高田市

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

高田市(たかだし)は、新潟県の西部、じゃなかった、頚城県の北部にあったである。1971年直江津市と合併して上越市(じょうえつし)となったが、現在は上杉市(うえすぎし)になっている。これが高田転落の始まりであった。

↓ この下に高田あり。↓
高田市はすでに無くなりました。もう高田市はありません。
かつての高田市はもう無いのです。
あなたはこの現実をどう受け入れるかは自由です。
ですが戦友であった彼らに感謝と哀悼の意を表してください。
Bouncywikilogo.gif
Wikitravel.png

概要[編集]

直江津市長野市と同様に、頚城県の覇権を争っていた。元々、上杉謙信の城下町である春日山は、海沿いに当たる直江津市にあった。ところが、江戸時代になると、直江津の南6kmに城下町・高田が建設された。このため、直江津と高田の争いは熾烈を極めた。

日本全国に「高田」と称する地名が複数存在するが、当地はこのなかで最も早く市制を敷いており、「高田」といえば著名な当地を指すため、後発である奈良県大和高田市大分県豊後高田市岩手県陸前高田市令制国名を冠して区別することが通例となっている。これは高田市の廃止後に成立した広島県安芸高田市にも厳格に適用された。

地理[編集]

高田平野の中央部に位置しており、北陸どころか世界屈指の豪雪地帯となっている。「雪の都」といえば聞こえはいいが、にはに埋もれる生活を強いられ、所用のある時は二階あるいは三階から出入りする光景が見られることはよく知られている。しかしながら実際にはそこまでの積雪がないことが多いため、二階などから出たときに墜落して骨折する人が多数でるのが、当市の冬の風物詩である。

一夜にして10メートルを超える積雪を観測することは珍しいことでなく、町全体が雪に覆い隠されてしまうため、雪の上に「この下に高田あり」と高札が立てられたほどである。このため、雁木と呼ばれるアーケード状の軒先や、それを発展させたドーム状の屋根が中心街を覆っているなど、雪国らしい独特の町並が形成されており、その特異な景観は「氷雪の城塞」と称される。なお、「雁木」は現代将棋の戦法になっている。

また、芸術・芸能が盛んで、髙田の色街には芸者がいるが、近年には上越教育大学の大学生がアルバイトでコンパニオンで稼いでいる。玉三郎シリーズや銀のジークで知られる岸裕子先生の影響で、女装コンパニオンもいる。

歴史[編集]

高田をはじめとする上越地方が越後国に属する以前には、独自に久比岐国が存在した。現在でも独自の文化圏を有しており、魚沼や蒲原とは一線を画する。なお、久比岐国とは、日本神話におけるカグツチの首切りに由来するものであり、高田公園のが格段の美しさを誇るのは、カグツチのに染まった大地から血を吸っているためであるとされている。高田市内の国府地区には越後国国府があったが、なにやら国府の帰属について一悶着あったようで、後に国府地区は直江津市に編入されている。

中世には、上杉氏によって春日山城が築かれ、上杉謙信のお膝元として名だたる存在であった。江戸時代に入ると、徳川家康が高田を治めていた外様大名の堀氏に難癖をつけて改易にして、家康自身の6男の松平忠輝に高田を中心に越後と北信濃の75万石を与えた。家康としては越後に6男の忠輝、越前に次男結城秀康を配置して、日本一の大大名である加賀百万石の前田家を東西から挟み込みたかったのである。

忠輝は妻の父である伊達政宗の協力を得て高田城を築き、高田は加賀百万石に次ぐ日本で2番目の大大名となった高田藩75万石の城下町として栄え続けるかに見えたのだが、致命的な欠点として忠輝当人に75万石を治める能力がなかった。家中で内紛が起きて止まらず、親バカの家康でさえもさじを投げて、愚息の忠輝を改易にせざるを得なかった。一流の政治家として後世の模範にされる家康にしては珍しい失敗であった。その後は小規模から中堅の大名が代わる代わる高田藩主となり、最後は榊原家15万石が高田を治めた。

明治時代には、陸軍第十三師団が置かれ、軍都として発展した。日露戦争ロシアに勝利した日本陸軍の研究のため来日したレルヒ少佐によって、日本で初めて本格的なスキーの講習が行われたため、シベリア出兵の際には大いに役立ったといわれる。

明治の終わり頃、頸城地方では初めて市制施行し、その後は直江津市との間で周辺自治体の獲得競争を展開しつつ、市域を拡大していったが、高田平野に高田・直江津両市が並立する状態では都市力に限界があった。海洋に進出したい高田市と、広い平野を獲得したい直江津市の思惑が合致したことにより、高田市は直江津市との合併という道を選択し、「上越市」として歴史をともにすることになったのである。

その後、高田は苦難の歴史を歩むことになるのである。詳細は「上越市」の項目を参照されたし。

文化[編集]

本町は「髙田の銀座」と呼ばれ、金沢の大和デパート、出雲のいづもや百貨店などがあり、リムジンが走れない富裕層には外商部門が商品を家まで運んだ。

田端は髙田の色街で、老舗割烹「宇喜世」の日本庭園はの有形文化財に指定されている。昼間から大店の若旦那(道楽息子)が芸者を呼んで酒宴をやり朝湯に入って帰るのが粋とされた。遊びも百人一首とか客がや三味線で合奏したりと雅なもので、裸踊りなどはイドッコの野暮天がやるものだと塩を撒かれてしまう。

上越市となってからは、郊外に「安売り大魔王」の量販店が土地を買いまくり、「再開発」の名のもとで駅前には洋式のビジネスホテルが濫立して、昔の風情は影を潜めてしまった。

高田ドブロク事件[編集]

Bouncywikilogo.gif

上越市の成立以前にも、高田市存亡の危機があった。戦後間もない1949年密造酒醸造が行われていた朝鮮人集落を地元警察が一斉取締を行ったことにはじまる。

これに対して被害妄想を爆発させた朝鮮人は、警察署や税務署に集結して座り込みをはじめ、警察との小競り合いや、大通りでのデモ行進暴動に発展した。挙げ句の果てに、高田城の爆破予告という卑劣なテロ行為に及んだが、直ちに首謀者を検挙して鎮圧した。一歩間違えば高田市がになってしまうところであり、高田城の爆破が未遂に終わったことは不幸中の幸いであった。てゆーかその時代に高田城の建物はなく、何を爆破しようとしたのかはいまだ謎になっているらしい。

交通[編集]

冬期における最も身近な交通手段はスキーであり、引きこもりがちである高田市民も9割以上がスキーの熟練者であり、数十キロの移動もなんのそのである。積雪期間には住民がどこへ行くにもスキーを使うため、鉄道の本数が半減するほどであった。

また、「長靴スキー」なるものがあり、これは靴フェチが自身の性的倒錯を述べた発言ではなく、長靴を履いたままスキーが出来る(スキー靴が不要の)優れもの。普通にスポーツ店やホームセンターで売られてる。

関連項目[編集]

この項目「高田市」は、執筆者がスキーヤーだった可能性もありますが、このままでは滑落してしまいます。満開の桜の評価印を押して下さる指導者を求めています。 (Portal:スタブ)