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2019年2月14日 (木)

日本的な「市民社会」の成立について

 日本の文明的な特徴を考える時、儒教と科挙を排除したことの効果は大きい。そこで、現在社会の成立要件である、
  「市民の存在」
についても、このような儒教排除の効果を考えてみたい。
 さて、日本には西洋的な民主主義が一応定着したが、本当に市民が育っているのかという議論が時々出てくくる。ここで西洋的な、「市民」が本当に育ったかという議論をするためには、この「市民」という概念がどこから来たのかをよく考えておく必要がある。
 私の意見では、西洋文明の「市民」というものは、英仏両国の革命や、アメリカの独立戦争などから育ってきたものだと思う。これは、貴族や国王からの支配を排除し、自分たちで支配するという、特権階級の排除から生まれたものである。
 さて、ここで日本の歴史を振り返ってみよう。このような
  「特権階級から政治権力の奪取」
という観点で見れば、既に日本は鎌倉時代に行っている。山本七平は、
  「承久の乱は革命である」
と鋭く指摘している。私もこの意見には賛成だが、それまでの大きな流れがある。
 まず第一に、平安時代までは
  「武士は貴族社会から見れば下層階級のものである。」
ということである。もう少し具体的に言えば
  「多くの武士は漢文など読めない無教養人であった。」
であり、科挙の世界では「下層階級」決定というレベルである。
 これが、平家の台頭から鎌倉幕府の成立で力を持ち、最後に承久の乱で
  「治天の君」
を島流しにするという決着になった。その後、御成敗式目などの法律設定まで、武家の手で行えるようになり、革命が完了する。
 このように考えると、武士の世の中を産んだこと自体が、下層階級の権力奪取による革命である。そして、教養人である貴族社会から、野蛮人である武士の手に政治を取った。なお、この時代の武士と農民の差はあまり大きくない。つまり、一般人が政治を取ったのである。
 私たちは、明治維新以後の世界観で見ているから、武士というものは特権階級に見えるだろう。しかし、歴史的には平安貴族などから見れば下層階級である。
 このように、誰もが政治に参加という下地は、日本は成立していた。一方、朝鮮半島までは科挙の支配があり、「教養ある特権階級の支配」が、王朝の崩壊まで続いている。
 このような比較検討を深めることは、現在必要ではないかと思う。

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