ご縁のあった人たち

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2025年4月25日 (金)

正解主義に納得のいく説明があると強い

昔書いた

日本人の手のひら返しに関しその理由: 勉強の方法補充
日本社会の特異性に関して検討: 勉強の方法補充
第2次大戦時の日本軍でみるカルト集団の作り方: 勉強の方法補充
第2次大戦までの日本軍の特異性(武士道): 勉強の方法補充
旧日本陸軍の大学卒業者優遇の本質: 勉強の方法補充

を見直している。ここで書いた問題は

日本社会は教師の「正解」押しつけに
過剰適応で
独自の思考力を失っている

である。

さて、これに対して

哲学的な議論をしっかり行って自分の考えを持て

と言うのが、現在の教科書的な「正解」だと思う。

しかし、私は

「正解」が納得できるだけの説明

を行うことで

安定した社会

を造ることが出来ると思う。

もう少し言えば

正解の具体的な展開
理論的な説明

等を加えて、納得させる努力を教える側が行えば、「正解」依存も悪くないと思う。

2025年4月17日 (木)

日本の民主主義の伝統

昭和の反省から、出てくる話として

独裁国家なら戦争はしなかった

と言う議論がある。例えば

近衛文麿は大衆迎合で戦争拡大
昭和天皇は議会制民主主義に従い反対できない

と言う状況である。

これは、山本七平が「空気」と称した、民衆の動きが戦争に走らせた一面である。

さて、このような民衆の「気持ち」が政治を変えるのは、戦前の一時期だけだろうか?

私はこれは

日本の伝統

と思っている。つまり

聖徳太子の仏教の大衆への展開
行基菩薩指導の大衆の力での大仏建立

の時代から続く

知識の大衆化と大衆参加の力

が色々と影響していたように思う。これを考えると、日本こそ

本当の民主主義

ではないかと思う。

2025年2月 8日 (土)

多面的な見方と棲み込みそして創造

文化人類学者の川田順造が提案した『文化の三角測量』は、一面的な見方への対策として効果がある。

川田順造 - Wikipedia

しかし、こうした三角測量の発想は、山本七平にもある。彼は、旧陸軍の砲術将校だったので、砲弾観測で使う三角測量を、色々な文化比較に使っている。

さて、こうした

多面的な見方

と比べて、単一的な見方は、劣っているのだろうか?

私の考えでは

一つの世界に棲み込む効果

いわゆる客観視では見えないモノが見える

と考えている。確かに多面的な見方、一つの価値にこだわらない見方は、必要である。しかし多面的に捕らわれすぎてはいけない。

しかし、本当に力が付くのは

その世界を創り上げる

レベルの思考力ではないかと思う。創り上げたモノなら、色々な判断が出来る。このレベルまで考え抜くことが出来ないか?

2025年1月14日 (火)

昭和100年に思う

今年が昭和100年目らしい。これは敗戦後80年と言うことでもある。

このように考えると、戦後日本の色々な体制の見直しも必要になると思う。

さて、もう少し歴史を見ると、明治維新から、日露戦争までの急速成長は、日本としては上手く切り抜けたと思う。しかしながら、それから50年ほど経過した、戦前昭和になれば

色々と歪みが出て
戦争への暴走

となってしまった。私の見るとことでは

日露戦争まではまともな軍備の軍隊

その後は精神論のカルト集団軍隊

と言う変化がある。

さて、これと同じ図式が、戦後昭和の高度成長は旨くいったが、その後は段々と迷走になった。

敗戦後の平和主義は必要
しかし
令和の現実を直視しない

と言う平和主義が一例である。その他の経済政策もしっかりしていない。

この理由は

日本には哲学的発言の指導者が少なく
何となく腹で考え納得

と言う形が一因だと思う。決まったことは上手にするが、状況変化の根本思考が弱い。これが日本文明の弱点だと思う。

2024年10月27日 (日)

定性的な議論について

私たちは、論理的な議論、特に数値化した定量的な議論については、それなりの訓練がされています。単純に言えば

大小関係で評価

が出来ています。

しかし、定性的な議論について、きちんとスキル教育が出来ているでしょうか?関連して、定性的な議論の種別も、理解しているでしょうか?この点について、私は現在の教育には、大いなる不満があります。

まず、は定性的な議論の種別ですが

  1. 理想的な条件での因果関係議論
  2. 極端な状況での説得的議論
  3. 物語的想像力世界での説得

があります。1.の「理想的条件」での議論は、マックス・ヴェーバーなどが得意の論法で、純粋な人の行動などから、原因結果を明確にします。有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でも、「純粋なカルビン主義の信者が脅迫的に働く」という事例で、議論を展開しています。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 - Wikipedia

次に、2.の「極端事例での説得」は、多くの思考実験で、使われています。哲学者の「脳だけの人間」などの話、そして有名なガリレオの落体の思考実験も「二つの物体をひもで結ぶ」という極端例での議論でした。これは確かに、ある種の説得力がありますが、極端なだけに、それで漏れる物があります。例えば、ガリレオの思考実験には、「均質な物」だけの議論という問題点があります。これは逆に「均質な物で考えるから本質が出る」という反論もあるでしょうが、その部分も含めて、前提条件への議論が必要です。ガリレオのピサの斜塔での落下実験 重いものも軽いものも同時に落下するのはなぜ?

さて、最後の「物語的想像力」による議論ですが、これはもう少し広げると

現実に生きている人での事例

等があります。ここでは、理想化した世界の厳密性はないですが、臨場感による説得力があります。

この違いを考えて

どのレベルの定性的議論

かを明確にする必要があると思います。

2024年10月24日 (木)

根本的見直しについて

アクセス解析を見たら

大相撲の構造について: 勉強の方法補充

若年層の貧窮問題について: 勉強の方法補充

と言う二つの記事へのアクセスがあった。

両者は無関係の記事見えるが

根本的な問題解決への議論がない!

と言う観点では共通した問題点がある。大相撲の問題は

力士の寿命を考えれば技が決まれば抵抗しない

と言う解決についての議論が出来ていないし、若年層の貧窮に関しては

奨学金制度から問題先送りの進学

と言う根本問題へ多くの人が目をつぶっている。

今回の選挙でも、そこまで議論する人は少ない。

この問題に関して

哲学的に根本を考える習慣がない

日本的発想に原因を見るのは、私の偏見だろうか?

2024年7月 1日 (月)

「空気」と「カルト」

カルト宗教に嵌まる人は

一度の神秘体験等で
強烈な印象を受け

その結果

今までの知識に迷いを生じ

狂信者になっていくのが、一つのパターンである。

しかし

太平洋戦争の日本の「空気」

も同じ図式ではないだろうか?開戦前の、有識者の

米英と戦って勝てるわけない

と言う議論は

開戦当初の戦果

と言う体験で大きく崩れていく。例えば

米英の重武装戦艦は沈められない
に対し
マレー沖海戦で真っ向勝負で沈める

は、それまで学校教師などが

防御兵器のしっかりした戦艦を
飛行機で沈めるなど無理

と教えていたのがひっくり返ってしまう。さらに、陸軍では

単発の三八式歩兵銃で
自動小銃を持つ米軍を圧倒

と言う事態を突きつけられて、一気に

神国日本は強い

と言う「空気」が生じた。

学問的知識で凝り固まった人間は

こうした反例で直ぐに心を翻す

結果、狂信者になる危険性がある。

2024年5月17日 (金)

宗教改革と日本的革命

梅棹忠夫の文明の生態史観:https://amzn.to/3wuEPQ7を読むと

西欧文明と日本文明の平行性

がよく見えてくる。

そこで封建制度について、日本と西欧文明の違いについて、少し考えた。

私の考えでは

日本の武士は13世紀に承久の乱で
従来の権威から独立
承久の乱 - Wikipedia

だが

西欧文明は16世紀の宗教改革まで遅れた
宗教改革 - Wikipedia

の違いがあると思う。なお、日本にも西欧にも、市場経済が育ったが、日本の場合には既に

平清盛の時代に中国と貿易

と言う下地があった。また、室町幕府にも、豪商の影響が色々とある。こうした要素が

日本の先進国入り

を容易にしたと思う。このように考えると

日本は結構進んでいた

と思う。

2024年5月16日 (木)

日本的納得社会は変化に対応できない

シャープの液晶工場閉鎖の話が聞こえてきた。この話に関連して思うことは

日本の文明は変化対応力が弱い

である。これは、山本七平が、アメリカの軍人と話したとき

日本の将校・兵士は納得して戦う
これはアメリカの兵士より優れている

しかし
それで状況変化に対応できるのか?

と言う突っ込みを受けた。これは、日本軍の戦いを見れば、まさしくその通りである。一例を挙げると

開戦時には一式陸攻と零戦という遠距離攻撃力で
台湾からフィリピン攻撃を成功

したが

その後も調子に乗って長距離攻撃を繰り返し
ガタルカナル攻防戦で大消耗をした

と言う事例がある。

つまり

短期成功戦術にこだわり
賞味期限切れを知らず
戦略的敗北

と言う図式である。

この理由に

日本的納得は前提条件を見ず
賞味期限切れになる

と言う危険性があると思う。

2023年12月 3日 (日)

日本の文明の論理は総合的

西田幾多郎の論文集を見ると、西洋哲学との闘いを感じる。その中でも

西洋哲学の理想化上での論理

に対して

世界を造り棲みこみ考える総合的思考

を重視している。私は、この発想こそ、日本教の本質だと思う。ただし、もう一歩踏み込むと

西洋文明には神の世界への到達不可能のあきらめ
そこで
割り切ったモデル化で議論

一方

日本文明はだれもが神仏になれる可能性
そこで
総合的な配慮を求める

ではないか。

ただし、現在人は、西洋文明的思考のとりこになっているので、このような思考を否定する場合がある。例えば、山本七平は「常識の落とし穴」で、このような知恵を『狡知』と否定的に扱っている。

「子供が純心だというのは現在の興味に没入してそれだけが世界だからさ。大人はすぐ周囲のことを考える。そして将来のことを計算する。簡単にいえばそれを行った場合、周囲が自分をどのように扱い、それが将来どう影響するかを反射的に把握するコーチを持っている」
「コーチって」
「狡知さ。狡猾な知恵だよ。しかし計算高い狡知に少々自らうんざりしているから、純心な子供を見るとほっとする。しかし今回のような事件はその子供に狡知があれば、いわば周囲と将来を把握できる能力があれば、起こらなかっただろう。だが大人は自らの狡知にうんざりしているからその教育をしたがらずにきれいごとをいう。これは左右ともだ。これも、こわい話だな」

周辺への配慮について: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

しかしこうした西洋文明的発想の弊害も多い。

学問の効果が出すぎた現在の社会なのか?: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

この問題に関して10年前の議論も見直したい。

科学者の社会への発言について: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

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