第二回ヒロシマ・アキバ塾でのお話し。続き
第二回のヒロシマ・アキバ塾で秋葉さんは、まず前回の講義のまとめの一つ、都市というものをパッチワークキルトのイメージを頭においていてほしいと、そこから入りました。
必死でメモを取りましたが、長くて書ききれない二枚だけ写真を撮らせてもらいました。一辺と一辺がつながっているキルト。その一辺に共通点があります。そのさらに向こうとは直接つながっていなくとも、一枚の布を通してつながっています。一枚ずつみんな違っている布が全部あつまると、美しく、温かい、強い一枚のベットカバーになります。
東日本大震災後の日本。被爆者は「あの時と同じだ」「とても他人ごととは思えない」「何かしなくては」「何かしたい」・・・・「他人の痛みのわかる心」被爆者の心でありました。
ここで、廃墟と化した二枚の町の写真が出ました。第一次世界大戦のベルギーのイーペル市と東京大空襲です。焼夷弾(ベトナム戦争のナパーム弾と同じ)による高熱火災、これらの廃墟の姿は、被爆直後の広島、長崎と同じ姿です。では、核兵器とは・・・。
広島・長崎の二枚のきのこ雲の写真。これらは、爆弾を使う側、国家の視点からの写真です。問題は、きのこ雲の下で何がおきたのか。戦争の被害を受けた側の視点ではどうなのでしょう。
地上600メートルで爆発した原爆は、もっとも効果を持つために、科学者たちにより緻密に計算された成果でありました。
地上で起こったこと。
地上は3000から4000度の高熱。(鉄の融点は1500度)
1平方メートルあたり19トンの圧力。
風速毎秒280メートル。
爆心地から半径1キロメートル範囲に致死量を超える放射線。
これらにより、年末までの死者14万人。今も、被爆者は複数のがん(これが被爆者の特徴でもあります)にかかって亡くなり続けています。
原爆のエネルギーは熱線35%、爆風50%、放射線15%。
さらに、マッハ波・爆風とその反射による(行きと帰りの)波の効果を最大にするための計算。
科学者にとって、原爆を作ることは大変おいしい(sweetな)仕事でもありました。スーパーコンピューターを何台も使わなければならないような計算、高度な微分積分方程式をを解く必要ががありました。それを、手作業でしなければなりませんでした。(それが成功したときには、科学者にとって、大変な達成感だったことでしょうーこれは河野の感想です)科学者はまず作る。そのあとで使い方は決める。これはオッペンハイマー氏の言葉です。
そのような原爆の効果により、人々はどうだったのでしょう。黒焦げになった死体、目玉がとび出た人、両手の皮をぶら下げて歩いている人、髪の抜けた人、顔に内出血の斑点が出た人、顔に大やけどを負った女性、などの写真や被爆者が書いた絵などが次々と紹介されました。
その後67年間の被爆者の軌跡=奇蹟。
被爆者の生活。それは医療、着るもの、食べ物、住まい、仕事、結婚、子ども、教育、楽しみ、生きがい、移動手段(交通)、情報源(マスコミ)、家族、隣近所・・・・などなどによって成り立っていたでしょう。
市内の医療関係者の3分の2が被爆で亡くなり、薬もなく、不十分だった医療。生活苦。様々な差別。原爆についての情報なし(1952年までプレスコードが続きました。原爆についての一切の報道は禁じられました)。被爆者についての行政の調査はやっと1951年に始まりました。
1957年に原爆医療法制定。被爆者健康手帳、ABCCの問題。(これについては、私も何回か話していますが)、特に、原爆小頭症について、胎内被爆者のうちの妊娠3~17週までの間に被爆した人のうち、頭が小さい知的障害のある人がいるということは、ABCCも把握していたと。それを公にしていなかったのを、山内幹子さんの内部告発で明らかにかになったということでした。これは私は知りませんでした。
もう少し話は続きますが、私の時間が無くなってしまいました。ごめんなさい、また明日続きを書きます。きょうは診療後高速バスに乗って松江に行きます。自分で運転するのは少ししんどいなと思ったので、バスにしました。バスは好きだけど、夜だから、何も見えないでしょうね。
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