かが下がるという人もとても多くて。子宮下がったり、膀胱が下がったり。人知れず悩んだ挙句に来られます。ひどい方は手術をお勧めします。手術までではないなという方には、ペッサリーという弾力のあるわっかを入れて支えます。ペッサリーにはいろいろな大きさがありますが、その方にピタッと合うのを見つけるために、何回かかかる方もあります。ちょうどいいのが収まると、3・4か月に一回は洗浄に来ていただきます。

 尿漏れの方も膣が緩んでいる方も、キーゲル運動という、骨盤底筋を鍛える体操をお教えするのですが、これがなかなかなのですね。毎日頑張ってこの体操をする方はあまりありません。で、脱が進んでしまいます。

 あまりにこんな患者さんが多いので、骨盤底筋を鍛える椅子を買いたいとずっと思ってきました。服を着たまま、椅子に座るだけ。多くの方がこれで助かるのだけど・・と。でも、高価なので悩んでいました。高価なのを買って、それでちゃんとペイできるかどうか・・。で、悩んでも仕方ない。多くの患者さんのため。買いましょう。でも、どれを?ろいろいろと調べて、結局買いました。

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電磁パルスで筋肉を鍛えます。座るだけで骨盤底筋を刺激します。15分でスクワットを一万回したほどの筋肉への運動効果があると。パルスの強さはその人に合うように調整します。一回、20~30分。できれば、週に2回。1回でも大丈夫です。尿漏れは、比較的早く改善されるようです。若い人は、ヒップアップやダイエットにいいそうですが、私は年配の方用に買ったので、若い人にまで宣伝するつもりはありません。もちろん、若い人でダイエットのために使いたいと言われる方があれば、それはもちろんO.K.です。あ、それから男性の頻尿にも効果があるそうです。

 料金ですが。悩みました。地域によって、30分5千円とか、銀座などでは、1万5千円とか、そんなのを知ると、これは高いと思ってしまいます。で、結局、当院では20分で2000円、30分で3000円にしました。ただし、回数券を作って、5回分の料金で6回施術できることにしました。もちろん、ちょっとやってみたいという、お試しは無料です。どうぞ座りに来てみて下さい。どうも、クリニックの宣伝は気恥ずかしいというか、やりにくいのですが。でも、これはきっと喜ばれると思うので。

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子宮頸がん予防ワクチン1回目、今月も大丈夫。

HPVワクチン・いわゆる子宮頸がん予防ワクチンが無料となるキャッチアップは、来年3月までで終了と、ここでも何度も言ってきました。3回うちますので、その間隔を計算すると、一回目をうつのが9月がタイムリミットと。しかし、広島市のホームページを見ていて、こんなことが出ていました。すべて広島市のホームページからです。

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15才未満に一回目を打てば、2回の接種でO.K.これは以前から言われていることなのですが。その下の段。これまで私たちは、15才以上の場合、一回目から2か月明けて二回目を。それから4か月明けて三回目をと。だから、9月までに一回目を打たないと、3月までに全部無料で打てないと。でも、ここにははっきりと、1ケ月以上と3ケ月以上明けるようにと。これで行くと、今月、10月に一回目を打つのでも大丈夫です。
ワクチンは、絶対にうった方がいいです。無料の内にどうぞ。

ホームページの一部を、もう少し。

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高校一年生、気を付けて下さいね。今、先輩たち、高校2年生や3年生がうっているので、自分たちも2年、3年になっても打てるという風に思いがちです。でも、先輩たちは、キャッチアップとして例外として今うっているだけで、そのキャッチアップも来年3月で終わるのですから、皆さんにも3月で終了となります。今の内に打ちましょうね。

そして、これも。以前、1回、または2回でストップしてしまった人。おそらく、2価または4価の接種だったことと思います。残りは9価、シルガードを打てますので、足りない回数をうちにいらっっしてください。それもホームページに出ています。

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当院では、ワクチン接種は予約をして来て頂いています。ワクチンを購入しなければならないからです。打つ前には、詳しくお話ししますが、ワクチンは絶対にうった方がいいです。これも言ってきましたが、早くからほとんどの人にうっている国は、10年経って「我が国は子宮頸がんは克服した。これからはごくまれにみる珍しい病気になるであろう」と克服宣言をしています。そして、まだまだ多くの人がうっていない日本では、毎年1万人がこの病気にかかり、毎年3000人が亡くなっています。そして、20代で、これから子どもを産みたいと考えている時に、子宮頸がんで子宮を取らないといけなくなった人が、今、日本では毎年1000人もいるのですね。

 一回が3万円もするワクチンが無料でうてる今が接種のチャンスです。もうすぐタイムリミットが来ます。

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性暴力救援センター全国連絡会全国研修会

9月28・29日は、全国性暴力救援センター全国連絡会全国研修会でした。

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全てきっちり聞いて、ずいぶん勉強になりました。すべてをここに語ることはしませんが、違和感もいくつか。

一つは、言葉の問題。行政の世界や法律の世界では、違和感を持つ言葉がいずいぶん使われるのだなあと。

「性非行」まだこんな言葉が生きていました!それから、児童虐待の中の「ネグレクト」。そして、検察の方の言葉の中の「初期汚染」。

「性非行」性教育の中では、とっくに消えた言葉ですが。児相では普通に使われているのですね。何をもって「非行」とするのか、聞いてみたいと思ったのですが、聞けませんでした。うんと昔は、例えば高校生がセックスをすることを「性非行」と呼んでいた時代もありましたが。今は?定義は何なのでしょう。

「ネグレクト」。例えば、父母などが子どもの養育をきちんとしないで、食事も与えなかったりお風呂にも入れなかったり、要するにほったらがしにしている事・・。そうなのですが。でも、異なる使い方もされています。兄から、妹への性的行為。これはとてもあることなのですが・・。これも児相の統計では、「ネグレクト」いうのです。これは、もうずいぶん前から私は違和感を持っていました。「兄からの性虐待」ではないのです。「ネグレクト」なのです。「虐待」は、あくまでも親の立場にいる人のみの事。だから、兄から被害に遭っている事を両親などの監護者が「放っておいた」から「ネグレクト」なのですね。これは、もういいかげん、言葉を改めて「兄からの性被害」とすべきことと思います。そうしないと、現実を投影していない統計となってしまう。それを私は質問したのですが、児相の方の返答はちゃんとしたものではありませんでした。その方が児相の所長をしている間には、これを改めようという動きはありませんでした、とだけでした。


「初期汚染」。なんだと思います?今、子どもの性被害は、何度も被害者が尋ねられることがないように、一回だけ「司法面接」で、被害の状況を聴くこととなっています。それは、録画され、裁判まで有効な証拠となります。でも、その前に人からあれこれ聞かれると、それによって誘導されることがあります。特に、被害を告白された人が、根堀り葉堀り尋ねることは、禁です。それは、司法面接ですることになっています。でも、私たちは診療の場で、まだ司法面接がされていない場合は、どこまで聴いていいのか、とても迷います。被害の状況が分からないと、どこまで診察をしていいのか分からなくなります。警察や児相から「司法面接前ですから、尋ねることはしないでください」と言われると、本当に困ります。傷の事や性感染症の事など、丁寧に尋ねないと、ちゃんとした診察ができません。そして、司法面接の前に尋ねることを「初期汚染」というのですね。面白いなあと思いました。私たちは、汚染源なんだと。検事さんは何度も「初期汚染」と言われたのですが、でも、ワンストップの方が普通に「初期汚染を防ぐために」と発言されたのを聞いて、そうなのか、その言葉に抵抗ないのだなあ、でも私には使えない言葉だなあと思った次第です。

 言葉にこだわるのは、筋違いかなと思いますが、でも、言葉ってとても大事なのですね。差別や人を傷つけることは、言葉によってなされるのだから。

 それから、ワンストップセンターが全国に作られても、その働きはずいぶんと異なります。その違いの多くは、「お金」。ワンストップを作れというだけ言って、できあがっても、そこに予算措置というか、お金の投入が本当にまちまちなのですね。多くの箇所は、スタッフの「ボランティア」意識によって支えられています。でも、そのボランティアの人たちも、仕事も生活もあります。ボランティアのために持ち出しになることも。で、一番悔しいのは、予算不足で十分に被害者の方にケアができない事。もっと、国がちゃんと予算を付けるべき。各自治体任せではなく、基準を作り、国が責任をもって予算をちゃんとつけること。

 そんなことが明らかになった会だったと思います。

会の写真はとれないのですが、懇親会。

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 そして、二次会。二次会は多くの方が来て下さって、すみません。ちょっと予想外で、椅子が足りなかったり。でも、折角の「カフェパセ」のママの美しいお料理の写真を撮り忘れて、ごめんなさい。ああ、残念。

ちなみに、二次会の写真。写真の私の隣。SACHICOの加藤先生が来て下さって、とてもうれしかったです。私が手に持っているのは、残っていたブドウをT先生の息子さんへのお土産にしようと思って。そうそう、ブドウはピオーネとシャインマスカット。このどちらも、広島県で品種改良で作られたものです。ピオーネは三次で、シャインマスカットは、安芸津で。

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二次会からの帰り、少しの方ですが、私のクリニックに来て下さって、ありがとうございました。買ったばかりの骨盤底筋体操の椅子に座ってみてと言って、来てもらいました。記念写真。

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関係者の皆様、お疲れさまでした。こんなことを書いたけれど、勉強になったことが沢山でした。本当にありがとうございました。

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