DIVINE MOVE
2011/12/01 Thu. 22:47 | 更新情報 |
長編『A GLOBE ON THE LAWN』、第二十話「テネイシャス・ヴァイパー」を更新しました。
サブタイトルのテネイシャスとはアルファベット表記では“Tenacious”。
「粘り強い」とか「強情」と言った意味の単語です。
ヴァイパーは“Viper”英語で“毒蛇”を指す単語で、「マムシ」もそこに含まれます。
今回は想像以上に一頁が長くなりました。
最初は二頁に分割しようかとも考えたのですが、流れを考えると上手い切り所が無く、ちょっと一頁の容量が多過ぎるなぁと思いながらも、そのままアップしました。
今回のテキスト中で私が書きたかったのは、次期部長として海堂が抜擢されるだけの根拠。
だから手塚がリョーマの不安要素に気付く前に、実際に対峙した海堂にそれを気づかせました。
とは言え、彼の中でもそれはまだ酷く漠然としたものですが。
後にそれを明確に察して対処にあたる役目は原作に準拠して手塚に負わせるつもりです。
何故そうしたかと言うと、恐らく六角戦で葵のテニスに何かしらの信念を感じた海堂なら(まぁでもあれは大して高尚な信念でもないけれど)、リョーマのテニスに見え隠れする空虚感にも気付くだろうと思ったから。
海堂と言う人間は割と試合の中に魂のぶつかり合いみたいな要素を多分に求める性質だと思うんですよね。
そして一方のリョーマですが、今回は此方についても割と捏造めいたキャラ設定を付け加えました。
その内容は本編にてご覧頂きたいのですが、リョーマの口数に関する理由付けと、それに纏わる事についてはまた後々何処かで書くと思います。
一応これに関しては私なりの分析があるので。
ところで、話は変わりますが、最近ふとしたきっかけで「ヒカルの碁」のアニメを見直す機会がありまして、今更ながらあの作品の面白さに気付かされました。
※以下ネタバレ含みます。
いや、元々連載開始当初から読んでいた作品で、単行本もある時期までは集めていたくらい好きな作品だったんですが、佐為がヒカルの前から消えた事が私にとってもあまりにもショックで、それ以降とても読む気持ちになれずにいたのです。
だから今回、恐らく十数年ぶりに改めてこの作品に触れたわけですが、月日というものは本当に人を成長させるものなんだなぁとしみじみ思いました。
多分、今だから最終話まで見ることが出来たと思います。
そして初めて、この作品の素晴らしさを理解することが出来ました。
十数年前、佐為が居なくなった事を切欠に続きを知らずにいたせいで、実は私の中で「ヒカルの碁」と言う作品はさほど高い位置づけでは無かったのです。
けれど最後まで見た(アニメの方は北斗杯前で終わってますから正確には最終話手前)今では、「スラムダンク」と並んでジャンプ史上名作と呼ばれる漫画の一つに数えられる程になりました。
でもやっぱり佐為が消えた後、ヒカルが絶望の淵に堕ちて行く一連の流れは辛くて二度は見れません。
その後、伊角との対局の中で自分の打つ碁の中に佐為がいる事を知るヒカルのシーンは大好きですが、やっぱりどうしようもなく切なくて、何度見ても涙が溢れます。
だけど佐為もなぁ…もう少し最後のシグナルをヒカルに対して送っても良かったんじゃないだろうか。
そんな風に考えるから、二次創作と言うものに需要があるのだと改めて思いました。
自分が好きなキャラクターがああだったら、、こうだったら、と言う願いを具体的な形にしたものが二次創作なのでしょう。
で、また話は戻りますが、「ヒカルの碁」が何故あそこまで面白いのかと言うと、それは多分にリアリティを感じさせる原作者のストーリーテリングは勿論なんですが、特筆すべきはやはり小畑健先生の画力でしょう。
私は「人形草紙あやつり左近」からの小畑先生のファンですが、やはりあの繊細かつダイナミックな氏の画力によるキャラクターデザインあったればこそ、“碁”と言う動きの少ない題材であそこまでの成功を収めたのだと思います。
でもやっぱりほったゆみ先生のストーリーテリングも見事です。
“碁”と言うものに縁が無く、全く知識の無い人間でも、「何だかしらんが凄い」事だけは伝わりますし、何より凄いのは、主人公のリアリティ溢れる成長物語と、読者が少年漫画に求める爽快感を両立させてしまった事。
ともすれば初心者ヒカルが徐々に成長していく課程と言うのはそればかりを描けば、まるで爽快感のない退屈な物語になってしまいがちですが、そこに佐為と言うファンタジー要素を加える事で、力の不自然なインフレを起こすことなく圧倒的強さと言う爽快感をも感じさせる事に成功してしまったのですから。
佐為に憧れて、或いはヒカルの様になりたいと子供たちの間で囲碁が空前のブームとなった理由も頷けます。
今、私のUSBメモリにはヒカルの碁が全話保存されていて、寝る前には必ずラジオ代わりに再生しているのですが、何度見ても好きなシーンと言うのが一つあります。
それは若獅子戦を終えて、また一つ精神的に成長したヒカルに、彼の部屋で碁盤と向き合いながら佐為が「ヒカル、そこは小桂馬では無く大桂馬」と一つ上の定石を指南するシーン。
佐為がヒカルを指導していると言う事実は何度も物語中で描かれているのですが、実は具体的な指導光景というのは殆ど描かれていないのです。
先述した場面は、数少ないその内の一つ。
ずっと見たいと思っていた場面なので、とても短いシーンですが、私はその一幕が一番好きです。
現在、Gyaoで一話から配信されておりますので、今まで知らなかった、或いは興味が無いと言う方も、一度は是非ご覧になって見ることをオススメします。
サブタイトルのテネイシャスとはアルファベット表記では“Tenacious”。
「粘り強い」とか「強情」と言った意味の単語です。
ヴァイパーは“Viper”英語で“毒蛇”を指す単語で、「マムシ」もそこに含まれます。
今回は想像以上に一頁が長くなりました。
最初は二頁に分割しようかとも考えたのですが、流れを考えると上手い切り所が無く、ちょっと一頁の容量が多過ぎるなぁと思いながらも、そのままアップしました。
今回のテキスト中で私が書きたかったのは、次期部長として海堂が抜擢されるだけの根拠。
だから手塚がリョーマの不安要素に気付く前に、実際に対峙した海堂にそれを気づかせました。
とは言え、彼の中でもそれはまだ酷く漠然としたものですが。
後にそれを明確に察して対処にあたる役目は原作に準拠して手塚に負わせるつもりです。
何故そうしたかと言うと、恐らく六角戦で葵のテニスに何かしらの信念を感じた海堂なら(まぁでもあれは大して高尚な信念でもないけれど)、リョーマのテニスに見え隠れする空虚感にも気付くだろうと思ったから。
海堂と言う人間は割と試合の中に魂のぶつかり合いみたいな要素を多分に求める性質だと思うんですよね。
そして一方のリョーマですが、今回は此方についても割と捏造めいたキャラ設定を付け加えました。
その内容は本編にてご覧頂きたいのですが、リョーマの口数に関する理由付けと、それに纏わる事についてはまた後々何処かで書くと思います。
一応これに関しては私なりの分析があるので。
ところで、話は変わりますが、最近ふとしたきっかけで「ヒカルの碁」のアニメを見直す機会がありまして、今更ながらあの作品の面白さに気付かされました。
※以下ネタバレ含みます。
いや、元々連載開始当初から読んでいた作品で、単行本もある時期までは集めていたくらい好きな作品だったんですが、佐為がヒカルの前から消えた事が私にとってもあまりにもショックで、それ以降とても読む気持ちになれずにいたのです。
だから今回、恐らく十数年ぶりに改めてこの作品に触れたわけですが、月日というものは本当に人を成長させるものなんだなぁとしみじみ思いました。
多分、今だから最終話まで見ることが出来たと思います。
そして初めて、この作品の素晴らしさを理解することが出来ました。
十数年前、佐為が居なくなった事を切欠に続きを知らずにいたせいで、実は私の中で「ヒカルの碁」と言う作品はさほど高い位置づけでは無かったのです。
けれど最後まで見た(アニメの方は北斗杯前で終わってますから正確には最終話手前)今では、「スラムダンク」と並んでジャンプ史上名作と呼ばれる漫画の一つに数えられる程になりました。
でもやっぱり佐為が消えた後、ヒカルが絶望の淵に堕ちて行く一連の流れは辛くて二度は見れません。
その後、伊角との対局の中で自分の打つ碁の中に佐為がいる事を知るヒカルのシーンは大好きですが、やっぱりどうしようもなく切なくて、何度見ても涙が溢れます。
だけど佐為もなぁ…もう少し最後のシグナルをヒカルに対して送っても良かったんじゃないだろうか。
そんな風に考えるから、二次創作と言うものに需要があるのだと改めて思いました。
自分が好きなキャラクターがああだったら、、こうだったら、と言う願いを具体的な形にしたものが二次創作なのでしょう。
で、また話は戻りますが、「ヒカルの碁」が何故あそこまで面白いのかと言うと、それは多分にリアリティを感じさせる原作者のストーリーテリングは勿論なんですが、特筆すべきはやはり小畑健先生の画力でしょう。
私は「人形草紙あやつり左近」からの小畑先生のファンですが、やはりあの繊細かつダイナミックな氏の画力によるキャラクターデザインあったればこそ、“碁”と言う動きの少ない題材であそこまでの成功を収めたのだと思います。
でもやっぱりほったゆみ先生のストーリーテリングも見事です。
“碁”と言うものに縁が無く、全く知識の無い人間でも、「何だかしらんが凄い」事だけは伝わりますし、何より凄いのは、主人公のリアリティ溢れる成長物語と、読者が少年漫画に求める爽快感を両立させてしまった事。
ともすれば初心者ヒカルが徐々に成長していく課程と言うのはそればかりを描けば、まるで爽快感のない退屈な物語になってしまいがちですが、そこに佐為と言うファンタジー要素を加える事で、力の不自然なインフレを起こすことなく圧倒的強さと言う爽快感をも感じさせる事に成功してしまったのですから。
佐為に憧れて、或いはヒカルの様になりたいと子供たちの間で囲碁が空前のブームとなった理由も頷けます。
今、私のUSBメモリにはヒカルの碁が全話保存されていて、寝る前には必ずラジオ代わりに再生しているのですが、何度見ても好きなシーンと言うのが一つあります。
それは若獅子戦を終えて、また一つ精神的に成長したヒカルに、彼の部屋で碁盤と向き合いながら佐為が「ヒカル、そこは小桂馬では無く大桂馬」と一つ上の定石を指南するシーン。
佐為がヒカルを指導していると言う事実は何度も物語中で描かれているのですが、実は具体的な指導光景というのは殆ど描かれていないのです。
先述した場面は、数少ないその内の一つ。
ずっと見たいと思っていた場面なので、とても短いシーンですが、私はその一幕が一番好きです。
現在、Gyaoで一話から配信されておりますので、今まで知らなかった、或いは興味が無いと言う方も、一度は是非ご覧になって見ることをオススメします。
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