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2024年4月30日 (火)

技術の哲学とは?

先日、科学哲学について少し書いた。

科学哲学の学び直し その1: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

科学哲学の学び直し その2: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

科学哲学についてまとめ: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

これを書いていて思ったことは

モノ作りや技術面に関する哲学は?

と言う疑問である。もう少し言えば

科学哲学の「理想世界」発想を前提にした技術論・モノ作り論

があるかという議論である。私はこの問題に関しては、昨日の記事

日本はなぜ対応できない: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

も絡んでいると思う。つまり

モノ作りの姿が見えないから投資も出来ない

状況である。

私の考えでは、技術として使えるようにするためには、理論側では

理論が相互につながり網にようになる
そこから具体的な現実に降りてくる

状態が必要だと思う。使える知識は縦横の広がりが必要: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

一方、現場の側では

状況を抽象化し理論を適用

と言う努力が必要になる。

こうした、組み合わせの努力が必要だと思う。

これで少し思うのだが、私の学生時代に

工学部でも設計論を学んでいない

と言う状況であった。

この辺に一つの原因があるように思う。

2024年4月29日 (月)

日本はなぜ対応できない

先日、ある番組で

「日本の経済落ち込みは、アメリカの陰謀でなく自滅」

という発言を聞いた。これをインテル社の話から、少し考えてみた。

インテルが初期に作った、8080等のマイクロプロセッサは、当時主流のTTLを駆動する力もない、ひ弱なモノであった。この理由は

主要なグランドラインが十分な太さがない

という、回路設計者としては甘いというレベルであった。しかしながら、インテルは

8080等の初期利益をCAD等の充実にあて
しっかりした設計が出来る会社に成長

した。

これに対して、日本多くの企業は

バブル経済で得た利益を不動産等

にしか投資できていない。これが大きな差を生んでいると思う。

もっとも

自社技術への投資は失敗も大きい

という側面もある。そこで、日本では

石橋を叩いて潰す

人罪が力を持っている。

アメリカでは

多くのベンチャー企業が生まれ
くの企業が潰れていく

厳しい市場原理

が働いている。もう少し言えば

会社を潰すことに価値を見いだす

発想がある。これが日本との違いだと思う。

2024年4月28日 (日)

科学哲学についてまとめ

科学哲学を学ぶと、現在の科学の価値観として

一般的・総体的・体系的な知識
できちんと説明する

が出てくる。もう少し言えば

明確な因果関係の見える
理想化したモデル上での議論

が科学の前提にある。

これを理解していると

社会科学系の乱立した主張

の理由も分かってくる。テイラーが「ずく運び研究」を行ったときは

個人の感情要素を排除できる人材

を選んで試行錯誤した。その根底には

やる気に依存した管理
に対する反論として
科学的合理化

という発想があった。

しかし、その後の追従研究者は

感情要素が無視できない

という結果で、別の議論になっている。

こうした状況は

モデル化の前提の違い

としてきちんと理解すべきである。

2024年4月27日 (土)

科学哲学の学び直し その2

昨日書いた、科学哲学の話は主に

物理学を中心とした自然科学

の話であった。今回は、社会科学の分野で考えた。社会学などでは

物理学を理想とした理論体系

を求めるため、色々な努力が行われている。

例えば

マックス・ヴェーバーは理想的な条件での理論展開のため「理念型」

デュルケムは統計的数値と逸脱の分析

等の動きがある。しかしながら

社会科学では近似の発想が出来ない

という問題がある。つまり、天体運動では、太陽・地球の関係に対して、月の関係は、十分に弱いので

月を無視という理想化が成立

精度を上げるため
月の影響を摂動として加える

手法がつかえる。

しかし人間的な要素が変わる社会の話は

理想化から落ちたモノが大きな影響

ということもある。ヴェーバーは、社会学のモデルで「意味ある行動」を求め「因果関係」を明確にしようとした。

しかしながら、そこで無視した

社会慣習・宗教等の価値観

は、社会の動きに大きく影響する。また、統計的手法も

ランダムな動きなら大数の法則

であるが

価値等の影響で全体が動く

場合の説明は難しい。

そこで、こうした社会科学の

誤る可能性

を考慮した利用法が必要になる。

こうした考えが出るのも

科学哲学思考で方法論を評価

しているからだと思う。

2024年4月26日 (金)

科学哲学の学び直し その1

科学哲学を学ぶと

現在の物理学は理想化状況で成立

という、前提がよく分かる。例えば、ニュートンが星の運動を考えると

質量が1点に集中した質点
太陽と地球の1対1関係

に理想化して、万有引力の法則を導いた。物理学者や天文学者は、このような理想化についてよく知っていて、例えば地球については、月の影響を加味するなど

近似精度の向上

に務めてきた。その結果、天王星の軌道のずれから、海王星は発見された。

海王星の発見 - Wikipedia

こうした経験も踏まえて

ニュートン力学の軌道計算が現実と狂うなら
新しい星を見いだす

という発想で

ニュートン力学を守る

発想が生まれてきた。こうした

主流理論を守る

発想は、科学の成立条件を知っているからこそ生まれると思う。

2024年4月25日 (木)

福知山線脱線事故から19年の経過

福知山線脱線事故から19年が経過した。この痛ましい事故に関して

当時の報道から感じたモノ

をもう一度見直し、現在の報道から感じる違和感から、本当の問題点を考えてみたい。私が今の報道で感じる違和感は

当時あった運転手の異常行動

への追求が見えなくなり

JR西への追求

だけが目立つ状況である。確かに、JR西の当時の対応にも問題はあった。しかし

不適正な運転手対策

という、もう一つの問題が忘れ去れているのではないか。確かに

個人の適性に対しての議論

人権問題

が絡むので、取り扱いは難しい。しかし、人の命の問題に関しては、不適正者の排除の議論は、避けて通れないと思う。思えば、日航機の逆噴射事件で、パイロットの精神的な病気を調べる様になった。また、自動車事故で「てんかん発作薬を服用忘れ危険性」も、少しは議論が出来るようになった。

こうした観点から

攻撃しやすい会社の体制

だけでなく

人に危険を与える病的なモノ

への議論も行うべきだと思う。

2024年4月24日 (水)

日本の神様の状況

今の日本は、色々なところで

祟り

がでているように思う。その原因の一つには

祭られなくなった神

があると思う。江戸時代までは、村の鎮守様として親しまれた神が、明治になると国家神道で、変に強制されるし、祭祀もおかしくなっていく。また、合祀ということで、無理矢理移されたりしている。これに加えて、戦後昭和からの合理的・科学的な思考がある。

この結果、昔あった自然に対する畏敬の念がなくなっている。食べ物も、苦労して作っている人の姿を見ず、コンビニやスーパーで、パック詰めを買っている。

こうして、感謝の心が薄くなり

拝む心がなくなる

神の力が弱くなる

のが現状ではないか。もう少し言えば

悪い方向の神

になった可能性がある。これが現状ではないかと思う。

2024年4月23日 (火)

一冊の本の情報

今のスマホ時代を考えると

一冊の本を読むということの意味があるのか?

つまり

必要な情報を切り取って与えてくれる
状態ではないか
そこで時間をかけて本を読む必要は?

という感じがしてきた。これに関連して

小中学校の教科書の断片性

を思うと

スマホの切り取りでもよい

という議論が出ると思う。

さて、私もこのブログを書くとき、スマホなどを意識して

800文字程度でひとかたまり

を考えている。この程度の文章なら、毎日書き続けることが可能である。

しかし、本となると

1万文字~2万文字

が一つの目安になる。つまり、10倍から20倍の量である。これは

10ブロック程度の情報の塊を
整然と配置

する必要がある。読む側で言えば

情報の相互関係を自分で読み取る

例えば
一般論と具体例の関係など

必要がある。こうした情報整備の訓練を、今の時代なら意識して行う必要があるのではないか?

2024年4月22日 (月)

作業の標準化について

昨日書いた「抽象の梯子」の話は、仕事の上では

共通点を見いだし標準化

という形で生かすことが出来る。しかしながら、ここで大事なことは

標準化から外れたモノの扱い

標準化の限界の評価

である。完全に枠にはめ、マニュアル化する。これが出来れば理想的である。しかしながら、現実は多様なモノであり

典型標準だけでは対処出来ない

場合がある。さて、これで

標準化を諦める

のか?実は、こうした標準品があると

検討の糸口が見える
叩き台の修正で早くできる

利点がある。

こうした利点を見いだし、上手く導くのが管理者の指導力だろう。

2024年4月21日 (日)

抽象の梯子の発想を自分に適用

一般意味論では7,抽象の梯子という発想で、具体的なモノから抽象概念の関係を示している。

Chuushouhasigo

この発想は、物事を考えるときに

一般的抽象的<-適切な概念ー>個別的具体的

という展開を考えるためのよい道しるべになる。一般論から、現実の具体化への応用を導いている。

さて、この発想をもうひとひねりして

自分の心の中での展開

と考えてみよう。私たちが物事を考えるとき

具体的な事態->一般化した状況
今ある知識の適用
経験の想記
無意識の社会的な制約

等が色々と動いている。まずは、抽象化して、色々なモノが扱えるようにしている。

この働きをもう一度考えるべきだと思う。

2024年4月20日 (土)

日本の大学教育について

日本の大学教育には、極端に分けると

  • 研究者などの高度専門家育成
  • 実務能力者育成

の2面がある。さて、ここで押さえるべき事は

高度専門家の必要枠は少ない

という点である。もう一つやっかいな点は、社会が

大学の高能力差選別機能

と期待している点である。「高学歴者」採用という発想がこれである。これは、昭和の採用を見ればよく分かる。多くの大学の経済学は「マルクス主義経済学」であった。これは、多くの企業にとって、仕事に役立たない学問である。しかしながら、それでも有名大学の。経済学部出身者を、多くの企業は採用していた。これは

入学試験偏差値の高さ

を評価したからである。この風潮が

使えない大学教育

という発想につながっていく。

さて、こうした高度専門教育に、もう一つの側面があると思う。これは、音大のピアノ教育などを見たらよく分かる。多くの音大は

ソロの演奏家

の教育を行っていた。しかしながら

ソロの演奏家で食べていけるのは少数

という現実がある。多くは

ピアノ教師などで生計

という道に行く。しかし、それでも音大は「ソロ演奏向け教育」を行っている。その理由は

高度の技法の難しさが解る人を育てる

必要があるからである。つまり

自分が演奏家を目指したから難しさが解る

という人を多く作って、トップレベルの価値を広げる。

こうした発想の教育があるように思う。

2024年4月19日 (金)

プラトンからヴェーバーへ

西洋文明を考えるとき、古代ギリシャの哲学者プラトンが「国家」で示した

洞窟の比喩

洞窟の比喩 - Wikipedia

は根底に流れている。

プラトンの後、2000年以上経過してまた、マックス・ヴェーバーが「職業としての学問」でこの比喩を取り上げている。

しかしながら

プラトンは哲学者の政治

ヴェーバーは政治と学問の違い

を説いている。

これは、2000年の間の学問の進歩と、政治などの社会制度の進歩の反映でもある。

しかし、日本の学者には、ヴェーバーの示した

政治の専門性

を理解していない人がいるように思う。

2024年4月18日 (木)

真の実在への迫り方

プラトンの第7書簡には

真の実在へ迫る力は
哲学者の対話訓練で身につける

第七書簡 - Wikipedia

という話がある。

ここでは、言葉の力の限界を知り、その上で真理に迫るために、厳しい対話で吟味する手法を示している。

確かにこれは

哲学的手法

としては効果があるだろう。しかしながら

厳しい対話で色々な見方を尽くせるか

という疑問もある。もう一つの反論は

そこまでしなくても多くのモノが出来ている

である。

私の考えでは

そのモノを作る力を持つ
創造者になる

という経験で

言葉に出せないが本質を知る

は可能だと思う。

2024年4月17日 (水)

説明・批判のための学問

私は、

ヘイグの「理論構築の方法」

を少しは理解したつもりである。しかし、これを会社生活や、AIのモデル構築に使えるかと、考えたことは、結果としては失敗であった。

この理由を考えると

説明・批判の学問

モノ作りに使える学問

の違いがある。

つまり、多くの学問手法は

ある側面を切り取り厳密に議論

である。確かに、こうして切り出した部分は、説明もしやすいし、トラブルの原因究明なども出来るだろう。例えば、テイラーの科学的管理でも、作業効率化の検討は、感情要素などの入らない人材を選び、研究していた。また、色々な事故などの解明でも

XX部品の破損
そこに力がどれだけかかる

などの局所的説明で、原因究明が行われる。

しかしながら、モノ作りの場においては

色々な要求の妥協点を実現

が大事であり、全体を見回した判断力が必要になる。これを、マックス・ヴェーバーは

カリスマの技

とした。しかしながら

物語を描く
その世界をイメージする

などの手法で、こうした力も訓練できると思う。

2024年4月16日 (火)

勉強の方法について心を見直す

このブログの表題である「勉強の方法」について、一つ見通しが良くなったので、書いておく。つまり、勉強の条件として

  • 世界のあり方
  • 自分の心のあり方

の両面から、考えるべきと言う発想である。

特に

意識と心の違い

を明確にして

イメージ社会での思考
実体験での体感

などの影響も考える必要がある。今までの私たちは

言葉で考える

に慣れすぎ

言葉にならないモノを見過ごす

危険性がある。

こうした面から

動機付け

なども、もう一度見直すべきだと思う。

なお世界のあり方に関しては

西田哲学の発想

がよいと思う。Photo_20240416091901

2024年4月15日 (月)

哲学は実践するモノ

古代ギリシャの哲学者プラトンの「第7書簡」は、まとまった文書として、プラトンの考えを述べている、貴重な教材である。

第七書簡 - Wikipedia

さて、この中に

哲学の知識を持っていると称し、それを書物に書いたり書こうとしている人々は間違っている。それは他の学問のように言葉で語り得るものではないし、教える者と教えられる者が生活を共にしながら、問題の事柄を取り上げて数多く話し合いを重ねていく内に、「飛び火によって点ぜられた燈火」のように、学ぶ者の魂の内に生じ、それ自身がそれ自体を養い育てていくような性質のものだから。

という

書物を読むだけで哲学したつもり

を否定する部分がある。私は、このような

正統な伝承(徒弟制度)でし伝わらない

という発想には、拒絶反応を示す。これは仏経の「上部座仏経」が

正当な教えは我々に従い修行

という発想に対し「大乗仏教」が

今も仏は法を説いている
それを我々はつかめる

と教えていることを、信じているからである。

しかしながら、プラトンの言うことにも一理ある。哲学を書物とし、それを読んだだけで解った気になる。こうした人間に対する警鐘としては、プラトン言葉も良いだろう。

しかしながら

書物を切り口に自分一人で悩み抜く
その結果で分かったという感触

これはあると思う。

2024年4月14日 (日)

和魂の思考法

現在日本に生きる私たちは

西洋文明的思考

に意識していないかもしれないが、縛られている。例えば無意識という表現について: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

しかしながら

和魂洋才

という言葉もあるように、明治の文明開化以前の思考法があったはずである。

このため論理を捨てるとどうなる: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

を一案として書いてみた。

しかしこの内容でもう一歩踏み込むと

心と意識の違い|鈴木良実 (note.com)

にも書いたように

心の広さ
身体感覚に向き合う

必要があると思う。

イメージの世界を想像し、その中を動き回りながら、色々と試し、答えを得る。このとき大事なことは

その世界から受ける感情
それに応じた身体感覚
恐怖ならアドレナリンが出るなど

までの、イメージの働きが

魂の動き

となる。これを忘れて

言葉だけで解ったつもり

が現在の問題点だと思う。

2024年4月13日 (土)

喜べない65万アクセス

本日、アクセスが65万を超えた。数値自体は喜ばしいが実態は

特定ページへの3500回以上のアクセス

が影響している。これは

AIソフトの自動アクセス

だろう。

これでは素直に喜べないのが正直な感想である。

数年前の個別検索でのお客様が懐かしい!

2024年4月12日 (金)

日本の防衛問題を語るなら朝鮮戦争から

岸田首相の訪米で

日米同盟強化

の話がまた出ている。

さて、日本の防衛を語るとき

朝鮮戦争

をもう一度見直すべきだと思う。いわゆる「平和憲法」は

第2次大戦後の戦争疲れ

もう戦争はないだろう

という発想と

日本を凶暴な国にしたくない
というアメリカのご指導

出来たのが憲法第9条である。しかし、その後

ソ連を背後にした
北朝鮮の侵略

という事態が発生した。これに関しては、当時の韓国の腐敗も大きいが

まだ侵略する国がある!!

という驚きが大きかったと思う。この時点で、アメリカは日本を、資本主義陣営に入れて、対共産圏への戦力化を図ろうとした。

しかしながら、当時の日本の政治家達は、これを上手く使い

軍事貢献は無理
産業貢献は出来るから復興支援を!

とアメリカからの支援を引き出した。

この図式を理解した上での「日米同盟」議論が必要だと思う。

2024年4月11日 (木)

本当の勉強の為知識の位置づけが必要

勉強する為には、使える知識にする必要がある。

そこで、安定した知識の網作りが必要である。

上位の一般概念、下位の具体的実現、関連知識とのネットワークが、網のようにつながる。

これが安定した知識になる。

2024年4月10日 (水)

無意識という表現について

フロイトが「無意識」の概念を持ちだして、精神分析を開拓したことは、科学に大きな影響を与えた。

ジークムント・フロイト - Wikipedia

私も中学時代から、催眠術や精神分析そして夢判断などに影響を受け、特に自己催眠の一種である、自律訓練法は6公式全てが出来る。

しかしながら、仏経の色々な教えに触れた今になると

心を知ると
意識はその一部

と言う観点で

無意識という言い方はおかしい

と思うようになった。もう少し言うと

心に色々なモノがある
そのうちの一部が意識に上る

という発想である。極端に言うと

言葉で表現できるモノ

だけを意識で扱っているのではないか?確かに、絵などで表現できるモノもある。しかし本質は

表現できるモノの後ろに多くの存在

ということではないか?これを

感情の働き
または
本能

と決めつけるのも、何か落としているように思う。

私たちが

意識できるモノはほんの一部

と考えると、色々な見方が変わるように思う。

2024年4月 9日 (火)

日本の専門家はもっと説明を

先日書いた日米の発想の違い: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)にある

  • 米:哲学的思考の届くところのモノで満足
      支配者に従わせる
  • 日:最善ができるという信仰
      納得による支持 

を考えると

日本の専門家はもっと説明を

という要求が出てくる。

これに対して、日本の出版文化は

新書などの啓発書

で対応していた。私はこれが、当たり前と思っていたが、よく考えると

大衆の納得を引き出す手段

として上手く働いていると思う。新書には

ハウツーに走る

という批判もあった。しかしながら

直観的な理解を引き出す

効果も大きかったと思う。

現在の専門家にはこうした努力が必要ではないかと思う。

2024年4月 8日 (月)

論理を捨てるとどうなる

私たちは、学校教育などで

科学的論理的思考

を叩き込まれている。これは、便利なモノで、多くの人が使って、お互いに評価できる優れものである。

しかしながら、日本の歴史を見れば、こうした西洋文明の論理思考が普及したのは

明治の文明開化

以降で、それまでは、インドや中国の

比喩を主体の論理

その場面を想像して推理

という手法で考えていた。このような推論では

イメージを作る力

が必要になる、しかしながら

イメージ化は難しい
出来る人間は限られる

という欠点がある。これで

西洋論理の大衆化

を多くの人が求め、現在の日本になっている。

しかし、新しいモノの創出や、総合的思考には

イメージ作成の力

も必要になる。一度考え直すべきと思う。

2024年4月 7日 (日)

精読のための速読

昨日書いた「精読」についての議論で、もう一つ付け加えると

精読のための速読

という側面がある。これにも色々な面があるが

まずは良い本探しの速読

である。とりあえず、ざっと見て良さそうな本を選ぶ、この作業に時間を変えるのではなく、速読で探すのは効率が良い。

次は概要把握の速読

である。じっくり読む前に、その本の全体を見ておくと、見通しが良くなって、情報の配置が良くなる。

最後は補足書物の速読

である。これは、芯になる一冊の読み込みに合わせて、周辺知識や細部の補足、そして反対意見などを見ることで、理解が深まってくる。また、教科書で体系的な知識を得た後は

実例探しで知識を充実

すればより安定する。このためにも

速読スキルは身につけべき

だと思う。

2024年4月 6日 (土)

読書の分類

本の読み方には

速読と精読

の二つはよく知られている。単なる情報収集なら「速読」が有効である。しかし、自分のモノとするなら、ゆっくり読む「精読」も必要である。

さて、今回は

精読にも二通り

という話をしたい。私の考えでは

その本だけで完結させる

その本は断片情報

という、本の性質に由来する読み方の違いである。前者は、教科書などの読み方である。難解な教科書では、よりわかりやすい教科書や解説書を必要とするが、本来はその本だけで理解できるようになっている。この場合、読書目的は

その本の世界を理解

である。

一方、論語やお経は、逸話などを並べて、そこから孔子やお釈迦様の考えを、身につけさせようとする。この場合の読書目的は

その人を心に作る

となる。

この違いを理解すると、新たな学び方が出てくる。

2024年4月 5日 (金)

実行の大切さ

昨日の天台の十乗観法: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)について、もう少し書いておく。

天台の止観では

自分の心を観る->不可思議の境

が一番大事と教えている。

さて、こうして「心を観る」修行は、どのように行われるのだろうか?

よく

修行が進むから迷う

状況になる。そこで、多くの対処法を教えている。これを

広く網が在っても鳥がかかるのは一つの網目

という喩えで

色々と知って適切なモノを使う

という対処を教えている。こうして

止観で全てに対処

という教えを

善巧安心止観:止観を実行して心を安んじる

と説いている。

使える知識は、多様な対応法を知って、使い込むことが大事だと思う。

2024年4月 4日 (木)

天台の十乗観法

ここ二日間書いた

観る

に関連して、天台大師が解いた

十乗観法
十乗観法(じゅうじょうかんぼう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

について少し議論しておく。十乗観法は、天台の主要な修行である止観における、十の見方で

観不思議境・起慈悲心(真正発菩提心)・善巧安心止観・破法編・識通塞・道品調適・対治助聞・知次位・能安忍・無法愛

の十段階を言う。この中でも、最初の

不思議の境を観る

が一番大切である。これを端的に説明すると

見えているモノだけでなく内部構造や潜在力それに絡む因縁果報の全てを観る

である。別の見方で言えば

多くの衆生を我が子と観て一人一人の個性を生かして観る

という力である。これを

普通の人の力(思議の境地)で見ると
多くの人は統計数値で把握

となってしまう。これが、全てを個別に観ながら全体を把握するので

不思議の境地

となる。なおこうして、個別の衆生を観ると

自然に慈悲の心も起こる

はずだが、起こらないときには、その観点で見直せというのが

起慈悲心(真正発菩提心)

である。

その後の項目は

善巧安心止観:止観を実行して心を安んじる
破法編:今までの知識へのこだわりを捨てる

識通塞・道品調適・対治助聞:色々とおこる障害への対処

知次位・能安忍・無法愛:悟りを開いたと調子に乗らない

という、それぞれへの教えである。

この「不思議の境地」への対応が、現在重要ではないかと思う。

2024年4月 3日 (水)

観ると見る

昨日の記事に関連して

観ると見る

の違いを少し議論しておきたい。私の考えでは

  • 見る:外見を視覚で見る
  • 観る:そのものを直観する

という違いがある。つまり

見るだけ

なら、その画像を再現できればよい。しかし、観るときには

そのモノと向き合って
動かす事も可能

というレベルになる。

例えば、川に対して

  • 見る:外見を見ている
  • 観る:川の歴史・変化・上流下流への関わりなど

という姿勢の違いがある。現在の社会では、メディアの充実で、多くが与えられているので

見るだけ

が多くなっているように思う。

2024年4月 2日 (火)

自分の心を観る

日蓮聖人の「観心本尊抄」に

自分の心は見えないから人の心を鏡に見る

という趣旨の言葉がある。この発想は、今まで気がつかなかった!

つまり

自分の心が解ったつもり!

の反省である。もう少し言えば

科学知識などの脳の話
心理学などの話

で、よく解ったと思い込んでいる自分、これで良いのだろうか?別の切り口から見ると

他人の心は言動にでる

ので、そちらの方が見える、という発想である。

これも、深いモノがある。そういえば、私たちが無意識について知るのは、フロイトなどの精神分析家が、彼らのクライアントと接したときの話からである。つまり自分の心ではなく、他人の話から理解しているのである。

この反省から、もう一度自分の心に向き合ってみたい。

2024年4月 1日 (月)

日米の発想の違い

日米の物作りの利用に関して

  • 米:機械が作ったモノをガタつきがあっても辛抱して使う
  • 日:機械が作ったモノを職人が仕上げてガタつきをなくす

という違いが、昔から指摘されていた。例えば、アメリカの銃は、大量生産されるが、精度は良くない。一方、日本の三八式歩兵銃は、職人の仕上げがよいので、今でもマニアの評価が高い。ただし、仕上げなしのモノは、使い物にならない。これは

  • 米:職人が根本的に不足で機械に頼る
  • 日:機械の精度が低く職人の手直しが必須

という社会的状況による、というのが通説である。さて、もう一歩踏み込むと

  • 米:哲学的思考の届くところのモノで満足
      支配者に従わせる
  • 日:最善ができるという信仰
      納得による支持 

という面も見えてくる。もう少し言えば

西洋文明の哲学思考 対 仏経経典などの直観的思考

の対立が根底にあると思う。明治の文明開化で、西洋の論理を手に入れたが、それまであった、比喩的論理が大衆に広がっているので

哲学的思考での指導

は日本では難しいと思う。

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